遥か遠い故郷の同朋の助力、そして、そうとは知らずに情報を集めた、副長をはじめとする赤騎士団員の「尽力」によって、終に獲物との対峙を果たしたカミューの瞳には、凍てつく炎が揺らめいていた。
その覇気に押された白騎士は膝を折って戦慄くばかりだ。抜刀もしていない年若い青年を前に、騎士は完全なる敗者であった。
「ゴルドーに「皇子の護衛を装った刺客」などという役どころを与えて貰った御陰で、思いがけず騎士団の内規に詳しくなりました」
薄い笑みを浮かべてカミューは言った。
「過去における任務の記録も拝見しました。なのに、あの一件は記載されていなかった……先ずはそのあたりから説明していただきましょうか」
無意識だろうか、白騎士は純白の手袋が汚れるのにも頓着せず、足元の土を掻き毟っている。やがて指が止まったとき、掠れる声が語り始めた。
「我がマチルダは……長く他国不可侵を信条としてきた。けれどそれは、明文化された国の法ではない。何時の間にか根付いていた政策方針とでも言うか……要は、皇王陛下の御心次第、といった類のものだった」
建国以来、最大とも言える繁栄期を迎えていたマチルダ。歴代の王の中でも抜きん出て武に長けた前皇王は、更なる国力を求めて領土拡大を志した。
しかし、如何に統治者の意向とは言え、反対意見が出るのは必至だった。何といってもマチルダにはハイランドの支配に蹂躙されていた過去があり、古くからグラスランドを属州とすべく攻め入るティント王国やサウスウィンドウ国の政策を快く思わぬ風潮が定着していたからである。
宰相をはじめとする側近に図ったところで、すんなりと賛同が得られないのは明白だった。故に、前皇王は白騎士団長と共に策を弄したのだ。
グリンヒルやティントといったデュナンの地を避けた、誰もが予期し得ぬ侵攻経路を確保する。その上で、進軍を開始してしまえば、もはや後戻り出来ない。
繁栄の絶頂を迎えた国が更に上を望むなら、残る道は他国を手中に納めるしかないのだと、平穏に慣れた重臣らも認めざるを得なくなる───
騎士は続けた。
「だが、一騎士団、部隊・小隊単位で動けば、策が洩れる恐れがある。山岳越えの経路を確立するまでは、宰相や議員に気取られぬように、と……様々な所属から選ばれた騎士で隊が組まれた」
二十四名、ほぼ一小隊分ほどに当たる人員数。「休暇」の名を借りてロックアックスを出立した彼らは、未開の山へと分け入った。
昼でも薄暗い道なき道、方角を失わぬよう払わねばならない細心。途中、持ち寄った食料も尽き、獣を狩っては腹を満たした。
一方で、僅かに気を緩めれば自身らが魔物の生き餌となりかねない過酷な旅路。あるいはそれが、彼らの理性を歪めたのかもしれない。
山岳の終着の先に現れた小村を見たとき、一行に騎士の誇りなど皆無だった。あるのはただ念頭に刻まれた君命、「侵攻の拠点となり得る場を発見した際には、これを実力で奪取せよ」───
そうして彼らは従った。飢えた略奪者さながらに、弱き民人の血を啜ったのである。
カミューは微かに身を震わせた。
「あれだけの暴虐を行っておきながら、その後マチルダが侵攻してこなかったのは何故です」
「分からない」
「分からない、……ですって?」
形良い眉が上がるのを見て、白騎士は必死の形相で乗り出す。
「嘘ではない、本当に知らないのだ! 他部族の蛮民どもに侵攻を知られてはならぬと、我らは厳命されていた。だが、おまえとあの剣士によって仲間を殺され、結果的に生き証人を残したまま逃げ帰らねばならなかった。だから一時的に計画を保留にせざるを得なかったのだろう、と……わたしはそう考えていた」
恩師ゲオルグが推察したのと同じ答えだ。僅かに目を伏せ、カミューは唇を上げた。
───それが真実なら、ひとり死に遅れた己を許せる。
「つまり、あの山岳越えや襲撃は、全て秘密裏に行われたもので、だから記録にも残らなかった訳ですね」
「……そうだ」
「騎士も? 計画に携わらなかった他の騎士、彼らも何も知らないのですね」
カミューの脳裏に、騎士団名鑑の紙面が過る。
「二十四人でマチルダを出て、戻ったのは四人だけ。戦時下でもないのに、一度に二十名もの死者が出れば騒ぎになる。死亡の時期や場所、死因を偽って報告したのはそのためですか、周到なことだ」
語調に滲んだ険を感じ取ったらしい男が悲鳴のような声で叫ぶ。
