最後の王・83


この世界の街や村の殆どは、壁や柵など何らかのかたちで囲われている。これは、そうしたものが人間の居住区から魔物を締め出す結界代わりとなるからだ。
魔物は過度の人いきれを嫌うため、自然、囲いに近付かぬ本能がはたらく。こうしてヒトは安全を約されるのである。
大きな都市は、囲みを解いたところに門を構える。所謂、街の入り口だ。たいそうな造りであっても、戦時下でもない限り、これは決して人の出入りを制限するものではない。だから、グリンヒル公都の門を目視出来る距離まで近付いたフリード・Yは些かの戸惑いを覚えた。
およそ一年前、マイクロトフの公都入りに同行したときには見られなかった兵が数名、槍や剣を手に門前をうろついている。そのうちに接近者を捉えたのか、門を塞ぐように整列し、中から一名が進み出ようとしていた。
「あのように人の出入りに目を光らせる国ではありませんでしたのに……大丈夫でしょうか」
フリード・Yは馬を並べる赤騎士団・第一隊長を窺い見る。
一度に大勢で移動して目立つのを避けるため、先ずは二人が、それから間を空けて徐々に公都入りを果たす手筈になっていた。初っ端から躓く訳にはいかない。不安げな若者に視線を巡らせた騎士は、宥めるように言った。
「公主が暗殺されては、幾ら敏感になっても足りないだろうな。わたしに任せろ、君は黙っていれば良い。堂々と構えて、何か問われても適当に往なすのだ」
「は、はい」
「適当」と言われても、加減が今ひとつ分からない。が、頼もしい同行者がいるのだからと自らを奮い立たせ、胸を張り、手綱をしっかりと握り締めた。
門兵から僅かに距離を置いたところで赤騎士隊長は馬を降り、フリード・Yも慌てて倣った。すかさず歩み寄った兵士は、如何にも場慣れぬ調子で切り出した。
「ど、どうも。現在公都に入る方の全てに口頭での質疑を行っております。御協力ください」
丁寧な言い様に、やや気抜けしたフリード・Yだが、反応を見定められぬよう懸命に神妙を通す。兵はかちこちに緊張しながら問うた。
「そ、それでは……御名前と御来訪の理由を聞かせていただきます」
騎士は悠然としたものだった。公都来訪の理由は、「現在ニューリーフ学院に講師待遇で滞在中と聞く著名な鍛冶職人テッサイに剣を鍛えて貰うため」、フリード・Yのことは弟と称した。
鍛冶職人のことなど初耳だったフリード・Yは驚きを隠すだけで精一杯だ。兵に視線を向けられて笑みを返そうとしたが、強張った顔になってしまった。だが、グリンヒル兵の方も落ち着いて応対しているとは言えない状態だったので、気付かれずに済んだようだ。
「佩刀していらっしゃらないようですが、剣はどちらにお持ちで?」
「荷袋の中に。切れ味が鈍っていて、鍛冶職人に処置して貰うまでは使い物になりそうにない。それに、平和な公都で抜く機会はなかろうと考えましたのでね」
「滞在中、どうかその御心掛けを通されますように」
兵士は丁寧に一礼して、門を護る仲間に道を開けるよう合図する。
「お手間を取らせました、どうぞ」
「いやに厳しいですな、何か問題でも?」
赤騎士隊長が探りを入れた途端、兵士は動揺もあらわに頬を染めた。
「……公都に入れば事情も知れるでしょう。我がグリンヒルは指導者を失いました。故に、一時的ではありますが、警備を強化しているのです」
「それは……。大変ですな、お悔やみを申し上げます」
沈痛を装った騎士の礼に、グリンヒル兵はくしゃりと顔を歪めた。一般兵卒が、どこまで事情を聞かされているかは分からない。こうして見た様子では、主君が暗殺されたとは知らぬようでもあった。
再び馬上の人となり、二人は門を潜る。門兵たちの姿が小さくなったところで、フリード・Yはおずおずと切り出した。
「あのう……今の訪問理由、前もって考慮してあったのですか?」
「無論だ。公主亡き今、都入りの審査が置かれているのは予測がつく。後から来るものたちも、ロックアックス出立前に理由を捻り出している」
はあ、と感心の溜め息が洩れる。
「テッサイ殿がグリンヒルに滞在しているなんて、わたくし、全然知りませんでした。確かクスクス在住の方ですよね」
「交易商人経由の情報だよ。時間的な余裕さえあれば、本当に剣を鍛えていただきたいものだが」
