居室へと続く廊下の端で迎えた騎士が背を正す。夜半過ぎまで戻らなかったのを案じていたのか、眼差しは労りに満ちていた。
実直につとめを果たす張り番には、一言二言と声を掛けるのが慣習となり始めていたマイクロトフだったが、今宵は反射的な目礼を返すのが精一杯だ。やや怪訝そうに瞬いた騎士に、後に続いたフリード・Yが代わりとばかりに深々と一礼する。
東棟の居室を出てから現在の寝所としている西棟の客間までの間、終に何事も語ろうとしなかった皇子。重い沈黙を道連れに同行を果たした若者を、扉の直前で振り返る。
「ここで良い。おまえも兵舎に戻って休め」
「殿下……」
沈痛の中での話し合いは、結局中断を余儀なくされた。
赤騎士団副長はワイズメル公主宛、マイクロトフはテレーズ宛の書状作成に掛からねばならなかったし、誰もが精神的疲労の極地にいた。気持ちの整理を図り、新たな切り口を探し出すためには休息が必要だったのだ。
カミューの不在は「大切な役目で城を離れた」で通すことになった。今や護衛という域を越えて認識されている青年だ。「役目」の詳細を説かずとも、宰相や騎士は納得させられる。
ゴルドーは訝しむかもしれない。自らの手駒と考えている青年の消失を知れば、新たな手を打とうとするかもしれない。だが、それは然したる問題ではなかった。騎士らにとって脅威とは、皇子に向けられるカミューの害意のみなのだから。
朝方の再会を約して、一同はひとたび解散した。
カミューに替わる護衛を付けようとの意見は出なかった。逃げたと見せて、取って返して危害を加える───古典的な襲撃の手法だが、現在マイクロトフが使う部屋付近には多くの味方騎士が常駐しているし、庭方面の警備も万全と言える。無用な犠牲を出す気はないと宣言した青年が、そうなる危険を冒すとは考えられなかったからだ。
新たに抱えた懸案と日常の責務、これらにどう折り合いをつけていくかを騎士らが談義し始めたのと前後して、マイクロトフは東棟を後にした。ごく当たり前のように付き従ったフリード・Yだが、ここへきて彼の主君は孤独を求めたのだった。
その心情は痛いほど理解出来る。実り多き査察の旅から戻り、決意も一新、いざ踏み出した途端の急転直下。
「カミューを取り戻す」といった方向だけを取れば総勢の意は一致しているが、前途には容易ならざる数多の障壁が立ち塞がる。まして彼の害意が己に向かっているとあっては、マイクロトフの心は如何ばかりか。
何を口にしても気休めにしかなるまい、そう弁えたフリード・Yは、失意を押し殺して一礼した。
「……はい、殿下。ただ、一つだけ。わたくしは信じております。いずれ行き違いが正され、すべてが元のように……それ以上となる日が来ますとも」
ああ、とマイクロトフは小さく笑んだ。踵を返す若者を束の間だけ見送り、ゆっくりと部屋に入る。
灯が点っていた。これは、部屋の主人が一日のつとめを終えて戻ってきたときに暗闇が迎えるのでは、という張り番騎士の配慮である。
明かりに映し出された室内は奇妙に広々と感じられ、それが今ひとりの使用者の不在に拠るものなのだと気付いたとき、マイクロトフはその場に膝を折った。
何が起きたのか、理性は認めていても、心が追い付かない。たった一つ分かるのは、カミューの手を掴み損ねたことだけだ。
彼は言った。己の目に映る相手がすべてではない───そうかもしれない。これまで一度とてカミューのすべてを理解している確信を得たことはなかった。
だが、そこに偽りを感じなかったのも事実なのだ。たとえすべてを晒そうとはせずとも、カミューの情は確かに感じていたのに。
ふと、自身の寝台が目に入る。
昨夜の今頃は至福のさなかに在った。快楽の底で繋がり合い、奪い、与えながら刻を忘れた。自らを呼ぶ甘く濡れた声に永遠を祈った。
明け方、青年を残して訓練に出たときには乱れ果てていた寝具が整っている。この部屋に移ってからも、身の回りの雑事は自身でこなしてきた。騎士団の従者らも皇子の意向を知っているため、敢えて手出ししようとはしない。故に、それをしたのはカミューなのだろう。
