夜半になって、一日のつとめを終えたマイクロトフは、ゲオルグと向かい合って軽く寝酒を嗜もうとしていた。
酒肴にと騎士が運んだ品を見てゲオルグが苦笑する。寝しなに口にするには胸焼けしそうな甘味の数々。その一つを摘まみ上げて彼は呟いた。
「徹底しているな……。従者殿が吹聴して回ってくれたか」
それからブツブツと喉の奥で、「このままでは本当に太る」などとひとしきり愚痴を垂れ、不意に表情を改める。
「明日の予定はどうなっているんだ?」
「午前中、商工会の代表や街の区画長らと会って、婚儀の中止を伝えます。午後には礼拝堂で即位式に関する最終確認を行います」
そこでマイクロトフは、小さく溜め息をついた。
「祝福してくれていたものたちを落胆させるのは気が重いですね。まして弔事絡みとあっては……」
ゲオルグが片眉を上げる。
「とは言っても、どのみち落胆するなら「皇子が花嫁に逃げられて中止」という最初の脚本よりはマシだろう」
はあ、と弱く笑んでマイクロトフは頷いた。
「おれ一人なら何を言われても良いと覚悟はついていたのですが……こんなかたちになってみると、逆に複雑に思えてしまいます」
ゲオルグは舌先に酒を転がしながらマイクロトフへと観察の瞳を当てた。
ゴルドーの協力者、グリンヒル公主アレク・ワイズメル。漸く陰謀の一片が割れたのに、その対象が永遠に失われてしまった。憤りをぶつけようにも、相手が故人となってはそれも叶わない。
ましてワイズメルには父王殺害の可能性まで浮かんでいた。棺から引き摺り出して詰問したいだろうほどの葛藤を、だがマイクロトフは、怨嗟と共に飲み込もうとしている。
遺児となった公女テレーズに以前と変わらぬ親愛を通す。彼女との間に交わされていた親交が要因の一つとしても、端で思うほど容易ではない筈だ。テレーズを思えばワイズメルへの恨みが過る、それが普通の心情だろう。両者を完全に分けて考えられる、それはマイクロトフの強さであり、懐の深さでもあるとゲオルグは思った。
───この男に惹かれたならば。
おそらくカミューにも同じ感情が兆し始めている筈だ。敵と信じるマチルダ王とその息子とは、まったく異なる人間なのだと。
皇王家の血を絶やすという一念で凝り固まった意識は、たとえ情愛に侵食されても、潰えるとは限らない。彼を縛る呪縛は、そう易々と絶ち切れるものではないだろう。
十代半ばで表情から幼さを失い、日々倒れるまで剣の鍛錬を重ねてきたカミューを知るゲオルグには、彼の選ぶ道が漠然と察せられる。己を責め、恨みだけをよすがに長らえてきたカミューには、道は自ずと限られているのである。
そこにだけは進ませてはならない。彼を引き戻すためにも、皇子一派の戦いの勝利を願わずにはいられないゲオルグだった。
「……っと。すまん、もう一度言ってくれ」
上の空でいた彼は、マイクロトフの言葉を聞き逃した。
「我が青騎士団では、早朝鍛錬を実施しています。明日以降は、おれも参加復帰しようと考えているのですが、ゲオルグ殿はお起こししない方が良いでしょうか」
「おれはどちらでも構わんが……」
前置いて、ゲオルグは首を捻った。
「その訓練、カミューも立ち会っていたのか?」
はあ、と苦笑が零れる。
「……初日だけ。必要なときには起きるけれど、基本的に朝は弱いらしいですね」
「宵っ張りだからな」
他愛もない話の筈なのに、剣士の顔は暗い。マイクロトフは怪訝に思った。
「ゲオルグ殿?」
「何故あいつがそうなったか分かるか、皇子? あの夜の後、暫く悪夢を見続けたからだ。眠れば否応なく村の惨状に直面する。だから眠れず、明け方近くになって身体が疲労に負けた頃、漸く眠りに落ちる───それを繰り返した結果なんだ」
マイクロトフは絶句して、ごくりと喉を鳴らした。
「カミュー自身、今となってはそれが原因だと思っていないかもしれんが。改善は難しそうだが、いずれ戻った暁には何とかした方が良い。不健康でいかん」
黙したまま、マイクロトフは唇を噛んだ。やがておずおずと異を述べる。
「そんな事情があったと知っては……幾らでも朝寝を過ごさせてやりたい気がします」
するとゲオルグは顔をしかめた。
「負の記憶が作った体質だ、改めるに越したことはない。あいつを騎士団に迎えるつもりなら尚更だ、あれではやっていけないぞ」
ああ、と目を細めてマイクロトフはうっすらと微笑んだ。
「そうか、負の記憶……そうですね、消せるものなら消してやりたい。それに、仰るように騎士には些か芳しくない体質だ。しかし、ゲオルグ殿」
上目で剣士を窺い見る。
「カミューとは半月あまりを過ごしただけですが、早朝から溌剌としている姿を想像出来ないのですが」
ゲオルグも腕を組んで首を捻った。
「……実はおれもだ、困ったことに」
傭兵として共に生きた四年半あまりを一瞬で脳裏に巡らせて頷いた男の渋い表情が、マイクロトフを破顔させた。
最初の朝、訓練に出向こうとした際のカミュー、あのときの唖然とした顔が懐かしい。
