「───な」
最初に声を絞り出したのは宰相グランマイヤーであった。
「何と仰せになられた? 皇王制を……?」
「廃止する。おれが最後のマチルダ皇王だ」
凍り付いたように身じろぎもせぬ男たちの注視の中、マイクロトフは静かに答える。次の瞬間、悲鳴にも近しい叫びが洩れた。
「皇王制を廃す、ですと? 二百年続いた我がマチルダの基盤を崩すと、そう仰せですか、マイクロトフ殿下!」
椅子を倒して立ち上がったグランマイヤーの戦慄きを見詰めながら、マイクロトフは頷いた。
「そうだ。この国に、もはや王は要らない」
「斯様な戯言、聞くに耐えぬ……わたしは失礼させていただきますぞ!」
皇子の発言も然ることながら、日頃は物静かな宰相の激昂にも驚きを隠せぬ騎士一同だ。そんな中、ひとり赤騎士団副長だけは辛うじて沈着を通した。身を屈め、倒れた椅子を戻しながらグランマイヤーを見上げる。
「グランマイヤー様……我らは殿下の御信頼を得てここに集ったのですぞ。最後まで話を伺うのがつとめと心得ますが」
冷静に進言されて、宰相は迷いを覚えた。退出してしまいたい心地と、留まるべきであるという自制に揺れ、やがて後者が勝った。よろよろと椅子に崩れ落ち、片手で顔を覆いながら溜め息をつく。そんな様相を見守りながら、マイクロトフは僅かに頭を垂れた。
「すまんな、グランマイヤー。だが、もう決意は変わらない。心を鎮めて、おれの話を聞いて欲しい」
間髪入れず、呻きが応じる。
「どう鎮めろと仰せです。わたしが……いいえ、わたしだけではない、彼ら騎士とて、何のために今まで励んできたと思っておいでか。すべては殿下に、無事に皇王位を継いでいただきたい一心で───」
「それは違う」
きっぱりと遮った皇子に怪訝そうな眼差しが集まる。だが、続く声音に迷いはなかった。
「おれを即位させるためではなく、マチルダの平安のために励んでいるのではないか? 皇王不在という非常事態を乗り切り、ゴルドーの横暴を抑える……そのために、おまえたちは日々戦ってきてくれたのではなかったか」
おずおずと、青騎士団副長が割り込んだ。
「言い替えれば、斯様にも申せましょうが……やはりマイクロトフ様に王となっていただくことこそ、我々の最大の責務であり、目指すべき結末だと考えますが……」
「では、そこで終わりか? おれはこれでも、ずっと先の先まで考えたつもりだぞ」
揶揄するようにマイクロトフは言い、副官は虚を衝かれて押し黙る。一同を見渡しながらマイクロトフは威儀を正した。
「父上が没してから四年、マチルダには王がいなかった。だが、国は変わらず在り、民は平和に暮らしている」
「それはグランマイヤー様はじめ議員方が御尽力なさったから───」
青騎士団副長が言えば、当のグランマイヤーもきつい眼差しを真っ直ぐに皇子に当てる。
「それに、彼ら騎士諸兄が奮迅のはたらきで民を護ってきたからです」
それを聞いたマイクロトフは、得たりとばかりに目を細めた。
「その通りだ。政治を司るもの、武を司るもの。双方が機能する国であれば、王などなくとも立ち行ける」
やれやれ、といった面持ちに変じて宰相は首を振った。
「殿下……我がマチルダの皇王制は、民の、聖マティスの一族に寄せる敬意と恭順の証でもあるのですぞ。いにしえの民に望まれてマティスの御長子は王に立たれた。以来、皇王家はマチルダの民の心の支えであったのです」
「古い時代にはそうだっただろうな」
認めてマイクロトフは頷いた。
「ハイランドを退けた当初……未だ国の行き先がさだまらず、いつ再びの侵略を受けるとも知れぬ時代には、強い求心力を持つ指導者が立つ必要があった。その名が「皇王」だったのはおれも認める。だが、今この時代のマチルダに本当に王が要ると思うか、グランマイヤー」
両騎士団副長をはじめ、昨日ゴルドーと対峙したときにも居合せた位階者らは、このマイクロトフの落ち着き払った演説に呑まれていた。
立場や心情から行けば、宰相を支持せねばならない筈なのに、何故か引き込まれる。皇子の考えを余さず聞き届けたいといった不可解な興奮が沸き起こるのだ。
「要らないなどと思うものがありましょうか! 殿下とて御自身で感じられた筈です、民が殿下の即位される日を待ち、祝福している。民だけではない、わたしたちとて同じです。我らの期待を、何ゆえ捨てるなどと仰せか!」
束の間、マイクロトフは唇を噛んだ。宰相の悲痛な訴えは、彼の中の唯一の痛点を衝いたのである。暫し瞑目し、だがそれでも彼は真っ直ぐに顔を上げたままだった。
