静かな夜だった。
重厚な石造りの街も、闇が建物を覆い尽くせば、故郷と同じ風が吹く。
幼き頃から身に馴染んだ噎せ返るような草の香に、今は違うそれが混じるようになった。一度は失い、再び包まれることはないと思われた日溜りの匂い。温かな優しさの中で、いつしか憩う自身に気付いた。
開け放った窓辺に佇み、遠い彼方へと思いを馳せる。
燃え残った家屋の残骸は、亡骸を葬る間にも崩れ続けていた。
そこにもう、人の暮らした痕跡はなかった。厨房に立つ女、居間で遊ぶ子供、その日の仕事を終えて彼らの許へ戻る男たち。皆みんな死んでしまった。カミューひとりを闇に置き去りにして。
報復のために生かされた命───ならばつとめを果たそう。
道を選んだときより、個としての心など捨てた。標的に対する感情など、持つのが間違いだったのだ。
ここで過ごした刻を忘れれば良い。
感じた様々を封じれば傷つかない。
「家族」たちへの鎮魂の祈りを携えて、相手の身体に流れる血だけを見据えれば、それですべては終わるのだから。
未だ末端の騎士にまでは事情が伝わっていないと見え、森から戻ったカミューに向けられる瞳は相変わらず親愛に溢れていた。
程無く、逃した騎士の報告によって目論見が暴かれる。
故に、伝言を依頼した。真っ向から皇子を呼び出した。
無謀な挑発が如何なる結果を招くかは想像がつく。それでも良かった。
身体が熱い。「烈火」が騒いでいる。解放を求めてなのか、あるいは宿主を案じているのか、それはカミューにも分からなかった。
騎士団は夜間体制に移ろうとしていた。乗じて、城内も何かと騒がしい。
そんな活気ある喧騒をよそに東棟へと急ぐマイクロトフは、行き交う騎士に頻繁に声を掛けられ、心を逸らせながらも幾度か歩調を緩めねばならなかった。
このところ、ずっと騎士団要人に取り囲まれていた皇子。
それが突然、一人で廊下を行く姿は奇異に映るのだろう。騎士らの気遣いはありがたく、だが今のマイクロトフには重かった。
カミューが自らに害意を抱いている───ひどく現実味のない、胸に留め難い一節。
故郷を奪われたカミューの怒りが、それを行った騎士と、命じた人物に向くのは分かる。父王の下した命と信じる以上、まして当人が没した今となっては、遣り場のない無念が自らに向けられるのも分かる気がした。
けれど。
彼と出会ってからの日々は、これまでの人生すべてよりも深く、豊かだったのだ。
与えられる言葉の一つ一つに、新たな目が開いていくようだった。重苦しく淀んでいた世界に光が射したようにも思われた。
最初は友人として、そしていつしか過ぎた情を抱いて。
世の則を越えて茨に踏み込む怯みや恐れを、考える暇など、まるでなかった。たった一つの尊き想いは、受け入れられた筈ではなかったのか。
確かに愛の言葉は返らない。けれど見詰める瞳の熱は、自らと同じものではなかっただろうか。
あの笑みが、あの眼差しが、偽りだったなどとは思えない。
仇の子と謗られようと、たとえ刃を向けられても、あの手は絶対に離せない。
それがマイクロトフの真実だから。
何があろうと譲れぬ、人としての願いだから───
西棟に居室を変えてから日が経つ。歩み慣れた東棟の警備も、以前とはだいぶ様変わりしている。
皇太子の私室へと向かう廊下に張り番の騎士は居ない。今は無人となった部屋の周辺は驚くほど無防備だ。ここを「会談」の場に選んだカミューは、それを見越していたのかもしれない。
ゆっくりと取っ手を掴んで扉を押す。
廊下は最低限の灯りが点されているが、室内は暗い。しかし、完全な闇ではなかった。廊下から洩れ入る光が正面の窓を弾き、更に足を進めると、寝台脇に置かれた燭台の蝋燭が一本だけ燃えていた。
心細げに揺らめく炎の中、細身の影が浮かんでいる。訪いに気付いて振り向いた美貌が、変わらぬ優しい笑みでマイクロトフを迎えた。
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