最後の王・78


それは見覚えのない天井。
懐かしき村の、木目を数えながら眠ったそれでなく、傭兵として各地を回ったときに利用した宿屋の有り触れた設えでも───まして、石造りの重みの中に品格を感じさせる巨城の天井でもない。
気付けば、何とも心地好い香りが漂っている。思うに任せぬ半身を傾けて芳香のありかを探ってみると、視線の先に鎮座する小棚の上を、細い煙がたゆたっていた。どうやら香か何かが焚かれているらしい。
窓の外は黒味がかった紅で燃えている。日暮れ時のようだが、「いつの」であるかが分からない。
それから改めて自身の現状に意識を戻した。
四肢がひどく怠い。まるで己の身体でないかのようだ。重い手を叱咤して首筋に触れてみると、しかし脈動は比較的安定していた。
今度も成功したらしい。安堵の息が洩れた。
何とか抑え抜いた。意志を振り切って猛威を震おうと咆哮する獣を、身のうちに押し止めることが出来た。「烈火」は宿主の祈りに屈し、束縛に甘んじてくれたようだ。
それにしても、と室内を見回す。
ここはいったい何処だろう。宿屋に転がり込んだ記憶はなかった。
追跡を逃れようと試みるうちに魔性が台頭した。その力は甚大で、高熱が五体を支配し、終には足を止めるに至った。
けれど、覚えているのはそこまでだ。意識すら覚束ぬようになり、火魔法を抑え込もうと苦闘するさなかで、ふっつりと途切れている。
窓辺に立って所在を確かめたかったが、どうにも身体が言うことを聞かなかった。今回の発熱は、体力を根こそぎ奪ったらしい。それも道理だ。心の揺らぎは未だかつてないほど大きく、宿主を案じる「烈火」が──迷惑にも──解放寸前まで浮かび上がってきていたのだから。
ひっそりとした溜め息をついて考え込む。
それでも、目指した方角は間違っていなかった筈だ。
身を潜めるなら、人の出入りが頻繁で、国や騎士団の動向に関心が薄い地───昼の間は息を潜め、闇とともに動き出す、そんな歓楽街こそが望ましかった。
切なる希望だけは果たせたらしい。でなければ、街中の何処に転がっていても、騎士に拘束されていただろう。見張りもなく、こうして放置されている訳がない。
脳裏を過り掛けた顔を、努めて払い除けた。
今は何も考えたくない。
裏切りを知り、痛々しいほど表情を歪めながら、それでも手を差し出そうとした男。必死の懇願、縋るような声音。今にも跪きそうな様相で、あまりにも無防備に変心を訴えてきたマチルダ皇王家最後の一人。
あの一瞬、勝敗は決した。やり遂げられなかった、それがすべてだ。
向けられた情愛に負けた───自らの血肉に溶け込んだ筈だった憎悪は、しかし放たれることなく内へと向かった。
何のために生き延びた、こうしておめおめと逃げ落ちて。
あの男の命を取れば、それで何もかも終わったのに。
荒れた地に眠る、今は亡き「家族」らに、責務は果たしたと告げられたものを。
護れず、報復さえ叶わぬなら、この命に何の意味があるだろう。己の不甲斐なさから目を背けたい一心で顔を覆おうとした。相変わらず重い腕に辟易しつつ、刹那、重大な事実に気付いて息を詰める。
狂乱に陥り掛けて半身を浮かせ、寝台から転げ出ようとしたのと、部屋の扉が開くのは殆ど同時だった。扉から姿を覗かせた女と目が合い、口を開こうとしたが、彼女の方が速かった。
「姐貴! 来てくれ、目を覚ましたよ、姐貴ってば!」
廊下の先へと声を張った女が、ずんずんと歩み寄る。迫り来る肉感的な肢体から、肘でいざって僅かに身を退くなり、警戒も露わに鋭く問うた。
「ユーライアは?」
「は?」
「剣は……わたしの剣は!」
すると女が目を剥いた。それまでの表情とは一変した険しさが浮かんでくる。寝台脇に仁王立ちになり、ピシリと人差し指を突き付けながら女は言った。
「開口一番がそれかい、色男。もっと他に言うことはないのかよ?」
あまりの剣幕に、束の間、声を失う。女はなおも厳しく言い募った。
「こういうのを「助け甲斐がない」って言うんだな。別に見返りなんぞ求めちゃいないが、義理を欠くのは許さないぜ!」 
