最後の王・67


窓枠に腰を下ろしたままカミューが言った。
「一人かい?」
「そうだ」
マイクロトフが答えると、琥珀の瞳が僅かに細められた。
強張った表情から、既に事情は通じたと知れる。ならば、皇子の周囲の人間にも同様だろうに。
「よく周りが許したね」
マイクロトフは断固とした調子で返す。
「おまえがそう望んだ。だから留まるよう、言い置いてきた」
矢庭に、愉快そうな声が洩れた。
「相変わらず危機感の薄い男だ。側近の方々が気の毒になってきたよ」
ふっと微笑み、カミューは視線を落とす。
「……冷静を通していたつもりが、やはり怨敵を前にしては果たせなかったようだ。見物人に気付かなかったとは迂闊だったよ。あの騎士は何なんだ? 何故またあんなところへ居合せた?」
「彼はおまえに辺りを案内をしようと……」
カミューは、ふうん、と小首を傾げて自嘲した。
「成程ね、てっきりわたしに付けられた監視かと思ったが。最後の最後まで「厚意」とやらに邪魔された訳か」
訪れた沈黙は長かった。闇の彼方、遠い故郷を見詰めるように、カミューは目を細める。やがて、愛惜を漂わせた声音が切り出した。
「小さな村だった。近くに川があって、井戸も多くて……作物を育て、必要なだけの獣を狩り、それでも足りないものは何月かに一度、誰かが纏めて他部族の村へ買い出しの旅に出た。取り立てて豊かではないけれど、飢え渇くものもない。精霊に感謝し、大地と共に生きる。ゆったりと穏やかに流れて行く日々───それがわたしの世界のすべてだった」
マイクロトフは唇を噛み締めた。査察で見た自国の民、その平穏な暮らしぶりが過ったのだ。
「街道からは遠く外れていたが、目立たぬ辺鄙な地だからね、無頼の類が根城にするにはもってこいの場所だ。だから昔は、村人の中にも武芸を磨くものは多かったらしい」
でも、と弱い笑みが浮かぶ。
「わたしが拾われるずっと以前から平和が続いていたためかな……、いつしか村にある武器は狩りにしか使われなくなっていた。訓練された兵に踏み込まれれば、抵抗するすべなどなかったんだ」
村を襲ったのがマチルダ騎士と断定された今、何をどう言えば良いのか分からない。マイクロトフは無言を通すしかなかった。
ふと、カミューが語調を変えた。
「確か話したことはなかったね。わたしの剣はユーライアという。庇護を司る古い女神の名だそうだ。長から託されたんだ、村の庇護者となるように、と」
細身の青年に似合う、しなやかな刀身。味方には指針の煌めきとなり、敵には容赦無い断罪を振り下ろす女神の指先。カミューは切なげに鞘を一撫でした。
「……わたしは庇護者になり得なかった。あの歳まで慈しんで育ててくれた人たちに何も返せなかった」
実母と共に草原の土と還る筈だった命を拾い上げてくれた人々の優しい手。死の縁へと転げる彼らの手を、終に握り損ねた。
「おまえも見たことがあると言っていたね、視界の限り続く亡骸の群れを。辺りに充満した死の匂いを嗅いだことも」
───ある。
かつてダンスニーに導かれるまま惨殺を犯し、催眠魔法を施された。剣を取り落とす束の間に、それは目に飛び込んできて、長く悪夢となってマイクロトフを苛み続けたのだ。
「ならば分かるだろう、地獄の中で一人生き延びたわたしの心も」
不意にカミューはマイクロトフへと目を当てた。
「無念を晴らす、その一念だけがわたしを支えた。随分と遠回りをしたが、漸くすべてを終わらせられる」
「カミュー」
マイクロトフは四肢を震わせ、真っ直ぐに青年を見返した。
「おれを殺したいのか」
「そうだ」
「おれが父上の血を引く皇王家の人間だからか」
「そうだ」
刹那、漆黒の瞳が揺れる。
「マチルダ騎士の取った行為には申し開きも出来ない。だが、これだけは……父上は他国の侵略など考えてはいなかった。武人でもない、弱き民の鏖殺など命じる人間でもなかった」
するとカミューは薄い笑みを滲ませた。
「マイクロトフ……今日までおまえは疑ったか?」
「え?」
「わたしがおまえの命を狙っていると、一度でも考えたことがあったかい?」
あろう筈がない。戸惑いながら首を振ると、静かな調子で彼は言った。
