INTERVAL /15


マチルダ皇国の首府都・ロックアックスは、建物の殆どが白亜の石材で築かれた美しい街である。そこに暮らす人々も、厳しい訓戒を負った騎士が護る街に相応しく、礼節に厚い。
街の入り手から伸びた主路をひたすら行くと、勾配の頂点に鎮座する王城へと辿り着く。途中、幾重にも枝分かれした小路に添って広がる住宅区の様子は、棲まう人々の顔ぶれによってやや趣きを違える。
城に近いほど富めるものが暮らす。これは何処の国でも見られる光景だ。彼らは主に独立戦争時の功労者、指導者マティスを間近に支えた人物らの末裔であり、いわゆる「貴族」といったものである。
そうした一握りの存在を除けば、マチルダの民にはおよそ階層らしいものがない。強国ハイランドの支配を逃れたという奇跡に惹かれてか、建国以降、多くの移民が流れ込んできたが、彼らも土着の民と平等に遇されている。
多少の貧富の差はあるが、極端な貧民層もなく、物価も比較的安定している暮らしやすい街。それがロックアックスという首府都の評価であった。
街の入り手に軒を連ねる宿屋を過ぎて、最初の脇路を東に折れて少し行くと、次第に路が入り組んでくる。増える人口に対応するため、主路を中心に段々と街を広げた結果、外れに近付くほどに路の交差が複雑を増すという現象が起きたのだ。
その最東に、少々隔たれた区画がある。東七区と呼ばれる、ロックアックスで唯一最大の歓楽街である。
娼館や酒場の密集したこの区は、いっぷう変わった価値観によって動く夜の世界だ。どんな国、どんな都市にも歓楽街はあるけれど、これほど\まった数の店が一所に集まるのも珍しい。
初めは各地区に点在していた店が、街の拡張に伴って、この地に集まるようになった。同業者がひしめき合えば競合も起きそうなものだが、整然とした街中でぽつねんと商うよりも、同様の店が集まった場の方が客入りが見込めるといったものなのか、いつしか「花街と言えば東七区」といった観念が定着するようにさえなった。
区画内には、居住に必要なあらゆる品が揃っている。肉や野菜、衣服や薬、金貸しの店まである。つまり、夜の商売に従事する人間が区画の外に赴かなくても生活に事欠かぬよう、小さな独立国家の様相を見せている訳だ。
一帯は低い石壁で囲われ、隣の区画と分けられている。けれど、これを「隔離」と見るものはいない。夜遊びには早過ぎる青少年を退けるためには必要な手段と、誰もが理解していた。
区画の「外」の住人──主として男性──は、妖しげな華を薫らせる大門を遠目に眺め、内部に繰り広げられる魅惑を想像する。金と時間、そして欲望を携えて門を潜る日を夢想して、少なからず照れ恥じるのである。
治安維持のため、騎士の巡回も行われるが、これには少々いきさつがある。
かつて東七区は白騎士団の管轄地域だった。しかし、それとは別に、商い人からなる自警団のようなものも組織されていた。
歓楽街には表には出せない事件も多々起きる。そうした諸々を揉み消すために、商い人らが真っ先に思い付くのは賄賂だ。けれど、騎士には通用しない。訓戒によって金銭の取得を禁じられているからだ。そのため、可能な限り、自身らの手で揉め事を解決しようと、自発的に区の治安を護る姿勢が生じたのである。
これは長く、良い塩梅に機能して、東七区は享楽がはびこる一画には珍しく安全な場として認知されていた───少なくとも、偉大なる先代皇王が没する少し前までは。
王が死ぬ一年ほど前、突如として白騎士団は警邏のつとめを怠るようになった。これに対して、区の民は然程騒がなかった。自警団もあるのだし、騎士の手など借りずとも、上手くやっていけるといった自負が芽生えていたからだ。
ところが、大きな誤りだった。
騎士の目が光らなくなったのを幸いに、途端に暴れる連中が現れ始めた。区の治安は一気に乱れ、自警団の力だけでは収集がつかなくなっていったのである。
盗難や喧嘩は茶飯事で、路地裏で娼婦が乱暴される事件や、果ては殺傷沙汰まで頻発する有り様。苦慮した代表が騎士団に陳情したところ、警邏の再開には驚くべき条件が提示された。上納金の要求である。
商い人たちはたいそう戸惑った。
上納金に関する新規の触れなど出ていない。これまで賄賂を拒んできた騎士団が、公然と賄賂を求めてきたのだから首を傾げずにはいられなかった。
それでも、出さねば護らぬと言われれば頷くしかない。店の売上から一定の金を渡すことによって、再び騎士団の巡回が行われるようになった。
ただ、ここにも些かの変貌が感じられた。
騎士には、揉め事を摘み取ろうとする意欲がまるでなく、いざ事件が起きても、おざなりに調べる素振りを見せるだけ。区内の様子が、巡回再開前に比べて劇的に改善したとは到底言い難く、人々の憤懣は、王が逝去する頃には頂点に達しようとしていた。
だが、服喪が過ぎて騎士団の体制が一新したとき、また少し事情が変わった。東七区を担当する騎士団が、白から赤へと移ったのだ。
場末と侮り、白騎士団よりも一つ下の序列となる赤騎士団が割り当てられたのだろうと、最初は誰もが腹立ちを覚えたものだ。今度は幾らの上納金を取るのか、少しはまともに見回る気があるのかと、人々は斜に構えていた。
それもしかし、新たな担当区を検分に来た赤騎士団員を迎えるまでのことだった。事実上の最高位階者である副長を先頭に区門を潜った男たちは、民が知るマチルダ騎士そのものだったのだ。
娼館や酒場の店主に丁重な挨拶を述べ、現時点で抱える問題を問う真摯さ。白騎士団員には確実に存在した侮蔑めいた眼差しはなく、他の区画の住民と同様に、護るべき民としてのみ捉えられているのだと誰もが感じた。
赤騎士団員は上納金についてなど一言も口にしなかった。立ち並ぶ店を覗いて歩き、国法で禁じられた品の取引が行われていないか、それだけを確認して去って行った。
以後、彼らの実直なはたらきによって、区内は昔通りの、喧騒混じりの平穏を取り戻していったのである。