ひとしきりの叱責を浴びせた後、女は彼を睨み付けたまま小さく言った。
「……剣はそこだよ、ベッドの頭の上の棚」
慌てて身を捩って見上げると、彼女の言う通り、壁に据え付けの棚に愛剣が横たわっている。
そこで、二人目の人物が戸口にひょいと姿を現した。艶やかな黒髪を結い上げ、落ち着いた緋のドレスと同じ色で唇を染めた女。最初の訪問者よりも年嵩らしい彼女は、寝台の青年が棚を気にしているのを見取ると、すっと歩み寄って剣を取り、手元へと差し出した。それから向き直り、片割れに窘め口調で言う。
「何を大声出してるんだい、ロウエン。病人に障るじゃないか」
「だってさあ、姐貴……」
ロウエンと呼ばれた女が唇を尖らせる傍ら、消え入るような声が洩れた。
「……すみません」
かろうじて起こした半身を丸めて細身の剣を抱き込んだ彼を見るなり、ロウエンが渋い顔になる。言い過ぎたか、と自責を覚えてしまうほど、その姿は脆く、頼りなげに映ったのだ。
頬の両脇に長く垂らした房髪を弄びながら彼女は言った。
「まあ……、大事そうに抱えていたもんな。気持ちは分からないでもないけど」
すみません、と今一度詫びて、彼は深く頭を下げた。
「もう……、これしか残っていなかったので」
───「大切なもの」は。
与えられようとしていたものを振り切った身には。
「この剣まで失くしてしまったら、と……」
二人目の女が溜め息をつきながら首を振り、寝台の隙間に腰を下ろした。伸ばされる手に気付いて身を竦ませる彼に、女は優しく笑み掛けた。
「あたしはレオナ、こっちはロウエンだよ。熱はどうだい? ほら、ちょっと顔を上げてごらん」
まるで手負いの獣でも宥めるような調子である。おとなしくされるがままになっていると、レオナが額に掌を当てた。冷んやりとした感触が心地好く、息をついて目を閉じると、満足そうな声が呟いた。
「まだ熱いには熱いけど……まあまあ、ってところかね。丸一日以上も目が覚めなかったから、どうなるかと思ったけど」
それを聞いて、彼は剣を脇に置き、重い身体に苦慮しながら二人に向き直った。
「レオナ殿にロウエン殿。助けていただき、心から感謝します」
そうして改めて低く頭を垂れる。
「なのに、本当に非礼をはたらきました。お許しください」
剣を腕に取り戻したときの心細げな様子、丁重なる礼。
もともと気の好いロウエンは、一瞬前の憤慨をさらりと流した。室内に設えてあった文机から椅子を取ってきて、背凭れを前にして跨いで座ると、今度は揶揄の瞳をくるめかせた。
「見つけたときは、てっきり死体だと思ったぜ。あんた……ええと……?」
一瞬だけ偽名を名乗るか否かを迷った。だが、すぐに唇を綻ばせる。
「人に助けられたら心から感謝するんだよ」───それが村の大人たちの教えだったから。
それに、幸いにも彼女たちは、目の前の人間が皇太子と馬を並べて街を歩いていたとは思い当たらぬようだったから。
「カミューと言います」
カミューね、と女たちは顔を見合わせて笑った。
「いいから、横におなり。まだ本調子じゃないんだし」
レオナが言ったが、それには緩やかに首を振る。
「ありがとうございます。でも……正直、動くのがひどく億劫なのです。少しこのままでいさせてください」
これは本当だった。起き上がったは良いが、身体の節々が悲鳴を上げている。すぐに動くことは出来そうにない。
そう、と軽く相槌を打ったレオナが、枕を二つに折って背凭れを設えた。そこに上体を預けると、カミューは再び感謝の一礼を払った。
ロウエンが興味津々な面持ちで乗り出す。体重を乗せられた椅子の足が穏やかな軋みを立てた。
「けどさ、いったい何処へ行くつもりだったんだい? 何で、よりにもよってゴミ置き場で寝てたのさ?」
「ゴミ置き場?」
怪訝げに瞬くと、レオナが補足した。
「うちは小さな酒場なんだけどね、裏手の庭にゴミを置いておく場所があるんだよ。そこに転がっていたあんたを、このロウエンが見つけたのさ」
カミューは少し考え、慎重に言葉を選びながら問うてみた。
「ここは……どのあたりですか?」