「ならば、自分の知る相手がすべてだと、どうして言い切れる? 野心を持つものは幾らでも偽りを演じられる。わたしの真意に気付かなかったように、おまえは父親の隠された顔を知らなかっただけさ」
「違う!」
知らず洩れた悲痛な叫び。
父王の背を見て常に思った。雄々しくて、豊かな心根を持つ真の王。彼はマイクロトフの理想であり、いずれ越えたいと切に願う尊き存在であったのだ。
それを否定されるのは耐え難い───たとえ相手が、唯一無二とさだめた人であっても。
「父上は非道な命など下していない、おれは信じている」
聞くなりカミューは冷ややかに逆襲した。
「そうやって一本気に信じ込めたら楽だろうさ。あの頃、わたしも信じていた。村の裏手に聳える山岳の向こうに、マチルダという国がある。騎士団という強大な軍事力を持っているけれど、ティントやサウスウィンドウとは違って、グラスランド侵攻の意志を持たぬ国家なのだ、と。敵と相対せば勇猛なる騎士は、それでも常に礼節厚く、無用な殺戮を望まぬ誇り高い集団なのだと───遠く草原の地にまで聞こえてくる噂を、何の疑いもなく信じていた」
なのに、ときつく噛み締めた唇が戦慄く。
「……村人を殺した騎士を憎んだ。けれど王はもっと憎い。己の手を汚さず、たかが命令書一枚で非道を為したおまえの父を、黄泉路の果てまで追い掛けて、斬り刻んでやれたら良かった」
延々と続こうとする呪詛を、それ以上聞くに耐えなかった。敬愛する父に対する罵倒も然ることながら、吐き捨てられる言葉の一片一片が、カミュー自身を傷つける刃のように思えたからだ。
マイクロトフは努めて冷静に、必死の思いで呼び掛けた。
「カミュー、おれに時間をくれ」
「何のために?」
「事の次第を明らかにする」
「慈悲深きマチルダ王の命令ではなかったと、証でも立てるつもりか」
カミューは嘲笑めいた口調で切り返す。
「無駄だよ、皇子様。当時の白騎士団長は行方不明、任に当たった騎士も……今さっき、最後の一人をわたしが殺した。もう、当事者は誰もいない。どうやって王の潔白を証明すると?」
「それでもやる!」
マイクロトフは一歩踏み出して叫んだ。
「父上の名誉のためだけではない! この身に流れる血ひとつで、おまえに殺意を抱かれるなど───」
言い掛けた言葉を、カミューはひっそりと遮った。
「……そうだね。おまえは馬鹿がつくほど真っ直ぐで、呆れ返るほどお人好しで……わたしの想像を尽く裏切る男だった。皇王家の血を絶つと決めていたが、今なお王が生きていたならば、そこで復讐を止める気になったかもしれない」
くす、と小さな笑いが零れる。
「尤も、そうしたら今度はおまえにとってわたしが親の仇となるか」
カミューは首を振り、再びマイクロトフへと視線を当てた。
「事の次第を明らかにすると言ったな。今以上に明らかに出来ると、本気で思うかい? いったいどれほどの刻を、どんな思いで待ち続けろと……?」
遠い眼差しを足元に落として、低く続けた。
「力を得るには時間が要った。けれど、あの日の記憶は欠片も薄れていない。聞こえなかった筈の悲鳴が、今も耳に響く。死に顔の一つ一つが脳裏に焼き付いている。誓いを果たすまで救われない……なのに、まだ待てと言うのか」
感情の抜け落ちたような述懐が胸を裂くようだ。しかしそれでもマイクロトフは頷いた。
「待ってくれ───頼むから」
「調べ尽くして、結局は同じだったら? そのときおまえは、黙ってわたしの刃を受けてくれるのか?」
窓枠から立ち上がったカミューは、弱く揺れる火に照らされた片頬を歪めた。堪らずマイクロトフが首を振る。
「カミュー……たとえおまえがマチルダ皇王の血を憎んでいるとしても、この半月あまりの日々が、おれたちにとっての真実だったと信じたいのだ」
ゴルドーの野望と立ち向かうすべを、あんなにも真摯に考慮してくれた。
刺客が襲い来たときには背を合わせて闘った。
魔剣の支配に陥落した身を、命を賭して救い出してくれた。
「おれたちの間にあったものが偽りだったなどとは、絶対に思わない!」
揶揄混じりの微笑み、見詰める瞳の柔らかさ、触れ合う唇の間に甘く呼ぶ声。
それが偽りなのだとしたら、この先、何を信じて生きれば良いと言うのか。
───けれど。