冗談半分、本気半分といった口調で騎士は言い、更に言い募った。
「入国時……抜け道の査証では然迄の配慮は要さない。魔物の襲撃を防ぐため、同じ方向を目指す旅人が纏って行動する、というのは良くあることだからな。けれど「敵」の膝元に潜入するときは別だ。後に続く部下の中には商人を装うものもいるし、親族の家を訪ねると騙るものもいる。わたしの場合、どうにも武人の気配丸出しらしいからな、下手に隠さない方が良かろうと部下に勧められたのだ」
「それでテッサイ殿、ですか」
吹き出しそうになるのを堪えて合の手を挟むと、空気を察したのか、騎士はフリード・Yを横目で睨みつつ、一つ咳払いした。
「……公都を訪れる人間の多くはニューリーフ学院目当てだから、学院の名を出せば一気に警戒は緩む。たまたま口頭のみの質疑だったが、一応、ゲオルグ殿の御名による紹介状も用意してあった。どれほど急を要しても、他国潜入を志す際にはその程度の備えはするものだ、フリード殿」
「……お教え、胸に深く留めます、はい」
畏まって頭を下げた若者は、背後を振り返りながら話題を変えた。
「それにしても……グリンヒル兵も相当に気を張っているようですね」
騎士は馬の首に凭れるように姿勢を崩して、しみじみと頷いた。
「この国の兵士は練度が低い。言っては何だが、かろうじて軍の体裁を整えているだけだ。さっきの門兵、人は良さそうだが、力量となると我が国の従騎士程度───いや、従騎士でも、もう少し使えるものはいそうだ」
手厳しい評価だが、フリード・Yも同意せずにはいられない。
「口頭のみの審査だったのは、あまり厳密にしては来訪者に無用の関心を与えてしまうからだろう。そこは理解するが、ああも緊張を表に出しては意味がない。出入り審査に当たる人材があれでは、全軍における武力も想像がつく」
そこで騎士隊長は声を潜めた。
「この軍を当てにして他国攻めを企てられる訳がない。やはり我が国の軍事力を投入するつもりだったと見て間違いなかろう」
何に、と問うまでもなかった。死んだ公主がゴルドーと組んで謀ったグラスランド侵攻。フリード・Yもまた苦々しい思いに苛まれた。
公都は静まり返っている。もともと学術によって知られる国だから、商業地のような賑わいとは無縁だが、前に皇子の随従として訪れた街は、もう少し活気があった。大々的に訪問を宣言した訳ではなかったが、隣国の皇子を一目見ようとするグリンヒルの民が沿道に連なっていたものだ。
公主崩御を受けて建物のあちこちに半旗が掲げられている。人通りは少なく、目につくのは警邏につく兵士の姿ばかりだ。稀に住民を見掛けても、喪の色の服を纏った彼らは兵の意識を引かぬようにか、俯きがちで、足早だった。
「……箝口の敷き方もいただけないな。無闇に締め付ければ良いというものではないのだが」
やれやれ、といった調子で赤騎士隊長は嘆息した。マチルダ騎士なら、もっと巧く進められるだろうとフリード・Yも思う。優れた軍を持つ自国と、そうでないグリンヒルとの国の成り立ちの差異を痛感しながら。
やがて前方に公主宮殿が見えてきた。立派な造りではあるが、豪奢とは言い難い。グリンヒル公国には主となる産業がなく、財源の殆どをニューリーフ学院絡みの収益と、出入国税とで賄っているからだろう。
温暖で、土地も肥沃な方なのに、開発のための資金が捻出出来ないのだと、以前フリード・Yは聞いたことがあった。ワイズメルが公女テレーズをマイクロトフに嫁がせようとしたのは、その縁を頼りにマチルダの国庫を開かせ、公国内の開発に助力させる気なのだろうという見方もあったのである。
宮殿の正門脇にも兵士が立っていた。遠目にそれを見た途端、フリード・Yは息を詰めた。知らず絞った手綱に反応して馬が脚を止める。騎士が倣いながら彼を一瞥した。
「どうかしたかね?」
「隊長殿……わたくし、大変なことを忘れていました」
喘ぐような呻き。騎士隊長は素早く周囲を窺ってから低く命じた。
「ともかく、馬を端に寄せたまえ。往来の真中で立ち止まっていては不審に思われる」
言われた通り馬を通りの端に進め、もう一頭が並ぶなり潜めた声で切り出すフリード・Yだ。