「東七区に入ったところ。花街だよ。まさか、知らずに迷い込んできたんじゃないだろうね」
呆れ口調で返した後、ロウエンは含み笑った。
「だとしたら、あんた運が良かったよ。うっかり七軒先の店先で寝込んでいたら、ヤバいことになってたぜ」
意味が悟れず幼げに首を傾げ、すぐにカミューは降参した。
「どういうことです?」
ニヤニヤと笑うばかりでロウエンは答えない。レオナへと視線を移すと、彼女は賛同とも不快ともつかぬ微苦笑を浮かべていた。
「……花街、だからね。そんなに数は多くないけど、男の子を置いている店もあるんだよ」
「まあ……、あんたは店にいる子よりは歳を食ってるけど、それだけの容姿なら店主も黙っちゃいないね。下手に借りを作ろうものなら、帰して貰えなくなるところだったぜ?」
二人がかりで説かれたカミューは、ぽかんとして、次に苦笑した。
「それは……確かに運が良かったようですね」
「で? 何処へ行くつもりだったんだよ? 知り合いでもいるなら、ひとっ走り呼んできてやるけど」
微笑みは、問い掛けによって薄れ、やがて消えた。
訪ねる相手などなかった。
この街に、受け止めてくれる人間などいない、今はもう。
「何処、という当ては特に……」
沈んだ調子に気付いたレオナが、微かに表情を曇らせる。片やロウエンは首を捻っていた。
「遊びに来た、って訳でも……ないか、あんな熱を出しながらじゃ」
何と説明したものか口篭る間に、レオナがロウエンに目を向けた。
「せっかく目を覚ましたんだ。あんた自慢の滋養万点特製スープでも持って来ておやりよ」
「昼に飲んだのが最後だよ、姐貴。じゃあ、おれ、何か消化に良さそうなものを作ってくる」
「そうだね、あれだけの熱を出したら消耗も普通じゃない。何か口にしておいた方が良いからね」
ロウエンは軽やかに椅子から下りて部屋を出て行った。
気詰まりな話題からロウエンの意識を反らそうと計らってくれたのだと悟り、カミューは、これまた何と礼を言ったものか困り果てて唇を噛んだ。
レオナはひっそりと笑み、寝台から今までロウエンが座っていた椅子へと──背凭れの向きを前から横へと変えて凭れ掛かりながら──移った。
「あんたの着ていた上着、泥塗れだったけど、たいそうな極上品だった。あんな服装で、後生大事に剣を抱えて───こうして礼儀もちゃんとした人間が、花街の酒場の一画に隠れるみたいに転がってたんだ。訳有りじゃないか、どう見ても」
「…………」
「いいよ、言いたくなけりゃ黙っておいで。ここは……東七区は、そういう場所だからね。余程の悪党でもない限り、秘密を持つ人間には優しい「街」さ」
それからレオナは口調を改めた。
「あたしが気になるのは、その右手だけだよ」
はっとして、カミューは上掛けに投げ出された己の手を見遣った。右手の甲に広がる陰影は、今は目を凝らして初めて気付く程度に薄れている。しかし、意識がなかった間は、燃え立つような真紅を浮かべていたに違いない。
「最初に見つけたとき、あんたは紙みたいに青白かった。ロウエンじゃないけど、死体に見えたくらいさ。熱があるようには見えなかったよ」
普通なら、息遣いが荒くなったり、汗を掻いたり、発熱の症状が出るものだろう、とレオナは言う。
だが、カミューにはそれがなかった。空いた部屋に運び入れて、寝台に横たえても、意識が浮上する気配はまるでなく、ただ昏々と死んだように眠り続けた。
そのとき、彼女は気付いたのだ。青年の右手に存在する魔性に。
かつて傭兵相手に酒を商っていたレオナには、それが火魔法を宿した際に現れる証なのが分かった。同時に、ときに紋章は宿主の意志にそぐわぬ発動を起こすという重大な事実をも思い出したのである。
「原因が紋章なら、医者は助けにならないからね。回復魔法を使ってみたのさ」
「回復魔法───」
そう、とレオナは頷く。
東七区で商う店は、良からぬ客の排除に、あるいは避けられなかった喧嘩騒ぎを鎮めるため、魔法札の一枚や二枚は置いているものだ。今まで使ったことはなかったが、レオナの店にも数枚の魔法札の用意があった。
