眠りの足りぬ目に、午前の陽は眩しい。
仲間たちがつとめを果たすべく部屋を去った後、マイクロトフはゲオルグに城を案内しようとしたが、彼は笑って申し出を退けた。この先、マイクロトフに随従していれば、おいおい内部の様子も知れるというのが理由だった。
代わりにゲオルグは、巡回の刻限が来るまで見晴らしの良い場所で寛ぎたいと希望した。そこで、西棟の屋上へと導くことにした。
高さで比するなら中央棟が最大で、眼下の脇に森が広がる西棟の屋上よりも遥かに見通しが利く。しかし中央棟は白騎士団が本拠とする棟であり、今のマイクロトフにとってどうにも避けたい一画だった。
カミューとの齟齬の始まり、五年前のグラスランド侵攻。
そして父王の毒殺疑惑。
そのいずれにも関与を疑われている白騎士団長ゴルドー。彼を想起させる白騎士たち、あるいは最悪の場合で本人に、今は何としても顔を合わせたくない。
仮定の域を出ないと誰もが口にしながら、だが心のうちには確信に近い思いがある。
無論、決め付けてしまうのは危険だ。積もり積もったゴルドーへの負の感情が、見方を狭めている可能性はある。すべての中心にゴルドーが据われば、何もかも解決するといった希望的観測もはたらいているかもしれない。
だからこそ、騎士たちも己への戒めを込めて強調するのだ───仮定である、と。
すべてを明かすまでは、たとえゴルドーと相対しても平静を保たねばならない。笑って挨拶のひとつも口に出来るような泰然を必要とされる。
だが、未だマイクロトフにはそのように振舞う自信がなかった。愛するものたちを傷つけた男、そう思うだけでゴルドーに掴み掛かってしまいそうだ。
だから今は、せめてもう少しだけ心を抑えられるようになるまでは、ゴルドーの周囲に近付きたくないのである。
石縁に凭れて遠い風景に見入るゲオルグに目を向ける。
世に高名を轟かせながら、彷徨の旅を続ける剣士。噂通りの剣腕を持つなら、望むままに栄光を掴み取れるであろうに、得てきたものは「二刀要らず」の二つ名だけ。
今も、協力を約しながら、報酬を求める気配もない。実に不可思議な男である。
厳しさと慈愛を兼ね備えたゲオルグに、マイクロトフは亡き父の面影を重ね見た。昨夜から続く痛みを、大きな温みで包まれるような気がした。
「ゲオルグ殿……、感謝しています」
小さく呼び掛けると、男はちらとマイクロトフに目を向けた。
「自分の知る情報を晒しただけだ、まだ礼を言われるようなことはしていない」
いえ、と弱く首を振る。
「おれたちには充分過ぎるほどの助けでした。ですが、今のは……五年前、カミューを救ってくださったことに対してです」
彼が居なければ、カミューは生きていなかった。道を外したマチルダ騎士の刃に掛かり、命を落としていたのだ。
「ゲオルグ殿が助けてくださったから、おれはカミューと出会えました。礼を言います」
ゲオルグはぱちぱちと瞬いて、次いで口元を緩めた。
「命を狙われていても、会えて良かったのか?」
「はい」
きっぱりと頷く。
「出会いは一瞬の縁です。何があっても失いたくない相手ならば尚のこと……おれはこの巡り合せに、自分のさだめに感謝しています」
マイクロトフは腰に下げた大剣の鞘にそっと触れた。
「ゲオルグ殿は、魔剣というものを信じられますか?」
魔剣、と口の中で復唱して、ゲオルグは目を細める。
「世には不思議が溢れている。これまで目にしたことはないが、あったところで驚かないな」
答えを待って、マイクロトフは自剣を見遣った。
「皇王家に伝わる剣で、ダンスニーと言います。この剣は、持ち手となる王族の器量を量る魔剣と伝えられてきました。剣に認められないものが鞘から抜けば禍が、器に足る人間ならば祝福が与えられる、と……」
