「デュナンへはどの経路を取るつもりだい?」
地図を開きながらのルシアの問いに、紙面に視線を落としてカミューは答えた。
「山岳を行くよ。ティントを迂回していては時間が掛かる」
マチルダ騎士は狭長とした山岳を越えてグラスランドに侵入してきたのだ。それを思えば、目指すグリンヒルへの距離は短いと言える。ルシアからの提案を受けた今、僅かな遅れでグリンヒル公主が望みの刺客を得てしまうのではないか、降って湧いたような機会を何としても逸してはならない、そんな焦りが先立つカミューだった。
そうか、と満足気に笑んだルシアが地図の一点を指す。
「カラヤの戦士も同じ経路を使って行き来している。グリンヒル公国領に入ってすぐの、この村……森の村と呼ばれる集落が戦士たちの拠点になっているんだ。ここにビッチャが居るから、これを渡せ」
差し出されたのは、彼女が夜を徹して記した文である。
ルシアの一計は、ごく単純なものだった。公主ワイズメルが刺客探しを持ち掛けたグリンヒルの要人、そのいずれかにカミューの武力を見せつける場を設える。
財と暇に飽かせて郊外で狩りに興じるものなどは最良の狙い目だ。彼らの中に、生け捕りにした魔物の一、二でも投げ込めば、それで十分に目的は果たせるだろう。
「尤も、「刺客としての資質あり」と認めさせるには、あまり非力な魔物では意味がない。おまえにもそれなりの覚悟をして貰わないとね」
さらりと念を押したルシアに、カミューは苦笑混じりに頷いた。
「貴重な繋ぎとなってくれる筈の人物だからね。死なせないよう、せいぜい頑張るよ。だが……そうした策なら、魔物を生け捕るカラヤの戦士の方が危険ではないかな」
幾分堅い調子で続けると、若き族長は不敵に笑った。
「ビッチャムは父の片腕だった男だ。今もわたしの代わりにグリンヒルに潜伏する戦士たちを束ねてくれている。信じて任せれば良い」
受け取った文を大切に旅荷に納めたカミューは、ルシアの声音に宿る部族民への絶大な信頼を、またしても羨まずにはいられなかった。
村の入り口に繋いであった馬へと向かい、その背に旅荷を括り付けたところで、見送るために同行したルシアに切り出してみる。
「ルシア……仮定で語るのは愚にもつかないが、わたしが首尾良くグリンヒル要人の懐に潜り込めたら……公主から刺客の手配などという血生臭い役目を委ねられるほどの人物ならば、御父上の死についても何か知っている可能性は高い。君の求める真実を一気に得られるかもしれない」
するとルシアは目を瞠り、すぐに破顔した。
「余計な気遣いは無用だ。おまえはたった一人で敵地に乗り込むんだ、自分の心配だけしていろ」
「しかし……」
「わたしには仲間がいる。時間もある。より過酷な戦場に向かう人間に案じて貰う必要はない」
毅然とした一蹴の中に温かな配慮を感じ取れぬカミューではない。言葉にならぬ感謝を込めて同朋の肩を引き寄せ、額にそっとくちづけた。
ルシアがポツと言った。
「夕陽が血色に見えると言ったな。それはカミュー、きっと心が血の涙を流しているからさ。わたしも同じだ。暗殺の確証が掴めたら、すぐにもグリンヒルに赴くつもりでいる。共に宿願を果たし、懐かしい色を取り戻せたら良いな」
うん、と小さく頷く。
それから旅荷の口を寛げ、包みを一つ取り出してルシアに向けた。反射的に受け取った彼女は、微かに眉を顰めた。形状や重みから、それが金であると悟ったのだ。
即座に付き返そうとする手を柔らかく押し止めてカミューは微笑んだ。
「取っておいてくれ、ルシア」
「冗談じゃないよ、何のつもりだ? わたしは───」
尖った声を、ひっそりと遮る。
「分かっているよ、でも……今のわたしにはこれしか出来ないんだ」
かつて、そして今も、助けて貰うばかりで何ら報いることが叶わぬ己が厭わしい。
無論、金銭で返せるなどとは思っていない。しかし、それが唯一残せる感謝であるのも、悲しいかな、事実だった。
「持ち歩くのも邪魔だし、どのみちマチルダ入りした後には使う機会もなくなるだろうし……」
気分を害してしまったらしい少女を宥めるような声音が、次第に低くなる。彼方を仰いだ琥珀色の瞳が揺れた。
「せめて預かっておいてくれないか? 頼むよ、ルシア」
依然として険しい顔のまま、不意にルシアは目を細めた。きゅっと唇を噛んで重い包みを握り直す。
「……分かった。おまえの気が済むなら、そうしよう。だが、忘れるなよ。預かるだけだからね」
───復讐を遂げて、グラスランドの地に戻る日まで。
旅の始まりを感じているのか、前脚の蹄で軽く土を掻く馬の首筋を撫でて、カミューは穏やかに呟いた。
「カラヤ族長ルシア。君と、君の部族の前途に精霊の祝福を」
それを聞いたルシアは、はっと瞬いた。
「カミュー、おまえ……」
戻ってくるつもりなんだろうね───飲み込まれたであろう誠心からの問いに、彼は答えられなかった。
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