これをロウエンが発動させたところ、カミューは変化を見せた。白い頬にほんのりと熱の花が浮かび、苦しげな呼吸を洩らし始めた───つまり、有り触れた発熱の症状となったのである。
時間を置いて二枚目の札を使ってみると、燃えるようだった体温は劇的に下がった。そして、次の札を使う機を窺ううちに、ひょっこりと意識が戻ったという訳だ。
カミューは、前に石城で生真面目な若者が施してくれた回復魔法を思い出した。肌のうちで暴れる炎を包み込み、宥めるように浸透していった癒しの雫。魔には魔、紋章の力には紋章の力、といったところか。何よりカミューには、女たちが医師という第三の人物に頼らないでくれたのがありがたかった。
「申し訳ありません、貴重な品を使わせてしまって……」
弱く詫びると、レオナは微かに眉を顰めた。
「気にしないで、店を出す時にタダで貰った札だから。それより……そいつは火の紋章だろう? 紋章は、相性が悪い人間が宿すと暴発する可能性があるんじゃないのかい? 確かそんなふうに聞いた覚えがある。あんな熱が出るってことは、合わないんじゃないかねえ。危ないし、外した方が良いと思うけど」
「お詳しいのですね」
カミューは微笑み、左手で右手の甲を包み込んだ。
「……外せないのです」
「え?」
「わたしと共に世に生まれ落ちた紋章なのです。この身が封印球の役目を果たしているので、捨て去ることは叶いません」
弱い溜め息が洩れる。
厄介な───実に厄介な共存者。
けれど、それもまたカミューの一部だ。宿主の死地に目覚め、敵を薙ぎ払った、怒れる守護者。
あのときもそうだった。
目前の敵、マチルダ皇王家の最後の一人を無に帰すため、解放を求めていた。しかし同時に、「烈火」はカミューの深層に潜む思いをも読み取った。宿主が抱えた相反する二つの意思に戸惑うかのように、これまでになく荒れたのだ。
何故に殺さない、それが唯一の望みであったろうに───紋章の、そんな叫びが聞こえるようだった。自らを見詰める黒い瞳の熱、そして内なる魔性の熱に焼かれ、カミューは逃げた。あのまま城に留まっていたらどうなっていたか、考えるのは恐ろしい。
さながら血が通わなくなったような重い下肢を叱咤して、寝台の端に座り直した。床を踏み締めた筈の足裏が、ふわふわと空を漂うかの如き心もとなさだ。
「……お世話になりました」
丁寧に頭を下げる。
「この身と剣の他には何ひとつ持ち合わせません。御厚情を受けておきながら、何もお返し出来なくて心苦しいのですが……」
そこで巡らせた瞳が壁に掛けられた長い上着に止まった。レオナが「極上品」と言っていたのを思い出し、小さく付け加える。
「袖を通した品で恐縮ですが……洗って処分して、幾許かの額になるなら……」
与えて寄越した男の眼差しを思い出させる漆黒、触れる指の優しさを思い出させる軽さ、包み込む腕を思い出させる温かさ。
言葉にして初めて、皇子から貰った品に愛着を持っていた自身に気付く。胸を刺す痛みを押し遣ろうと努めたが、不意に響いた声に我に返った。
「あんた───カミューと言ったね」
見れば、片腕を椅子の背に預けたまま僅かに身を乗り出したレオナが無表情に睨み付けている。
「無駄な虚勢を張るもんじゃない。そんなフラフラした身体で何処へ行こうって言うのさ? そんな真似、あたしたちが許すとでも思うのかい?」
思いがけない厳しい口調に、カミューは口篭った。レオナは更に畳み掛けた。
「それとね。見返りを求めていると思われるのも、病人の服を剥いで放り出せる人間だと思われるのも心外だよ」
「い、いいえ、決してそんなつもりは……」
「なら、何? 紋章が危ないから? 暴発するときは何処でだってお構いなしじゃないのかい? 魔法札で抑えられると分かったんだし、だったら目の届くところに居る方がよっぽど安心だ。少なくとも、体力が戻るまでは、外に出す訳にはいかないね」
そこでレオナは漸く口調を鎮めた。
「あんたを拾って家に入れたとき、あたしには責任ってものが出来たのさ。それを軽くは思わない。ちゃんと面倒見て、元気になったら送り出す。出来ないなら、すぐにでも騎士団に引き渡していたよ」