 

 

さて、この東七区に入ってすぐ、一軒の酒場がある。
他区画との境であるためか、客足の伸びが今一つで、ちょうど前後して治安が乱れていたのもあり、主人は店を手放して他区に移り住んでしまった。
以来、長く空き屋となっていた店に新たな主人が現れておよそ三年。夕刻に開いて、明け方まで灯りの消えないこの店は、区画民の食堂と憩いの場を兼ねた、今では東七区で最も人気の高い酒場だ。
早めの夕食を取る商い人や用心棒たち、あるいは「一仕事」終えた娼婦らの休息の場として、店内は常に賑わっている。
一度は潰れた酒場の経営が見事に成功しているのは、主人の才覚の違いだろう。
新しい店主の作る料理は、何気ない拵えでありながら美味だったし、どういうツテがあるのか、店には安くて良い酒が大量に揃っていた。
腕っぷしの強そうな用心棒が目を光らせている訳でもないのに、暴れる酔漢も出ない。何の変哲もない装飾が不思議と心を落ち着かせる、そんな店だった。
人々がこぞって足を運ぶ理由の一つに、店主の人柄というものもあった。彼女──店主はたいそう美しく艶っぽい女性なのだ──は、人の話を聞くのが実に巧みだ。
悩みや愚痴、恨み事を零しても、決して他に洩らさない。カウンターの奥から、はたまた時には隣の椅子に座って話し相手を努める女将を目当てに、男ばかりか女性も大勢通ってくる。
女将には騎士団の後ろ盾があるとの噂もあった。事実、巡回に東七区を訪れる赤騎士は、必ずこの店に立ち寄って、さながら貴婦人にでも相対すような礼節を示す。
何らかの援助を受けているにしろ、女将が権威を振り翳すことは皆無だ。そんな彼女のさらりとした気風を、他の商い人は勿論、娼婦たちもが姉のように慕っていた。
この日、明け方近くになって最後の客を送り出したとき、女将は店の前に立ち尽くす一人の娘に気付いた。一本先の路地にある娼館で春を鬻ぐ若い娘だ。
女将の胸に予感はあった。他の娼婦仲間と何度か食事に訪れた娘だが、その度に物憂い眼差しをちらちらと向け、何事か話したそうにしていたからだ。
閉店する時間になって訪れるとは、余程の事情があるに違いない。普通の店主なら構わず扉を締めるところだが、そう出来ないところに女将の面倒見の良さがあり、愛される理由があった。
招き入れた娘を席に誘い、飲み口の良い酒を用意する。たった一人いる店の手伝いが、残りものの料理をテーブルに並べる頃になって、娘は堪らずといった様子で涙を零し始めた。
「ごめんなさい、レオナ姐さん……こんな時間に迷惑なのは分かっていたんだけど」
小さくなって呟く娘に、女将は微笑んだ。
「いいよ、気にしないで。話せそうなら話してごらん、聞いてやるしか出来ないかもしれないけど」
すると今ひとりの手伝い──これまた女である──が、娘の隣に座り込み、豪快に酒を注いだ。
「そうそう、言っちまいな。悩みなんて、ぱぁっとぶち撒けちまうのが一番だぜ」
励まされ、娘はたどたどしく語り出す。二人が予期した通り、それは不快な「客」への悩みだった。
「……もう駄目、耐えられない。贔屓にして貰って、最初はありがたかったけど、この頃は顔を見ると殺してやりたくなる。なのに、三日も空けずに通ってくるんだもの、限界よ」
ひとたび吐き出すと、これまで耐えていたものが溢れてくるのか、娘は大粒の涙を立て続けに落とした。
「そんなに酷い客なら、旦那に言っておやりよ」
レオナが言うと、娘は悲しげに首を振った。
「そういう訳にもいかないの。旦那さんは良くしてくれるわ、迷惑は掛けられない」
「でも、それが置き屋の主人の仕事なんだし、遠慮しなくて良いと思うけど」
娘は俯いた。
「身体に傷を付けられるなら、商売に関わるし、旦那さんにも言えるけど……あいつは言葉で女をいたぶるの、そういう好みなのよ。あたしのことなんて人間とも思ってない。命令すれば言うことを聞く家畜みたいなもの。今日も札束で打たれたわ、「これが欲しいんだろう、恥知らずの淫売が」って……。札束で打たれたくらいじゃ怪我はしない。でも、心は違う。そうやって、あいつはあたしが傷つくのを楽しんでいるのよ」
そこまできて、手伝いの女は激昂した。