日頃からマイクロトフの手並みを「不器用だ」と揶揄していたが、この日に限って作業を肩代わりする気になったらしい。それが情の痕跡を余さず消して復讐へと向かう決意の現れだったのなら───否、それ以前に、昨夜のあの唐突なカミューの求めが、離別への一歩だったのだとしたら、何ひとつ気付かず快楽に溺れていた我が身が厭わしい。
よろよろと立ち上がり、主人不在となった窓側の寝台に進んでみると、脇に荷袋が置き去りにされていた。
森から戻った後、ここへは寄らずに東棟へと直行したようだ。力無く寝台に腰を落として、躊躇がちに荷袋の中身を広げてみる。
一番上には、昨夜カミューの裸身を包んでいた濃紺のローブが綺麗に畳まれて乗っていた。
肌を思わせるようななめらかな手触りが、マイクロトフの胸を締め上げる。布はもはや彼の温みを伝えない。冷たい光沢が手中に残るのみだ。
査察中、ダンスニーで裂かれた品を処分したためか、替えの衣服は僅かばかりだ。予備の武具や医療道具といった品も見当たらない。世間の傭兵が所持する物品など、マイクロトフには分かりようもないが、それでもあまりに軽微な荷拵えに見えた。
最後に出てきたのは、開けた様子も窺えぬ金の包みであった。
封に押された刻印はマチルダ宰相グランマイヤーのもの。「皇子の護衛」として受け取ったと思しき報酬の包み。使う機会もなかったろうが、もしあったとしても、カミューは手を付けなかったに違いない。
彼には宰相に与えられた「役目」を果たし通すつもりがなかったから。飽く迄も、偽装の仮面でしかなかったから───
「……っ」
荷袋の底に叩き付けるように金を戻し、敷布に散った衣服を無造作に詰め込んで、マイクロトフは顔を覆った。
体躯に流れる仇の血。
カミューとの関係は、それだけで崩れてしまうようなものだったのか。信じていたものは偽りの上に築かれていた、だから失われようとしているのか。
そこでマイクロトフははっとした。
巡らせた視線に、豪奢な箪笥が映る。弾かれたように腰を浮かせて駆け寄ったマイクロトフは、扉を開いて一枚の上着を取り出した。査察の後半に着用した品である。
戦慄く手で隠しを探ると、乾いた感触が指先を迎え、一瞬だけ眩暈を覚えた。北の村、祖父母の家の屑入れから掬い上げて持ち帰った、皺だらけの紙片。
小さく折り畳まれた紙切れを手に、壁に据えられた大鏡の前に立って、丁寧にそれを開く。手元では意味を為さなかった流れるような文字が、鏡の中にカミューの複雑な胸中を暴いていた。
あのとき「書き損じ」と称された一文。絶対に許されぬ筈の文字を、無意識に記したカミュー。
愛している───裏返しにせねば伝わらぬ言葉。
初めて過去を語った夜、滅びた村を過らせながらマイクロトフの肩を求めた。討とうとする相手と弁えながら、その温もりに身を委ねた。
あれもまた、洩れ出たカミューの胸のうちではなかったか。
仇の血を継ぐ男として殺意を抱いている。それでも彼の胸には、紛れもなくマイクロトフへの親愛も育っていた。
互いの間に真実などない、そう言い切る彼の頬に流れた涙、あれこそが何にも勝る真実なのだ。
「カミュー」
紙片を胸に押し当てて呻く。
「カミュー……」
己の目に映る相手がすべてではない。
だが、己の知るカミューを愛している。彼が抱えた闇と傷、それらを知った今もなお、変わらぬ想いが溢れている。
だから取り戻す。
掴めなかった手を、次は必ず握り止める。たとえそのとき、己の命が危機に瀕していても。
控え目に扉が叩かれ、続いて開く音がした。張り番を通さぬ訪いを訝しんで振り向くと、戸口に青騎士団・第一隊長が立っている。トレイを片手に、男はマイクロトフに申し訳程度の礼を取った。
「すぐに失礼します」
言いながら入室すると、卓にトレイを置く。
「昼から飲まず食わずでおられたのを副長が思い出されたので」
マイクロトフは紙片を懐に入れ、箪笥を閉めて卓へと向かった。トレイには彼の好みそうな料理の皿が幾つか並んでいる。心遣いをありがたく思いつつも、だが食欲が沸くには至らなかった。
「せっかく運んで貰ったのにすまないが……」
低い切り出しを聞く素振りも見せず、騎士はさらりと言い添えた。
「幾らもしないうちに朝食の刻限ですからな、夜食と称すにも量を落としてあります」
それから薄い笑みが浮かんだ。
「殿下、戦場における騎士の欠くべからざる資質を御存知か?」
「資質……?」
