あえかな物音が響いて、沈み込んでいた意識が浮上する。ふわりと開いた琥珀色の瞳は、先ず煌々とした白い世界を、次にキャビネットの上に置かれた蝋燭の灯りを消しているレオナを映した。
何時の間にか夜が明けていたようだ。カーテンの開け放たれた窓から射す光は痛いほど眩しい。知らず洩れた溜め息に気付いたレオナが振り向き、艶やかに笑んだ。
「起こしたかい?」
いえ、と小さく否定してカミューはゆるゆると半身をもたげた。最初に目を覚ましたときよりはだいぶ楽になっていたが、それでも身体は緩慢としか動かない。自らの消耗ぶりに消沈しつつ、何とか微笑みを浮かべることに成功した。
「丁度目が覚めたところです、おはようございます」
するとレオナは吹き出すのを堪えたように口元を押さえた。
「おはよう……どころか、昼過ぎだけどね」
言いながら身を屈め、掌をカミューの額に当てる。女の表情が曇るのを察したカミューは、急いで首を振った。
「もう熱は引いています。その……、もともと体温が高いのです。紋章を宿している所為だと思うのですが」
───だから、肉体は慣れ切っている筈だった。これまで何度も高熱に襲われたが、こんなにも打撃を受けたことはなかったのだ。カミューは暗澹たる思いに苛まれた。
女たちの厚意はありがたい。けれど、長々と留まる訳にもやはりいかない。迷惑を掛けぬよう、一刻も早く立ち去らねばならないというのに、まず歩く努力から始めねばならないらしい我が身に、ほとほと嫌気が差すカミューだった。
そんな葛藤を見取ったように、レオナは柔らかく言った。
「もうすぐロウエンが買い出しから帰ってくるから、そうしたら一緒に食事にしようかねえ」
昨夜は比較的早めに店を閉めたのだという。女たちは、休む前にカミューの様子を覗いて、ちゃんと「言い付け」が遵守されているのを見届けた。空になった粥の椀にロウエンは喜び、次は肉粥を作ると息巻いていたらしい。
この東七区では、生活に必要な殆どの品が区内で手に入る。飲食店で使われる食材なども充分に揃っているが、レオナは店で出す酒の一部を二区先にある交易所から仕入れていた。
赤騎士団副長の口利きもあって、交易商人は厳選した品を適価でレオナに回してくれる。マチルダではあまり知られていない、それでいて安くて美味な酒。レオナの酒場に訪れる客が絶えないのは、こうした他店にはない珍しい酒が楽しめるという点にもあったようだ。
以前は商人が店まで品を運んでくれていた。時には巡回の赤騎士が、ついでだからと代理を勤めてくれるときもあった。が、ロウエンが転がり込んできてからというもの、彼女が自然と買い出し役を請け負うようになった。
交易所には珍しい品々が並んでいるし、ときには新たに扱うようになった酒の試飲という幸運にも恵まれる。どちらかと言えば活動的なロウエンにとって、数日に一度の「外出」は、またとない気分転換になるのである。
ふと、レオナが語調を変えた。
「そうだ、カミュー。あんたの服、洗濯しておいたからね」
「えっ?」
「中に着ていた方はともかく、上着はあんまり見ない布だし、特別の洗い方があるかもしれないとも思ったんだけど……何せ泥塗れで、そのままにしておくのも忍びなくてね」
虚を衝かれて瞬いた一瞬の後、血が引くようだった。焦燥が言葉にならないうちに、彼女はさらりと付け加えた。
「ポケットの中身は\めてキャビネットの引き出しに入れておいたよ。あんた、本当に小銭しか持ち合せていなかったんだねえ。あれじゃ、この区一番の安宿にも泊まれやしないよ。いったいどうするつもりだったんだか」
くすくすと笑いながら揶揄するレオナには変わった様子は見受けられない。上着の懐に忍ばせていたもの───本来、流出するべくもない新王即位式の警備案書について、言及する気配はなかった。
あの墓地手前の森で、白騎士隊長の亡骸と共に燃やしてしまっておくべきだったと、カミューは己の迂闊を悔いた。数枚からなる冊子状の書類だが、折り畳んでいたのが幸いしたのか、内容までは吟味されなかったようだ。まったく胸を撫で下ろすような心地である。