その後、朝寝を貪る姿を見たのは数度に過ぎない。なのに妙に心に焼き付いているのは、穏やかな朝の光の中でまどろむカミューが、それは幼げで、幸福そうに見えたからだ。傭兵として常に神経を尖らせてきた筈の青年の無防備な姿は、自らに気を許している証に思えて、たまらない喜びを掻き立てられたものである。
ゲオルグが言うように、惨劇によってもたらされた慣習が消えずとも、せめて穏やかな眠りだけでも護れたら───そうマイクロトフは思う。
腕の中に包み込んで、彼を脅かすもの、平安を乱すすべてから、あの優しい息遣いを護り抜きたい。
遠い日に、父も同じ想いで母を迎えたのだろう。交わす瞳に永遠を映しながら。
「……会いたい」
呻くように言って、両手で頭を抱え込む。
「離れてたった二日なのに……一日がこんなにも長い。カミューと知り合う前の自分がどう日々を送っていたのかも、もう思い出せないのです」
ゲオルグ・プライムは痛ましげに顔を歪め、息を吐きながら身を乗り出した。
「焦るな、皇子」
「分かっています。おれには今、為すべきつとめを果たすしかない───信じて進むしかないのだと。でも、会いたい。どうしようもなく、会いたくてたまらない」
ふと、剣士は頬を緩める。
「あいつも……何処かで同じように思っているかもしれないな」
マイクロトフには聞こえぬほどの小声で呟いたとき、扉が静かに二度鳴った。控え目な礼を払いながら現れたのは赤騎士団副長である。
「夜分に申し訳ございません、まだお休みでないと張り番に聞きましたので……。青騎士団に肩代わりしていただくつとめについて、希望を\めて参りました」
いや、と鷹揚に笑み掛けてマイクロトフは立ち上がった。据え付けの棚から杯を取り上げて副長を見遣る。
「遅くまですまないな、良かったら一緒にどうだ?」
皇子じきじきに杯を用意された騎士は、礼を述べながら空いた椅子に腰を落とした。
「それから……グランマイヤー様に同行する騎士ですが、第八部隊から小隊を割り当てました。出立は明日未明とのことです」
赤騎士団副長から書面を受け取ったマイクロトフは、そうか、と頷いた。
「それにしても、グランマイヤーが赴くことになるなら、フリードはそちらに同行させてやれば良かった。赤騎士団の精鋭部隊との行軍は、あいつには辛かろう」
査察の折、風のような疾走ぶりを見せた赤騎士の騎馬技術を思い出しながら言うと、副長は穏やかに目を細めた。
「その辺は騎士たちも心得ておりますゆえ、適当に計らいましょう」
そうしてくれるよう期待するしかない、とマイクロトフは書面に目を通し始めた。が、如何せん、つとめの配分については意見するだけの経験を持たない。せっかく「青騎士団長」と仰いで配慮してくれているのに、そのまま副官へと回さねばならない案件であった。
こうした無力感を克服するには精進が必要だ。改めて思い知りながら、ふと視線を巡らせると、騎士の膝には書類の束が残っていた。
「それは?」
何気なく問うたところ、柔和だった男の顔が幾分硬くなった。言葉を探すように彷徨う瞳がマイクロトフの琴線を弾く。真っ直ぐに見詰めて切々と問うた。
「何か気になる点があるなら言ってくれ」
騎士は依然迷うように眉を顰め、それから意を決したふうに切り出した。
「今現在、明かさねばならない諸々は多く、この上心を散らしても、とは思うのですが」
念入りに前置いた上で、彼は両手を握り合わせた。
「五年前のグラスランド侵攻の命令書が偽造であるという仮定が出たときから、ずっと引っ掛かっているのです。前白騎士団長の御出奔……あれは真に御自身の意思に拠るものだったのか、と」
「出奔?」
初耳だったゲオルグが委細を求めて聞き返す。頷いて、騎士は続けた。
「陛下が崩御なさったその日のうちに、騎士団を辞する旨の書面を残して姿を消されたのです」
「おいおい、そいつは……きな臭いじゃないか」
「当時は陛下に殉ずるかのように剣を置く騎士が複数おりましたし、まして団長は陛下に心酔しておいででしたから、然程奇異に思うものはなかったのです。無論、捜索は為されました。けれど何ぶん陛下の御葬儀が第一でしたから、後手に回って……団長は独り身でいらしたし、他に身寄りもない方でしたゆえ、程なく捜索は打ち切られて新体制が発足したのです」
騎士はそこで小さく息をついた。
「仰るように、今にして思えば疑念を抱くべきだったのでしょう。未成年の殿下が即位されるまで、マチルダには王が不在となる。陛下から絶対の信を受けていた人物なれば尚のこと、斯様な事態を捨て置いて出奔などなさるだろうか───亡き陛下に仕えた誠実をもって、その御子たる殿下を御護りしようと奮起なさるのではないか、そう考えるべきだった」
騎士は膝上の書類の中から二枚の書を選び出して卓に乗せる。マイクロトフたちが覗き込むと、それは団長職辞任と退団の意思、そして後任としてゴルドーを推薦する旨を記した書面であった。
