静かな夜更けであった。
夜を徹して城壁の内外に篝火を絶やさぬロックアックス城は、夜陰の中にぽっかりと浮かび上がる幻のように映る。
城下からの一本路の最奥に鎮座する巨城。白亜の石壁が炎に照らされて薄紅に染まる姿は、遠目にも美しく、畏敬を掻き立てる居住まいだ。
城には幾つかの門があり、出入りする人物の身上や目的によって使い分けられている。城下から城を目指した場合、先ずは正門へと辿り着き、ここで査証を受けて各門へと誘導されるのである。
本日、正門の張り番に当てられているのは赤騎士団員だ。広い門の左右に立つ二人の若い騎士は、自身らの担当時間が無事に過ぎ行く幸運を噛み締めながら、程なく訪れる交替時間を待っていた。
実に波乱の一日だった。
早朝からの急使の到来。乗ってきた馬は、城門先で泡を吹いて息絶えた。満足に声も出ない疲れ切った様相の使者を見て、只事ならぬと門番らも構えたが、それが間もなく皇太子の舅となる筈だった隣国主死亡の知らせとは、予想を越えた事件である。
城はたちまち騒然とし、宰相や議員、騎士団位階者らが走り回る姿が見られるようになった。喧騒の中、下位の騎士たちは黙々と己の責務を果たそうと努めるしかなかった。
このところ、月決めの予定表がまるで役に立たない。任務の変更・配置の移動は茶飯事で、朝に昼にと各所属ごとに確認作業が行われる。
割り振りを行っているのは、騎士団副長たちだが、これがまったくもって煩雑な作業なのは下位騎士にも察せられた。
赤騎士団では、グリンヒルで行われる公主の葬儀に参列する宰相に同行するよう、第八部隊の小隊が任ぜられた。現在、城門番を勤めているのは、この穴を埋めるため第十部隊から借り出された騎士で、謂わば臨時の代行だ。
門脇に立つ二人は、つい先ほど城下へと向かう複数の仲間を見送ったばかりである。彼らは私服姿で、街の食堂や酒場に潜入し、揉め事が起きぬよう目を光らせるつとめを課せられている。量は制限されているらしいが、公費で酒を飲めるという恩恵つきの任務だ。
どうせ割り当てられるなら、そちらが良かった───若い赤騎士たちは仄かな羨望を覚えつつ、ともあれ、担当時間が問題なく終わろうとしている事実に満足しようと考えていたのだが。
彼らはふと、一本路の先に忽然と現れた影に気付いた。
知らず身を固くしたのは、深夜の訪問者が見慣れぬ獣に騎乗していたからだ。どちらかと言えば華奢な、馬よりも小柄な獣からひらりと降りた人物が、ゆっくりと歩み寄ってくる。
門脇の篝火に映された相手を見るなり、騎士らは緊張を礼節へと変えた。たっぷりとしたフードを目深に被り、顔半分を隠していたが、それは若い娘だったのだ。
「如何なさいましたか?」
一人が進み出て、穏やかに問い掛ける。
「入城許可証か、どなたかの紹介状をお持ちでしょうか」
すると娘は無言のまま小さく首を振った。もう一人も門脇から歩を踏み出して仲間に並んだ。
「既に一般査証の時間は終了しております。緊急と認められれば取次ぎも可能ですが……そうでなければ、査証受付が行われている時間帯に出直していただく決まりなのです」
そうか、と娘は呟いた。足元に視線を落としたままの姿を見て、騎士たちは顔を見合わせた。こんな時間に、単騎で城を目指した胸中を思うと、無下に追い返すのも躊躇われる。それが騎士の教えであり、礼節であった。
「宜しければ、一応お話を伺いますが?」
事と次第によっては上官の意を仰いでみよう、そんなふうに考えながら一人が問うた。娘は相変わらず俯いたまま、小声で切り出した。
「人を捜している」
あまりに端的な答えに戸惑い、騎士は瞬く。
「あのう……もう少し詳しく……」
「ロックアックス内で、ですか? 名前や年齢、特徴は? 貴女との御関係、それから……どういった理由で捜しておられるのか。日中の査証でも、それは確認されますよ」
娘はゆっくりと、考え考えといった様子で続けた。
「名は……今は何と名乗っているか分からない。歳は、確か二十歳にはなっていなかったと思う。特徴は───これといった特徴は思いつかない。友人だ、伝えたいことがあって捜している」
騎士たちは娘に分からぬように嘆息した。
これではとても「緊急」の域を満たさない。相手の男が親兄弟で、例えば自殺の恐れでもあるというなら、あるいは上官の心も動くかもしれなかったが。
第一、情報が曖昧すぎる。名が明かされず、特徴もない、では捜しようがない。