「……何から何まで、本当に感謝します」
「ついでだったからね。洗い方がまずくて縮んだとしても、大目に見ておくれよ」
レオナが悪戯っぽく肩を竦めたところで、階下で声がした。
「帰ったよ、姐貴」
扉を閉めていても響く大声に苦笑して、彼女はゆっくりと腰を上げようとした。けれど、それよりも早くロウエンが飛び込んできて、興奮を抑え切れない様相で訴え始めた。
「聞いてくれよ、事件だよ」
「あんたはいつもそれだねえ。買い物は無事に済んだのかい?」
「指定の酒は全部、ちゃんと仕入れてきたよ。店の方に置いてある。ああ、それとカミュー」
ふいとロウエンはカミューへと向き直り、大きな包みを上掛けに投げた。
「はいよ、着替えだ。趣味が合わなくても文句は言うなよ、着たきりスズメよりはマシだろう?」
え、と目を瞠って袋を解くと、街人が着ているような、ごく有り触れた衣類が現れた。困惑したまま見詰める彼に、ロウエンは開けっ広げな笑顔を見せる。
「おれ、さんざん男に貢がせてきたけど、貢いでやるのは初めてだぜ。寸法が分からなかったけど、大きめに買ったつもりだから、何とかなると思うぜ」
「え、あの───」
「この区じゃ、女の子の服は選り取り見取りだ。でも、男物となると冴えない店しかないからさ。せっかく五区まで行ったついでに、……ね」
ここまでくると、ありがたさより申し訳なさが上回る。カミューは顔を歪めて、深々と頭を下げた。
「せめてまともに歩けるようになったら、何らかのかたちでお返し出来るよう努めます。その……今、レオナ殿にも言われたのですが、本当に小銭しか持ち合せていなかったので……」
「いいって、そんなの」
ロウエンは高らかに笑い飛ばした。
「あんたには目の保養をさせて貰ってるしさ。それに、おれの作った卵粥も残さず食ってくれたし、男物の服を選ぶのも結構楽しかったし」
そんなことより、と彼女は表情を改めてレオナに向き直る。
「五区の方で聞いたんだけど、皇太子の結婚が中止になるらしいぜ」
短い言葉がカミューの呼気を止めた。片やレオナも呆気に取られて目を見開いていた。
「中止? 何だってまた……」
「ね、驚くだろう? あっちこっち、寄ると触るとその話で持ち切りだよ」
ロウエンは、聞き及んできた諸々を説き始めた。
午前中、街の名士や各区画の代表が城に集められた。もとは即位日に向けての最終確認のための招集だったが、彼らはその席で思いがけない話を聞かされることになった。
即位式に続いて予定されていた新皇王婚姻の儀式中止。妃となるグリンヒル公女の父、つまり公主ワイズメルの急逝によるものであった。
しかも、延期ではない。婚約も解消され、まるまる白紙に戻るという話なのである。
「一人娘を嫁がせちまう訳だし、この先グリンヒルは共和制にでもなるのかと思ってたけど……やっぱり公女が跡を継ぐのかね。それにしたって急だから、皆びっくりだよ」
昨日のように椅子を跨いで座りながらロウエンは首を振った。レオナも同様に、寝台に腰を落として考え込んだ。
「でも、まあ……そういう事情じゃ、しょうがないだろうね。準備をしていた人たちには気の毒だけど」
「そうなんだよ。あの区には、お妃のドレスを納品する筈だった店があるらしくてさ、知らせを受けた店主が寝込んじまったって」
息を詰めたまま二人の遣り取りを聞いていたカミューだったが、やや意外に思わずにはいられなかった。
「……随分とあっさりしているのですね」
「何がだい?」
「王位継承者の結婚が中止になるなんて、国の一大事だと思うのですが」
女たちは顔を見合わせた。束の間思案して、それから口を開く。
「それはまあ、そうだけど……おれたちが気を揉んだところで、どうなるものでもないし」
ロウエンの一言に頷いて、レオナが続けた。