「あの頃のゴルドーは、副長位から繰り上がって団長職に就くに相応しい人物と評価されていました。故に、これが前団長の意であると誰もが信じました。けれど……あのグラスランド侵攻の命令書が偽造であるなら、これがそうでないとどうして言えましょう」
あっ、とマイクロトフは息を詰めた。
「この文書が、団長御自身によって記されたという証はありません。筆跡は写し取れますし、白騎士団長の印章……これとて、例えば副長だったゴルドーには、然程労せず持ち出せます」
「つまり……前任の白騎士団長も殺された可能性が高いという訳か」
どっかりと背凭れに埋もれながらゲオルグが唸った。片やマイクロトフは、戦慄き、言葉も出なかった。
「ゴルドーがマチルダ支配を目論むなら、前団長は除かねばならない障壁の一つです。陛下の死に殉じて騎士団を辞す……納得出来なくもない状況を利用して排除したのではないかと思えてなりません」
「もっともだ。だがなあ……」
ゲオルグはこめかみを掻いて嘆息する。
「これまた追い掛けようがないぞ」
同様の溜め息を洩らしつつ、副長が肩を落とした。
「その通りです。全騎士の長たる御方であったにも拘らず、城を出られた姿を見た騎士がおりません。マチルダ内で御遺体でも出れば、必ずや騒ぎになったでしょうが、そうした報も終になかった。今や消息を追うすべはありません。ですが……もし、無念を残して世を去られていたらと思うと、同じマチルダ騎士の一員として胸が潰れそうで───」
一気に言い切って瞑目する男に、マイクロトフらは顔を見合わせた。
騎士の気持ちは理解出来る。二人とて、前団長殺害が事実なら憤怒に耐えない。けれど、真相に迫ろうにも、これまで抱えた問題以上に解明は困難で、なすすべがないというのが実際のところであった。
「……死んだと決まった訳ではない」
そうであって欲しいと願いながらマイクロトフは言った。
「生きて、何処かでマチルダの行く末を見守ってくれていると祈るしかない」
すると赤騎士団副長は、ふっと表情を緩めた。
「然様ですな。団長が身命を尽くしてお仕えした陛下の御子、マイクロトフ様にお仕えすることこそ、彼の方の御心に添う唯一の道……そのように割り切るしかありませんな」
「ゴルドーの陰謀の証が立てば、その件についての詮議も叶うだろう。今はひとたび、置いて考えよう」
はい、と蟠りを絶ち切るように首を振る騎士に向けて、ゲオルグが苦笑混じりに声を掛ける。
「おまえさんも相当な苦労性らしいな。それでは身が持たんぞ、多少は力を抜いて対処した方が良い」
場の緊張が綻んだのを見計らうかのように、入室を求めて扉が鳴った。承諾を受けて入ってきたのは赤騎士である。
「御寛ぎのところ、失礼致します。ゲオルグ・プライム殿がこちらにおられると伺って参りました」
おれか、と言いたげに自身を指す剣士に丁寧に一礼し、歩み寄った騎士は一通の文を取り出した。恭しい仕草で捧げられた包みを怪訝そうに一瞥する様を見て、騎士は説く。
「正門番を勤めておりましたところ、カミュー殿に面会を求める女性がおいでになりまして」
「カミューに?」
「はい、急ぎ伝えたい旨があったようです。殿下に取り次ぐと申し出たのですが、固辞されまして……。それで、あの、ゲオルグ殿が御逗留中だという話を……入城を遠慮なさっているのかと思ったものですから……」
勝手に名を出して咎められるのではないかと口篭る若者をゲオルグはあっさりと一蹴した。
「構わん。それで文を預かったのか」
ほっとしたように騎士は息をついて頷いた。
「はい。その場でしたためられました。ええと……どういう訳か、名乗っていただけなかったのですが、グラスランドの方で、キアヌなる人物の御息女だそうです。一刻も早くゲオルグ殿の手からカミュー殿に渡して欲しいとのことでした。何でも、カミュー殿の人生に関わる重大事かもしれない、とか」
「人生に関わる?」
「そのように言っておいででした」
ふむ、と手にした文に矯めつ眇めつ眺め入り、考え込む。
「……で、その娘は?」
「そのまま戻って行かれました。このような刻限ですし、ちょうど交替時間でしたので、せめて街中までお送りしようとしたのですが、不要と往なされてしまって……。何事もなければ良いのですが」
心配そうに言った青年に、ゲオルグは含み笑った。
「無用の懸念だな。並の人間ではあの娘に太刀打ち出来まい」
「仰るように、身のこなしに隙がなく、騎獣の扱いも巧みな人物でしたが」
言い差して騎士は瞬き、安堵の笑みを浮かべた。
「良かった。では、あの女性に心当たりがおありなのですね」
「……まあな。手間を掛けた、確かに預かった」
文を一振りして謝意を示すと、騎士はマイクロトフや自団副長に丁重に礼を取って退出していった。騎士が去るなり、二人は腰を浮かしてゲオルグを凝視した。
「ゲオルグ殿! その女性、もしや……」
「カラヤの新族長殿では───」
マイクロトフの息急き切った問い掛けに、赤騎士団副長が後を引き取るように続ける。ゲオルグ・プライムは肩を竦めた。
