最後の王・70


気は張っていた筈なのに、寝台に横たわるなり眠りに落ちたらしい。
せめて夢の中で愛しき人との邂逅を───切ない願いも叶わぬまま、束の間の休息を貪り、そしていつもの刻限に目が覚めた。肉体に馴染み切っていた訓練への意欲が、こんな日にも健在であったようだ。
半身を起こした状態で、もう一つの空いた寝台を見遣る。薄茶色の髪を乱して眠る姿を思い、一瞬だけ胸を衝かれたが、すぐに気を取り直して浴室に向かった。
結局昨夜は湯を使わなかった。が、悠長に湯あみをする気にもなれなかったので、水を浴びるにとどめた。肌を刺す冷たさが、心までをも引き締めてくれるようだった。
身繕いを済ませたマイクロトフは、机の引き出しから用箋を取り出し、テレーズへの文をしたため始めた。
騎士たちが顔を揃えるまでには、未だ間がある。悩んだところでテレーズに伝えられることは限られているし、赤騎士団副長の気遣いはありがたかったが、やはり不必要に騎士の手を煩わせてはならないと考えたのだ。
出立の間際になって、こうも大きな方向転換が生じるとはテレーズも思うまい。その点については、ただただ飾らぬ言葉で陳謝するしかなかった。
会って話が出来ればとも思うが、今となってはそれも叶いそうにない。せめて彼女に、何があろうと力になりたい心が届けば良いのだが───
書き終えた文にざっと目を通して、マイクロトフは溜め息をついた。
文脈は支離滅裂だし、手蹟は乱れ放題だ。皇太子が隣国の姫に送る文とは言い難い。が、テレーズはそんな不器用を理解してくれているだろうと諦め、封をした。
皇王制廃止という自身の決意が、彼女の恋の妨げにならぬよう、願わずにはいられない。生涯ひとりと決めた相手と並んで、運命を越えて行って欲しい。少なくともテレーズと恋人は、互いの心を通じ合わせ、見詰め合える距離に在るのだから。
祈りながら文に額を押し当てたマイクロトフは、そこで控え目に叩かれる扉に気付いて腰を上げた。長椅子へと移動して入室を許可した彼の前に現れたのは赤騎士団副長だ。
「このような時間から申し訳ありません、殿下」
「良かった、間に合うだろうか、テレーズ殿への文を書いたのだが……」
殆ど同時に言った直後、マイクロトフは騎士の顔つきに戸惑った。一連の事態の中でも沈着を通し続けてきた男とは思えぬほどの動揺が見て取れる。温厚な面差しを堅く強張らせ、彼は着席の促しに応じられぬほど切羽詰まった様相で切り出した。
「大事にございますぞ、御心を鎮めてお聞きください」
そう前置いて伝えられたのは、正に予期せぬ衝撃であった。
「昨夜、公都グリンヒル内にて、アレク・ワイズメル公主殿が逝去なされました。……暗殺です」

 

 

 

 

 

火急の招集を受けて続々と現れた面々は、いずれも顔色を失っていた。夜半過ぎまで続いた談義の後、一旦は休息を取るはこびとなったものの、明けてみれば更なる急展開が待っていたのだ。溌剌という訳には到底いかない。
最後に、最年少の赤騎士とフリード・Yが寝入り端を叩き起こされたという風情で入室したところで、青騎士団副長が口を開いた。
「これで揃いましたな。ワイズメル公が……との話ですが、いったい……」
隣国の国主死亡。
これほどの事件が起きながら、今なおロックアックス城内は平常そのものだ。つまり、正規の伝令によってもたらされた報ではないと知れ、否応なく一同の緊張を煽る。
問われた赤騎士団副長は、何処から語るかを短く思案し、両手を握り合わせた。
「御推察通り、これは、わたしがグリンヒルに送っておいた部下からの知らせです」
少し前、公女の侍女エミリアがロックアックスを訪れた際、帰りの護衛として騎士を付けた。もとは青騎士を付けようとしていたマイクロトフだったが、赤騎士団副長が是非にと望んで、これを自団員に代わらせたのである。
「少々調べたいことがございまして……エミリア殿を送り届けた後、そのままグリンヒル内にとどまらせてあったのですが」
説かれて思い出したマイクロトフは、納得して頷いた。何を調べていたのか問いたくもあったが、今はそれどころではない。
公主の崩御───国の激震。
グリンヒル中枢に位置する要人らが状況把握に走り回っているのは想像に難くない。公女を嫁がせる筈のマチルダに報を送ろうにも、暗殺による死亡とあっては、文面に苦慮して時を要する。それを見越した駐屯中の赤騎士が、先んじて報を寄越したのだろう。
「ワイズメル公は昨夜、観劇からの帰路で襲撃に遭ったそうです」
マイクロトフは戦慄いた。語られる事実の中に、眩暈のするような衝撃が潜んでいる。昨日の閣議の折、「親子水要らずの観劇」とグランマイヤーは言っていなかったか。
「テレーズ殿は?」
声は掠れ、震えた。
「テレーズ殿も一緒ではなかったのか」
赤騎士団副長は、それを聞いてほんの少しだけ目許を緩めた。
「……部下の知らせでは、幸いにもテレーズ殿は御無事だったとのことです」

