『おれが手を貸しましょう。御自身の想いを通されよ』
心からの言葉に、だが隣国の姫は躊躇した。
国を捨て、愛する男と逃げる。何度も胸に過らせながら、自らの立場には決して許されぬことと、努めて封じてきたからだ。
まして、その策には議性が伴う。マチルダの皇太子は婚約者に逃げられた──しかも輿入れの最中というギリギリになって──と、周辺諸国中に噂されるようになる。そんな事態を招いてまで己の心を通せない、公女はそう最後まで憂いていた。
『婚姻が反故となった後も、二国の友好は変わらない。
それを望むなら、あなたが戻ってくるための道をも築こう。
一人で戦う必要はないのです。あなたには、あなたの想いを護ろうとする味方がいて、そして微力ながらおれもいる。
我らを信じて、ひとたび逃げ落ち、想い人と添われれば良い』
『あなたのさだめがグリンヒルに繋がれているのなら、いつか戻る日も来るでしょう。想い人を失わず、且つ、国の頂きに昇る日が───』
だが、グリンヒル公女テレーズの運命は急転した。
父公主が没し、彼女は否応なく異なる道へと投げ込まれてしまった。
一人娘をマチルダへ嫁がせようとするワイズメル公の思惑が、長いこと分からなかった。けれど、彼がゴルドーと通じていたと知った今は、およその想像がつく。
マチルダ皇王家の血を断ち、友好の証として差し出したテレーズを隠れ蓑にして、マチルダに影響力を及ぼそうとしていたのだろう。婚姻によって繋ぎ合わされようとしていた両国だ。端から見ても、然して不自然とは映らない。
そんな陰湿な狙いも、巡り巡った因果が打ち砕いた。テレーズは、今やグリンヒルに不可欠の存在となった。
ワイズメルの企みに加担していた要人がいるにしろ、主軸を失った以上、テレーズを他国に嫁がせるどころではなくなる。遅かれ早かれ、彼女を次代の公主に就けようとする動きが出始めるだろう。婚姻は中止となり、今後マチルダとの関係を如何にして保つかが沙汰される筈だ。
マチルダ側としても、こんな不慮の事態の前には、たとえ婚約が白紙化するにしろ、非は唱え難い。今は即位式という重大事が先、グリンヒルとの関係修復は後に改めて、という流れになるに違いない。
もう、テレーズのためにマイクロトフが出来ることは何もなかった。
ワイズメル公の裏切り──最初から味方ではなかったのかもしれないが──は許せない。ゴルドーと組んでいたのも勿論だが、もし本当に彼が父王をも殺したのなら、一生を費やしても恨みは拭い切れまい。
けれどテレーズは。
卑劣な陰謀を知る由もなかったであろう彼女には、ただ哀憐が込み上げる。自らの意志で動こうとしても、どうしようもない流れに足を取られてしまう彼女が、カミューに背を向けられた己に重なって、胸苦しさを掻き立てる。
彼女にも、しかし支えはある。恋人シン、エミリアをはじめとする忠実な側近たち。彼らのためにも、テレーズは自らの力で父の死を越える筈だ。
マイクロトフは、グリンヒルへと向かう従者に書面による弔意を委ねようとはしなかった。正直なところ、先に綴ろうとした文にもまして、何を書いたら良いか分からなかったからだ。
陰謀を暴くうちに、ワイズメルの果たした役割が露見する可能性がある。テレーズは今以上に傷つくだろう。それが察せられるだけに、マイクロトフには文にしたためる言葉が見つからなかったのである。
代わりに、伝えてくれとフリード・Yに念を押した。
何があろうとテレーズの味方であることに変わりはないと。
この先、何が起きようとも、マチルダはグリンヒルの良き隣人であり続けるつもりだ、と。
それが、今のマイクロトフがテレーズに示せる、精一杯の真心であった。
このところ人が密集していたためか、一人でいると室内がやけに広く感じる。
名を呼べば静かな笑顔で振り向いた青年を過らせながら、マイクロトフは置き去りにされた群青のローブを掴み締めた。
───カミュー、と胸のうちで語り掛ける。
色々なことがあったのだ。
本当に、想像もしていなかった色々なことが。
たったこれだけの時間で、おれの世界は変わってしまった。一夜ですべて失ったおまえには遠く及ぶまいが、それでも足元が揺らぐようだった。
知らぬところで大きな悪意に呑まれ、踊らされていたのだ。おれだけではない、父上も───
ぐ、と胸に突かれたような痛みが走る。
父の身体に流し込まれた禍を過ぎらせるだけで吐き気がした。
おまえは信じてくれようとはしなかったが、父上は潔白だ。
父上の中には、非道な侵略を望む血など一滴たりとも流れてはいなかった。父上の願いは平安、民が穏やかに暮らすことだけだった。
おれには、その血が流れている。
おまえが憎んだマチルダ皇王の血ではなく、常に己の心に正直であろうと努めた父の血が。
そして遠い過去に、友を愛し、信じ抜いて、マチルダに解放をもたらしたマティスの血が。
この血が命じるのだ───おまえを失ってはならない、と。
おまえこそが、おれを在るべき姿へと導く道標なのだと。
だから前へ進む。おれは絶対に諦めない。
いつか、一緒にグラスランドを訪おう。
おまえを慈しんでくれた方々へ、鎮魂の花を手向けよう。
止められなかった非道を詫び、二度と繰り返さぬよう誓いを立てる。それですべてが清算されるとは思わないが、おれに出来るのはそれだけだから。
そうして後は、遥かな空と風が繋ぐマチルダとグラスランド、双方に優しい時間を保つため、生涯を捧げよう。その傍らにおまえが並んでくれると信じて、今やるべきことを果たす。
本当は、今すぐにでも捜しに駆けていきたい。
けれど、耐える。今のおれが何を言おうと、おまえには真っ直ぐ伝わらないから。悲しみに凝り固まったおまえの心が、受け入れるのを拒んでいるから。
だから耐える。おまえの苦しみを癒してやれない己の無力にも目を逸らさない。
待っていてくれ───必ず「その日」を迎えるから。
再び間近で笑い合える日を、仲間たちと一緒に掴み取ってみせるから。
幻のような、愛しき人の仄かな残り香を腕に抱き、マイクロトフは目を閉じた。
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