「まさかマチルダにまで足を伸ばして来るとはな……。そうだ、キアヌというのは亡きカラヤ族長、ルシアの父の名だ。名乗らなかったのは賢明な判断だろう、こちらの内情を知らぬ以上、何がどう転ぶか分からんからな」
しかし、ときつく眉根が寄せられた。
「ルシアが知っているのは、カミューがワイズメルを通して騎士団要人の許へ刺客として送られたという事実のみ。あいつが城に居るかどうかは、一か八かの賭けでしかない。そんな博打に打って出たというからには、只事ではないな」
「人生に関わる、とはいったい……」
マイクロトフの独言が洩れるか否かのうちに、ゲオルグは厳重に施された書簡の封を摘まんでいた。知らず目を瞠り、赤騎士団副長が息を呑む。
「開いてしまわれるのですか?」
「渡したくても、肝心の受取人が居ない。おれはあいつから「後」を任されているからな、代わって検めさせて貰うとする」
豪快な屁理屈を口にする男を、マイクロトフと副長は呆気に取られて見守った。が、今は盗み読みに罪悪感を覚えている場合ではないと思い直して、背を正す。
表書きを完全に取り払ったゲオルグが、本文を開き切るまでの束の間が、期待や不安と相俟って、ひどく長く感じられる二人だった。
───だが。
「……やられた」
ゲオルグはむっつりと唸った。
「ゲオルグ殿?」
「如何なさいました? 文には何と?」
「それがなあ」
じっと紙面を睨み付けたまま、大きな溜め息をつく。
「グリンヒルでルシアと会って、ワイズメル暗殺の日取りをカミューに伝えるよう請われたとき、「亡き父の厚情を忘れていないなら」と念を押された。どうもカミューの奴、おれが復讐に肯定的でないとルシアに零したらしいんだな」
はあ、と困惑げな合の手が入る。
「……それで?」
ゲオルグは、面白くなさそうに顔をしかめながら、はらりと紙面を二人に向けた。
「読めない」
「は?」
そこには一見したところ文字らしきものがぎっしりと並んでいるが、広く使われる公用語とは似ても似つかぬ綴りである。
「グラスランド内でも、基本的には公用語が使われていると認識していたのですが……」
赤騎士団副長が目を凝らして文面を追うが、未知の字体は何ら語り掛けてこようとはしない。ゲオルグがやれやれと首を振った。
「盗み読まれるのは予測の範疇という訳だな」
「……ゲオルグ殿、失礼を」
掠れ声が呟く。
それまで硬直していたマイクロトフが、呼び掛けるなり文を引っ手繰って立ち上がった。ぽかんと見詰める二人に構わず、一気に部屋を横切り、箪笥を開く。
顔を見合わせたゲオルグらが後を追うと、マイクロトフは箪笥の扉の内に付いている鏡に紙面を向け、食い入るようにそれを凝視していた。
「殿下?」
「どうした、皇子」
マイクロトフの頭の左右から鏡を覗き込んだ刹那、二人とも声を失った。鏡の中、さながら落書きのようだった字面が公用語と化していたからである。
「鏡文字、というものです」
興奮したようにマイクロトフは説いた。
「文字を裏返しに書いている。古くよりグラスランドで暗号として利用されていた手法です」
「成程、……だが、それでも意味が通じないぞ」
「何か約束事がある筈です。文字を裏返すのが第一段階、単語を一つずつ飛ばし読んだり、縦に読み進めたり……そうして複雑を増して、一見しただけでは意味が通じないようにするのだ、と───」
マイクロトフは狂おしい思いで上着の胸、隠しの奥深く納めてある紙片を押さえる。
「前に、カミューが教えてくれました」
「カミュー殿が……」
赤騎士団副長が呆然と復唱する傍ら、マイクロトフは拳を握り締めた。
「約束事を踏まえて読めば文章になるのです。見つけてください、一緒に」
「一つ飛ばしに、縦か……駄目だな、どちらも文にならん」
マイクロトフの知識を真っ先に実行したものの、落胆気味にゲオルグが呻く。
「二つ飛ばしも駄目ですね。約束事が多ければ多いほど、解読は難しくなるとカミューも言っていたが……」
密集して頭を付き合わせ、男たちは思案に暮れた。
焦るほどに文字が頭に入ってこなくなる。マイクロトフは苛立ちを必死に堪え、想い人の人生に関わるという文言を読み解こうと息を殺した。
どれほどが経ったか、やがてポツと騎士が呟いた。
「末尾から一単語飛ばしで先頭へ、それから残りの単語を順に末尾へ」
マイクロトフは反射の速さで赤騎士団副長を振り仰ぐ。彼は軽く会釈して、皇子の手から書面を譲り受けた。再確認するように鏡の中の視線が動き、最後に確信をもって二人に向き直った。
「文末から一つ飛ばしで文頭まで戻り、残った単語を逆に文末へと読み進めるのです。一文字のみ記されているのは、ワイズメル、マチルダといった固有名詞の頭文字ですな。鏡に映した状態だけでは意味が取れぬようにとの配慮でしょう」
そして、固有名詞と判断した一文字の部分を二箇所、交互に指す。
「グリンヒルとグラスランド……文字は同じなれど、前後の文脈から区別がつきます」
ひゅっ、とゲオルグが小さく感嘆の口笛を鳴らした。
「たいしたものだ、この短時間で……」