 

「真実などなかったよ」
ポツと洩れた呟きは、寂寥すら感じさせなかった。深く、暗い穴に向かって告げられたような一言であった。
───護衛と騙って出会った日から。
討ち果たすと決めた相手だった。
間近に過ごすうち、憎悪する父王との差異を認めるようにもなったけれど、あの日、たった一夜で失ったものを思えば、迷いを捩じ伏せるしかなかった。
誠実な意見役を演じたのは、己に利するための手段。
ゴルドーの刺客から護ったのは、ダンスニーの支配から切り離そうと努めたのは、逃げた四人の騎士を探し出す前に皇子を失う訳にはいかなかったからだ。

 

「わたしたちの間に、真実と呼べるようなものは何ひとつなかったんだ……マイクロトフ」
いずれ命を奪われるとも知らず、禁忌も忘れた恋情に溺れる皇子を、ほんの僅か哀れんだから───だから求愛にも応えた。
最期の瞬間まで夢を見たまま逝かせても、そんなふうに思うだけの情は芽生えていたけれど。
偽りの上に築いた関係など、一瞬で崩れ去る。自らの手でそれを壊す痛み、ただ一点のみを恐れていたのに、何故だか何も感じられない。あの白騎士を殺したとき同様、ぽっかりと目前に開いた空洞が、自らを飲み込んでいくようにカミューは思った。

 

「……カミュー」
片や、告げられた一言に胸を抉られ俯き掛けたマイクロトフだったが、何とか抗弁を続けようと顔を上げたところで息を詰めた。ともすれば駆け寄りたい心地を努めて抑え、静かに語り掛ける。
「すべてが偽りだったと言うのなら……、どうしておまえは泣いている……?」

 

 

