最後の王・75


騎士を従えての皇子の街行き。
先日の査察帰還時には、二騎士団員が混在する珍しさもあってか、ロックアックスの民は熱狂気味に行進を見守った。しかし今日は、「皇子は仰々しさを望まず」といった注意事項を思い出したようで、特に騒ぎ立てる声もない。父王譲りの青騎士団長衣が──民らの知り得ぬ事情によって──損なわれ、マイクロトフが私服であったのも理由のひとつかもしれなかった。
わざわざ家屋の外に並び出る民はなく、けれどばったり行き合ったときには礼を交わす。そんなごく当たり前の巡回風景に、いずれ自らも一騎士として溶け込む日が来るのだと、マイクロトフは感慨深く思う。
民の中には、皇子と並んで馬を進めていた美貌の青年の不在に気付いたものもあっただろう。一人の剣士が、その欠落を埋めるかのように皇子の横に付いていることにも。彼は、一見したところでは呑気そうに、しかし実は非常に注意深く、主路から枝分かれする通りへと視線を走らせていた。
やがて警邏管轄の最奥に着いた。そこで指揮官である青騎士団・第一隊長が、部隊を\めて先に帰城するよう副官に命じた。副官は、いつゴルドーの魔手が伸びるか分からぬ街中に皇子や上官を残して去って良いものか躊躇ったようだが、新たに参入した剣士の正体を聞かされていたのもあってか、控え目に注意を促すにとどめて、部下を引き連れて城へと戻っていった。
マイクロトフと青騎士隊長、そしてゲオルグ・プライムとフリード・Y、残された四人はなおも街路を進み、やがて南四区と称される区画へ入った。
「このあたりかと思われますが…」
副長から伝えられた紙片を手に青騎士隊長が呟くなり、マイクロトフとフリード・Yは往来の両端に目を凝らした。
デュナン地方でも有数の軍を持つ国家、その首府都ともなると、武器や防具の商いが非常に盛んだ。このあたりも大小様々な店が密集した区画で、建物の軒先には争うように屋号を記した板が下がっている。それらを念入りに検分しながら路を行くものの、それらしい店が見当たらない。
そこで騎士隊長は、通りの向こうからやってきた一人の婦人を呼び止めた。
「失礼、この辺りで作り細工を商う店を知らないか?」
女はマイクロトフの身上には気付かぬようで、騎士からの問い掛けに真面目に考え込んだ。
「作り細工でしたら……」
言いながら差した先の建物には屋号が掛かっていない。一同の怪訝を察したように彼女は言い添えた。
「もう商いはなさってらっしゃらないようですよ。ですが、この辺りで作り細工を扱っていたのは、あちらだけだったかと思います」
皇王の印章を作った職人の末裔が暮らす家。現在も同じ商いを続けているかについては初めから懐疑的だった。知りたいのは「紙面の印影を見ただけで同じ印章を作れるか否か」なので、技術的に答えられる人物が残ってさえいれば問題ない。
丁寧に礼を述べて婦人を見送った後、一同は教えられた建物の前に立った。小さな店構えに、ひっそりと閉ざされた扉が物悲しく映る。馬を下りるなり、青騎士隊長が表情を硬くした。
「どうかしたのか?」
気付いたマイクロトフが声を掛けると、彼は軽く首を振る。
「いえ……少しばかり不思議だと思いまして」
「何がだ?」
真っ直ぐに向き直り、騎士は紙片を掲げながらマイクロトフを凝視した。
「マチルダ皇王が公式文書に印章を用いるようになってから二百年弱あまり……宰相殿が職人を御存知だったのはありがたいが、それにしても随分とあっさりお答えになったものだ、と」
フリード・Yが考え込んだ。
「確かに……言われてみれば不思議ですねえ」
古くなって使用に耐えなくなったため、あるいは損傷などの理由から、過去に皇王印が作り直されたことはあったかもしれない。だが、頻繁に起きる事態でなし、どんなに実直な宰相であっても、職人の存在を頻繁に意識に昇らせはしないだろう。
「グランマイヤーなら」と提案したフリード・Yでさえ、様々な文書を掻き漁って職人の末裔を探し出す姿を想像していた。殆ど即答に近いかたちで所在まで明らかにしてくれるとは思っていなかったのである。
従者ばかりか、マイクロトフまで深刻に悩み始めたのを見て、騎士隊長は苦笑って頭を下げた。
「店先まで来て首を捻るようなことでもありませんな。過敏になっているのかもしれない、お忘れいただきたい」
「……そうだな」
引っ掛かるものがないではないが、ここで考えていても始まらない。何か理由があるのなら、グランマイヤーに直接相対した青騎士団副長が、次の会合時に説いてくれるだろう。そう思い直したマイクロトフは、心持ちを引き締めた。
ともあれ、先ずは職人に会ってみようと扉に向かい出したところでフリード・Yが呼び掛ける。
「あまり大勢で押し掛けては、驚かれてしまうでしょう。ですから殿下、わたくしはここで馬の番をしております」
するとゲオルグも、路地の先を見遣りながら言った。
「だったらおれも、少し辺りをうろついてくる」