「わたくし、身分を証明するものを持ち合せておりません。騎士であるのを伏せて都入りするという点ばかり頭にあって──いえ、わたくしは正しくは騎士とは言えませんが──文も預かっておりませんし、殿下の遣いであるという証が何もないのです。迂闊でした、せめて殿下に一筆お願いするべきでした」
都入りに審査を設けるくらいだから、宮殿は尚の事、文書の一つも持たぬ身を入殿させるほど甘くはないだろう。悄然とする横、赤騎士隊長も考え込んだ。
「……となると、テレーズ公女に直接話を通すのは難しそうだな。彼女はどうだ? うちの団員が送り届けた公女付きの侍女───君も面識があるのだろう?」
「エミリア殿……!」
はっと目を輝かせ、だがすぐにフリード・Yは心配そうに続けた。
「でも、こちらの身上がまったく不明では、それさえ取り次いでくれるかどうか」
「憂いていても始まらぬ。ロックアックス城でも入城査証は行われるが、全部が全部、書類を持参してくる訳ではない。口頭での聴取をもって代用することは多々あるし、それで押し切るしかなかろう」
弱く頷くが、すっかり不安に取り付かれてしまい、若者の顔は堅かった。ここで失敗する訳にはいかない。この際、恥を捨てて意見を求めてしまおうと思い立つ。
「取り次いでいただく口実はどうしたら……? 今、テレーズ様なりエミリア殿をお訪ねするのは変ですよね」
公主死亡の正式な使者が着く前にロックアックスを出た。これでは到着が早過ぎて、「マチルダ皇太子内々の弔辞」という手は不自然だ。しかも、本当なら今頃テレーズは公都を出立していた筈なのである。
「エミリア殿には「偶然にも使者が来るより先に公の死を知った」と正直に話しても良いかもしれませんが、張り番の兵には何と言ったものか……」
国を出られぬ皇子の代わりに弔意を述べる。その一念だけで国境を越えたフリード・Yだった。だが、宮殿に入れて貰う手立ても考慮していなかった自身の甘さに改めて腹立たしさを覚える。
前に訪れたときにはマイクロトフが一緒だった。「マチルダ皇太子一行」として平伏されながら正面門を通った。だから考え及ばなかったのだ。皇子から離れた己は、決して特別扱いをされる身ではないのだという事実に。
これも、知らぬうちに生じた傲慢というものだろう。生真面目な若者は自責に苛まれた。
赤騎士隊長は唇を噛むフリード・Yを見詰めていたが、少しして小さく息を吐いた。
「適当な理由がないなら、黙っているしかないな」
「えっ?」
「兵に問われたら、こう答えたまえ。「訪問理由は本人に直接伝える」と」
「それで通るでしょうか」
「通すのだよ。殿下の威をお借りすれば何とかなる。良いかね、フリード殿。先ず、正門に着いても馬を下りてはならない」
戸惑いが眼鏡の奥の瞳を瞬かせる。
「馬上から見下ろすのは充分に威圧となる。軽んじてはならない相手だと認識させるのが第一段階。相手が萎縮すれば良し、訪問に至るまでの時間的な問題に気を回すだけの余裕はなくなる。君は殿下の意を受けて来た。内容に関して、門兵に洩らすことは出来ない───そんな感じで話を進めるのだ。権威は巧く扱えば武器になる」
嫌悪したばかりの「傲慢」が手段となる、そう言われてフリード・Yは困惑した。しかし、他に取るべき道はない。気を取り直すように深呼吸して頷いた。
「……はい。やってみます」
きゅ、と表情を引き締めた若者を横目に、赤騎士隊長は鞍の後ろに括った荷袋から剣を取り出し、腰に下げた。これより先は「皇子の遣いの護衛騎士」──但し、表向きはそうと見えぬように装っている──としてフリード・Yに付き従うためだ。
再び馬に前進を命じ、程なく宮殿正門に着いた。都の入り口で迎えた兵よりは悠然とした兵たちが、厳しい面持ちで前途を塞ぐ。下馬しようとしない二人に少なからず怪訝を覚えたのは明らかだ。一人が不快を隠さず口を開いた。
「身上と訪問の向きを述べられよ」
フリード・Yは自らに沈着を強いるように大きく息を吸った。
「わたくしは、マチルダ皇国・皇太子マイクロトフ殿下付き従者、フリード・ヤマモト。遣いで参りました、テレーズ公女殿下付き侍女エミリア殿にお取次ぎ願います」
「マチルダの……?」
兵たちは即座に顔を見合わせる。初めよりもやや慎重を期した声音が言った。
「失礼ですが、御身上を確認させていただきたい」