「……おまえたちには無論、民の期待に添えぬことだけはすまなく思っている。だが、これはいつか誰かが決さねばならない。マティスの血を引くもののさだめだと思うのだ」
「さだめ、ですと……?」
「そうだ」
やや低くなった声が静かに続ける。
「確かに皇王家は二百年続いた。だが、この先、同じだけ続くと思うか? 王に立つ資格を持つのはマティスの直系血族、もはやおれ一人しか残っていない。父上の御代に、既に皇王制の廃止は避けがたい未来として予見されていたのではなかったか」
はっと息を飲む宰相に、隣に座す赤騎士団副長が気付いて痛ましげな視線を注いだ。
「今でこそ聖人と呼ばれているが、マティスは一人の人間だった。その子である初代皇王も、次の王も同じだ。彼らは民に望まれ、国を平定するために王位に就いた。けれど王権を末代まで伝え続ける執着が彼らにあっただろうか。理に準じて、生涯ひとりの妻を守り、自然のままに血を繋いできたのは、すべてを天のさだめと受け止めてきたからではないか」
「…………」
「今ならばおれにも父上の御心が分かる。グランマイヤー、おまえは長くおれの両親を見てきたのだから、理解している筈だ」
「それは───」
グランマイヤーは必死に言葉を探そうと足掻いた。だが、マイクロトフは猶予を与えず畳み掛けた。
「子に恵まれぬ正妃を見限り、別の妻を持てと周囲は父上に勧めた。だが、父上はそれを拒み、母上を守り通した。己の代でマティスの血を絶やしても構わぬ覚悟を決めておられたからだ」
「殿下、それは……」
「けれど奇しくもおれが生まれて、すべてが差し延ばしとなった。結果が、この皇王不在だ。ゴルドーの増長を許し、騎士団の秩序は乱れた。おれという存在がなかったならば、マチルダは新たな時代に進んでいたであろうものを」
異を挟むことすら躊躇われる確信に満ちた言葉。騎士たちは困惑したまま沈黙を保つしかない。一人、グランマイヤーだけが切ない抗弁を続けた。
「し、しかし……殿下が誕生されたことこそ、王を失してはならぬという天の配剤、そのようにも考えられるではありませんか」
「おれはそう思わない」
マイクロトフは穏やかに首を振る。
「一つの時代を終わらせ、次の時代を構築する……それがおれに課せられた責務なのだと今は思う。考えてもみろ、グランマイヤー。細るばかりだった皇王家の血が、この先、永劫の繁栄を約束されていると思うか?」
「それは……でも……」
皇子がグリンヒル公女と結婚して無事に子を生してくれれば───言い掛けた言葉を、すんでのところで宰相は飲み込んだ。マイクロトフ誕生以前、子無き頃の先王夫妻を知る彼には言えなかったのだ。
何にもまして世継ぎを求められる立場、期待を越えて圧力と化す周囲の視線。いずれ同じ眼差しに晒されるであろうマイクロトフが過ぎり、知らず声は絶たれてしまったのである。
「おれの先は? いつまた皇王不在となるかもしれない、そのたびに国政の多くを宰相や議会が負うのか? 王位継承者が道を外さないとも限らない、そのときはどうするのだ? そうした不安定な時期に、もしハイランドに攻め込まれたら? 再びゴルドーのような人物が台頭したら……?」
シン、と静まり返る一同を眺め遣り、マイクロトフは微かに笑んだ。
「マティスは言うだろうな……いつ絶えるかも分からぬ血を恐々として護るより、国そのものを護れと。皇王家の血にこだわる時代は過ぎた。彼の末裔として、おれにしか出来ない。だからそうする───皇王制を終わらせる。そのためにおれは最後の王位に昇る」
無言で聞き入っていたフリード・Yは、そこで何時の間にか己の頬に伝っていた雫に気付いた。
皇子は自らを「最も古い側近の一人」と称してくれた。その立場を考えるなら、何かを言わねばならなかった。こんなにも突然、あまりにも重大な決断を下してしまった主君に、今少し考慮してはどうかと進言すべきであったろう。
なのに言えない。皇子には全く迷いがなかったから。
己の心ひとつで、これまで積み上げられた歴史を曲げようとするマイクロトフに、眩しいばかりの強さを見たから。
王位継承者として以上の決意を、その輝く瞳に見出してしまったから───
「皇王制廃止後は、マチルダを騎士団統治国家とするつもりだ。今現在グランマイヤーや政策議会が受け持っている職務を騎士団へと移す。当分の間は議員たちを相談役として残しておくのも良かろう。職務移行に伴う混乱を防ぎ、且つ、議員らの失職に対する反発も抑えられる」
つい先程、騎士たちの有能ぶりを痛感してしまったばかりのグランマイヤーとしては、未だ混乱の境地にありつつも、それが決して不可能ではないと認めざるを得ない。