え、と瞬いている皇子から騎士へと視線を移し、「二刀要らず」は低く続ける。
「おれは如何にも部外者だし、同席を避けた方が相手の気も緩むだろう」
見慣れたマチルダ騎士ならばともかく、見るからに用心棒然とした剣士が睨みを利かせていたのでは、相手を萎縮させ、必要な情報を取り出せないかもしれない───ゲオルグはそう案じたのだ。
それに、この辺りは民家が密集していて、襲撃に適した場とは言い難い。それを確かめた上での申し出であった。
心得た青騎士隊長がマイクロトフに頷き、マイクロトフもまたゲオルグに一礼した。
「分かりました。出来るだけ急いで済ませますので」
「いいや、急ぐな。貴重な取っ掛かりだ、一にも二にも慎重に、可能な限り情報を引き出すんだ」
厳しい口調に、たちまちマイクロトフは眉を寄せた。そうした話術に長けていない自らを誰よりも知っているからだ。ちらと横目で窺った青騎士隊長が、やれやれといった息をついた。
「これはどうにも、赤騎士団向きのつとめだったかもしれませんな。わたしも善処に努めますので、団長も頑張って沈着を保っていただきたい」
「偽造印が作れそうだ」などと聞かされたら、たちまち平静を失いそうな身を言い当てられて、マイクロトフは照れ臭げに頭を掻いた。
ゲオルグが手綱をフリード・Yに渡して歩き出すのと同時に、マイクロトフは騎士隊長と連れ立って職人宅の扉を叩いた。
程なく現れたのは五十も過ぎたと見える婦人である。騎士隊長の装束を見て、はっと目を瞠った彼女は、急いで大きく扉を開け放った。
「突然の訪問をお詫びする」
騎士は丁重に前置いて、それから真っ直ぐに婦人を見詰めた。
「少々お尋ねしたいことがある。御主人は在宅でおられるか?」
すると、何とも不可解な色が婦人の頬に昇った。困惑とも失意ともつかぬ表情。だが、すぐに彼女は身をずらして二人に道を空けた。
「立ち話も何ですし、宜しければお入りくださいまし」
騎士の促しに従ってマイクロトフが扉を抜ける。
先ず迎えた空間は、かつて商いに使われていたと思しき設えだ。客との遣り取りのための卓、商品陳列の棚、いずれも綺麗に片付けられており、店を閉めたという通行人の言葉を裏付けている。先に立って奥へと進む婦人の背はひどく小さかった。
案内されたのは質素な居間だ。中央に置かれた卓に、茶の仕度が整っていた。
「来客の御予定が?」
騎士隊長の問いに、いいえ、と笑んで、婦人は茶箪笥から器を追加する。
「ちょうどお茶にしようと思っておりましたので……。どうぞ、お掛けになってくださいまし」
穏やかで優しげな婦人の物言い、ほんの少しだけ荒れた手が丁寧に茶を入れる様を見て、マイクロトフは亡き母に思いを馳せた。乳呑み児だった頃に逝った母。もし生きて歳を重ねていたら、こんな落ち着いた女性になっていたのではないか、と。
感慨は、目前に置かれた茶器が立てた音によって途切れた。隣り合って座ったマイクロトフと騎士の向かいに彼女はゆっくりと腰を落とした。
「主人を訪ねていらした、とのことですが……」
「ええ、細工職人としての技術と知識をお借りしたい」
婦人は微かに眉を寄せる。
「お役に立てず、申し訳ございません。主人は亡くなりました」
えっ、と声を上げたのはマイクロトフだ。沈着を心掛けていたが、初見のときから婦人に感じていた寂しさのようなものを理解して、知らず自制が解けてしまったのである。
そんなマイクロトフに、彼女は初めて視線を当てた。短い凝視の後、ゆるゆると驚きが広がっていくようだった。
「まさか───あの、もしや……」
ああ、と騎士が笑む。
「申し遅れた。こちらは我がマチルダの皇太子マイクロトフ殿下、わたしは青騎士団の第一隊長職を勤めている」
「皇太子様、に……騎士隊長様……」
ぽかんとして復唱した後、婦人は顔色を変えた。
「わ、わたくし……何という御無礼を……」
一国の皇太子と騎士団の上位階者。それほどの人物を迎えるには、あまりに粗末な持て成しを恥じたのか、慌てて席を立とうとする。それを押し止めてマイクロトフは首を振った。
「頼みます、どうか気を遣わずにいただきたい。それより、店主殿がお亡くなりになっていたとは知らなかった。お悔やみを申し上げる」
婦人は腰を浮かせ掛けたまま二人を交互に見たが、会話を優先するのを望んでいると知ったように、そろそろと座り直した。
「……ありがとうございます、皇太子様」
「つらいことを掘り返してしまってすまない」
いいえ、と悲しげに笑って彼女は言う。
「わたくしの方こそ勘違いをしてしまいまして……」
「勘違い?」
「御二人を拝見して、てっきり何か報告においでくださったと思ったのです。そうですわね、青騎士様でしたのに……わたくしったら、何を期待して───」
マイクロトフは困惑して騎士隊長を窺い見た。が、彼も独言めいた婦人の言葉を理解出来ず、眉根を寄せている。やがて思い切ったように騎士は問うた。
「差し支えなければ、何の「報告」で何を「期待」されたのか、話していただけないか」