たちまち興味を示すゲオルグの顔つきを見て、鞘ごとダンスニーを渡す。
「……おれが抜いたらどうなる?」
「多少、奇妙な感じはするかもしれませんが、王族の血を持たぬ人間には問題ありません。カミューも抜いたことがあります」
聞くなりゲオルグは、素晴らしい早さで剣を抜き放った。陽光に映える白刃をしげしげと眺め、やがて何とも言えぬ溜め息を洩らした。
「確かに変わった感じがするな。拒まれているというか、嫌がられているというか……さっさと放せと言われている気がする。魔剣か、成程」
一度だけ素振りの仕草を取った後、ゲオルグはダンスニーを鞘に戻した。剣を受け取りながらマイクロトフは続けた。
「持ち手として力足らぬものが抜刀すれば、自我を失い、殺戮の獣と化してしまうのです。おれも以前、恥ずべき残虐を犯してしまいました」
ゲオルグは驚いて目を瞠る。瞳には、静かに佇む皇子が映るばかりだ。
「ひとたび抜いたが最後、魔に支配され、剣を手放すまで相手を問わず斬り続けます。誰にも止められず、誰の声も届かない、これまで聞いてきた言い伝え通りでした。でも」
マイクロトフは手にしたダンスニーを愛おしげに見詰める。
「カミューは……カミューの声だけはおれに届いたのです。魔剣に屈するな、戻って来い、と……」
「それで勝てたのか?」
こくりと首肯し、マイクロトフは微笑んだ。
「願ったのです、彼の許に戻りたいと。彼に恥じぬ己でありたい、そう強く願いました。その瞬間から禍は消えたのです」
「…………」
「同時に気付きました。おれにとってカミューは代わるものなき存在。生涯、共に在りたい唯一の人なのだと」
暫しマイクロトフを凝視して、ふとゲオルグは遠くに視線を投げた。
「たいしたものだ、そこまで惚れたか」
「はい、…………えっ?」
うっかり頷いてしまってから息を呑む。あからさまな反応に苦笑して、ゲオルグは向き直って石縁に背を当てた。
「何だ、言葉の綾だったのに……図星か」
「いえ、それは……あの、違───」
狼狽のあまり満足に声が出ない。終いには過呼吸で噎せ返り、涙目になってゲオルグを見上げる。やれやれといった面持ちで、咳込む皇子の背を叩きながら笑うゲオルグだ。
「そう焦らなくても良かろう、昨今では珍しくもなかろうに」
もはや隠し通せないと観念して、おずおずと口を開く。
「カミューへの想いを恥じる気はありません。ですが、世間的に認められない感情であるのは分かっています。ましてカミューの師でおられるゲオルグ殿には、何と言って良いのか……」
「倫理観というものか」
ひょいと首を傾げて剣士は返した。
「あの馬鹿弟子がおまえと同じ気持ちなら、おれは諸手を挙げて祝うがな」
「……え?」
戸惑いがちに洩れる声。凝視の先で、「二刀要らず」は穏やかに続ける。
「愛するものを失って以来、人と深く交わるのを避けるようになった。そんなあいつが心を開くなら、別に相手が男だろうが、構わんさ。世の倫理とやらに背くことになろうと、人を愛さぬ人生よりも、愛する方がずっと良い」
「ゲオルグ殿───」
「それもまあ、相愛なら……の話だがな」
一応は受け入れられたとは言っても、二人で過ごした甘い時間まで語るのは流石に憚られる。追求しないでくれ、との心底からの祈りが通じたのか、ゲオルグは不意に表情を引き締めて話題を変じた。
「しかし、皇王制を廃止するという話……まさかカミューのためとか言うのではなかろうな?」
漸く落ち着きを取り戻したマイクロトフが苦笑を零す。
皇王位に立つ身であれば、どんなに足掻いたところで妃を迎えねばならない。カミューへの想いをまっとうしようにも、周囲を納得させるのは不可能に近い。