副長は控え目に微笑んだ。
「一時期、暗号解読に凝ったことがありまして……。ルシア殿がカミュー殿を訪ったのは想定外の行動でしょう。まして張り番を待たせた状態で記した文なら、そうそう複雑な約束事は埋め込めない筈です。時間を掛けて書かれたものなら容易ではなかったでしょうが」
得意顔もせずに締めた男を眩しげに見遣り、マイクロトフは請うた。
「読んでくれるか」
「はい、では失礼して───」
赤騎士団副長は、ゆっくりと、自身も確認しながらといった様相で口を開いた。ひどく重い、厳かな声音であった。
グリンヒルにて知り得た事実を、急ぎ伝える。
ワイズメルがグラスランド支配を目してのマチルダ騎士団長との共謀を吐いた。血気に逸った戦士が、薬の処方者を始末してしまったため物証はないが、ワイズメルは五年前、同じ毒物をマチルダに送っている。真なる敵を慎重に見極めよ。
それは、張り詰めていた何かが切れ、零れ落ちる感覚に似ていた。
マイクロトフは呆然と、夢見るように呻く。
「───繋がったのか」
震える手を伸ばして副長から書面を受け取り、不可思議な線の羅列を凝視して。
血が下がるようだった。ふらりと足をよろめかせ、箪笥の扉に凭れ掛かる。
「やはりゴルドーとワイズメルが父上を殺したのか……」
覚悟はしていたが、衝撃は小さくなかった。
ひっそりと忍び寄った悪意に呑み込まれた父王。高潔であるが故に、血の繋がりこそなくても親族として手厚く遇してきたゴルドーを、微塵も疑わなかったのだろう。
隣国主として円満に付き合ってきたワイズメルから贈られた酒に潜んだ毒も、何ひとつ疑わず干したのだろう。
清く在った、信じた───そのために命を縮めた。
けれど父は、どのような危険に瀕しても生き方を違えようとはしなかった筈だ。悪意を恐れて神経を尖らせ、周囲を疑って掛かるような生き方を望まなかった。マイクロトフも同様の価値観を持つだけに、裏切りへの失意と憤怒は底知れない。
一方で、希望の兆しも垣間見えた。
「ゴルドーに命じられた騎士がカミューの村を焼いた……仮定ではなくなったのか、これで……」
独言のように呟き、眉を寄せたままの赤騎士団副長に向けてマイクロトフは性急に叫んだ。
「父上は暗殺された、グラスランド侵攻とは無縁だったと、ルシア殿は伝えてくれたのだ。これで誤解だと分かってくれる筈だ、カミューを探す!」
しかし、騎士ばかりかゲオルグの表情も硬い。短い逡巡の後、彼は言った。
「皇子……これではまだ、単なる仮定だったものが真実の様相を見せてきただけに過ぎんぞ」
え、と瞬くマイクロトフに、副長が諭すように続ける。
「ワイズメルとゴルドーによる陛下謀殺は限りなく現実味を帯びてきました。両者の思惑がグラスランドにあると知らぬカミュー殿には、この文は、新たな可能性を開く扉にもなりましょう。けれど、そこ止まりです。陛下が侵攻を「命じられなかった」証にはなりませぬ」
高揚が、ぽっかりと霧散するようだ。騎士が読み上げたルシアの言葉を反芻するように書面を睨み、マイクロトフは項垂れた。
「……確かにそうだ」
「それにな、皇子。探したところで、あいつはおとなしく連れ戻されるタマじゃない。騎士との間に斬り合いでも起きてみろ、おまえさんたちの将来の展望に支障を来すぞ」
将来の展望───カミューを騎士団に迎え入れる。
そのためには、彼がマチルダへ来た真の目的を可能な限り周囲に伏せ、彼自身の意思で戻ってきて貰うほかない。
何も知らぬ騎士は傷つけない、それがカミューの意向だった。だが、追い詰められれば剣を抜くかもしれない。急いて万が一にも両者が傷つけ合うような事態があってはならないのである。
「その通りです。おれは、何を先走って……」
マイクロトフは箪笥の扉に拳を打ち付けて喘いだ。
「……気持ちは分かるが、ここで焦っても今更だ。どっしり腰を据えて、一つずつ対処していこうじゃないか」
温かな声音でゲオルグが慰撫すれば、赤騎士団副長も穏やかな眼差しで同意した。
「カラヤ族長殿のこの書簡、我らにとっても実にありがたい情報です。これまでとは少し異なる見方が生じますゆえ」
ちらと騎士を見遣ったゲオルグが、不敵に笑んでマイクロトフに片目を瞑る。
「おまえさんの先走りが仲間の奮起を煽り、一方で慎重に磨きを掛けるようだぞ。なかなかの相乗効果じゃないか、そう落ち込むな」
はあ、とマイクロトフは苦笑した。危なっかしい人間の周囲に面倒見の良い賢人が集う、そんな図式が過るようだった。
「これまでと違う見方というのは?」
問われた副長が意を述べ始める。
「先ずは酒が贈られた時期です。文によれば、五年前とありますが……陛下が召されたのは四年前、これまでは「贈られたばかりの品」という暗黙の認識がありました。酒の出所を探るためにグリンヒルに送った騎士たちも、その時期に絞って調べておりますゆえ、この一年の差は大きい」