騎士団、と聞いた途端に身体が震える。見取ったのか、レオナは嘆息した。
「……訳有りみたいだからね、話をしてからでも遅くないと思った。でも、どうしても出て行くって言うなら話は別だよ、あんたが本調子になるまで面倒を見てくれる人に……騎士に任せるさ」
「それは───」
いつもなら人を丸め込むのは容易い筈だった。なのに、「烈火」との鬩ぎ合いで消耗し尽くしてしまったように思考が回らない。
きつい調子とは裏腹に、レオナには慈愛が溢れていた。こう考えるには彼女は若く、申し訳なかったが、母親めいた強さと優しさが混在するように思うカミューだった。
「……わたしを置いていては、面倒事が降り掛かります」
───もしもここまで捜索の手が伸びたならば。
「匿った」と謂われなき誹謗がレオナらを巻き込むかもしれない。ただ善意で助けてくれた人たちを危険に晒すのだけは何としても避けねばならなかった。
そんなカミューの葛藤を、レオナはふんと笑い飛ばした。
「それが「訳有り」の一端? 成程ね、あんた、追われでもしているのかい。どうってことないよ、自分に降り掛かった火の粉くらい自分で払う。でなきゃ、花街で酒場の女将なんてしていられない」
「……貴女は」
カミューは思い切って顔を上げた。
「わたしが何をしてきたか……何をしようとしているのか、御存知ないのに気味が悪くはないのですか? さっき仰った「余程の悪党」かもしれない、……そうは御考えにならないのですか」
するとレオナは少し考え、立ち上がった。窓辺へと歩を進め、闇が忍び寄る往来へと視線を落とした。
「この街に来る前、あたしはミューズの首都で店を開いていた。長いこと上得意だった傭兵隊が、何処かの国の戦の匂いを嗅ぎ付けて街を出て行って……それで河岸を変える気になってね」
同じ場に留まれば、いつか噂が聞こえてくるかもしれない。店のテーブルで豪快に笑っていた男たちの消息が。
だからミューズから離れた。なまじ長い付き合いだった彼らが、遠い国で命を落としたと、陽気な笑顔が永遠に失われたと知りたくなかったから。
「……とは言え、軍人には大酒飲みが多いからね。儲けを考えたら、思いつくのはマチルダ騎士の膝元、ロックアックスしかなかったんだよねえ」
この街で商いを始める場合、希望地区の担当騎士団に申請を出すことになっている。可と見なされたときのみ、商業権が与えられるのである。
三年前、ロックアックスに足を踏み入れたレオナが出店場所として目をつけたのは、城に近い一画で、赤騎士団が担当する地区だった。場所の割には建物の賃貸代もほどほどで、手持ちの資金でも充分に当座の経営が可能と思われた。彼女は意気揚揚と城に赴き、申請書を提出しようとしたのだった。
「でも……少し話をした後で言われたのさ。別の地区での出店を考えて貰えないか、ってね。条件を聞いて驚いたよ、建物の借り賃は騎士団持ちにしてくれるって言うんだもの」
案内されたのは街の外れ、低い石壁で囲まれた地区だった。聞けば、ロックアックス唯一最大の歓楽街だという。無頼漢と紙一重の傭兵相手でも怯まなかったレオナだ、客層にこだわるつもりはなかったが、それでも唐突な申し出に怪訝を覚えずにはいられなかった。
「……騎士は「耳」を必要としていたのさ」
レオナはゆっくりと椅子に戻り、腰を落としながら続けた。
「狭い地区に大勢の人間が入り乱れる、こうした場末──とは言わなかったけどね──には、飲み込まれてしまう声がある。耳を傾けるつもりでいても、住民たちの閉鎖意識が言葉を噤ませてしまう。この国では、春を鬻ぐ女たちにも配慮は為されているけれど、中にはつらい思いをしている娘がいるかもしれない。誰にも訴えられず、一人で耐えているかもしれない。そんな娘たちの相談に乗ってやってくれ、と……それで、目に余る非道が行われているときのみ騎士団に伝えて欲しい、とね」
好ましげな笑みが妖艶な顔に浮かぶ。
「騎士団の間者になるつもりはなかった。でもね、その申し出は弱い立場の人間を思い遣ったもの以外の何ものでもなかったのさ。だから受けたんだよ、ご大層な言い方だけど、あたしに何か出来るなら、やってみようかと思ってね」