と言って、前に彼が詰ったように、日陰の身に置くなど断じて出来ない。それでは妃とカミュー、双方に対して不実だからだ。
「正直、全くないとは言い切れません」
率直に吐露して、だがマイクロトフは真っ直ぐにゲオルグを凝視する。
「しかし、おれの置かれた立場は己の感情ひとつで左右して良いものではない。そんな真似をすれば、これまでおれを信じて支えてくれたものたちを裏切ることになります。様々を考えた上で、マチルダの未来に最善の道を選んだつもりです」
「ついでにカミューとの未来も掴む、か。だがな、皇子。グリンヒル公女との結婚も確定していたのだろう? 向こうの状況がああだから白紙に戻りそうだが、でなければ、どうするつもりだったんだ」
これは男としての誠実を問われているのだと直感して、マイクロトフはテレーズと交わした密約を打ち明けた。無言で聞いていた剣士の目が、次第に丸くなっていく。
「───という訳で、もともとテレーズ殿との結婚はなかったのです」
「皇子……おまえさん、相当なお人好しだな」
ゲオルグが呆れ調子で零すと、マイクロトフはにっこりした。
「カミューにも言われました。あ、これは他の誰にも話していないので……」
「分かった、沈黙を遵守するさ。どのみち実行されなくなった策だしな」
それにしても、と首を捻る。
「偽りの婚約でなかったら、カミューに惚れても、ややこしい事になったろうな」
「すべてが巡り合わせだと思っています。どうやらおれは、強運に味方されているらしい」
こいつめ、とゲオルグは空を仰ぎ、それからゆっくりと首を振った。
「……あいつが逃げた理由も分かる」
「え?」
男はマイクロトフにひたと視線を当てる。
「殺すつもりで近付いた相手に真っ直ぐな好意を向けられて……さぞ面食らっただろう。駄目だと知りつつ、情が生まれるのを止められなかった。結果、板挟みになって逃げるしかなかったんだな」
───憐憫混じりの溜め息。
「馬鹿な奴だ。何処へ潜ったんだか、……ぶっ倒れていなければ良いが」
しんみりと聞いていたマイクロトフだが、消え入るように付け加えられた一節に目を剥いた。
「それはどういう意味ですか?」
ああ、と彼は説き始める。
「話しただろう? 「烈火」が覚醒したての頃、カミューは熱を出して倒れてばかりいたんだ。だが……数ヶ月もすると、身体が馴染んだのか、それも徐々に減っていった。ただな、時折「烈火」は暴れる。大抵はあいつの心が乱れたときだ。日頃は折り合いがついているのに、抑え切れなくなるとでも言うか……、ひどい熱に襲われる」
「心が乱れる───」
自失気味に呟く。
「精神的に不安定になると、「烈火」を制御し切れなくなるということですか?」
「そんな感じだろうな。デュナンに来た当初、もう「烈火」を抑えられるようになっていたんだが、それでも騎士団や皇王の噂を聞くたびに体調が悪いと零していた。特に、王を称賛する噂には弱かったようだ」
「…………」
「それもまあ、デュナンで過ごす日が重なるうちに慣れたようだが。子供の知恵熱に似ているが、あいつが宿す力は、そんな可愛い代物じゃない。何しろ「烈火」だ、暴発したら本人も周りもただでは済まないと思ったからな、何度か紋章師に相談したが……生まれ持つ紋章については不明な点が多いらしくて、「とにかく意思を強く持って抑え込め」だの、「常に平静を保つよう心掛けろ」だの、まるで役に立たない助言しか貰えなかった」
途中からゲオルグの言葉が頭に入ってこなくなった。
あれはいつだったろう───熱を出したカミューを、従者と二人、おろおろと見守ったのは。
そうした状態に陥るのは初めてではない、と彼は平然を通していたが、結局、そうなる理由は最後まで語ろうとしなかった。