「ゴルドーとワイズメルは少なくとも五年前には手を組んでいたという訳だな。偽の命令書でグラスランドに騎士を送った……侵攻路の確保に成功した場合、あるいは計画が発覚した際に父上を殺すため、前もって毒物を用意していたのか」
「おそらくは。何らかの騒ぎが起きている状況下では、たとえ陛下が望まれなくても、周囲が警戒するでしょう。検品の網を掻い潜るなら、事を起こす前……白騎士団副長だったゴルドーの立場なら、いざ使う段になったときにグリンヒルから使者が訪れたように装うことも出来ましょうから」
明快な答えに頷き、それからマイクロトフは眉を寄せる。
「一つ不可解な点がある。ルシア殿は「同じ毒物」と書いていたな、族長殿に使った毒と同じ、という意味だろうが……確か族長殿は国許に戻ってから亡くなられたのではなかったか? 遅効性、……と言ったか、効き目の表れ方が父上のときとは違うと思うのだが」
はい、と副長は真剣な顔で返した。
「仰せの件も、新たな視点となります。証人となる薬の処方者が始末されてしまったというのは痛いのですが……同一の毒物という前提で考えるなら、然程不思議とも言えません。投与量の違いでしょう。カラヤ族長殿はグリンヒル滞在中に小分けにした毒を飲まされた。陛下は致死量の毒入りワインを一度に飲まれたゆえ、症状が出方が異なったのです」
そこでゲオルグが難しい顔で腕を組んだ。
「しかしな、一度に症状が出ない程度の毒を毎日飲まされていたら、身体に耐性が出来るんじゃないか?」
「耐性が生じるには相応の日数を要すもの……、それに、中には体外に排出されずに留まる薬物があるのです。そうした毒物を使用すれば、投与した量が致死量に至った時点で目的は果たせます」
ゲオルグのみならずマイクロトフも呆然とする。副長の知識に感心したのも無論だが、それにも況して忌まわしい疑念が浮かんだからだ。
「侍医長は……毒殺ではないと結論を下した。見落としたからなのか? それとも、まさか───」
城に仕える医師たちの長。経験と権威の頂点にあった人物の意見は絶対だった。侍医長が保証したから疑惑は消えた、そう言っても過言ではない。
人である以上、どんなに優れていても過ちはある。けれど、国王の死という大事の前に、軽はずみな決断を下すとは思えない。執拗なまでの吟味を重ねずにはいられない筈だ。
マイクロトフの震える疑問に、副長は淡々と答えた。
「蓄積型の毒物には幾つか心当たりがございますが……いずれを使った場合の症状であっても、侍医長が気付かぬとは思えませぬ」
「で、では……嘘の証言だったと?」
───酷すぎる。
酒を飲んだ翌朝、普段と異なる体調に気付いた父は、呼ばれた侍医らに完全に身を委ね切っていただろう。刻々と削られていく命の灯を、彼らの医術が取り止めてくれると信じていた筈だ。真実が闇に葬られようとしているとは思いもせずに。
「侍医長までもがゴルドーに加担していたというのか!」
悲痛な叫びを、静かな声が塞き止める。
「殿下、どうか御気を鎮められますように。必ずしも加担していたとは限りませぬ」
「そうだな」
ゲオルグが重く同意した。
「脅されて、やむなく……という可能性もない訳じゃない」
「わたしもそのように考えます。長年実直に皇王家に仕えてきた人物ですゆえ、そう考えたいというのが本当のところですが」
「確かめるしかないな。そいつとはすぐに会えるのか?」
副長は顔を曇らせた。
「今は職務を辞して城を去っています。自宅は……確か、街道の村だったと記憶しておりますが」
それを聞いたマイクロトフは、抑え難い衝動に駆られて騎士に詰め寄った。
「明日にでも訪ねてみる、自宅の場所を詳しく調べておいて貰えるか」
「待て、皇子。明日は謁見に即位式の最終打ち合わせだろう?」
「その後で行きます。日が経つほどに、おれはロックアックスから出るのが難しくなる。今しかない!」
ゲオルグは思案しながら騎士へと視線を送った。
今しかない───それは事実だろう。
が、遅かった感が強い。完全な共謀者ならともかく、脅して偽証させた相手ならば、生かしておくほど敵も甘くはないだろう。侍医長が、殺された細工職人と同じ末路を辿ったと確認するだけの訪問になるかもしれない。
だが、その必死な顔を見て、これは皇子にとってどうあっても必要な行動なのだと二人は考えた。赤騎士団副長が丁寧に一礼する。
「殿下が謁見に臨んでおられる間に確認しておきましょう」
どうやらマチルダ先代皇王の死については全貌が見えてきた。物証こそ掴めていないが、もはや毒殺は確実と言っても良いだろう。
けれど、カミューとの間にある壁は立ちはだかったままだ。ゴルドーが陛下の名を騙って侵攻を進めたと、どう立証すれば良いのか。
難問を抱えたまま、三者は椅子に戻って仕切り直しに入った。
ふと、ゲオルグが顔を上げる。
「待てよ。一つ、取っ掛かりがあるかもしれない」
「……と言われますと?」
「ワイズメルの娘だ」
浮かんだ考えを\めるように間を置いて、彼は説き始めた。
「ルシアはカミューと同じように、父を奪ったグリンヒル公主の血を根絶やしにすると誓いを立てていた。だが、結局は公女を殺さなかった」