「ロックアックスの人間なのかい、そいつは? 道理を弁えない、とんだ大馬鹿も居たもんだぜ!」
古今、娼婦は何かと見下されがちな存在だ。けれどロックアックスでは余所に比べてそうした風潮が薄い。商いの一つとして認められていて、たとえ内心はどう思っていようと、侮蔑を口にしたりしない。それがこの街の礼節であり、不文律なのである。
好むと好まざるに関わらず、身を売らねばならない境遇に陥る女は多い。マチルダでは、飢えから身を堕とすことは滅多にないが、それでも家の借金のため、あるいはより裕福な生活を求めて、東七区に暮らすようになる女は後を絶たない。
そんな娼婦たちも、次第に知る。想わぬ男に抱かれる日々はつらくても、噂に聞く他国の花街事情に比べれば、ここは恵まれているのだと。
娼館の主人は「商品」をたいそう大切に扱う。娼婦は「働き」に比した金を店に払うことによって護られる。おかしな真似をする客がいれば、主人に命じられた用心棒が飛んできて、即座に叩き出してくれる。
一方で、周囲はそうした商い関係で成り立つ店ばかりだから、軽蔑の目もなく、気楽なものだ。稀に区画の外に出ても、街の人々はあからさまな好奇を浮かべぬよう心掛けてくれるだけの品位を持っている。近頃では、そんな待遇を聞き及んで、他国から流れてくる娼婦もいるほどなのだ。
なのに、娼館の一室で陰湿な物言いが行われているとは信じ難く、手伝い女は息巻いた。
「許せない、そんな奴。店主に言えないならおれが行って、一発シメてやる!」
腕まくりしての豪気な言いように、娘は瞬き、そして微かに苦笑した。
「ありがと、ロウエン……でも、無理だわ」
「無理なもんか、こちとら腕っぷしなら自信があるんだ。女だからって侮るようなら、足腰立たないようにしてやるよ」
「あんたは本当に血の気が多いねえ」
呆れたように息を吐くレオナに、ロウエンはぐいと胸を張る。
「だってさ、姐貴───」
「あんたはもう……「姐貴」はおよしったら。けどね、それも旦那に訴える理由に充分なると思うけど?」
すると娘はまたしても弱く首を振った。
「……駄目なのよ。そいつ、騎士だもの」
「騎士だって?」
ロウエンは声を荒げ、次いで破顔した。
「だったらレオナ姐貴の出番さ。何しろ姐貴は騎士団に顔が利くんだから」
レオナが困惑気に瞬く間に、娘が言い募る。
「白騎士なのよ。しかも、騎士隊長」
「ああ……、それは少し厄介だねえ」
レオナは考え込んだ。
白騎士団は三騎士団中の最高位、巡回に訪れる赤騎士団より上に位置する。
騎士団内部の事情は少なからず耳に入るものだ。白騎士らが、とかく他団を蔑ろにする傾向は、この区画にも伝わってきていた。まして相手が騎士隊長級ともなれば、赤騎士団員に訴えたところで問題が解決するとは限らない。
「二言目には、自分は白騎士団・第三隊長だ、遊んで貰えるのを光栄に思え、……だもの。笑っちゃうわ、金で買わなきゃ女も自由に出来ないくせにね」
自虐的な笑みを浮かべて娘は酒を飲み干した。
「それでもほんの数時間のことだと我慢してきたけど……あいつ、とんでもないことを言い出したの。あたしを身請けするとか何とか───」
「……って、結婚?」
ロウエンが目を剥くと、娘の瞳には暗い光が滲んだ。
「冗談じゃないわ。ここまで通うのが面倒になってきたし、家の使用人が二人同時に止めたから丁度良い、って。つまり……、掃除や洗濯もこなす専属の娼婦が欲しいのよ」
それで耐え切れなくなって吐き出しに来たのか、と二人は納得した。肌身を売る女にも誇りはある。それをまったく考慮しない男の身勝手には呆れるばかりだった。
「……まだ借金は返し切れないのかい?」
幾度かの来訪から知った娘の境遇を過らせて、レオナは問うた。
「どんなに頑張っても、あと一年は掛かりそう。それでも、この街では店に納めるお金が余所より少ないらしいから、ミューズで働くよりは早いって皆に言われたけど」
「親父さんの作った借金だったっけ。なのにあんたがこんな仕事するなんて……納得いかないよ」  
むすっと頬を膨らませたロウエンに、娘は穏やかに笑んだ。
「悪い人じゃないの。ただちょっと……魔が差しただけ」