「困ったな……、もう少し確実な手掛かりがないと、昼に出直していただいても無駄足になってしまう可能性が高いですよ」
すると娘は唇を噛んだ。そうか、と今一度呟き、軽く頭を下げる。
「手間を取らせた。他の方法を考える」
そのまま踵を返すのを見た騎士たちは、またしても顔を見合わせた。獣の手綱に手を掛けようとしている娘に、一人が真摯に呼び掛ける。
「せめてもう少し具体的な情報があれば……。お力になれず、申し訳ない。遠くからいらしていただいたのでしょうに」
細身の身体がぴたりと動きを止めた。フードで半ば隠れた顔だけを向け、探るような声が問う。
「何故……遠くから来た、と?」
それは、と騎士は生真面目に返した。
「その騎獣、グラスランド産の馬でしょう? 地名か何かが付いた名だったと……駄目だ、喉元まで出ているのに思い出せない。岩場などでも楽々と駆ける、たいそう身軽な馬なのですよね」
「……詳しいな」
密やかな驚きの響きを認め、照れたように若い顔が綻ぶ。
「最近、グラスランド御出身の方と知り合いまして、俄然、かの地に興味が沸いてしまって……。と言っても、まだ学び始めたばかりなのですが」
即座に片割れが肘鉄を見舞う。
「おい、「知り合った」とはおこがましいぞ」
「いいじゃないか、それくらい」
娘は再び考え込み、改めて男たちに向き直った。
「騎士団にもグラスランド出の人間がいるのか?」
小声で言い争っていた二人は、慌てて背を正す。
「我がマチルダ騎士団では出自は問われませんが、彼の地の生まれという騎士は、残念ながら……。お互い未知の国、未知の領域ですから、仕方がないのかもしれませんが」
グラスランドの民にすれば、マチルダは、過去に攻め入った経緯のあるティントやサウスウィンドウの友好国だ。これまで何の接触もなかったものの、「仮想敵国」程度には思われているだろう。そんな背景を踏まえながら一人が言えば、最初の騎士がにっこりした。
「だからこそ、知りたいと考えました。とても興味深い土地柄ですね、貴女が本当にグラスランドの方なら、ゆっくりお話を伺いたいくらいです」
騎士の言葉に娘はうっすらと苦笑を浮かべたようだった。
「山岳を越えれば、我らを蛮族と蔑む声ばかり聞こえるだろうと思っていたが……少し意外だ。その、意識改革に一役買ったという人物は何処の部族出身だ?」
騎士たちは首を捻る。
「そこまでは……。グラスランドには名のある部族の他にも無数の小村が点在していると聞きますし……」
「もともと、御出自も本人から直接お聞きした訳じゃないしなあ。殿下やフリード殿なら御存知かもしれないけれど」
口調を崩した独言気味の呟きを聞いた娘は身を強張らせた。一歩踏み出し、低く押し殺した声で迫る。
「そのグラスランド人に会わせて欲しい」
え、と二人は瞬いた。
「ああ───残念ですが、それは叶いません。カミュー殿は今、御不在なのです」
「カミュー?」
今度こそ娘は息を飲み、さながら掴み掛かる勢いで、答えた騎士に詰め寄った。
「カミューだと?」
「えっ、もしや貴女の捜している人物って……」
唖然とした後、騎士らは破顔した。灯台元暗しとはこのことだ。
「カミュー殿だったのですか。何だ、名前を言ってくだされば宜しかったのに」
「そうですよ、「これといった特徴がない」なんて仰るし……」
フードから僅かに覗いた瞳が困惑気に瞬く。
「いや……、別名を名乗っているかと思ったから……」
成程と二人は思った。釈然としないものは残らないでもないが、「傭兵」の仕事とはそうしたものなのかもしれない。
「薄い栗色の髪と蜜色の瞳の男だ、間違いないか?」
「ええ、間違いないでしょう。少しお待ちください、殿下に言上して来ます。すぐに入城の許可が下りると思いますよ」
刹那、娘は歩き出そうとする騎士の腕を掴んだ。
「ま、待て。城に入るような身ではない」
「遠慮なさる必要はありません。カミュー殿の御友人なら、殿下も喜んでお迎えになるでしょうから」
異邦の民は、次第に困惑を深め、そろそろと手を外しながら小さく問うた。
「カミューは何処へ行った?」
「近隣の村へ向かわれたらしいです。我々も詳しくは聞かされていないのですが」
「とにかく、お待ちを。すぐに戻ります。何でしたら、お掛けになっていてください」
門を入ったところに小さな建物がある。査証に時間が掛かったとき、あるいは問題が生じた際などに訪問者を留め置くための設備だ。実用第一の質素な設えだが、ともあれ机と椅子がある。