そう言えば、とマイクロトフは騎士からの報告を思い返した。知らせを受けた兵が駆け付ける前に襲撃者は去った。テレーズは何ら害を与えられぬまま取り残されたのだ。
「それは、シン殿が居たからでは……」
マイクロトフの呟きに、ゲオルグは眉根を寄せた。
「誰だ?」
「テレーズ殿の護衛です。異国の剣士で、それは腕が立つと聞きました。ワイズメルは救えなかったが、テレーズ殿のことは護り抜いたのではないでしょうか」
しかし、男は首を振る。
「違うな、邪魔が入って目的を遂げられなかった訳じゃない。もしそうなら、次の策を練る段階にいる筈であって、一人マチルダにまで足を延ばして来るとは思えん。ルシアの中で、何らかの解決を見たんだ。公女を生かしておこうと思えるだけの、な」
「解決───」
「それはさて置き、重要なのは、公女が生き残ったという事実だ。手紙には「ワイズメルがゴルドーとの共謀を吐いた」とあったな。公女は遣り取りの一部始終を見ていたかもしれない」
はっと瞬いてマイクロトフは乗り出した。
「で、では……?」
「そうだ、生き証人だ。公の場で公女に証言させ、それに基づいてゴルドーを糾弾する。もっとも、何処まで吐かせられるかは賭けだが」
過った期待は、萎むのも速かった。それはつまり、父の死に様を目の当たりにしたテレーズに追い討ちを掛けるに等しい。満座の中で、父の非道を認めねばならないのだから。
「ゲオルグ殿……ただでさえ痛手を受けているテレーズ殿に証言を強いるなど、とても出来ません」
ふむ、と剣士は考える。
「ならば、一先ず遣り取りの詳細を聞き出すだけでも良い。ルシアの手紙では語られなかった新事実があるかもしれないからな。いいか、これは決して残酷な仕打ちではないぞ。おまえさんには知る権利が、公女には語る義務があるのだから」
それでも煮え切らぬ皇子の背を押すように、赤騎士団副長が柔らかく続けた。
「殿下……、フリード殿がグリンヒルに赴いているのは幸いです。彼ならば、テレーズ公女を慮りつつ、目的を遂げてくれるでしょう」
「フリードもおれと同じだ、テレーズ殿を追求できるとは思えない」
「しかしながら、一つだけ違う点がございます。殿下の御為───その一念がフリード殿の力となる。つらい役目であろうと、彼は果たそうと努めるでしょう」
選択を迫られたマイクロトフは唇を噛んだ。
あの誠実な従者なら、赤騎士団副長が説くように、不用意にテレーズを追い詰めたりはしないだろう。彼女が話す気になるまで、ゆっくりと──あまり時間はないが──辛抱強く説得を重ねる筈だ。
ただ、そうした役割がどんなにフリード・Yの胸を苛むかも想像出来る。気持ちは重かったが、他に打つ手がないのも事実だった。
やがてマイクロトフは瞑目した。
「……フリードとの連絡はどう取る?」
言外の了承を受けて、赤騎士団副長は無意識の緊張を解いた。すかさず席を立って廊下へと続く扉を開け、張り番の騎士を呼ぶ。二言、三言と言葉を掛けると、椅子に戻ってにっこりした。
「伝令役を残しておいて正解でしたな、これほど早く使うことになるとは思いませんでしたが」
ああ、とゲオルグが目を細める。
「あの若い騎士か」
「大丈夫なのか? 魔物討伐から帰ってすぐに、おれたちの査察と時を合わせてミューズにも行っただろう。体力的に無理を求めていないか?」
心から案じたマイクロトフだが、赤騎士団の指揮官は明るく笑った。
「御心配には及びませぬ。若くして筆頭部隊に配置されているには、それなりの理由がございますゆえ。やたらと壮健、剣技にも優れ、根性と運の強さは人一倍……赤騎士団の位階者すべてが、あの者には目を掛けております」
さながら我が子を誇るかのような口調だ。温かな響きに微笑んで、マイクロトフは頷いた。
「そうか、運の強さか。それは重要だ」
若者がカミューの復讐現場を目撃したのは偶然だった。
あの偶然がなければ、長く闇に伏せられていた真実を取り戻す機は得られなかったのだ。それも一つの運──ゴルドーには不運だろうが──だったに違いない。
ともあれ、騎士団の厳しい訓練に磨かれた人間を年齢で量ることは出来ないのだと考え、マイクロトフは懸念を捨てた。
「ただ、今現在、戻っておりますかどうか……。長兄殿に例の話をさせるため、自宅へ引き取らせていたので……」
「ああ、政策議員の兄上か」
実兄に、ゴルドーに肩入れする議員の抑制となるよう依頼する。それが若者に課せられた現在のつとめである。
相手も多忙な人物なので、未だ顔を合わせられずに自宅に待機したままかもしれない───そんな懸念もあったのだが、幸いにも少しして赤騎士は姿を見せた。慌てて騎士団服を引っ掛けてきた、といった様相であった。
「お呼びですか、副長」
それから自身の乱れ果てた服装を眺め下ろして頭を下げる。
「……すみません、今さっき戻ってきたばかりだったので」
「気にするな、座ってくれ」