 

グリンヒル公都で最大級の劇場へ出向いた親娘。
城への帰り道、往来の真中で、多数の襲撃者に豪奢な馬車を止められた。近衛兵も随行していたが、まるで相手にならなかったらしい。敵は非常に戦い慣れており、長く安穏に過ごしてきたグリンヒルの武人の比ではなかった。
国主親娘は馬車から引き擦り出され、父親は刃の露と消えた。しかし娘は、何故か無傷のまま放置され、知らせを受けて駆けつけた兵に保護された。たまたま近くの宿屋に泊まっていた赤騎士らが騒ぎを知って急行したときには、全てが終わっていたのである。
それから騎士たちは情報の収集に努めた。
往来で起きた事件だけあって、目撃者は大勢いたが、いずれも平和に慣れた住民だけに、怯えるばかりで要領を得ない。
何とか聞き出せたのは、ワイズメルが激しい口調で責め立てられていたこと、公女テレーズが気丈にも、刃を突き付けられながら襲撃者と何事か言葉を交わしていたことの二点であった。

 

「様子を鑑みるに、ワイズメル公の政治に不満があったというよりも、怨恨を持つものが徒党を組んで襲った、と見る方が良さそうです。襲撃者の風体ですが、異国風だったというものもあれば、女が居たという話もあり、証言は曖昧に終始しているようで」
ひとたび話が途切れると、重い沈黙が室内を支配した。それを破ったのは青騎士隊長の小さな呟きであった。
「───これか」
「……?」
虚を衝かれたように一同が注視する。男は堅い面持ちのまま仲間を一望した。
「正に「騒ぎ」ですな。白騎士隊長が一人、所在を眩ましたところで覆い隠されるような」
あっと全員が息を飲んだ。
若い騎士が目撃した場の遣り取り。いずれ起きるとカミューが予言した「騒動」とは、これだったのか。
呆然とする一同の中で、フリード・Yが震えながら問うた。
「カミュー殿が……知っていたのですか? ワイズメル公がお亡くなりになるのを?」
「限りなく確信に近い想像、だがな」
青騎士隊長は身を乗り出した。
「彼がグリンヒル内に在るゴルドーの「盟友」の手を借りてマチルダに来た、とまでは推測出来た。個人的にはワイズメル公が最も有力な候補だったのですが……その人物が暗殺されるのを知っているとなると、それはそれでまた複雑を増してしまう」
騒ぎの大きさという点では符合するし、機も合う。カミューが指していた事件はこれと見て間違いなさそうである。総勢は頭を抱えたい心地だった。
「襲撃が行われると予め知っていて、それで白騎士を……ということか」
青騎士団副長が首を捻りながら言えば、
「しかし、わたしが知らせるまで、彼は仇の正体を掴んでいなかったのですぞ。機を合わせるのは不可能かと」
赤騎士団副長が否定的な見方を説く。
「彼はずっとマチルダに居た。グリンヒル内にそのような動きがあるなど、知り得なかった筈なのだが……」
はっとマイクロトフは瞬いた。全身に震えを走らせた皇子を見詰め、ちょうど同じ見解に達していたフリード・Yが息を殺す。
カミューには情報提供者が在ったのだ。このロックアックスに、まったく計ったような機で。
マイクロトフがそれを持ち出す前に、フリード・Yは立ち上がった。
「どうしたね?」
位階者の問いにも満足に答えられない。衝撃と同時に、若者の脳裏に蘇る声があったのだ。
「わたくし、少々失礼させていただきます」
唐突な申し出に総勢が呆気に取られるのにも介さず、扉へと急ぐ。
「すぐに戻って参りますから」
殆ど独言のように言いながら消えた従者を見送った一同は、説明を求めるようにマイクロトフに目を向けた。何とも言えぬ心地で頷いた彼は、ヒソと眉を寄せた。
「一昨夜、カミューを訪ねてきたものがいる」
「その者がワイズメル公襲撃計画を知らせた、と?」
「可能性はある。ひょんなことから宿泊先を知ったからな、今なお滞在しているとは思えないが……」
だろうな、と一斉に肩が落ちる。
その人物とカミューとの関係は不明だが、重大な情報をもたらした後もロックアックスに留まっているとは考え難い。それでもフリード・Yが向かったのは、行き先なり風体なり、何らかの手掛かりを得られまいかといった必死の思いからだったのだろうと騎士たちは結論付けた。
従者の身には特に危険もないと判断した赤騎士団副長が、重い息をつきながらマイクロトフを見遣った。
「……皇王制廃止の報を送るのを一先ず見合わせました。あちらもそれどころではないでしょうし……公が没したとなれば、こちらの出方も再考せねばなりませぬし」
非情なようですが、と付け加えられた一言にマイクロトフは弱く首を振る。
目の前で父を殺されたテレーズの悲痛を思えば冷淡にも取れるが、これで両国の関係に別の道が生じるのは事実なのだ。そんな葛藤を慮りながら、青騎士団副長も言う。
「如何に混乱しているにせよ、程なくグリンヒル側からの報も入りましょう。こうして考える猶予を与えてくれた赤騎士に感謝せねば」
身じろいで姿勢を正す。
「服喪ゆえに輿入れは中止……、テレーズ殿が公主に昇られ、マチルダも皇王制廃止に動くとなれば、急いて動かずとも婚儀の件は一旦白紙に戻ると考えて良いやもしれませぬ」
「グランマイヤー様にはお知らせしなくても宜しいのでしょうか」
赤騎士隊長の問いには、マイクロトフが複雑な表情で応じた。
「蚊帳の外に置くのは気が退けるが、正規の知らせが届くまで伏せておいた方が良いのではないだろうか。議員閣議で皇王制廃止を沙汰してくれると言っていたし……」
「然様ですな。閣議は本日午前の召集……せめて殿下の御意向を議員各位が知り、その方向への流れを作るまでは……。ここで口を噤んだところで、今日明日中にも報は入りましょう。テレーズ殿の出迎えに騎士団が国境へ向かうことになっておりましたし、あちらもそこを考慮するでしょうから」
「先ずはこちらの地固め、という点では同感ですが、ワイズメル公暗殺に、多少なりともカミュー殿が関与していないと言えましょうか。情報を提供した人物が、襲撃者の一味だとしたら……」
考えたくないといった表情ながらも、赤騎士隊長が意を述べる。それによって皇子の警護も見直さねばならないのだ。
だが、確信をもって応じられるものはいなかった。すべてが錯綜している。畳み掛けるような事態の混乱に対して、何から動けば最善と言えるのだろう。
一同は昨夜半の苦さを繰り返すような迷宮へと落ちていった。