「それをしたのはわたしじゃない、別の仲間だ! わたしは戻るなり数日寝込んだ、その間に仲間が───」
カミューは冷たく嘲笑した。そんな主張で保身を図る男の卑小ぶりが滑稽で、虚しくもあった。
事後の始末をつけたのが誰であろうと意味はないのに。無力な村人に刃を入れた、その一点で、この男はカミューの怨敵となったのだから。
いつしかとっぷりと暮れた森を、緩やかな風が抜けていく。闇色の衣を巻き上げるそれが納まるのを待って、カミューはポツと切り出した。
「今一つ、最後の質問です。山岳を越えてグラスランドに侵入する。水場となる拠点を得るため、そして生きた証人を残さぬため、そこに住まう民を鏖殺する……それは、本当に前皇王の下した命だったのですか?」
騎士は暫し問いの意図を量れぬようだった。幾度か瞬き、恐々といったふうに返す。
「……どういう意味だ?」
カミュー自身、最後の最後になって何故そんな問い掛けが口をついたのか分からない。未だ疼く迷いを捩じ伏せるためには洩らせぬ一言だったのだと、言葉にしてから初めて気付いた。
白騎士は黙り込んでしまったカミューを汗を浮かべながら見詰めている。どう問い直すか悩めるうちに、阿ねるような声音が語り出した。
「陛下に直に命令されたか、と……そう聞いているのか? たとえ位階者であっても、皇王陛下から直接命じられるという習いはない。あのときも同じだ、陛下より命を授けられた白騎士団長によって部隊指揮官が選ばれ、更に我らが徴集された」
「では……皇王の命令である確証はないと?」
すると騎士は虚を衝かれた面差しでカミューを凝視した。飲み込みの悪さに知らず険しくなった美貌に戦いて、慌てて首を振る。記憶を手繰り寄せるように視線を泳がせ、言い募った。
「任命書があった。公文書の偽造は罪に問われる。まして陛下の御名を騙るなど、明るみに出れば死罪間違いなしの重罪だ」
「…………」
「それに、事が事だ、内密の厳守を促す意味合いからか、我らは任命書に血判を押すよう命じられた。そのときに見た、陛下の御署名と皇王印……署名はともかく、印章は厳重に保管されている筈だし、特殊な技術が使われているから、容易く偽造出来るものでもない」
「……良く分かりました」
カミューは一度だけ騎士から目線を外し、胸に棲み付いた精悍な男の顔を過らせた。そうして再び騎士を捉えた瞳には、得も言われぬ冷徹が宿っていた。
「あの夜から五年あまり、無念と共に生きてきました。あなた方を確実に狩る力を得ようと慎重を期したばかりに、遅きに失した。王は死に、逃げた騎士にも三人まで死なれてしまった。でも、天はわたしを哀れんでくれた。この手で恨みを果たす機会を残しておいてくれた」
しなやかな手が、すらりと愛剣を抜き放つ。間近に迫った完全なる闇を裂くように、青白い刃が煌めいた。
「抜きなさい。せめて剣士らしく、仲間の後を追わせて差し上げます」
目前に突き付けられた切っ先に、蹲っていた白騎士は転げるように後退る。間合いの外に逃れたところで再度膝を折り、全身を戦慄せながら叫んだ。
「何もかも正直に答えたではないか!」
「答えれば見逃すと約した覚えはありません」
淡々としたいらえに騎士は目を剥く。
「わたしは騎士隊長だぞ! こんな、騎士の本拠の真っ只中で……おまえとて、ただでは済まぬ!」
「御心配には及びません」
カミューは柔らかに微笑んだ。
「間もなく、ちょっとした騒動が生じます。騎士隊長が一人、姿を眩ませたところで、騒ぎの前に飲み込まれてしまうでしょう。捜索の手が打たれる頃にはゴルドーが、そして皇子が失われる。マチルダの中枢は、あなたの消失になど構っていられなくなる───」
騎士は唖然とした。ぱくぱくと開閉を繰り返した唇が次の声を発するには長い時間が要った。
「ゴルドー様と……皇子……? ゴルドー様とマイクロトフ皇子を殺すと……?」
未だ直面したことのない魔物と対峙したが如き眼差しでカミューを見上げる。
「わたしがマチルダへ来た目的は一つ、逃げた四人の騎士を殺し、グラスランド侵攻を命じたマチルダ皇王の血を絶やすこと。あなたと皇子を消せば目的は果たされます。けれど……王となるものを失った後のマチルダを立て直すのは宰相と騎士団、そこにゴルドーのような人物は必要ない」
「貴様……貴様は……」
騎士は喘いだ。
「そんな大それた真似、白騎士団長と皇太子を揃って殺すなど、そんなことが出来る筈がない!」