薄赤く儚い蝋燭の灯が、表情もなく凝った頬に伝う雫を照らしていた。問われて初めて気付いたカミューは、指先でそっと滴りに触れ、微かに唇を綻ばせた。
「……どうして、かな」
濡れた頬を、愛おしげとも見える仕草で拭い取って首を振る。
「わたしにも……分からないよ、マイクロトフ」
顔を歪めて見守っていたマイクロトフが、再び真っ直ぐに背を正した。
「聞いてくれ。父上は断じておまえの考えるような人間ではない。だが……おまえの村を襲ったのがマチルダ騎士である以上、それを阻めなかった皇王家の人間として、おれは責を負おう。どんなに時間が掛かっても、すべてを明かす。二度と再び同じ過ちが起きぬよう、生涯を懸けてつとめ上げる。それでは駄目か、駄目なのか?」
「…………」
「おまえは掛け替えのない存在だ、何があっても失いたくない。おまえ一人を残して消えることも絶対に出来ない。共に生きると心に誓った。おれに機会を与えてくれ!」
切なる訴えに返ったのは、長い沈黙だった。
今はもう幻のように消え失せた涙、それを伝わせた白磁の頬を凝視するマイクロトフに、弱く掠れた声が囁いた。
「……恨んでくれて構わない。理不尽なのは分かっている。でも……ここで心を違えたら、わたしの存在には意味がなくなる。生き延びた意味が失われてしまうんだ」
それから彼は、左手で愛剣の鞘を握った。
「あの赤騎士は報告したかな……「烈火」を使えば骨も残らない。空っぽの棺では葬儀もままならないだろうから、剣でいく。おまえも抜け、マイクロトフ」
「おまえと闘う気などない」
「無抵抗の相手を斬れないと考えているなら甘いよ」
はんなりと笑うカミューは壮絶なまでに美しかった。様々な感情に揺れ動いていた瞳に冷徹が忍び入り、それは最後に決意を纏って輝いた。
「わたしには、おまえの中に流れる血が見える。おまえと酷似しているという父親の影が見える。武器も持たぬ女子供を殺し回った騎士に倣えば、良心の呵責も覚えない」
「カミュー……」
「お別れだ、皇子様。せめて苦しまずに逝ってくれ」
「カミュー!」
青年の利き手が剣の柄を掴むと同時にマイクロトフは悲痛に叫んだ。
今にも白刃が抜き放たれようとした刹那、けたたましい音を立てて続き部屋の扉が開く。フリード・Yを先頭に、転げるように飛び込んできたのは騎士団位階者たちである。
マイクロトフは防御の構えを取るのも忘れて一同へと目を向け、呆然と呟いた。
「おまえたち……」
剣を抜こうとしている青年、まるで無防備に身を曝す皇子、両者の間に保たれる薄氷の均衡を認めた騎士らは、対処の姿勢を取ることも出来ず、その場に立ち尽くす。かろうじて声を絞ったのはフリード・Yであった。
「も、申し訳ありません、殿下。お言い付けに背きました」

 

東棟の皇子の部屋は、代々の第一王位継承者が使ってきたものだ。今は接見の間も多々置かれているため、そうした必要もなくなったが、昔は来客を迎えることも少なくなかった。扉一つで続く部屋は、もとは護衛を潜ませるために設けられた空間であったのだ。
中には、自室に招くには望ましからざる人物と接見せねばならないときもある。有事に備えて、先人たちは様々な考慮を施していた。
皇子の部屋のある一階上、奥まった廊下の突き当たり。正確には続き部屋の真上にある一室は、一見では物置でしかない。
しかし、部屋に敷き詰められた絨毯の一画を捲れば、そこに階下への侵入路が現れる。控えの間にて接見の様子を窺う護衛が応援要請を行った際、「敵」に警戒を与えぬよう、密かに兵力を送り込むための部屋なのだ。
久しく手が入れられていない埃っぽさ、乱雑に置かれた品々は、そこが歴史の遺物であると物語っている。かつての用途を知るものは、既に皆無に近い。現皇太子マイクロトフですら、自室にそんな侵入路があるとは知らずに過ごしてきたほどだ。
フリード・Yがそれを知ったのは、ほんの偶然でしかない。
先王が皇太子だった頃、何処から迷い込んだのか、件の物置部屋に猫が閉じ込められた。控えの間の上方から洩れ聞こえる微かな鳴き声を聴き止めた先王は、訝んで見上げるうちに、天井の細工に気付いたのだ。
城の設計図を引っ張り出して侵入路の存在を知った先王が、苦笑混じりに宰相グランマイヤーに語り、それをグランマイヤーが「私室を接見に使わぬ今では、笑い話になるけれど」と、何かの折にフリード・Yに零した───それだけのことだったのである。
従者は皇子の身を案じ、何としても悲劇を防ごうと騎士らを導いた。控えの間には接見の様子を窺うための穴が細工してあったのも思い出した。
そうして彼らは、じりじりしながら隣室の成り行きに息を潜めていたのだった。

 