「……生憎、身分を示す手立てを持ち合わせておりません。ですが、エミリア殿が保証してくださいます。面識がありますので」
刹那、兵の丁重は掻き消えた。
「持ち合わせていない? すると我々は、貴君の言葉を鵜呑みにして宮殿内に入れなければならないという訳ですかな?」
皮肉げに言うなり、首を振る。
「身分を明かす書状の一つも持ち合わせぬ人間に、皇太子の従者と名乗られて、はいそうですかと宮殿内へ入れると思うかね? どうせ詐称するなら、もう少し考えた方が良いのでは?」
終いには侮蔑もあらわに兵は嘲った。そう来るだろうと予想されていたので、フリード・Yは何とか平静を保つことに成功した。
「無論、乱暴なのは承知しています。しかし、内々の事情で文書を用意出来なかったのです。中に入れろとは申しません。ともあれ、エミリア殿に取次ぎを」
「彼女は忙しい。ここまでの道すがら分かっただろう、グリンヒル公主アレク・ワイズメル様が崩御されたのだ。不審者のために割く時間はない。だがまあ、多少は便宜を図っても良い。用向きを伺いましょうか」
「エミリア殿に直接伝えよと、我が主君マイクロトフ殿下に命じられています。ここで口にするつもりはありません」
自らを叱咤するあまり震えそうになりながら、フリード・Yは毅然と言い放つ。グリンヒル兵はどうしようもないと言いたげに両肩を竦めた。
「ならば決裂、だな。皇太子殿下の従者だという証を持って出直していただこう」
もはや兵たちには話を聞こうとする気配は皆無だった。警戒するのが張り番のつとめ、しかも国主崩御という重大事を抱えているのだ、疑って掛かるのは詮無いだろう。
けれど、彼らの態度の端々にちらつく嘲りがフリード・Yには堪らなかった。まるでゴルドーを相手にしている気分になる。疑われるのは仕方がないとしても、馬鹿にされるのは不本意だ。同じ場に接しても、これが彼の知るマチルダ騎士なら、誠実を損なわず対処するだろうに。
何とか取っ掛かりはないものかと思案していると、少し下がったところで遣り取りを見守っていた赤騎士隊長がボソリと言葉を挟んだ。
「致し方ありません、フリード殿。マチルダに戻りましょう」
え、と驚いて振り返る。もっとも、この驚きの多くは、騎士が自らに敬語を用いたためであったが。
「わたしは、皇太子殿下の信も厚いあなたが如何なる扱いを受けたか、その一部始終を目にしました。戻って殿下に御報告せねばなりませぬ」
今度はグリンヒル兵たちがぽかんとする番だ。赤騎士隊長は、フリード・Yでさえ息を呑むような冷徹を全身から漲らせていた。
「確かに急を要するあまり、こちらにも非はあった。然れどほんの一言、エミリア殿に伺いを立てる手間すら惜しみ、このものたちは、野良犬でも追い払うかの如く、あなたを退けようとしている。この処遇、おそらく殿下は快く思われますまい。再訪問という遅延がマチルダとグリンヒル両国間の関係に多大な損失を与えるとしても、フリード殿、あなたは最善を尽くされたのですから、責任を問わることはありますまい」
それは恐ろしいまでの変貌だった。フリード・Yは、兵たちが一斉に顔色を変え、強張っていくのを見た。騎士は馬上からグリンヒル兵らを見据え、口元だけで笑んだ。
「テレーズ公女殿下にお悔やみを。同時に、今後マチルダが貴国に対してこれまでと同じ友好を保てるかは微妙だとお伝えいただこう」
言い終えるや否や、彼は手綱を引き、フリード・Yにも引き返すよう促した。
フリード・Yは呆気に取られ、騎士を引き止めようと口を開き掛けた。が、はたと思い直す。これは赤騎士隊長の策、権威を使った駆け引きなのだと理解したからだ。
馬の向きを変えながら、グリンヒル兵らを一瞥する。
「……残念です。テレーズ様とエミリア殿に「末永く御元気で」とお伝えください」
そうして完全に背を向けようとした刹那、横柄な応対に終始していた兵が呻いた。
「ま、待て! ……いや、待たれよ」
今度は別の兵が、声を発した男を押し退けて小走りで進み出る。
「御無礼、お詫び申し上げます。エミリア殿にお取次ぎ致しますので、どうぞ宮殿内へ───」
そこに居るグリンヒル兵すべてが一斉に、叩頭しそうな勢いで礼を取った。掌を返したような対応に瞬いたフリード・Yは、先に馬を進めた騎士隊長へと視線を向ける。