「如何なる状況下に在っても、必要なだけ食って寝られる図太さです」
皿に添えた水差しからグラスに水を注ぎ、マイクロトフを長椅子へと促す仕草を見せる。
「食わなければ身体がもたない。眠らねば判断力が落ちる。そうなれば、いざと言うときに満足なはたらきなど為せなくなり、ときに味方を危地に追い遣りもする。故に、我らにはそれが求められるのです。味など堪能せずとも構いません、つとめと思って臨まれよ」
ぱちぱちと瞬きながら聞いていたマイクロトフは、淡々とした語り口調が驚くほど胸を温めてくれるのに気付いた。遠慮のない物言いがカミューに似通っているからかもしれない。頷きながら椅子に座った。
「すると、おまえたちは腹拵えを済ませたのか」
ええ、と騎士隊長は肩を竦める。
「あれから食堂へ直行しました。侍従殿には、あの下っ端の赤騎士が届けています」
主従に比べ、騎士団員として経験の厚い男たちは流石に一味違うようだ。マイクロトフは感嘆の息を洩らしながら食器に手を伸ばした。騎士隊長は更に言い募った。
「食事が済んだら休まれると宜しい」
「だが……」
テレーズへの文を書かねばならない。カミューという相談者を失った今、途方に暮れるしかない作業であったが。
マチルダの皇王制廃止が、テレーズの計画の根本を揺るがすのは必至だ。ワイズメル公が婚儀取り止めを決めれば、輿入れ途中の出奔という手段が失われてしまう。間近まで迫っていた筈の恋人たちの新しい人生に待ったを掛けてしまうのだ。
自ら計画に加担すると宣言したマイクロトフとしては、深い自責を覚えるが、もはや後戻りも出来ない。妙案も捻り出せそうにない。心からの陳謝を伝えるしかないだろう。
両国の恒久的な和平を目してワイズメル公が婚姻という手段を考えたのなら、それを約す一文を添えても良いかもしれない。未来のマチルダの中心となる人物らも、マイクロトフの意に賛同してくれる筈だから。それでテレーズと恋人の仲が認められる確信が持てぬあたりが、悩める部分ではあるが。
考え込んだマイクロトフを見詰めながら騎士は言った。
「殿下には休息が必要です。皇王制廃止の意向、取り敢えずはワイズメル公に届けば事足りる。だからこそ、赤騎士団副長は代筆を申し出られたのです。公女殿は聡明・寛容で知られる御性情、一日やそこら文が遅れたとしても、「拠無い問題が生じて」と書き添えれば、不実と詰ったりはなさらない筈」
思いがけない言葉に戸惑い、マイクロトフは眉を寄せた。
「……だが、それでは使者を別口に送らねばならない」
すると青騎士は鼻先で笑って一蹴した。
「以前とは違い、赤騎士団には通常人員数が戻っているのです。伝令要員として一人余計に割いたところで支障には及ばぬ、そこまで考えての代筆の御申し出でしょう」
猶予を与えられたところで苦行が立ち消えた訳ではない。けれど、疲弊した皇子を休ませようとする一同の心遣いは染み渡る癒しの雫のようで、感謝の瞑目を誘った。
「それから……朝の訓練ですが、関係者は「拠無い事情」にて欠席、こちらへ出頭致しますので、そのままお待ちください」
「分かった」
そこで青騎士隊長は微かに目を細めた。
「ともあれ、しっかりと英気を養われることです。何もかも、始まったばかりなのですから」
では、と一礼して扉へと向かおうとする騎士の背に慌てて呼び掛ける。
「待ってくれ、急ぐか?」
「は? いえ、特には……」
「ならば少し付き合ってくれないか?」
長椅子の向かいを指して言うと、男は怪訝そうに表情を堅くした。
「侍従殿を下がらせたのは、お一人になりたかったからでは?」
───それもある。
フリード・Yはマイクロトフを慮る心情を隠さない。気遣いはありがたいが、顔に浮かぶ不安や物憂さを今は見たくなかった。
ささやかではあるが、負い目のようなものもあった。
カミューが護衛に任ぜられると決まった際、傍に置くには好ましからざる人物であると、彼は声を枯らして訴えていた。あるいは、秘めた目論見を本能的に恐れる何かがはたらいたのかもしない。
あのとき忠節から行われた必死の進言を笑って退けたマイクロトフとしては、弱い部分を晒せないという複雑な思いがあった。尤も、時置かずカミューの魅力に陥落し、今なお信奉者の先頭を行くフリード・Yだ。現実には、そこまで気に止める必要はなかったろうが。