皇子に並ぶように対峙した騎士たちを、驚くでもなく眺め遣ったカミューは、場に合わぬ静かな息を吐いた。
「主君の命に背いても、己の律を守る……村に攻め入ったのがあなた方のような騎士だったなら、あるいは皆殺しの憂き目だけは免れたかもしれませんね」
「……カミュー殿」
先ずは青騎士団副長が言う。
「マチルダ騎士を名乗る身として、同朋の行った非道、如何に言葉を尽くしたところで詫び切れぬ。今となってはすべてが故人、裁き直すことも叶わぬけれど、せめて非業の死を遂げた村人殿らの慰霊となる道を探せればと切に思う」
ただ、と拳を震わせる。途切れた言葉の代わりを赤騎士団副長が引き取った。
「グラスランド侵攻が亡き陛下の御所存であったとは、やはりどうしても得心がいかぬ。その血を憎んで、君が殿下を亡きものにするなど、絶対に認められぬのだ。カミュー殿、君に我らを信頼しても良いという心が少しでもあるのなら、どうか剣を抜かずに時を与えてくれまいか。殿下の御許、我らは死力を尽くして陛下の汚名を晴らしてみせよう」
カミューは何事かを呟き掛け、しかし言葉を飲んだ。剣から離れようとしない手を苛立たしげに見遣った青騎士隊長が一歩、足を進めた。
「互いの確信が譲れぬ以上、歩み寄るのは不可能です、副長」
そうして自剣の柄を握る。
「やめろ!」
騎士は、皇子の叫びに振り向きもせず、カミューを見据えたまま低く言う。
「説得に応じて貰えぬからには、拘束するしか手はない。真相を正す時間を待てぬと言うなら、閉じ込めてでも待っていただく」
押し止めようとするマイクロトフの腕を、フリード・Yが決死の覚悟で掴み締めた。
「殿下、もうこれしかないのです! どうか……!」
先刻からの遣り取りで、カミューに翻意が望めそうにないのは分かった。ならば騎士隊長が言うように、拘束して時を稼ぐしかない。
離せ、と全身でもがく皇子を、フリード・Yは抑え続けた。そんな力が自らの何処にあったのか、不思議さえ覚えながら。
「……邪魔をなさらないでください」
今や完全に感情を消したカミューが冷たい眼差しを騎士隊長に注ぐ。
「わたしの獲物は皇王家最後の一人のみ。他を巻き込むつもりはありません」
「生憎だが、その「最後の一人」を護るのが我らのつとめだ」
カミューは困ったように眉を寄せた。
「あの赤騎士は言いませんでしたか? わたしの「烈火」は術で宿された紋章とは発動のかたちも違えられるのだと。ここから皇子ひとりを焼くことも可能なのです」
少しでも引き離そうと試みるフリード・Yの尽力で、既に皇子と青年の間にはそこそこの距離が生じていたが、それでも紋章の神秘の力は脅威である。ぎくりとした副長二人が、即座に間に割り込んだ。防壁となった男たちの位置を目で量ったカミューは、他人事のように呟いた。
「……でも、「烈火」を使えば、ゴルドーに事態を隠せなくなるでしょうね。あの男に、希望通りの結末を迎えさせてやるのも癪だな……」
やや気勢を削がれた青騎士隊長は、更に続いた奇妙に明るい口調に瞬く。
「そうだ、わたしが殺した白騎士隊長ですが……、どうやらゴルドー側の人間だったようです。捕えて尋問すれば、これまでの陰謀の片鱗でも吐いたかもしれません。 貴重な証人を消してしまいました、申し訳ありません」
「カミュー殿……?」
「それから、今の青・赤騎士団内にはゴルドーの手のものは入って居ないようです。後々の御参考になれば、と」
「何を……言っている?」
怪訝を浮かべながら間合いを詰めようとした騎士隊長から逃れるように、カミューは数歩後退する。開け放たれた窓を背に優美に立ち尽くし、彼はゆるゆるとマイクロトフへ視線を投げた。
「別の出会い方をしていたらとも思うよ、マイクロトフ」
「カミュー!」
切々とした呼び声から耳を塞ぎ、カミューは一同へ向けて礼を取る。抜刀か、「烈火」かと出方を窺っていた男たちが虚を衝かれるほど、それは華やいだ騎士の最高礼であった。
次いでカミューは、上着の隠しに手を入れた。はっと警戒を増した青騎士隊長の眼前に、ゆっくりと取り出した品が差し向けられる。