「───姐貴は立派に女の子たちの支えになってるよねえ」
不意に声が割り込んだ。開け放たれたままだった戸口に、トレイを手にしたロウエンが立っている。カミューとレオナの視線を浴びて、彼女は苦笑った。
「ごめん、立ち聞くつもりはなかったんだけど」
言いながら歩み寄り、寝台脇の小箪笥の上にトレイを置く。半身を伸ばしてそれを見たレオナが仄かに笑った。
「卵粥かい? ロウエンは料理の修行中だけど、これは食べられる方だと思うよ」
「ひどいや、姐貴。結構うまくいったんだから」
レオナの揶揄を受けたロウエンは、ぷうと頬を膨らませているが、互いの口調には親愛が溢れている。自らが皇子と交わした会話の数々を過らせ、カミューは微かな切なさを覚えた。
「御二人は姉妹でいらっしゃるのですか?」
「まさかあ。そうは見えないだろ」
ロウエンはからからと笑う。椅子がレオナに取られてしまっていたので、今度は彼女の方が寝台の端に腰を下ろした。レオナとは異なる、それは豪快な座り方で、カミューが一瞬敷布から浮くほどだったが。
「おれはトゥーリバー連邦の生まれでさ、半年くらい前まであそこに居たんだけど……ちょいと問題が起きちまって、マチルダに逃げてきたわけ」
「……「起きた」じゃなくて「起こした」だろう?」
ポソリと挟まれた訂正に、彼女は頭を掻いた。
「まあ……そうとも言うかな。政府のバカ高官を誑かして金をちょろまかしていたんだけど、そいつが罪に問われて捕まりそうになって、ズラかってきたんだ」
邪気のない告白っぷりに、カミューは目を丸くした。
「マチルダは金持ちが多そうだし、次のカモを引っ掛けるのに良さそうだと思ったんだよね。街に入ったところで、一杯飲んで休もうとして「酒場は何処か」って聞いたら、教えられたのがこの地区でさ。門を潜った途端、ここで働く女の子と間違えたバカが言い寄ってきやがって、頭に来たから投げ飛ばしてやった」
ふふん、と胸を張る妹分を、レオナが嘆息混じりに見遣る。
「女として見做しただけ、相手は気の毒だったよ。黙っていれば、なかなかの玉だからしょうがないけど」
「あれ、それ褒めてるのかい、姐貴?」
くるくると瞳を輝かせながらロウエンが言い、レオナは無言で肩を竦めた。
「でさ、騒ぎになって騎士まで飛んできちまって。こりゃあヤバい、逃げるが勝ちかな、と思ったら……それだけ向こう気が強くて腕が立つなら、店の手伝いを兼ねた用心棒になったらどうかって、レオナ姐貴に預けられたんだ。寛大な処分、ってヤツかね。相手の男、骨折してたし」
「自慢にならないよ」
再びレオナが突っ込みを入れている。
「男の勘違いが原因だったと判断されたから良かったようなものの……でなきゃあんた、何日かは繋がれていたよ。調べられたらまずい事情があるくせに」
そうなんだよね、と初めてロウエンは真面目な顔になった。カミューに向けて一度だけ頷き、口を開く。
「相手の男ってのは、そこそこ金持ちの色ボケ息子だったみたいでさ。姑息な役人なら、そっちの顔色を窺うもんだ。でも、ちゃんとおれの言い分を聞いてくれて、見ていた人間の話も聞いて回って……それで無罪放免。姐貴に身柄を預けられたようなものだけど、おれにとっちゃ良い話だったよ。姐貴は好い人だし、尊敬出来るし」
そこまでくると、レオナは照れたように「およし」と制した。
一方、カミューは心穏やかでいられないものを感じ始めていた。
先程レオナが語った、歓楽外に暮らす弱者への気遣い、物事を正しく判断しようとする真摯な姿勢。とんでもない過ちを犯したという確信が拭えなくなってきていた。
「この地区を担当しているのは、どの騎士団なのですか?」
ああ、とレオナがあっさり懸念を肯定する。
「赤騎士団さ」
「……白だと思っていたのですが」
「前は、ね。四年前、前の皇王が亡くなった後から担当が替わってる」
愕然とした。
城で読み漁った騎士団関係の資料で各地区の担当は把握したつもりだった。だが、どうやら古い区割りを覚え込んでいたらしい。