自らの気持ちが揺れていたのもある。
議論が交わされている間は冷静であるつもりだった。誤解を解いて、再びカミューと手を取り合うのだという強い意思がマイクロトフを支配していた。
けれどひとたび現実を見れば、困難ばかりが広がっている。亡き父の汚名を雪ぐ一方で、今後向けられるであろうカミューの刃を凌ぎ、且つ、皇王制の廃止という大事にも立ち向かわねばならないのだから。
ほんの少しだけ頭をもたげた弱気は、しかし消え去るのも早かった。大切に残しておいた裏返しの想いの言葉、抱擁の記憶。「始まったばかり」という騎士隊長の言葉に、その通りだと頷くだけの力が蘇った。
だからもう少しだけ話していたかったのだ。仲間との語らいは心を温める。先を望む勇気をも駆り立てる。この青騎士隊長は立場柄マイクロトフと接する機会が多かった上に、歯に衣着せぬ人物だ。そんな彼の率直が、マイクロトフには快く、そして必要だったのである。
「一人で取る食事は味気ない。その間だけで良い、話し相手になって欲しい」
見上げながら言ったマイクロトフに、騎士隊長は目を閉じて嘆息した。無言のまま向かい側の席に着いて、やや前のめりに崩した姿勢を取る。
「……で、何をお話し致しましょう。殿下が去られた後の、食堂での話題ですか」
特に希望があった訳ではなかったが、相手が持ち掛けてくれたので、曖昧に頷いた。騎士は両手の指先を合わせて語り出す。
「と言っても、これといって報告するような進展もありませんが。そう……、せっかくの贈呈品を突っ返されたとあって、赤騎士殿らはたいそう落ち込んでおりましたな」
「真紅のマント」と「金のエンブレム」、いずれも誠心からカミューに捧げられた品だったのに、終に一度も身に付けられぬまま、置き去りにされてしまったのだ。
ふと、青騎士隊長は含み笑った。
「それから、これはわたしの個人的意見ですが……あの上着はまずかったですな」
「上着?」
「殿下が街道の村で彼に贈られた上着です。黒は宜しくなかった。せめてもう少し別の色なら、ああまで巧みに夜陰に紛れ込まれずに済んだかもしれない」
ああ、とマイクロトフは唇を歪めた。
「店の主人に相談したのだ。「真紅のマント」を重ねても合う品を、と……白も候補に挙がったが、寧ろ黒が映えるだろう、と。そうだな、白なら夜目に鮮やかだったかもしれない」
あれから幾日も経っていないのに、妙に懐かしい心地で追想に耽ったマイクロトフを、青騎士隊長は暫し黙して見詰めていた。が、やがて耐え切れぬといったふうに笑い出した。
「お分かりになりませんか、その意味が」
「……どの意味だ?」
きょとんとして聞き返すと、男は笑みを納めようと試みながら答えた。
「わたしが見た限り、彼がマントやエンブレムを着けたことはなかった。「誠意に見合わぬ人間だから返す」とも言っていた」
そこまでは理解して頷いたマイクロトフは、続いた言葉に息を詰めた。
「なのにどうです? 彼は殿下からの贈り物は拒まず着用し、挙げ句、返さぬまま行ってしまった。これは理に合わなくはありませんか?」
ローブと上着、確かにカミューは喜んで──かどうかは不明だが──使用していた。困惑しながら考えてみる。
ローブはもともと箪笥にあったものだし、上着はダンスニーで裂いてしまった品の代わりだ。「誠意」などといった大仰な理由が感じられなかった分、気安く受け取っただけではないのか。
マイクロトフの推察を悟ったように、騎士は緩やかに首を振った。
「彼の理性は、好意を受け入れてはならないと自らに固く命じていた。赤騎士らが送った品々は、彼に寄せた信頼の証。けれど彼の真の目的は、騎士らへの裏切りに直結する。贈呈品を身に付けなかったことこそ、せめて最後の一線だけでも誠実でありたかった彼の本心がちらついていると言えるのでは?」
でも、と幾許か温かさを増した調子が続けた。
「殿下に対しては、定めた則がはたらかなかった。それもまた、カミュー殿の本心だったとわたしは思います」
「カミューの本心……」
「彼はあなたの誠意を受け取ろうとしていたのです。無意識であるにしろ、復讐を宿した心とは異なる、もっとずっと奥底で。先程はああ申し上げたが、「次」に現れる彼の胸中にも、複雑は消し切れぬでしょうな」