あの頃から既に彼は揺れていたのか。出会って然程経たない頃だったと思われるのに。
「探した方が……良いでしょうか」
戦慄きながら掠れ声を絞り出す。
ゲオルグの言葉通りなら、カミューは重大な窮地に在るのではないか。相反する感情に裂かれている───正しく「不安定」な状態。
こうしている間にも、支配を振り切った炎がカミューを呑み込もうとしているのではないか。そしてもし、通りすがりの第三者が巻き込まれでもすれば、「生きた人間に力を向けない」という誓いまでもが崩れてしまう。二重の意味で、彼は苦痛を受けることになるのだ。
「あんなふうに決裂した以上、真相を究明する方が先だと考えました。ですが、やはり捜索に出た方が良いのでしょうか」
必死の面持ちで詰め寄る皇子に、ゲオルグは微かに眦を緩めた。
「案ずるな、皇子。「烈火」は暴発しない」
「えっ?」
「暴発はしない。カミューが許さない」
「カミューが……?」
戸惑う黒い瞳に強く頷き掛けて男は続ける。
「おれが知る中で一番ひどかったのは、マチルダ王が死んだときだ。あいつは寝込み、幾日も意識がなく、触れれば火傷しそうな熱を抱えて、それでも「烈火」を抑え抜いた。不用意に解き放った炎がどんな猛威を振るうか……あいつは自分の目で見ているんだ。だから暴発はさせない。何があろうと、無意識であっても、全霊で「烈火」を封じ込む」
グラスランドの村で、逃げる間もなく炎に包まれたマチルダ騎士たち。敵とは言え、生きたまま焼かれる光景の無惨が、自戒となってカミューに深く根を張った。
ゲオルグの確信が伝わり、マイクロトフにもそれが信じられた。想い人の身は気掛かりだが、少なくともマチルダの何処かで悲劇の炎が上がる恐れはない、と。
「……これが続く限り、カミューの苦しみも終わらないのですね。何としても、早く決着をつけたい」
心からマイクロトフは言った。
「何もかも終わらせて、またカミューと並んで馬を走らせたい」
───あの柔らかな声を聞きながら、白い横顔を見詰めて。
ふと交じり合う視線に未来を指し示され、艶やかな微笑みに永遠を見て。
「カミューの熱を……間近に感じたい」
するとゲオルグは、渋い顔で唸った。
「皇子よ。四年半ばかり、あいつの保護者代わりだった身には少々きわどい発言だぞ、そいつは」
束の間ぽかんとした後、思い至って頬を朱に染めるマイクロトフだ。
「そういう意味ではなく……いや、どういう意味かと聞かれても困るのですが」
勢い込んで言った後、しどろもどろになっていく。
「初めてカミューを見たときは、あの通り色白だし、体温が低そうに思えたのです。その……、先日の査察でマチルダ最北の地に訪れて、もう夜は暖炉に火を入れるような気温なのに、カミューを抱えていると、火など必要ないくらいに温かくて」
「…………」
「身体だけではなく、何と言うか、こう……胸の奥の方から温まってくるのです。元気なときでも体温は高いと言っていましたが、やはり「烈火」を宿しているからなのでしょうか。夏場はつらそうだ、少しでも過ごし易いように考えてやらないと」
そこまできて、マイクロトフはぐったりと脱力して石縁に縋る剣士に気付いた。
「ゲオルグ殿?」
「いや……おまえさんの気持ちも、カミューの体温が高いのも充分に理解した。だから頼む、もう勘弁してくれ」
何を頼まれたのかは良く分からなかったが、取り敢えずマイクロトフは口を閉ざした。自らの発言が盛大な惚気になっているのに気付かない、彼は相当に鈍い男であった。
「実を言うとな、皇子」
辛くも脱力から立ち直ったゲオルグが語調を改める。