「それに……何て言ったら良いかねえ。巷じゃ、この結婚話はどうか、って向きが強かったからね」
「歓迎されていなかったのですか?」
「そこまで言っちゃうと、語弊があるね。グリンヒルの公女が立派な人物なのは誰もが認めているし、お妃としては最適なんだろうけど……」
言葉を選ぶように彼女は間を置く。
「王族ともなれば、碌に顔も知らない相手と結婚するのが当たり前なのかもしれない。でも、この国では前の王っていう例があったし……」
そうそう、とロウエンが両手を胸の前で握り合わせた。
「情熱的だよな。地方の村の娘を見染めて、求婚して……他の女には目もくれず、一途に妻一人を想い抜いたなんて何かの物語みたいだぜ」
するとレオナはふわりと笑った。
「他国出のロウエンでさえ、この調子だからね。皆、今の皇太子も自分でお妃を見つけてくるような気になっていたのさ。だから、グリンヒルの公女と婚約したときは意外と言うか、肩透かしと言うか……あの先代の息子でも政治的な結婚をするのか、って首を捻ったものだよ」
成程、とカミューは考えた。
騎士団の中にも「あからさまな政略結婚」との見方はあった。公女テレーズの人柄や聡明さ、そうしたものから歓迎の向きには傾いていたが、皇子の前であまり話題に昇らせないよう配慮が為されていたのも事実だったのだ。
「だからと言って、決して反対って訳じゃないんだよ。皇太子が望んで受け入れるなら……個人としての感情が議性になるのでないなら、皆、祝福する気でいたんだ」
「個人としての感情───」
復唱して、カミューは目を細めた。
「しかし、王族という立場にはある種の制約も必然でしょう。私人としての感情を捨てねば立ち行かないのが普通なのでは……?」
そうした「制約」をものともせずに突き進む姿勢を見せていた男を過らせながら小さく呟く。レオナは「まあね」と同意して、けれど緩やかに首を振った。
「あたしらもそうだけど、カミュー……あんたもマチルダの人間じゃないだろう」
はっとして、だが彼は平然を装った。
「分かりますか」
そりゃあね、と女たちは頷き合う。交替するようにロウエンが口を開いた。
「マチルダは昔から移民をたくさん受け入れてきたって話だし、それこそ髪や目の色も様々だけど、あんたみたいなのは珍しいよ。同じ茶系の髪でも、それほど明るい色合いは滅多に見ない」
成程、と無言のままカミューは思案した。
女性の視点とはありがたいものだ。これまで思考を過らなかった盲点を指摘された気がする。以後、留意せねばなるまい。
再びレオナが語り始めた。
「つまりね、余所から来た人間には理解しづらい感情が、この国の人たちにはあるんだよ。王家に対して……説明するのが難しいけど、何て言うかね、親近感みたいなものがあるのさ」
「親近感……」
「そう。勿論、建国の聖人の末裔として敬愛している。だけど、まるで近寄り難い雲の上の人とは捉えていない。さっきロウエンが言った、王族の立場よりも一人の男としての誠を通した先代皇王が良い例かねえ。惹かれるのかもしれないね、より人間らしく生きようとする姿にさ」
皇王家が永劫の繁栄を望むなら、子孫を増やすための努力を積極的に行うべきだった。にも拘らず、初代皇王の時代から「妻は一人」というこの地方の倫理が守られた。
マチルダ皇王家の根底に流れる信条とは、「人としての理を重んじる」といったものなのかもしれない───レオナはそんなふうに論じた。
「まあ、その結果、直系王族は減る一方だったから、良し悪しだろうけどね」
「王家には続いて欲しいけど、不自然に無理して欲しくはないんだよな。複雑だぜ、マチルダの国民感情ってのは」
ロウエンが大仰な溜め息をついた。
「だから、今回の結婚が中止になったことについても、皇太子とグリンヒル公女の間に運命的な縁がなかった……で、何となく納得しちまうんだ。この話を聞いた大多数のマチルダの人間は、「そうか、残念」程度で済ますんじゃないかな」