 

娘はもとは隣国ミューズの人間だ。ちょうどマチルダとの国境にある小村で父親と二人、つつましく暮らしていた。
そんな彼女に縁談が持ち上がり、相手がそこそこ裕福な若者だったため、父親は何とか恥ずかしくないだけの仕度を整えてやろうと考えた。
とは言え、家には碌な蓄えもない。金を作る当てもない。
己の無力を厭うて、ある日、酒場の主人相手に愚痴を零していたところ、悪い連中に目をつけられた。
言葉巧みに博打に誘われ、初めのうちこそ大勝ちした。だが、引き際を誤ったと悟ったときには時遅く、家中の物を売り払っても返せぬ莫大な借金を背負い込んでしまっていたのだ。
娘を売ってでも金を返せ、返さぬなら命はない。
責め立てられる父親を見るに耐えかねて、娘は己の身体で金を返そうと決めた。
噂では、隣国の首府都にある娼館では、「働く」ことを条件に\まった金を貸してくれるという。それに、彼の街の娼婦たちは、他に比べて良い扱いを受けるとも聞いた。故に娘は、国境を越えてマチルダへとやってきたのだった。
縁談は露と消えた。
娘は歓楽街で、片や父親は、重労働だが収入の多い洛帝山の鉱夫として働き始めた。
悪党たちへの借金は、娼館の主人が肩代わりしたかたちで清算された。後は、主人が払った額を返し終えるまで、娘の「夜の商い」は続く。
自らの失態で娘をとんでもない境遇に落としてしまった父親の苦悩は深く、殆ど休みなしで日銭を稼いでいた。