「大言は吐いたが、おれはカミューが襲ってくるとは考えていないんだ。少なくとも当分の間は、な」
「───同感です」
唐突に割り込んだ第三の声。
二人が同時に振り向いた先には、青騎士団・第一隊長が立っていた。事態を把握するなりマイクロトフは紅潮して、あわあわと呻いた。
初めてカミューへの恋情を洩らす相手を得たという喜びで浮かれていた。が、少し前の己の発言、特に「抱えていると温かい」といったくだりは、第三者には些か不審に聞こえるだろう。カミューが戻る日を思えば、ゲオルグ以外に事情を知る人間を増やすのはまずい。
「い、いつからそこに……」
上擦った声で呟く皇子に騎士は怪訝そうに瞬いた。
「いま来たところです。声を掛けるつもりでしたが、ゲオルグ殿の御意見に賛成だったので、そちらを先にしたのですが」
「……人が悪いな、青いの」
ゲオルグは苦笑った。純朴な皇子のためには、聞かれなくて良かったと胸を撫で下ろしながら。
「もう巡回とやらに出る時間か?」
「いえ、昼食を済ませてからになります。報告に来ました」
すっかりと気持ちを入れ替えたふうの剣士、未だ狼狽が納まらないといった面持ちの皇子を交互に見遣り、騎士は一度だけ首を振って背を正した。
「副長の戻りが遅かったのは、宰相殿に政策閣議参席を請われたからだそうです」
「閣議に?」
やっと自制を取り戻してマイクロトフが復唱する。
「ええ、異例ではありますが。急な要請だったため、閣議前に伝令騎士を捕まえる暇がなかったようですな」
そう言って差し出された小さな紙片には、副官の几帳面な字で、閣議出席の経緯と報告が遅れたことへの陳謝が綴られていた。おそらく休憩時間にでも議場を抜け出し、配下の騎士に連絡を命じたのだろう。
閣議は四十名程の政策議員によって執り行われる。皇王不在の今、政治の方向をさだめる重要な場だ。皇王と騎士団長、マチルダの両輪と称される二つの権威のうち、皇王の代理を担っているとも言える。従って、騎士の参席は求めらず、稀にあっても、最高位階者たる白騎士団長というのが慣例であった。
尤も、今やゴルドーの力は議会の遥か上を行く。身辺に集めた財や有力者との繋がりを慮る議員が増え、事あるごとに「ゴルドーの意見は如何に」との横槍を入れる。そうなると、議会はゴルドーに牛耳られているも同じだった。グランマイヤーの胃も痛む訳である。
そんな中に、皇王制廃止といった国の根本を揺るがす議案を投げ込むのだから、たとえグランマイヤーほどの人物であっても、心細さのようなものを覚えるのは自然だろう。「誰よりも皇子を良く知る騎士」として青騎士団副長を参席させたのは、何かの際の味方として、そして同時にゴルドーへの意趣返しという、彼なりの開き直りにも取れた。
「そうか……グランマイヤーに甘えてしまったが、おれが出向くべきだったのだな」
申し訳なさでいっぱいになりながら呟くと、騎士隊長は肩を竦めた。
「宰相殿も覚悟の上で臨まれたのですから、その部分を気遣われては非礼に当たるのでは? 生真面目な方ですし、寧ろ団長に無断で副長を留め置いた方に胸を痛めておいでかと」
そうかもしれない、とマイクロトフは思った。色々と目まぐるしくて混乱しがちだが、別なる戦いに臨んでいる宰相にも感謝を忘れてはならないと己を戒める。
「最後の一文も御覧いただきたい。例の、皇王印製作職人が割れました」
「本当か?」
慌てて紙面に目を戻すと、文面の終わりに、名と住処らしい一文が記されている。
「皇王印……と言うと、あれか。偽造が疑われるという?」
ゲオルグの問いに、騎士は小さく首肯した。
「今も家業が続いているかは不明ですが、職人の末裔の居所までは分かりました。ロックアックス内で幸いでしたな、巡回時に足を伸ばしてみませんか」