成り行きを見透かして少し行ったところで歩みを止めていた男は、軽く両肩を上げて不敵な笑みを浮かべたのだった。

 

 

 

 

「……いきなり貴賓室とは、変われば変わるものですねえ」
二人が通されたのは、公主宮殿の中でも国賓級の来客のみに使われる部屋である。フリード・Yにとっては前回訪問時に続いて二度目の入室だが、今回はマイクロトフがいないのだから、これは破格の待遇だろう。
応接用の長椅子にゆったりと腰を沈めて室内を見回す赤騎士隊長は、そんな若者の呟きに苦笑った。
「やはり甘いな、これで我々が偽物だったらどうする気なのだか。君が提案したように、エミリア殿を呼んで首実験するのが筋だろうに……権高く振舞う人間ほど根は小心だったりするから困ったものだ」
フリード・Yには「隊長殿が怖かったからだと思います」とは言えなかった。
あの一瞬、騎士は本気で腹を立てているとしか見えず、漸く彼に慣れてきたフリード・Yでさえ、震え上がるほどの怖気を感じたのだから。馬上から見据えられたグリンヒル兵らの心中は如何ばかりだったか、察するに余りある。
グリンヒルにとってマチルダは絶対的な重みを持つ友好国だという事実を、騎士は兵らに思い出させた。それも、じわじわと広がるような脅しをもって。頭ごなしに騙りと決め付け、上段に構え続けた兵も、今頃はさぞや心底事態を憂いているだろう。
「君も、もう少し強く言ってやれば良かったのだ。横で見ていて、もどかしかったぞ」
「ええ、でも……」
フリード・Yは出された茶を一口啜り、ポツと続けた。
「この頃、とみに思うのです。騎士としての訓練を積んだ訳でもないわたくしが、皆様に混じって大切な役目に臨めるのは───皆様が足手纏いと見ないでくださるのは、わたくしが殿下の従者だからです。個人としてのわたくしは頭が切れる訳でなし、格別の武力があるでなし、何の力もない未熟な若造に過ぎません」
「……事実はどうあれ、己を客観的に見詰められるだけ、君は未熟ではないと思うが?」
フリード・Yは弱く微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、「マチルダ皇太子の従者」というだけで多くを与えられてきたのは本当ですから。実力で勝ち得た訳でもない肩書きに、嬌ってはならない、嵩にかかってはならない……そのように思います」
「さっきの手段を言っているのかね? 時と場による。普段の君は謙虚に過ぎるほどだろう」
見詰める赤騎士隊長から目を逸らし、ゆるゆると首を振る。
「いいえ。心掛けているつもりでも、気付かぬうちに傲慢に陥ってしまう。どれほど気を配っても充分とは言えません」
そこでフリード・Yは両手で顔を覆った。
「わたくしはそれをカミュー殿によって知りました。初めてお会いした日、彼がグラスランド出と知って、わたくしは「蛮族の住む地」と口にしてしまったのです。愚かにも巷の説を振り翳して……相手をどれだけ傷つけるかを考えもせずに。カミュー殿はマチルダによって故郷の村を奪われました。わたくしは、そのマチルダの民でありながら、グラスランドを貶めてしまった。村を襲った不心得者と同じです。きっとあの時、カミュー殿は再確認なさったでしょう。この国なら攻めてくる、と」
眼鏡の奥、きつく閉じた瞼の裏に熱いものが滲んでくる。ずっと口に出せずにいた、今なお若者の胸を苛み続ける悔恨だった。
亡き先王の汚名を晴らし、カミューが恨みを捨てて戻ってくることを心から願っている。そのためならば心身を擲つ覚悟もある。
けれどそれは、主君の望みであるからというだけでなく、フリード・Y自身の責任の取り方でもあるのだ。
発した言葉は取り戻せない。どれほど悔いても遅い。ならば、行動で示すしかない。カミューのため、焼かれた村のため、真実を得る。そして二度と軽はずみを冒さぬように努めることがフリード・Yに出来る最大の陳謝なのだった。
赤騎士隊長は若者の痛みを察したように目を細めた。
「……自分を責めるな、フリード殿。彼にはきっと分かっている。君が悔いていること、今は心から彼を慕わしく思っていることも」
そして、と小さく言い添える。
「彼も、こんなことは早く終わらせたいと考えている筈だ。終わらせよう、みなの手で」