 

「鉱夫の仕事って、相当きついらしいわ。なのに手紙でも謝ってばかり。元はあたしのためを思ってのことだもの、恨めないわ」
それを聞くと、ロウエンはぐすりと鼻を啜り上げた。男勝りだが、心根は優しい女なのだ。そんな彼女を見遣り、娘は表情を和らげた。
「そりゃあ、この仕事は好きじゃないけど、それはもう諦めもついたわ。旦那さんも良くしてくれるし、仲間の子たちとも上手くやってる。あの男さえ来なきゃ、そう酷い生活でもなかったんだけど」
強がる娘が痛ましく、レオナは無言で空になったグラスに酒を足した。
「……赤騎士団員に、話すだけ話してみようか?」
娘は少し考えて、ゆっくりと首を振った。
「あたしなんかのために、もしも赤騎士様の立場が悪くなったりしたら、自分が許せなくなるわ。いいの、こうやって聞いて貰えるだけで楽になるから……言わないで、レオナ姐さん」
そこでふと、娘の瞳に新たな涙が浮かんだ。もしかすると、彼女は警邏に訪れる赤騎士の誰かに恋心でも抱いているのかもしれない、レオナはそんなふうにも思った。
「身請けの件だけど、もう旦那にも話が通っているのかい?」
「ううん、まだそこまでは……今日初めて言われたから」
レオナはふっと笑んで、長煙管を取り上げて火を入れた。
「身請け、ってのは、つまりあんたが旦那から借りてる金を肩代わりするってことだよね。だったら旦那に頼んでごらん。借金の額に色をつけてくれ、ってさ」
あっとロウエンが手を打つ。
「そうだよ、その馬鹿騎士が払うのを渋るくらい、べらぼうな大金を言って貰えば良いんだ!」
「……そうか。そうよね、女遊びにはお金を使うけど、新しい使用人を雇うのは躊躇う奴なんだから……とんでもない金額を出されたら考えるわよね、きっと」
光が射した、とでも言いたげに娘は顔を輝かせた。潤んだ目でレオナを凝視し、それから深々と頭を下げる。
「ありがとう……良かった、思い切って話に来て。本当にありがとう」
「楽観する訳にもいかないけどね。でも、少しは時間稼ぎになる。駄目だったらまた考えよう。もう少しだけ頑張ってごらん、話ならいつでも聞くから」
営業時間外と知りながら、店に足を運ばずにはいられなかった娘の心も、ほんの少し軽くなったようだ。何度も何度も頭を下げ、やがて彼女は住まう娼館へと帰っていった。
娘が去った後には、複雑な沈痛が残った。
「やり切れないったらないぜ。騎士隊長だって? まったく、白騎士団はどうなっているんだか」
忌ま忌ましげに零すロウエンに、レオナは淡々と返す。
「全部が全部って訳じゃないだろうけど、タチが悪いのが多いは確かだね。これまで聞いた騎士絡みのいざこざは、見事に白騎士団員ばかりだし」
そうして彼女はひっそりと溜め息をついた。
国に良からぬ勢力が台頭するとき、最初に泣くのは立場の弱いものたちだ。
マチルダは緩やかに崩壊へと傾いているのかもしれない。ここ数年で垣間見るようになった騎士の腐敗ぶりが何よりの証。これまで国を支えてきた柱が変質してきている。
白騎士団長ゴルドーには良い噂を聞かない。皇太子や宰相を蔑ろにしているだの、己の利になるよう法を捩じ曲げて解釈しているだの、場末に届くのはそんな話ばかりである。それらが単なる風評であっても、配下の騎士を見ればゴルドーの人格も知れるというものだ。
あの男がマチルダ騎士団の頂点に居座る限り、先行きは暗い───東七区に暮らすものの間に囁かれる不安。
「本当にどうなるんだろう、これから」
肉感的な体躯を揺らして、ロウエンが皿を片付け始めた。苛立たしげに尖った唇を一瞥したレオナが、煙管の先に立ち昇る紫煙を見詰めながらポツと呟く。
「……新しい王が立てば変わるさ」
「新しい王……って、今の皇太子?」
ロウエンは首を傾げた。
「けど、姐貴。これでやっと十八になる若造だろう? 王位に就いたからって、何が出来るとも思えないけど」