何処か遠くに心を飛ばしていたらしい婦人が瞬く。弱く頷き、彼女は答えた。
「主人を殺した犯人が捕えられたのかと思ったのです」
マイクロトフは目を見開いた。それを機に商いを止めたのだと知り、この訪問が癒えることなき彼女の痛みを衝いたと悟って言葉を失う。
しかし騎士はマイクロトフとは異なり、責務のためには冷徹を通せる男だった。一度だけきつく唇を引き結び、彼は身を乗り出した。
「単なる関心で尋ねていると思わないでいただきたい。御主人はいつ、どのようにして亡くなられた?」
痛ましく顔を歪める婦人にマイクロトフの胸は痛んだが、騎士隊長の前置きに、必死に自責を殺そうと努める。印章職人の知識は、やっと見つけた手掛かりのひとつ。その喪失は、彼らの追求の扉の一片を塞ぎかねないのだ。
「……五年になります」
婦人の語った日付は、騎士にグラスランド侵攻路確保の命令が下ったと予想される時期に重なっていた。
「商品を納めに行った帰りに、物取りに襲われたのです」
「物取り……」
騎士は呟いて、暗い目を光らせる。
「それで、未だ下手人が捕えられていないという訳か」
「はい。もう五年も経っておりますし、今更見つかるとも思えません。なのに、騎士様がお訪ねくださったものですから、わたくし、てっきり───」
そう言って指先で目許を拭う。
婦人の失意はもっともだろう。デュナン周辺国家の都でも、ここロックアックスは抜きん出て安全な街として知られている。
往来を周回する騎士の姿が暴漢たちを抑制する。不幸にも事件が起きれば、騎士たちは全力で悪人を捕えようとする。
なのに夫は殺された。しかも犯人は捕まらない。歳月が経てば経つほど犯人探しが困難になる分かっていても諦められない。突然の騎士の訪いに、彼女がそれを期待したとしても不思議はなかった。
「……「青騎士だったのに」というのは?」
騎士隊長の疑問に、婦人は自嘲を浮かべる。
「騎士様に、管轄というものがあるのは存じております。主人の事件を青騎士様が引き継がれた、とも聞きませんし」
「つまり、調査を担当したのは青騎士団員ではなかったという訳か」
ひっそりとした首肯。
それから不意に、彼女は堪えていたものを吐き出す勢いで鳴咽を洩らした。
「わたくし……、騎士様の御役目をどうこう言える立場ではございません。ですが、……ですが、あれはあまりに……」
いきなり涙を零し始めた婦人にぎょっとして、マイクロトフは救いを求めるように騎士を見た。同じように眉を顰めた男が、懐から布を出して、躊躇がちに婦人へと差し出した。
「……出直した方が宜しいか?」
低く言われて我に返ったふうの婦人は、震える手で布を受け取り、掠れ声で礼を述べながら涙を拭った。
「も、申し訳ございません、取り乱して……大丈夫です」
「何を呑み込まれた?」
鋭く騎士は問う。
「騎士の役目がどうの、とは如何なる意味か」
「それは───」
そこでマイクロトフが身を乗り出した。
「騎士が……あなたの望むように役目を果たさなかったのか?」
「忌憚なく話されるが良い。ここにおられるのは、間もなくマチルダの頂点に立たれる御方だ。騎士に不心得が生じたならば、それを正す立場におられる人なのだから」
マイクロトフの直裁的な問い掛け、更には騎士隊長の促しに励まされ、彼女はポツリと切り出した。
「主人が死んで、すぐに騎士様がおいでになりました。財布がなくなっているから物取りの仕業だろう、と……。ロックアックスで殺傷沙汰を起こした者は、大抵は幾日もしないうちに捕えられるとばかり……。勿論、それで主人が戻る訳ではありません。でも、少しは……ほんの少しくらいは胸も軽くなるだろう、と……」
分かります、とマイクロトフが呟くと、婦人は新たな涙を落とした。
「五日ほど経った日だったでしょうか、再び騎士様がいらして……調べは終わった、と仰いました」
「終わった? 犯人が捕まっていないのに?」
「それらしい人物が浮かばなかった、既にロックアックス外へ逃げたのだろう、と」
「……何だ、その適当な言い分は」
知らずいつもの口調になって騎士隊長が顔を歪める。
「それで、本当に調査は打ち切られたと?」
ええ、と婦人は微かな怨嗟を滲ませた。
「もう少しだけお調べください、と何度もお願いしました。ですが、「もうやれることはない」と言われては……それ以上わたくしには何も……」
呆然とするマイクロトフを横目で一瞥してから騎士は居住まいを正す。覗き込むように婦人を見詰め、殊更ゆっくりと語り掛けた。
「その騎士を覚えておいでか」
「はい、御名前は。でも……五年も前のことですし、今どうしておられるかは存じませんが」
語られた名は、マチルダでも特に好まれ、使われるものである。これではとても個人の特定は不可能だ。
「……所属は? 白・赤、いずれでしたか」
こちらの答えは聞く前から推察された。それでも、婦人が「白騎士様です」と洩らした刹那、時が凍ったようだった。