マイクロトフが空いた椅子をポンと叩くと、はにかんだ笑みを浮かべて若者は横に並んで腰を落とした。
「ええと……報告ですね? 首尾良く果たせたと思います。議会のゴルドー追従傾向には辟易してたみたいで、それはもう鼻息荒く「任せろ」とか言ってました。それから、殿下に伝言です。「御意向には誠心をもって従わせていただきます」───これは皇王制廃止の件ですね」
「ありがたいことだ」
若い部下が無事に懸案を片付けてきたのを聞き届けた後、赤騎士団副長は背を正した。
「おまえを呼んだのは他でもない、これより直ちにグリンヒルに赴いて貰いたいのだ」
戻ったばかりなのに、といった不満をちらつかせるどころか、若者は顔を輝かせた。あまりの喜びように、ゲオルグが苦笑する。
「事は急くぞ。夜通し馬を走らせることになるだろうに、それがそんなに嬉しいのか?」
若者は肩を竦めた。
「勿論です。うちの小隊の中でおれ一人、怪我人でもないのに置いていかれて……他の小隊の騎士から「何ぞヘマでもやらかしたのか」なんて言われているんです。といって本当のことは話せないし……あの鬱陶しさから逃れられるなら、徹夜のつとめだって歓迎しますよ」
堪らずマイクロトフは吹き出した。見栄っ張りなのか豪気なのか分からない若者だ。その率直な言い様は、ついつい沈みがちになる心地を抱くマイクロトフにとって、非常に好ましいものだった。
くつくつと笑っている皇子を怪訝そうに一瞥してから、騎士は上官に向き直る。
「伝令ですね? 何を伝えれば良いんですか?」
「先ず……、ワイズメルが陛下に酒を贈ったのは五年前だったのだ」
「五年? 四年前ではなくて?」
うむ、と赤騎士団副長は眉を寄せた。
「詳しく説明してやりたいが、何かと込み入っていて、時が許さぬ。ともあれ、言った通りに伝えるように」
「分かりました」
素直に首肯して続きを待つ。
「ごく最近……おそらく公都内と思われるが、薬物を扱う人間が死んでいる。医術に携わるものか、薬草類の商い人か、詳細は不明だ。だが、その人物が処方した薬によって陛下が亡くなられた可能性が高い」
「本当ですか?」
いったい何処からそんな情報が、と言いたげに若者が目を丸くする。副長は淡々と続けた。
「薬を処方した人物、酒を用意した人物。両者を割り出し、繋がりを立証するだけの物証が掴めれば最善───ここまで記憶したな?」
さながら咀嚼物を飲み込む顔つきで騎士は頷く。
「次だ。フリード殿に以下の通り伝えよ。ワイズメル公暗殺時に、公とカラヤ族との間に交わされた遣り取りをテレーズ公女殿より聞き出すこと」
「それは…………いえ、何でもありません」
先程マイクロトフが過らせた感情が、若者の顔にも昇っていた。賢明にもそれを抑え込んで、彼は指示の先を待った。
「以上、伝える報は二つだ。フリード殿がつとめを果たし終えたら、おまえは彼を護って共に戻って来るが良い。長引くようなら……どうしたものかな」
「隊長の指示に従いますか?」
「そうだな、任せよう。良いか、公女殿の情報はすべての鍵を握る。フリード殿には、何としても果たして貰わねばならぬ」
「でも、副長」
若者は考え込みつつ控え目に返した。
「もし、テレーズ公女が何も聞いていなかったら、そのときはどうすれば? 知らないものは聞き出せません」
「それはない」
黙していたゲオルグが低い声で割り込んだ。
「公女とカラヤ族の間には会話があった、……絶対に」
───でなければ、ルシアが志を翻す筈がない。
確信に満ちた声が若い騎士を納得へと促した。軽く会釈する横顔に、マイクロトフがふと問い掛ける。
「グリンヒルにはどれくらいで着く?」
「そうですね……、これから急いで準備をして出て、頑張れば、明日の夜中には何とか……」
凄いな、と知らず感嘆が洩れる。
更に赤騎士団副長が言い添えた。
「執務室に寄って、わたしの机の引き出しから魔法札を幾つか持って行くが良い。グリンヒルへの抜け道には魔物が多い。剣で逐一相手をしていては悪戯に時を要してしまう。必要とあらば攻撃魔法で一掃して、前進第一を心掛けよ」
「分かりました」
マイクロトフが再び問うた。
「隊長殿とはすぐに会えるだろうか?」
「大丈夫だと思います。そこそこの人数が公都入りしているし、その中の一人でも見つけられれば、逗留先を教えて貰えますから」
「頼んだぞ」
マイクロトフは若者の肩に手を乗せ、祈るように力を込めた。信頼の重さに打たれた面持ちで、騎士もまた、皇子を凝視した。
「フリードに会ったら伝えてくれ。つらい役目だとは思うが、おれの代わりにつとめて欲しい、と。それから……何があっても、おれのテレーズ殿への親愛は変わらない、それを忘れないでくれ、と」
「殿下……」
溢れるような切実が、強い語気を通して若者へと流れ込む。幾度か瞬いた後、彼はにっこりと微笑んだ。
「必ず伝えます、殿下。剣と、騎士の誇りに懸けて」
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