「わたしは信頼に値せぬ人間です。ですからこれはお返しする、……そう赤騎士の方々にお伝えください」
言い終えると同時に細身の体躯に走った緊張を察知して、騎士はすかさず剣の柄に掛けた手に力を込めた。
だが、抜刀には及ばなかった。ばさりと音を立てて広がった布が視界を真紅に染め、一瞬ではあるが怯ませられたからだ。
「出直すよ、皇子様。次に会うときこそ、命を貰う」
柔らかな、笑い掛けるような声音を室内に残して、カミューは紅のマントの向こうに姿を消した。
「なっ……」
いざとなったら窓の下に落として皇子を護る───赤騎士隊長と交わした策。よもや自ら飛び降りるとは想定していなかった騎士が、慌てて窓枠に飛び付く。
一方、マイクロトフの脳裏には以前カミューが語った言葉が翻っていた。
窓の外の庭木。身の軽いものなら伝って侵入出来そうだから、枝を落とせと忠告された。だが、あの後すぐに居室を西棟へ移したため、実行されぬまま今日に至った。
「結局、落とさなかったんだな」───いつであったか、さらりと呟かれた一言。
あれは、復讐者としての観察眼が言わせたものだったのか。間近で笑みながら、彼はそうして着実に環境を量り、刃を磨ぎ続けていたのか。
窓枠を蹴って中空へと踊らせたカミューは、最も伸びた枝の一つを辛くも掴んだ。重みを支え切れずに枝が折れる刹那に、下方の枝へと手を伸ばす。そうして落下の勢いを殺ぎ続け、終には庭先に両手をついて着地した。
「……っ、猫か」
立ち上がって闇へと走り出す青年を見届けた騎士隊長が吐き捨てる傍ら、懐から短剣を抜いたが、足を止めようにも距離は遠く、到底届きそうにない。彼はすぐに踵を返した。
「追います、副長!」
扉へと急ぐ男と入れ違いに窓に取り付いた副長らの目には、待機していた二人の赤騎士が確保に動き出したのが見えた。「最後の手段」への心積もりは十分にしていものの、予想外の事態に出足が遅れたのは無理からぬことだったかもしれない。
「通用門───」
青騎士団副長は窓から身を乗り出して東へと目を凝らしていた。独言のような一言を聞き止めたのは、皇子を解放して走り寄ったフリード・Yである。
「それって……前にわたくしたちが城を抜け出したときに使った、あの……?」
事情を悟った赤騎士団副長が鋭く問うた。
「通用門までの警備は?」
「一度は増やしたのですが、マイクロトフ様の居室を移した後は通常に……門には張り番が居る筈ですが」
口惜しげに青騎士団副長が返す。
この東棟は城壁に向かって張り出しており、他の棟に比べて庭幅が狭い。つまり、護る面積が少ないために、平時は巡回する騎士の数も抑えられているのだ。
しかも折り悪く、騎士団は夜間体制に移行中である。最も統制立った動きが取り難いときに、最も警備の薄い場所。万一の保険に、カミューがこの部屋を対談の場に選んだのだと悟った赤騎士団副長は、相手の手並みに臍を噛んだ。
「城外への逃亡は何としても防がねば。こうなれば騎士に追わせるしかない、我らも行きましょう」
「マイクロトフ様を頼んだぞ!」
若い従者に告げるなり、副長たちは部屋を飛び出して行った。
二人を見送ったフリード・Yは、先程から同じ場に立ち尽くして、魂を抜かれたように身じろぎもせぬ皇子にゆるゆると近付いた。
たとえ炎に身を包まれようと、青年に取り縋りたかったであろう皇子に背いてしまった。そんな自責が声を震わせる。
「殿下……マイクロトフ様」
だが、皇子の瞳は、青年が消えた窓に据えられたまま動かない。
フリード・Yと揉み合った際に額に滲んだ汗が、細い火灯りに反射しながら目頭の脇を伝い落ちる。茜色の小さなそれは、皇子の心が流す血の涙のようにも映り、誠実な従者のいっそうの沈痛を衝いたのだった。

 

← BEFORE             NEXT →


これにて赤は一旦退場です。
一輪の花(←笑)が消え、

暑苦しい野郎ばかりが残される……。

 

TOPへ戻る / 寛容の間に戻る