───皇太子マイクロトフ。
頻繁に街を闊歩していた前皇王とは違って、これまで彼は殆ど民の前に姿を見せることがなかった。
それがこのところ、どうした心境の変化か、騎士を従えて城を出るようになった。回数こそ未だ少ないが、その姿を見たものは、「先代皇王が戻ってきたようだ」と歓喜している。
皇太子は、民の一人一人に礼節を示し、温かな言葉を掛け、向けられる言葉には真摯に耳を傾ける人物だと。
周囲の騎士たちにも心から愛され、親しまれている人物なのだと。
そんな話が東七区を駆け巡って久しい。
「歳で人は量れないよ、ロウエン。いつか自分の店を持つ気なら、覚えておくんだね」
微笑んで、吸い込んだ煙を細く吐く。
挨拶に店を訪れる赤騎士たちの顔は、かつては常に重く陰っていた。
けれど、あるときから一変した。
彼らは言った。これより赤騎士団は、未来のマチルダ王の剣となり、盾となる、と。
どういういきさつがあったかは分からない。聞けば多少は語ってくれたかもしれないが、騎士たちの希望に満ちた表情で、レオナには充分に事足りた。
彼らは進むべき道を与えられたのだ。誇り高く、価値を見出せるだけの道を。
「そりゃあね、おれだって新しい王には頑張って貰いたいよ。でもって、腐った連中を一掃してくれたら万々歳だ」
ロウエンが布巾でテーブルを清めたところでレオナは煙管の火を落とした。
「日が昇ってきたね、早いところ片付けて休まないと。ロウエン、悪いけど残りのゴミを出しておいてくれるかい? 洗い物はあたしがやるから」
「はいよ、姐貴」
調理で出た野菜屑などは、\めて店の裏手に置いておく約束事になっている。家畜の餌に利用するため、それらを集めて回る商い人がいるのだ。
ロウエンは厨房の隅に置かれたゴミ袋を下げて扉を出たが、ものの僅かで血相を変えて戻ってきた。
「あ……姐貴、大変! 裏で人がくたばってる!」
「何だって?」
あまりの剣幕に驚いて、洗っていた皿を落としそうになりながらレオナは瞬く。片手に袋を掴んだまま、ロウエンは足を踏み鳴らした。
「死体だよ、死体! 夜中にゴミ出ししたときは無かったのに……ど、どうしよう?」
「どうもこうも……お待ちったら」
濡れ手を拭いて、扉へと進む。こんなときにも妖艶な仕草で首を傾げ、扉の前で仁王立ちになったロウエンに怪訝な瞳を当てた。
「おどきよ、出られないじゃないか」
「けど、姐貴。見ない方が……」
「本当に死体かどうか確かめないと」
「死んでるよ、ピクリともしないんだぜ?」
ふんと鼻で笑ってレオナは言う。
「うちの敷地に死体を転がされたら、それこそ黙っていられないねえ。おどき、ロウエン」
レオナはロックアックスに来る以前、傭兵相手に酒を売っていたことがあった。一癖も二癖もある連中相手に商売していただけあって、婀娜なる姿に似合わず、勝ち気な面を持ち合わせている。
それを知るだけに、ロウエンは渋々と道を開けるしかない。代わりとばかりに流しへ走り、包丁を引っ掴んでレオナの後に続いた。
店の裏手には一列に木が植えてある。樹列が奥の建物との境界となっているのだ。その中の一本、他よりやや背の高い木の根元に「それ」が在った。
勇ましく包丁を構えたまま、ロウエンは素早く周囲を見回したが、怪しい人影は認められない。合意の合図を見届けて、レオナは「それ」に近付いて行った。
最初は黒い塊にしか見えなかったが、よくよく見れば、確かに人だ。たっぷりとした黒い衣服が、胎児のように縮こまった体躯を覆っている。ロウエンの言う通り、身じろぎもせぬそれは死体にしか見えなかった。
「夜のうちには無かったって? 多分、服が黒かった所為で、気付かなかったんだろうね」
「あ、そうか。だよな、明るくなってから人の店の敷地に死体を放り込む奴はいないか……」