「そう思われますか? こうして容易く誘い出されたあなたが?」
何処か壊れたような、楽しげとも言える調子でカミューは返した。
「ゴルドーはわたしを、皇子暗殺の手駒であると信じ込んでいます。皇子は───皇子は、ゴルドー以上にわたしを信じている。わたしは両者の首に剣を突き付けているも同然なのです。ほんの少し手首を返すだけで事足りる」
騎士を指した剣先を微かに捻り、決意の仕草を見せた後、カミューは全身に闘気を走らせた。それを察した白騎士は片膝だけを起こして、地についた両手を震わせた。
「助けてくれ、わたしには妻も子も───」
「……御家族にまで手を下すつもりはありません」
掠れた声が、尚も懇願する。
「仕方がなかったのだ! 我らは騎士だ、主命には逆らえぬ。ああするのが我らのつとめだったのだ!」
「ならば、つとめによって命を落とす覚悟もあるでしょう」
はっと騎士は顔を上げた。いざるように身を乗り出し、引き攣った笑顔をカミューに向ける。
「そ、そうだ。今日限りで騎士団を辞す。マチルダから出て行っても良い。だから……頼む、どうか命だけは───」
言い差したところで、琥珀の瞳が燃えた。
「わたしに慈悲を求めるのか?」
白刃が微かに震える。
「村にも、そうして命請いした者が居ただろう。おまえたちはそれを聞いたか? 女子供、乳呑み児までをも斬り捨て、果ては殺した数を声高に誇り合っていたおまえたちに、慈悲を払えと……わたしに言うのか!」
初めて剥き出しになった感情を抑えるすべもなく、カミューは叫んだ。
「わたしからすべてを奪っておいて、……憎しみの中でしか生きられぬようにしておいて! 仕方がなかった、だと? ならばそれがおまえの罪だ! 剣を抜け、命じられるまま何の迷いも抱かずに殺戮に手を染めた己を悔いるがいい!」
もはや逃れられぬと確信したのか、騎士は更に数歩後退しながらのろのろと立ち上がった。剣の柄に手を掛けるや否や、密かに握っていた土塊をカミューへと投げ付ける。
目潰しを期した抵抗を、だがカミューは予見していた。素早く飛び退って難を逃れ、下段に剣を構え直す。
目論見が失敗したと悟っても、騎士には突進するしか残されていない。狂ったような吠え声を上げて、みるみる間合いを詰めた男は、そのまま剣を振り下ろした。
カミューは愛剣の刃に左手を添えて攻撃を受け止めた。鋭い金属音と共に、夜陰に小さな火花が散る。渾身の力で騎士の剣を跳ね上げ、続いて目にも止まらぬ速さで利き手を引いたカミューは、攻撃を退けられて無防備を曝した敵の左胸目掛けて真っ直ぐに愛剣を突き入れた。
痛みすら感じる暇がなかっただろう。細身の刀身すべてで体躯を貫かれた騎士は、驚いたように目を瞠り、ぽかんと口を開いたまま動きを止めた。
カミューが左手で胸元を押すと、真紅に染まった刃を吐き出しながら、騎士はずるずると背後へ傾き、そのままどさりと地に沈んだ。投げ出された四肢が幾度か痙攣し、やがて弛緩を迎える。驚愕したように表情を張り付かせたまま、白騎士隊長は絶命した。
カミューもまた、剣を取り戻した後、暫し身じろぎもしなかった。
あれほどまでに憎み続けた仇の一人を漸く討ち果たしたというのに、何の感慨も湧かない。歓喜はおろか、一切の感情がついてこない。底のない虚無、彼を占めていたのは、そう呼ばれるような放心だった。
やがて、握った愛剣へと視線が落ちる。
「村を護れ」と託された古き庇護の神の名を持つ剣は、村を滅ぼした敵の血を伝わせながら、けれど祝福を囁こうとはしない。べっとりとした真紅の狭間から冷たい無機質な輝きを放つばかりだ。
束の間、その光に見入ってから、カミューは小さく息を吐いた。
───大丈夫だ。冷静は失っていない。
返り血を浴びぬよう、敵を斬り裂かずに突きで仕留めた。凶行の痕跡を消し去り、何食わぬ顔で戻れば良い。
次の標的はゴルドーだ。
この白騎士隊長の「失踪」を餌にすれば、保身に敏感な男を動かすのは訳無い。同じように人目につかぬ場所へと誘い出して始末する。
そして最後は───
剣の穢れを拭うため、布を求めて上着の隠しに入れた手が、なめらかな感触に触れた。無意識にそれを引き出したカミューは弱く瞬いた。
赤騎士隊長から贈られ、査察中に刺客に襲われたとき皇子に貸与し、その後、騎士や従者の手を経て戻ってきた、信頼を示す緋色の布。同じく騎士らに貰った金色のエンブレムを端に止め、小さく折り畳まれて隠しに納まっていた「真紅のマント」が、責めるようにカミューを見詰めている。