皇子が初めて騎士を従えて街を巡回した日、ロックアックスの民は熱狂した。馬を下りた皇子と話し込む場面も多々見られた。
そんな輪の中、迫る即位への祝辞は溢れていたが、結婚へのそれは殆ど聞かれなかった。民の間に、レオナらが語るような風潮があったとは───カミューは意外を覚えると同時に、苦さをも噛み締めた。
マチルダ皇王家は愛されている。
最後に残った皇王家の一人が、身に流れる血に翻弄されぬよう───意に添わぬ道を進まぬようにと願っている。
「カミュー、あんた、皇太子を見たことがあるかい?」
唐突なロウエンの言葉に、カミューは心臓を掴まれたように思った。どうしようもなく浮かんでくる熱の篭った眼差しから逃れるように、知らず首を振る。それを問い掛けへの否定と取った女は、笑みながら頷いた。
「実はあたしらもないんだ。少し前までは殆ど城から出なかったのに、どんな心境の変化があったんだか、この頃は騎士と一緒に街を見回るようになったらしいんだよな。けど、この東七区じゃ、世間と生活時間がズレているだろ? 残念ながら、未だに顔を拝んだこともないんだけど」
ロウエンが買い出しに出向く五区のあたりでは住民が噂に花を咲かせている。
暫く見ないうちに皇子は先王そっくりに成長した、真剣に民の言葉に耳を傾ける様は先王の姿そのままだ、否、それ以上に凛々しく映る───そんな声が溢れている。
彼女はそこでくすりと笑った。
「何でも、恋愛沙汰にはまるで関心なさそうな堅物らしいぜ。親父さん譲りなのかな、前の王も、お妃と出会うまでは結婚話を蹴りまくっていたって話だから。だけどそういう男に限って、惚れたら化ける。だから皆、皇太子に選ばせてやりたいのさ。あんたの言うように、王族に生まれた所為で議性にしなきゃならないものは多いだろう。なら、せめて一生を共にする相手くらいは自分で選ばせてやりたいと思っちまうんだ」
「…………」
胸を衝かれて押し黙ったカミューを、レオナがちらと窺い見る。不意に彼女は手を打って立ち上がった。
「さ、もうこの辺にしておこうじゃないか。今日はちょっと手の込んだ煮込みを出すって、昨夜、常連に約束しちゃったからね。早いところ昼を済ませて、下拵えに取り掛からないと」
促されたロウエンが即座に椅子を元の場所に戻しながら呼び掛ける。
「姐貴、どうせなら昼飯は三人で食おうよ。カミューも一人じゃ味気ないだろうし」
「自分の作った粥の出来が気になるんだろう? ちゃんと美味しく食べてくれているか、ってさ」
破顔しながらレオナは言い募った。
「あたしもそのつもりだったよ。食事ってのは、大勢の方が楽しいものだからねえ」
女たちが出ていった後、カミューは寝台を抜け出てみた。
一歩ずつゆっくりと、床を踏み締める足を確かめながら窓辺に向かう。
仰臥に慣れるほどに、下肢の衰弱は進むものだ。病を抱えている訳でなし、多少は無理をしてでも動くように努める方が回復に繋がると考えたのである。
世の剣士に比べれば細身ながら、カミューの肉体には鍛錬によって磨かれたしぶとさがある。どれほど消耗していても、命じれば四肢は応えようと足掻く。剣士の身体とは、緩慢に甘んじてしまったときが最後なのである。
何とか窓まで辿り着いたカミューは、荒くなった呼気を整えつつ、外を見遣った。
どうやらこの部屋は廊下を挟んで往来とは逆側に位置しているらしい。窓を開け放ってみたが、見えるのは裏手の建物、そして彼自身が倒れていたという小さな庭地だけだった。
辺りはひっそりと静まり返っている。真昼の歓楽街とは、こうしたものなのだろう。人々は昨夜の疲れを癒しながら身を潜め、次に訪れる闇を待っている。左右にも視線を走らせてみたが、建物の隙間からは、行き来する騎士の姿は見えなかった。
出来るだけ早いうちに騎士団員の巡回する時間帯をレオナらに質しておく必要がある。何気なく、他意を感じさせないように───