「───はい」
流れ落ちそうになっていた涙を拭おうと眼鏡を外したとき、扉が開いて馴染みの顔が現れた。走ってきたのか、息を弾ませたエミリアは、その場で二度三度と深呼吸を重ね、それから毅然と背を正して歩み寄る。
「ごめんなさい、お待たせしました」
立ち上がって迎えた二人に、彼女は丁寧に一礼した。
「マイクロトフ様の御遣いと伺いましたけど……突然でしたから驚きましたわ、フリード様」
「あのう……エミリア殿。「様」はやめていただけますか、わたくし、そのように呼ばれる身ではありません」
公女付き侍女エミリアはパチパチと瞬いて、ゆっくりと笑みを深めた。
「急にどうなさったの? そうした方が良いなら、やめますけれど。じゃあ……フリード君? さん、の方が良いかしら」
朗らかな調子に脱力しつつ、若者は微笑もうと努めた。
「どちらでもお好きな方で……。それより、お呼び立てしてすみません」
エミリアは首を振り、騎士隊長へと向き直った。
「赤騎士団の第一隊長様ですわね? エミリアと申します、その節は赤騎士団員の方々にお世話になりました」
「直接お目に掛かるのは初めてですな、どうぞよしなに」
二人に着席を促した侍女は、向かいの椅子に優雅に座り、すかさず乗り出した。
「正門番が非礼をはたらいたみたいですわね。何とか取り成してくれと縋られました」
「いえ、それはわたくしも悪いのです。うっかりしてしまい、身分を証明する品を忘れて来たので……」
「ええ、そんな言い訳をしていました。後で青くなるくらいなら、最初からきちんと対処すれば良いのに。ごめんなさいね、色々あって兵たちも荒れているの。勿論、それで許されることじゃないけれど」
溜め息をつくエミリアの様子をフリード・Yは案じた。
「お忙しくしていらっしゃると聞きましたが……お疲れみたいですね、大丈夫ですか?」
「大丈夫……とは言い難いわ。こういうときにこそテレーズ様をお支えするのが役目でしょうに、大臣たちの大半は狼狽えるばかりで、アレク様の御葬儀の手配もままならないんですもの。一介の侍女に過ぎないわたしがあれこれ任されているのよ、信じられます?」
唖然としつつフリード・Yは丁重に詫びた。
「本当に申し訳ありません、大変なときにお訪ねしてしまって……」
するとエミリアは口元を綻ばせた。儚い笑みに自責が滲んでいる。
「とんでもない。あなたにお会いしてほっとしたわ。こちらこそ、お詫びします。マチルダの方に愚痴を言うなんて……わたしも少しおかしいみたい」
「吐いて楽になれるなら、そうなさると良い。我らは口が固い。信じていただいても大丈夫です」
赤騎士隊長の言葉がエミリアを俯かせる。温かな申し出に涙ぐんでいるのかと思いきや、顔を上げた彼女は背水に構えた戦士の面持ちと化していた。
「……ありがとうございます。国の恥を晒すのは不本意ですけど、いずれ正さなければならないことだし、この際、御言葉に甘えさせていただくわ。グリンヒルの大臣の殆どは無能な日和見主義者なんです。そうではない時期も確かにありました。でも、アレク様が変えてしまわれた。阿るもの、諂うものばかりを重用して、家臣の質を落としてしまわれたんです。御陰で、今では自分で何かを考えて動ける重臣はほんの一握り。残りは右往左往するだけで、まるで使えない。あの人たち、テレーズ様が御輿入れした後だったら、どうする気だったのかしら」
「…………」
「今度のことでテレーズ様がどれほど気落ちしていらっしゃるか……。なのに、「公の御葬儀には何れの国の何方までお招きしましょう」なんて伺いを立てに来ましたのよ。テレーズ様はもうすぐグリンヒルを出られる方だったのに。今後の国政はアレク様と大臣で執っていく筈だった訳でしょう? そんなことも判断出来ないのか、それならわたしが手配した方がマシだと啖呵を切っちゃいました。そうしたら「頼む」とか言って、すごすご引き下がるんですもの。泣きたくなるわ」
「エ、エミリア殿……」
「あんな人たちに任せていたら、いずれ国は傾きます。落ち着いたら、実直に責務を果たそうとしている僅かな大臣と、テレーズ様の周囲に御仕えするものたちとで立て直します。能力がある人間は他に幾らでも居る筈だわ」