距離を置いての検分の後、レオナは再び歩を踏み出した。慌てて追い掛けるロウエンと二人、そろそろと覗き込んでみる。慎重に伸ばした手で、横たわる身体の向きを変えたところで、女たちは息を呑んだ。
零れ出た髪は薄い茶で、陽光に反射して金にも見えた。
次いで、恐ろしいほど整った面差しに目を奪われる。
苦しげに寄った眉の線、長い睫、すっとした鼻筋。
形良い薄めの唇は、頬と同じく色を失っていた。そして、白すぎる頬───なまじ端正なだけに、作りもののひとがたのようだ。
「こりゃあ……驚いた、たいした色男だ」
散々死体呼ばわりしたのも忘れてロウエンが呟いた。
「勿体無い。ちょっと若いけど、あと何年かしたらおれの好みだったのに」
「……死んでないよ」
「え?」
「生きてる」
「本当かい?」
青年の首筋に手を当ててレオナは言い、眉を顰めた。
「だけど……変だね。この坊や、ひどい熱を出してる。なのに何で汗ひとつ掻かず、こんなに青白いんだろう?」
どれ、と並んで屈み込んで青年の額に手を乗せた途端、驚愕の声が上がる。
「な……何だよ、これ? 普通じゃないぜ」
そのときレオナは、初めて青年が剣を持っているのに気付いた。さながら胸に押し戴くように、鞘ごと両手でしっかと握り込んでいる。それは、何かに縋らずにはいられぬ無力な子供の仕草に似て、レオナの胸を衝いた。
「……とにかく中へ運ぼう。ロウエン、足の方を持っておくれ」
ただでさえ美しい容貌の青年、しかも病人とあっては、警戒も緩むというものだ。ロウエンは包丁の柄をレオナに差し出した。
「こんな細っこい奴、おれ一人で充分」
レオナが包丁を受け取るなり、青年の肩を抱き起こす。そうまでされても青年には目覚める気配がない。 人知を越えた深淵の奥底に落ち入っているようだった。
「剣が邪魔だな……姐貴、そいつも頼むよ」
請われてレオナは剣を取り上げようとしたが、握る指の力が緩まない。剣を扱うにしては細く長い指先を一本ずつ外すしかなさそうだ。
「大丈夫、心配するんじゃないよ。あんたを助けたいだけだから」
聞こえる筈もない、そう思いながらも囁いてみると、不思議と青年の指から力が抜けた。ゆっくりと手に引き取った剣は、持ち手に良く合う細身の拵えであった。
障害がなくなるや否や、ロウエンは一気に青年を肩に担ぎ上げた。彼女の怪力ぶりを知るレオナでさえ、呆気に取られるほどの豪快な様相である。
「何処へ運ぶ?」
「店に置いておく訳にはいかないし……取り敢えず、上かねえ」
この建物は、一般的に見られる、一階が店で二階部分が住居といったものだ。レオナの部屋、そして半年ほど前に転がり込んできたロウエンの部屋の他に、一室だけ空いた部屋が残っている。
指示された通り、青年を担いでロウエンは階段を上がり始めた。途中、背後のレオナをちらと窺う。
「医者はどうする、姐貴?」
「そうだねえ……」
病とも思えぬほどの熱だった。まるで体内に沸騰した血が巡っているようだ。医学で何とか出来るような類のものではないとも思われる。
「そろそろ騎士が午前の巡回に来る時間だけど……事情を話して引き渡してさ、面倒見て貰った方が良いんじゃないかな」
そんなロウエンの控え目な提案にも、レオナは考え込むばかりだった。

 

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どこかの回で騎士が「花街云々」と話していたのは、
ここに繋がるのでした。

さて、赤側の新キャラですが。
花街の母(←笑)、レオナ。
ゲーム中では「私」「あたし」両方言ってましたが、
個人的好みで後者を選択。
ロウエンは、ネクロードとのイベントで
リリィちゃんを庇う男前っぷりに惚れました。
この二人が花街にいる事情は次回登場時にでも。

 

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