そこまで考えたカミューは、自らに耐え難い不快を覚えた。無償の心で受け入れてくれた女たちを、何時の間にか情報源として利用しようとしている己の卑しさに吐き気がする。
復讐の牙を抱いたときより、人は、利用するものとされるもの、害のあるものとないもの、そんなふうに分けるのが当たり前になっていた。ごく僅かな例外の中に、ゲオルグ・プライムやルシアが存在し、その枠を不必要に広げぬことがカミューなりの自衛であったのだ。
他人に心を許せば弱くなる。例えばあの男を知って、己の周囲に張り巡らせた憎悪の壁が崩れたように。
あの男の傍らに在るとき、すべてを忘れて生き直すことを過らせたように───
カミューは密やかな息を洩らした。ルシア、と口中で呟く。
彼女は見事、族長としてのつとめを果たした。亡父の無念を晴らし、カラヤの誇りを守った。
比して自分は何をしているのか。思えば思うほど忸怩たるものが込み上げる。
彼女の助言の甲斐あって、目的を遂げるに最適な位置を掴んだというのに、あえなくそれを放棄してしまった。おそらくは「成果」を案じているだろうルシアに対して、顔向け出来ない気がする。
ふと、カミューは引っ掛かる一点を思い出した。
グラスランドで、ルシアはワイズメルの血脈を絶やすと宣言していた。だが、ロウエンの話によれば、どうやら公女を仕留め損ねたらしい。
今なお報復の中途であるのかとも考えたが、すぐに思い直した。
カラヤの戦士がどのような手段を取ったのかは不明だが、ロウエンの口振りからしても、ワイズメルの死が暗殺によるものと大々的に公表された訳ではなさそうだ。
それでも最低限、兵には事情が知らされただろう。今後、公女の安全にはいっそうの細心が払われるようになる。そうなれば第二の暗殺は至難、ワイズメルの血を絶やすなら公主と公女を同時に屠るのが鉄則だ。ルシアに限って、そこを見落とす愚は犯すまい。
つまり、何か重大な変化があったのだろう。ひとたび口にしたことを曲げない、そんな誇り高きカラヤの民を揺り動かすような何かが。カミューは心から、それが何であるかを知りたいと思った。
午後の日差しに輝く窓硝子には、自身とも思えぬほど疲れ果てた顔が映っている。己を見返す琥珀に向けて──正確には、そこに焼き付いているかのような男の面差しに向けて──彼は弱い笑みを浮かべた。
「……無事、寝取られ男の汚名を免れたな。つくづく運の強い男だ、皇子様」
呟きは掠れ、震えていた。
一方、階下に降りた女たちは、厨房で昼食の準備を始めていた。
昨夜、店で出した料理の残りから肉を拾い出して鍋に移すロウエンの横、野菜を洗っていたレオナの手が止まる。彼女は深い息を吐き、ザルの中を見詰めて考え込んだ。
「どうかした、姐貴? そいつはトニーに分けて貰ったトマトだから質は良いよ。いま食べないで、店で出そうか?」
そんな妹分の声に首を振り、微かに口元を歪める。
「悪い人間じゃない、それは分かるんだけどねえ」
「……って、誰が? カミューのことかい?」
鍋にたっぷりと水を張ったところで、ロウエンはレオナに向き直った。
「あんな馬鹿っ丁寧な悪人、いやしないぜ。何を言っても「すみません、申し訳ありません」で落ち着かないけどさ。おれが最初に説教垂れたもんだからビビってるのかなあ。ちょっと可哀想だったかな」
「あんた、よっぽど気に入ったんだね。どうでも良いけど、悪さするんじゃないよ」
苦笑しながらレオナが言うと、ロウエンは至って真面目に答えた。
「年下は守備範囲外。目の保養になるし、線が細くて庇ってやりたくなるけどね。うん、弟分……かな。あんな弟なら欲しいな、おれ」
そう、と柔らかく笑んでレオナは視線を落とす。彼女の脳裏には、青年の上着の懐に潜んでいた冊子状の品が去来していた。
「……ともあれ、相当に複雑な事情がありそうだ。どうしたものかねえ」
ロウエンには聞こえなかった小声が、苦悩を秘めて呟いた。
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