 

 

 

 

緩やかに活動を開始しようとする城を抜け、早朝からの外出に怪訝を覚えているらしい城門番に見送られて、フリード・Yは先を急いだ。
耳朶の奥に、低く厳粛な剣士の声が響いている。
───どうにもならない時が来たら、訪ねて来い。
あのときは不可解にしか思えなかった言葉。あれが、今の事態を指しているのだとしたら、名高き剣豪は縺れ合った糸の一端を握っている。何もかもを見越して、フリード・Yに機会を与えたのだ。
意図は量れない。けれど今は、その一言に縋るしかない。
早足が、知らぬうちに駆け足となって、礼拝堂を過ぎる頃には息が上がっていた。目指す宿屋に着いたときには、寝不足も相俟って眩暈がするほどだった。
一昨夜にも迎えてくれた女将は、早朝からの訪問に戸惑ったようだが、それ以上にフリード・Yの形相に驚いていた。無言で一礼するなり階段を駆け上がる彼を、ひとたびは制しようと帳場から出てきたものの、追って来ようとはしなかった。声を掛けるのも憚られるほど、必死なのが伝わったからかもしれない。
教えられた通り、二階の一番奥まった部屋に向かう。人を訪ねるには非礼な時間なのは分かっていたが、頓着する余裕もない。
それでも、あまり騒々しくないように気を払いながら叩いた扉の向こうから、これまた押し殺したいらえが聞こえた。
失礼します、と言ったつもりが、声にはならなかった。
窓辺に置いた椅子に座って、ぼんやり外を眺めている姿を目にするなり、フリード・Yはその場に膝を崩した。そんな若者を横目で一瞥した男が小さく言う。
「思ったより早かったな……。やはり失敗ったか」
独言めいた呟き。フリード・Yは、想像通り、男がカミューにワイズメル公暗殺の情報を提供し、尚且つ現状を予見していたのだと悟った。
「訪ねて来いと仰せでした」
狂おしく喘ぎながら言う。
「だから参りました。どうかお助けください。我が主君、そしてカミュー殿のためにも」
男は───「二刀要らず」のゲオルグ・プライムは、ゆるゆると椅子から身を起こした。穏やかな瞳に固い意志を漲らせ、彼はフリード・Yの前に進む。
「そのためにおれはここに居る」
途方もない重荷に押し潰されそうな若者にとって、それは紛う方無き天の声に聞こえた。

 

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ゲオルグ氏の二つ名について。
公式では「二刀」とも「二太刀」とも記されてますが、

「太刀」の字面が和風っぽく感じるのと、
音的に納まりが良さげなあたりから
我が家では「二刀要らず」で通してます。

お、久々に後記っぽい後記〜(笑)

 

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