自嘲が浮かんだ。
身につける資格がないと知りながら、それを持ち歩いてきた己に、声を上げて笑ってしまいそうだ。初めから信頼に見合う身ではなかったのに、彼らの好意が快く、手放せずにいた我が身の愚かしさ。
唇を噛んで布を隠しに戻したカミューは、横たわる騎士の衣で剣を拭った。白い装束が血色を滲ませる代わりに、元の清廉を取り戻した剣を鞘に納める。
それから、見開かれたままの男の目蓋を閉ざしてやり、だらりと伸びた両手を胸の上で重ね合わせ、最後に地に放り出された剣を騎士の身体に乗せて、距離を取った。
宿主の怒りに応じて放たれる寸前まで高まっていた「烈火」の熱も、今はひっそりと鎮まり返っている。だが、改めて呼ばれるのを待ちかねていたかのように、軽く掲げたと同時に右手が焼け、次の刹那には白騎士の亡骸を焔が舐めた。
世に知られる種のいずれとも異なる発動のかたち。限られたものだけを焼く火は、紋章と強く結びついたものだけが操る力だ。肉の焦げる匂いはなく、ましてあの夜のような悲鳴もなく、焔は静かに騎士の存在を消して行く。
昇る煙も、生い茂る木々の葉に紛れて闇に溶け、城までは事態を伝えまい。土に染みた血潮も「烈火」が焼き取る。そうして完全に暮れた闇の森が、墓標なき騎士の墓となる。
そのときだった。
カミューは背後、城へと戻る小路の向こうに微かな人いきれを感じた。はっと振り向いた目が捉えたのは、呆けたように小路に立ち尽くす一人の騎士だ。
カミューは彼を知っていた。ひょんな偶然から幾度か言葉を交わし、死んだ「弟」を重ね見た年若い赤騎士。
見れば、若者のすぐ横に身を隠すに足る太い木がある。おそらくそこに潜んでいたのだろう。予期せぬ光景に見入るあまりに、思わず歩を踏み出して姿を曝してしまったとしか見えぬ様相であった。
「……何故です?」
若い赤騎士は虚ろに呟く。
「どうして、あなたが」
それから自らが耳にした様々を反芻するように首を振り、一歩だけ後退した。
「マイクロトフ殿下を殺す、と……?」
カミューは咄嗟に右手を挙げた。
知られる訳にはいかない。
今、皇子の周囲に臨戦の構えを取られたら終わりだ。
この騎士の口を封じて、描いた策を進むしかない。
掌の中に、拳大ほどの焔玉が浮かんだ。
若者は間合いの外にいる。しかも、城に近い側を取っている。
カミューも足には自信がある。逃げる若者を追って斬ることも可能かもしれない。けれど、走りながら応援でも叫ばれ、万が一にも聞き止めるものがあれば、策は破れてしまう。
若者が駆け出す前に、城に居る仲間まで声が届かぬ距離を残している間に、確実に息の根を絶たねばならない。
呼び寄せた火を放つため、カミューは最後の枷を外そうとした。
───だが。
死んだ白騎士を包んでいた赤い光。既に死者を無に還し、辺りの僅かな草を焦がしている炎の中で、若い赤騎士は強張った顔のまま、凍り付いたようにカミューを見詰めている。最初に一歩退いただけで、自身の窮地も忘れ果てたかのように、カミューを見詰め続けている。
放て、と促す「烈火」の凄まじい熱が、いつしか遠いところでしか感じられなくなった。闇に灯された焔は、揺らめき、次第に小さくなって消え失せた。
ゆるゆると手を下げたカミューの動きが若者に思考を取り戻させたらしい。彼はそろそろと後退り、そのまま弾かれたように踵を返して、城へと駆け戻っていった。
暗がりの先に消えて行く後ろ姿を見送ったカミューは、ひっそりと目を伏せた。
おそらく、死の寸前に村人たちが見せたのは、あんな顔だったに違いない。自身へと向けられる刃を見上げ、運命を受け入れられず、祈りすら忘れた自失の顔。
そして、「彼」も同じ顔をするのだろう。信じたものに裏切られ、現実を認められぬまま、「何故」と問い続ける。
カミューには殺せなかった。
何の恨みもないあの若者の命を、復讐の妨げになるというだけで摘めば、無力な民を殺した憎むべき敵と変わらぬところへ堕ちるも同じであったから。
「終幕、か……」
空を仰いで呟いて、城へと続く小路へと瞳を戻す。
こうなっては、ゴルドーは諦めるしかない。彼の処遇は騎士に任せ、初心に立ち戻る。
カミューはゆっくりと歩き出した。命を懸けて、最後の「敵」を討つために。
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