「トカゲの尻尾切り」───グランマイヤーがゴルドーの謀略をカミューに語っていたときの一節が過り、またしても散乱した破片の一つが枠内に納まるのを感じた気がするマイクロトフだ。騎士隊長も同様らしく、苦虫を噛み潰した面持ちで卓上を睨んでいる。
「……以来、店を閉められたのだな」
マイクロトフが言うと、婦人は儚げに微笑んだ。
「ええ、でも……店はもともと主人の代で閉める予定だったのです」
それが少し早まっただけで、と付け加えられた一言は愛惜でいっぱいだった。ゆるりと首を振り、騎士が茶器に手を伸ばす。冷めた茶の一啜りで心持を改め、彼は切り出した。
「貴女は印章の細工技術について知識がおありか?」
「印章……でございますか?」
それで合点がいったように婦人は表情を和らげた。
「もしや、皇王様のおしるしの?」
「こちらは、かの印を作った職人の末裔とお聞きした」
「はい、確かに主人はそのように申しておりました。滅多にある訳ではないけれど、何度かおしるしを作り直したことがあったようで……御依頼に備えて代々に作り方を伝えてきたのだ、とか」
それから彼女は顔を強張らせた。
「あ、まさか……製作の御依頼だったのでしょうか。わたくし、生憎とそちらの方面はさっぱりで……」
更に縮こまって付け加える。
「と申しますより、商いそのものにも関わっておりませんでしたの。主人は何でも一人でやる人でしたので……」
ふと首を傾げて騎士は尋ねた。
「御主人が襲われたのは商いの品を納めに行った帰りと言われたが……、すると、訪ねた相手も御存知ないか」
「主人亡き後、店を片付けたましたが、発注の記録や帳簿は見当たりませんでした。そうしたものは頭の中で整理しているような人でしたから、特に気に止めなかったのですが」
ここでゴルドーの名が出れば、一気に仮定が現実のものとなった。だが、そこまで甘くはなかったようだ。無念を隠し切れなかったマイクロトフに気付いて、婦人は急いで言い添えた。
「あの、皇太子様。おしるし作りの御依頼でしたら、少しお時間を頂戴出来ますなら、息子に文を送ってみます」
「息子……殿?」
虚を衝かれて復唱したマイクロトフは、次の言葉に目を瞠った。
「息子がおりますの。家業を嫌って出て行ってしまったのですけれど、細工の技術は主人に仕込まれております。皇王様のおしるしについても、作り方を教えているのを見た覚えがありますから───」
「本当ですか!」
勢い込んで卓に両手をついた皇子の形相に驚きつつ、婦人は微笑んだ。
「はい。やる気のない人間に店を継がせても、と主人は早々に諦めましたが、たいそう器用な子なのです。立派におしるしを仕上げられると思います」
家出した不詳の息子。けれど彼女には子への大いなる愛情が溢れていた。
「あちこち飛び回っていて、まるで連絡がつかなかったのですけれど……きっと天のお導きでしょう、主人が亡くなる少し前に一所に落ち着くようになって、元気でやっているからと手紙を寄越したのです。御蔭で、父親の葬儀にも立たぬ不孝者にならずに済みました」
その偶然がなかったら、息子は父の死も知らず、最後の別れを果たすことも出来なかった。婦人もまた、たった一人で衝撃や心細さと戦わねばならなかったのだ。
憐れむべき人間を、ちゃんと天は見ている。マイクロトフはそんなふうに考えた。
「息子殿をお引き止めにならなかったのか?」
婦人はそこで初めて幸福そうな笑みを見せた。
「あの子は、わたくしを独りには出来ない、家に戻ると言ってくれました。でも……人間は好きなことをやっているときが一番幸せなのだと、主人は常々言っておりましたから。息子に夢を捨てさせるのを主人は喜ばないだろう、と……ですから、せめてわたくしが元気でいるうちは、戻る必要はないと言って聞かせましたの」
「───お強い方だ」
目を細めて騎士が言い、マイクロトフも同感の眼差しを婦人に注ぐ。
「話を戻そう。心遣いはありがたいが、この件で文を送っていただく必要ない。御子息の名と居所を教えていただけないか、後は我らのつとめゆえ」
厳しい騎士の言葉に婦人はやや緊張した。膝の上で手を揉み、おずおずと問う。
「あの……、皇王様のおしるしが何ぞ問題でも……?」
マイクロトフは慌てて首を振った。この婦人をいっときでも不安にさせたくない。
「案じられるな、詳しくは言えないが……印章を作る技術について少し教えて欲しいだけなのです」
そうですか、と明らかにほっとした息を吐いて婦人は立ち上がった。部屋の隅の小さな鏡台で記した書き付けを卓に滑らせ、丁寧に一礼する。
紙面上の名と居所の詳細。二人が検める間、彼女は穏やかに語った。
「ここで暮らしていた頃には、音楽に興味があったなんて、まるで気付きませんでした。今はお友だちと一緒に暮らしているようです。いずれちゃんとした楽団を作って、ロックアックスで演奏会を開きたい、なんて言っておりますの」
「アルバート殿、グリンヒル……」
───グリンヒル。
また一つ、扉が開くようだった。