相手がカミューの縁者と知り、これまで以上の奉仕精神がはたらき出した騎士たちだったが、娘は頑に首を振り続けた。
「本当に遠慮なさらずとも良いのですよ。今はカミュー殿の師匠殿も滞在なさっているくらいですから」
心を和らげようとした一言は、新たな衝撃をもたらしたようだ。娘はぽかんと唇を開き、掠れた声で呟いた。
「ゲオルグ・プライムもここに居るのか?」
ああ、と騎士は微笑む。これで真実、彼女がカミューの知己であると確定した。剣の師の名まで知っている人物が、相手を取り違えていることはあるまい。
「ゲオルグ殿も御存知でしたか。ええ、カミュー殿と入れ替わりに訪ねて来られたのですよ。一緒にお帰りを待たれては如何かと、殿下は仰るに違いありません」
娘は深々と考えに沈んだ。思案を邪魔せぬようにと男たちは黙して待つ。やがて彼女はフードをずらして、真っ直ぐに騎士たちへと瞳を当てた。
「……ゲオルグ・プライムに文を預けたい。何か書くものを貸して貰えないか」
「あ、でしたらこちらへ───」
片割れに張り番のつとめを委ね、一人が娘を門内の建物へと導いた。小さな机の上には、一応の筆記用具の備えがある。粗末な椅子に腰を下ろす娘の背後、騎士は尚も言い募った。
「あのう……殿下にお伺いすれば、カミュー殿がどの村へいらしたかも分かると思いますが……?」
「文を預けて貰えば充分だ。それより……悪いが、一人にして欲しい」
間近で見守られていては気も散じるだろう。騎士は了承し、建物を出た。
不思議な娘だ。皇子に話を通した方が、カミューに会うには余程早道だろうに。
あれほど固辞するのは、やはりグラスランドの民ゆえの感情というものなのだろうか。マチルダの皇子は、これまで騎士たちが思っていた以上に気さくな人柄だったが、彼女にしてみれば、借りを作りたくない相手なのかもしれない。
騎士は建物を背にして、遥かな山岳を挟んだ草原の地に思いを馳せた。
カミューという青年を育んだ地。穏やかで賢しく、優れた剣技を自在に操る秀麗な傭兵。騎士自身は、遠目に幾度か見掛けただけだが、耳に届く噂だけでも青年が稀なる人物なのは疑いようがない。
彼も以前はグラスランドを蔑視していた。無論、訓戒で他国に差別意識を抱くのは禁じられていたし、表には出さなかったけれど、彼の地を未開で野蛮な領域と捉える意識は確実にあったのだ。
それが一変した。たった一人の青年を知っただけで、新たな目が開いた。
知らないから恐れる。知ろうとしない愚が騙りをも生む。一切の先入観を捨て、真っ直ぐな心で見詰めれば、そこにはまったく別の世界が広がっているのに。
グラスランドから訪れた──らしい──娘。ならば、誠実を尽くさずにはいられない。これまで彼の地を貶めて考えてきたことへの償いであり、これから在るべき自身への第一歩だったから。
まして彼女がカミューの知己となれば尚更だ。ごく僅かずつでも、歴史の事情が作り上げてきた蟠りが溶けていけば良い、騎士は心からそう思った。
暫くして、ひっそりと建物の扉が開いた。滑るように歩み寄った娘が文を差し出す。
「皇子はカミューの居所を知っているのだな? ならば……急ぎ呼び戻して、この文をゲオルグ・プライムからカミューに渡すように伝えてくれ」
今までになく固い、強い調子だった。騎士は困惑して眉を寄せた。
「呼び戻す……? それほど重要な伝言なのですか?」
「そうだ」
娘は俯き、聞き取り難い声音で続ける。
「事によっては、あいつの人生そのものに関わるかもしれない。だからわたしは来た。長くデュナンの地に留まるつもりなどなかったのに」
───カミューの人生。語られた一節に息を詰める騎士の目前で、彼女はゆっくりとフードをたくし上げた。薄い色合いの金髪と、褐色の肌。異邦に生きるものとしての姿を余さず晒した娘に、柔らかな笑みが浮かんでいく。
「……来て良かった。この地の民が、思っていたような人間ばかりでないと分かったから」
不可解が募る中、騎士ははっと背を正した。
「失念していました。どなたからの文とお伝えすれば?」
名を問われた娘は、韜晦するように呟いた。
「キアヌの娘───それであの男には分かる。カミューに会えたら伝えて欲しい、……幸運を祈っている、と」
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