憑かれたように言い放った侍女に目を丸くしていた騎士隊長だが、そのうちに愉快そうに表情を崩した。大きく息をつき、心からといった調子で頷く。
「……然様ですな、ここにも一人おられるようだ。貴女の熱意と勇ましさは、国政に携わるに相応しい力です」
虚を衝かれたエミリアは目を瞠り、次いで恥じたように頬を染めた。
「……嫌だわ、わたしったら……御言葉に甘えるにも程がありますわね。本当にごめんなさい。あの、マイクロトフ様には仰らないでくださる?」
「心得た」
赤騎士隊長は笑って一礼する。
マイクロトフのみならず、ゲオルグ・プライムも一目置いていた侍女。気丈な彼女がこれだけ鬱憤を溜め込んでいたことからも、グリンヒル中枢の歪みは察せられる。過ぎた野心に走ったワイズメルの許に、似た家臣が集まったといったところか。
幸い、腐敗に染まらずにいる人物も在るようだし、エミリアの言の通り、いずれ歪みは正されるだろう───そこまで考えた騎士は、マチルダで予想されたように、グリンヒルはテレーズを次代の国主に就けるのだと悟った。
エミリアは漸く気を取り直して、フリード・Yに瞳を向けた。
「わたしばかり話してしまって……それで、マイクロトフ様の御用というのは?」
「はい、テレーズ様にお悔やみの言葉を受け賜って参りました。その……殿下も今、とてもお忙しくて、文をしたためる時間が取れなかったのです。口頭で申し訳ないと仰せでしたが」
初めて、エミリアの表情が曇った。自問するように移ろった視線が再び戻ったとき、彼女は不可解を隠さなかった。
「……御崩御を伝える使者が発ってから間がないわ。こんなに早くいらしてくださったのは何故?」
流石に鋭いな、と感心しながら騎士が応じる。
「たまたま里帰りで公都に居た騎士が、急ぎ知らせてくれたのです」
そう、と相槌を打った侍女は複雑を増した顔で黙り込んだ。
「テレーズ様の御様子は如何なものでしょう? さぞ怯え、傷つかれておいでだろうと、マイクロトフ様は案じておいでです」
フリード・Yとしては何気ない弔意の言葉のつもりだった。が、エミリアの反応は顕著だった。打たれたが如く硬直し、掠れ声で呟いた。
「知って……いらっしゃるの?」
「は?」
「アレク様がどのように亡くなったか、御存知なのね?」
これには二人、顔を見合わせた。代表して赤騎士隊長が首肯する。
「───おそらく、箝口が敷かれる前に公都内で噂されていた程度は」
するとエミリアは嘆息して天を仰いだ。
「そう……そうよね。その可能性だってあるのに、病と偽るなんて、最初から無理があるのよ」
これについては既に騎士から知らされていたが、男は驚きを装った。
「偽る? 病死と発表なさったのか?」
ええ、と力ない声が答える。
「今さっきお話しした、役に立たない人たちが、ですけど。各国に使者を送ろうにも、マチルダの場合は事情が事情ですから、特に急ぐ必要があったのに……。後で聞いて驚きましたわ、病死で通すため、目撃者の口止めに忙しく、使者の派遣に意識が及ばなかったと言うんですもの」
次第に、先程の勢いが台頭したようだった。
「いったい何を考えているのかしら。どんなに締め付けたところで、洩れるときには洩れるわ。アレク様が殺されたのは事実、見ていた人が居たのも事実、病いで亡くなった訳ではない。物事の順序も忘れて、偽ってどうなると言うの」
成程、と赤騎士隊長は状況整理に入った。
不用意なことを触れ回らぬよう民に箝口を強いたり、他国に対して死亡理由を明かさぬ程度ならばともかく、偽りの死因を捻り出すのは、何度聞いても行き過ぎに思える。
どうやらエミリアが「無能」と称する大臣らは、ワイズメルが暗殺されたと衆知になっては困る理由があるらしい。主君の企みに関与していた可能性が高まってくる。
「案じなさるな、エミリア殿」
彼は慰めるように言った。
「真相を知るのはマイクロトフ殿下に忠実な、ごく一部の騎士のみ。これはグランマイヤー宰相殿も御存知ない。我々は使者殿と入れ違いになったようだが、たとえ病死との報を耳にされても、殿下はグリンヒルの意向を尊重なさるだろう」
「隊長様……」
エミリアは眼鏡を摺り上げながら声を詰まらせた。
「お恥ずかしいことばかりですわね。でも、いらしてくださって本当に良かった。決してテレーズ様の意ではなかったとマイクロトフ様に伝えてくださいな」