淡々とした指摘は、青年の喪失によって胸に生じた罅を埋めて余りあるものだった。
マイクロトフが縋る一念、カミューは皇王家の血は憎んでいたけれど、マイクロトフ本人は憎めずにいた───第三者から明言されれば、この上もない檄になる。
マイクロトフの顔に広がる希望を見届け、騎士はうっすらと口元を綻ばせた。
「さて、今後ですが……、あの場に居たものは陰謀解明を最優先に動きます。恒常的なつとめ、即位式に向けてのつとめを全て放り出しては他の連中が不可解を覚えるでしょう。そこはまあ……程々に調整を入れるということで」
「おまえたちの負担は大きいな」
マイクロトフは嘆息して唇を噛んだ。迷いながら零してみる。
「……力が欲しい」
「は?」
「己の望みを果たし得るだけの力が。皇王制廃止にしろ、陰謀の真相解明にしろ、ああしたい、こうしたいと望んでばかりで……周囲に負担を強いながら、おれはものの役にも立たない。それが不甲斐なくて堪らないのだ」
聞くなり騎士隊長は、彼にしては珍しいほど可笑しそうに笑い出した。
「何を仰せになるかと思えば」
暫し肩を奮わせた後、やや姿勢を正してマイクロトフを凝視した。
「あなたに賛同し、その意思の許に動こうとする人間がいる。それを力と呼ばず、何と呼ぶのです」
だが、と言い掛けてマイクロトフは逡巡する。迷いを察したように騎士は長い息を吐いた。
「……口を休めず、お聞きいただきたい」
咀嚼がすっかり疎かになっていたのを指摘されて、マイクロトフは慌てて料理を一口頬張った。
「皇太子だから……青騎士団長だから、権威で周囲を従えているとでもお思いか? 確かに我らは上からの指示には従わねばならない。それがどんなに理不尽な命令であっても───例えばグラスランドに侵入した連中のように」
俯き加減だった顔を上げたマイクロトフは、真摯な瞳と出合って瞬く。
「けれど今、我々はあなたの望みを自らの望みとして考えている。だから「負担」などとは思わないし、懸命にもなる。事情さえ知れば、他の部下たちとて同じようにするでしょう」
彼は口元を緩め、上目でマイクロトフを見詰めた。
「……お分かりか? 無論、このままでは済ませられないという自発的な意思もある。けれどそれ以上に、同じものを目指したいと思わせる力が、あなたにはあるのです。それは誰にでも持てる力ではない。下手に我らを気遣うよりも、しっかりと前を向いていていただく方が、こちらは安心して動けるというもの」
束の間、マイクロトフは男を凝視していたが、緩やかに溶けていく心と共に、表情も綻んでいった。くすりと笑いを零して肩の力を抜く。
「おまえの話を聞いていると、妙な自信が沸いてしまう。出来ないことなどないような気がしてくる」
すると青騎士隊長はニヤリとした。
「強固な信念、優れた才覚、そして結束。これが揃えば、大抵のことは思いのままですな。だから今、皇王制廃止に踏み切る気になられた筈では? ここに一つばかり、難問が加わっただけのこと……そう開き直ってしまわれたら宜しい」
実に不可思議な心地だった。
どう配慮されたところで、騎士や宰相に比べたら、マイクロトフの出来ることなど知れている。
なのに胸に火が点る。未熟を恥じなくて良いのだと。一歩一歩、出来ることから果たせば良いのだと言われているような気がする。
いずれマイクロトフは王族ではなくなる身だ。なのに男は、今も思ってくれているらしい。肩書きがどう変わろうと、同じ心を持ち続ける限り───従う理由があるのだ、と。
「……食事が終わったら少し眠る」
冷め切ってしまったスープを干して、小さく告げる。
「赤騎士団副長の心に甘えて、テレーズ殿への文は後でしたためる。心身を休めて、これからの戦いに備える」
男は眩しげに目を細めて頷いた。
「人の世に、永遠に続く戦いはありません。すべてが片付いたら、揃って休暇でも取ると致しましょう」
「おれもか?」
肩を竦めて騎士は破顔した。
「騎士ならば、誰にでも休暇を得る権利はありますぞ、……マイクロトフ団長」
付け加えられた呼称は、何にも替え難い、懐かしくも喜ばしい響きであった。
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