マイクロトフは無中で頷いた。
また一歩前進だ。
どんなに長い道程でも、進み続けてさえいれば、いつかは終着の地が見えてくる。ましてマイクロトフは独りではない。同じ地を目指し、支えてくれる仲間がいる。
高揚を覚えながら騎士に紙片を返したところで、初めて彼は眉を寄せた。
「そう言えば、さっきのあれはどういう意味だったのだ?」
「……どれです?」
「当分の間カミューが襲ってこないという意見に賛成する、と……。おまえは昨夜、これから最も危険なのはカミューだと言っていたではないか」
「ああ、それですか。撤回します、あれから考えを改めました」
しれっと言い切り、呆気に取られる皇子に笑む。
「まあ……、襲って来た場合に恐ろしい相手なのは確かですが、襲撃そのものがないうちは何とも……。そういう意味で、ゲオルグ殿に賛同したのです」
「良く分からない。ゲオルグ殿も……、どうして襲って来ないと考えられるのですか?」
問われたゲオルグは、複雑な表情で言う。
「当分は、と前置き付きだぞ、皇子。それはな、カミューが揺れているからだ。復讐は果たしたい、だが相手に好意を持っている。どちらか一方に完全に針を傾けるには、幾らあいつでも、ある程度の時間を要すると思うからだ」
ええ、と騎士隊長が短く賛同した。
「それと今ひとつ、気に止めねばならなかった点に気付きました。目的が発覚した際、彼は団長に一対一での対面を求めた。しかし、彼に分からない筈はないのです。我々があなたを一人で行かせることは決してない、と」
そう言えば、とマイクロトフは記憶を掘り起こす。
騎士たちが乱入してきたとき、カミューは驚いた顔をしなかった。予想の範疇だったかのように、落ち着き払って一同を迎えていた。追い込まれた焦りも見せず、ひたすら彼は冷静だった。
そこで青騎士隊長が目を伏せる。
「あのときはわたしも些か沈着を失っていたので、考え及びませんでした。本気であなたを殺すつもりなら、彼には別の手段が幾らでもあった筈。我らが戦えないと踏んでの賭けだったとも考えられなくはないが、彼にとっては負の要因ばかり多い賭けです。良くて相打ち、悪くすれば自滅。「最後の敵」を前にして、そんな無謀を冒す人物だとは思えない」
「…………」
考え込んでしまった皇子を暫し見詰め、騎士はやや表情を和らげた。
「決意したつもりでいても、本能が逃走を命じた。迷いを捨て去るための時間が必要だったからではないかとわたしは考えます」
無言で耳を傾けていたゲオルグが、うっすらと口許を綻ばせた。
「青いの、短い付き合いの割にはあいつを理解しているな。おれもさっき、似たようなことを皇子に言ったところだ。あの馬鹿は、何でも巧くこなすくせに、自分の感情には不器用だ。マチルダに来てからは尚更だったろうな、憎んできた連中とは違う騎士たちに、真っ正直で好意を隠さない皇子ときては……途方に暮れるしかなかろう」
騎士隊長は目線で同意を示し、マイクロトフに礼を取った。
「……以上の点から、「次」までには多少の猶予があるのではないかと。無論、完全に気を緩める訳にはいきませんが」
ああ、と弱く応じるマイクロトフの胸に慕情が込み上げる。
常に颯爽として、迷いなどないと思われた青年。そんな彼の胸に、自身と同じ、あるいはそれ以上の葛藤が棲んでいる。
彼はどれほど苦しんでいるのだろう。虚ろな白い頬に流れた一筋の涙が脳裏を過り、今すぐにでも抱き締めたい思いに駆られた。
陽はそろそろ中空に差し掛かる。程なく正午を告げる鐘が城内に響く刻限だった。
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