「お伝えせずとも、そう思われますとも」
フリード・Yが急いで乗り出した。
「わたくしが参りましたのは、そのためです。殿下からテレーズ様に、大切な伝言があるのです」
「テレーズ様に?」
不意に口篭り、侍女は目を逸らす。
「ごめんなさい、今はちょっと……お会い出来ないと思うわ」
「ええ、はい。こんな時ですし、それは分かっております」
「いいえ、そうじゃなく……」
エミリアは珍しく躊躇した。何度も口を開き掛け、やがて洩れたのは、言おうとした言葉とは違うものだったように二人には感じられた。
「あのとき、テレーズ様の近習は誰も御供していなかったんです。わたしも御輿入れの最終準備があって……みんな、何とお慰めして良いか分からずにいるの」
「あの護衛の方……シン殿と仰いましたか、彼も同行しておられなかったのですか?」
「───ええ」
エミリアの瞳に暗い火が灯った。
「テレーズ様の行かれるところ、何処にでも付いて行くのが役目なのにね。アレク様に不用と退けられたの。近衛兵だけで足りる、と……彼が居れば、アレク様も命を落とされずに済んだかもしれないのに」
これは新事実だ。ワイズメルは、エミリアの周囲に集まる人材を快く思っていなかったのかもしれない───テレーズと護衛の秘めた関係を知らぬ二人は、そんなふうに考えた。
「テレーズ様は父親が亡くなるのを見てしまわれたんですもの、周りとしては御無事を喜んでばかりもいられないでしょう? あれからずっと独りにして欲しいと望んでいらっしゃるし、それはもう、腫れ物に触るような心地だわ。だから……今は許してください、わたしに取り次げと仰らないで」
フリード・Yも、何が何でもテレーズと対面したいと望んではいない。亡きワイズメルに疑惑が掛かる今、何事もなかったかのように振舞えるか自信がなかったからだ。
まして、親愛を抱くエミリアに深々と頭を下げられて否はない。逆の立場でも同じように思うだろう。努めて笑みを浮かべて彼は言った。
「ええ、そのつもりでした。エミリア殿にお伝えすれば、テレーズ様にお伝えしたも同じですから。殿下はこのように仰せです。テレーズ様に心からのお悔やみを、そして今ひとつ、この先、何があろうとマイクロトフ様のテレーズ様への真心は変わらない、と」
一言一言を噛み締めるようにエミリアは聞いていた。特に最後の一節が届くなり、膝の上に置いた手を握って、唇を引き結んだ。
長い沈黙の後、彼女はフリード・Yを凝視する。物言いたげな眼差しは潤んでいた。
「落ち着き次第、御文を書くと仰っていたけれど……今、お伝えしても構いませんわよね。テレーズ様も同じ御気持ちでいらっしゃいます。マイクロトフ様には誠心で向き合いたい、と……そのように言っておいででした」
きりりと言って、ふと眉を寄せる。
「御二人とも、すぐにロックアックスに戻られますの?」
これには赤騎士隊長が答えた。
「ついで仕事を言い遣っているので、数日は滞在することになるかと」
「では、宿泊先を教えていただけないかしら? その間に、テレーズ様がお会い出来るようになられたら、連絡を差し上げますから」
つとめは一応果たし終えたと思いつつ、フリード・Yは騎士を窺い見る。微かな首肯を認めて、慌ててエミリアに向き直った。
「ありがとうございます。でも、くれぐれも無理をなさらないでください。肉親を失くした悲しみが如何なものかは、かつて御父上を亡くされた殿下を拝見したときより、分かっているつもりです。お立場上、難しいでしょうが……御心が癒えるまで、テレーズ様にはゆっくり休んでいただきたいと思います」
「……マイクロトフ様に劣らず、優しくていらっしゃるのね」
エミリアは小さく笑んで、密やかな声で言い添えた。
「人には、そうしたくても出来ないときがあるわ。大きな荷を負ってしまったときには、特に……ね」

 

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久々登場のエミリア女史。
しかもキレ気味(笑)
従者君、ビクビクの連続です。

まるでちっちゃな大冒険。

 

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