 

 

 

久々の来客だったのか、名残惜しげな婦人に心からの礼を取り、二人は家を出た。四頭の馬の面倒を見ていたフリード・Yが、弾かれたように駆け寄る。
「どうでした? 偽物は作れるのですか?」
性急に畳み掛ける若者を片手で制し、騎士隊長が首を振った。
「焦るな、侍従殿。どうやら複雑になってきた」
「ふ、複雑ですって? 今よりもっと、ですか? それはいったい……」
おろおろとしていると、マイクロトフが苦笑した。
「気持ちは分かるが、全員が揃ったところで話す。そろそろ戻らないと終課の刻限に遅れてしまうからな」
次の集結と約した刻限。フリード・Yも思い出し、抑え難い関心を捩じ伏せる。そのとき、ちょうど頃合を見計らったように往来の先にゲオルグが現れた。のんびりとした歩みで一同の輪に連なった彼は、マイクロトフと騎士隊長の顔を見て、唇を引き上げた。
「収穫があったようだな」
「明るい収穫……と言い切れないのが難ですが」
青騎士隊長はフリード・Yから手綱を受け取りながら応じる。
「取っ掛かりの手札は増えたかもしれませんな。後ほど御説明申し上げる」
そうだな、と頷いてゲオルグは背後を振り向いた。そして、独言めいた、聞き取り難いほど低い声で呟く。
「……この辺りには来ていないようだ」
誰が、と質すまでもない対象。城の窓から身を踊らせ、そのまま行方を絶った青年。
部外者ゆえに場を外そうとしたのも事実なら、もしやと尋ね歩いたのもまたカミューを案じる男の衝動。マイクロトフらは声もなく、逞しい剣士の後ろ背を見守る。
しかし再び向き直ったゲオルグは、これまで通り超然としたものだった。
「さて、戻るか。明るくなくても収穫は収穫、早いところ聞きたいからな」
その一歩一歩が、マイクロトフを、そして誠実な騎士団員たちをカミューへと近付けるのだ。ゲオルグ・プライムの何気ない言葉は、今や総勢にとって進軍の合図に等しかった。

 

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うーん。
ゲームキャラを配属するのが
メチャクチャ楽しくなってきた……。

アルバート氏、数少ないロックアックス出身者。
残るマチルダ出はトニー君、ってあたりが悩めるー(笑)

 

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