思い起こしてみれば、前に会議の場で、白騎士団の担当は上流階級の住まう一画のみと聞いた。あれは、誇張ではなかったのだ。新参者であるカミューを前にして、歓楽街を話題に上らせないという思惑がはたらいたのでもなかったのだ───
「ここで店をやるよう姐貴に勧めたのが、今の赤騎士団副長さん。えらく律儀な人でさあ、変な客が居付かないように店が軌道に乗るまで私服の騎士を常駐させたりして護ってくれてたんだよね」
当時を知らないにも拘らず、ロウエンが自慢気に説く。
「今でもそりゃあ丁重なもんさ。騎士は巡回のたびに、この店詣でを欠かさない。別にあれこれ情報を寄越せとか言うんじゃなく、「商いの調子は如何ですか」とか「何処そこの交易商人から安く譲り受けた品ですが」って酒を差し入れてくれたりさ」
「そうやって気を遣ってくれるから、妙な噂にもなったりしているけど、御陰でうちの店じゃ争い事も起きないし、助かっているよ」
即ち、このレオナの店には赤騎士団員が始終出入りしていることになる。身を潜めるに最善と思われた一画は、最も避けねばならない地であったのだ。
と言って、さっきあのような遣り取りをしたばかりというのに再び出て行くと言い出すのも躊躇われる。カミューは進退窮まり、それでも何とか動揺を表に出すまいと努めて殊更に明るく言ってみせた。
「それは何よりです。こう言っては何ですが、白騎士団にはあまり良い噂を聞いたことがなかったものですから……」
「そう、そうなんだよなあ」
怪訝は与えずに済んだようだ。たちまちロウエンが同調の声を上げる。
「あいつら、一番上の騎士団だからって威張り放題だからね。あんたを見つけた日にも、嫌がらせされてる女の子が一泣きしていったよ。レオナ姐貴は、そうした娘……いいや、娘たちだけじゃない、地区の人間の駆け込み相談所ってわけさ」
カミューの尊敬を込めた眼差しから、レオナはふいと目を逸らした。
「……って言ったって、何が出来る訳でもないけどね。話を聞いて、思いついたなら助言のひとつも口にしてみて……それだけだよ」
そうしてレオナは微笑んだ。
「さっき聞いたね。あんたが何をしたか、何をしようとしてるのか───そんなのはどうでも良いんだよ。あたしたちに危害を加える人間かどうか、それだけ分かれば充分。でもね、心に傷を負った人間は気になるんだ」
びくりと戦き、カミューは女将をまじまじと見詰めた。
「傷ついて、疲れ果てている人間には、休む場所を与えてやりたいと思う。それをあんたが覚えていて、いつか別の誰かに同じようにしてくれたら、そいつがあたしの見返りになるかねえ」
穏やかな笑みが、その言葉は真実なのだとカミューに告げる。
「騎士が欲しがる情報は、「目に余る非道な行為」と「禁じられた薬剤の遣り取り」だけ。「誰を家に置いているか」なんて、わざわざ口にする必要はないんだよ。だからね」
レオナは椅子を後にして、据え付けの箪笥へと足を運んでいく。
「ここで休んでおゆき、せめて身体が戻るまで。こう見えても、あたしもロウエンも子供は好きな方なんだ」
「……子供、ですか……?」
予期せぬ一言に瞬くカミューへと突き付けられたのは新品の夜着であった。
「もっとも、子供と見るにはあんたは育ち過ぎているから、どっちが服を脱がせるかで揉めてねえ」
すかさずロウエンが茶々を入れる。
「勘違いするんじゃないぜ。剥きたいからじゃなくて、遠慮し合って揉めたんだからな」
くすりと笑ってレオナは締めた。
「……そういうこと。取り敢えず、この卵粥を食べる。湯を持ってくるから、自分で身体を拭いて、着替えて、もう一度寝る。こっちはそろそろ店を開ける準備で忙しいからね、恩義を感じてるなら、これ以上あれこれ言って手間を掛けさせるんじゃないよ。いいね、カミュー」

 

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女性陣の波状攻撃、
19歳の赤では勝ち目ナッシング(笑)

 

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