「皇王空位は長かった。ならば、おれが即位して実務を執れるようになるのと、新たな体制は定着するのとでは、そう時間的に差はない筈だ。移行に支障が生じるとは思えない」
これまた昨日、カミューに同じような意見を述べてしまった赤騎士団副長が眉を寄せている。
「必然的に、王位継承者と宰相が騎士団長を兼任するという慣例も廃す。名のみの騎士団長など意味はないからな、これまでの指揮系統をそのまま上げて、副長たちに団長職に任官して貰うことになるだろう」
青騎士隊長が渋い顔になった。これは過日、北の村で彼が論じた意見そのままだったからだ。
「ゴルドーが退場した後の白騎士団をどうするかは未だ考えていないが……二騎士団制を採って統治者が二人となれば、いずれ権力闘争に発展しないとも限らない。かと言って、これまでのように白騎士団長一人に権力を集中させては、第二のゴルドーを生みかねない。そこは検討が必要だと思う」
最後にマイクロトフは、力強い瞳で居並ぶ男たちを一望した。
「この場には、騎士団の歴史の中でも比類なき実力者が揃っているとおれは考えている。新時代を開くなら今だ。結束が満たされた今、このときしかないのだ」
長い、長い静寂だった。
腕を組み、また、瞑目しながら一同は思案に暮れる。
マチルダの皇太子は論術が不得手───囁かれてきた城内の噂。誰が考え得ただろう。こんなにも流暢に、自信に溢れて将来の展望を述べる皇子の姿など。
皇王家の断絶は、常に彼らのうちに潜み続けた、誰もが一度は脳裏に過らせた懸念である。けれど、過去を覆すような未来図など、畏れが勝って到底描くことは出来なかった。
それを皇子はやってみせたのだ。一片の迷いもなく、希望に満ちた声音で、正しく王たるものの威風に包まれて。
吐息を洩らすのさえ憚られるような緊張を、弱く崩したのもまた、宰相グランマイヤーであった。
「……御父君に良く似ておられる」
半ば泣き笑いのような表情で、目を細めながらマイクロトフを凝視する。
「陛下も……日頃は寡黙でありながら、時に雄弁を振るわれたものだ。御自身の信念に従われたときの陛下には、誰一人として異を唱えることなど叶わなかった……」
誰よりも皇子の決意に仰天し、誰よりも厳しく諌めようと試みた宰相。
けれど、彼も確かに感じていた。マイクロトフが言うように、このまま皇王家の血を護り続けるのは困難であろうと。
もともと子の少ない家系であるのは疑いようがない。たとえマイクロトフが妻を迎えて次代の王となる命を残したところで、その先の保証はない。
運良く子孫が栄えるとしても、いったいどれくらい先となるか。その間、再び皇王位を巡っての混乱が生じないと誰が言えるだろう。
先王が王制廃止を睨んでいたのは、朧げながらグランマイヤーも感じていた。殆ど諦め掛けたところへ皇子が誕生したため、その思惑が一時的に棚上げとなったことも。
幼い頃からマイクロトフは帝王学を学ばされていた。しかしそれ以上に、剣や騎士道に傾倒する息子を、先王は黙認していたのだ。
もし、あんなふうに急逝していなかったなら───先王は自ら宣したのではないか。今の皇子と同様に、やはり誇らかに決意を述べ上げたのではなかったか。
「わたしは……陛下亡き後、マイクロトフ殿下を主君としてお仕えしてきた。その主君がさだめられたこと、もはや何も申し上げられぬ……」
片手で目許を押さえ、グランマイヤーは低く呻いた。未だ葛藤を捨て切れぬまま、だが、それでも肩を震わせて顔を上げる。涙混じりの瞳がマイクロトフに注いだ。それは、幼い頃から我が子のように愛しんできた皇子への祝福でもあった。
「議員たちには、先ずわたしから話してみましょう。明日、午前の閣議で殿下の御意志を伝えます」
「そうしてくれるか。議員の説得にはおまえだけが頼りだ、グランマイヤー」
「いずれ殿下に同席いただく機もありましょうが……中には己の権威に固執する老獪なキツネもおりますぞ。御覚悟は宜しいでしょうな」
「精神誠意つとめる」
最も強く反意を示していた宰相の陥落に、騎士らは互いを窺い合っている。マイクロトフは二人の副長へと視線を移した。
「おまえたちはどうだ。新体制が発足すれば、騎士団が負う責務は多岐に渡り、これまで以上に艱難に耐えねばならぬときが訪れるかもしれない。それでも、出来るとおれは信じている。賛同してくれるか」
顔を見合わせた副長たちは、やがて小さな息を吐いた。赤騎士団副長が弱く笑んだ。
「……正直なところ、戸惑いがないとは申せません。我ら赤騎士団員一同、御声を掛けていただきましたときより、殿下の御即位と末永い治世を願って励んできたつもりですゆえ……」
青騎士団副長も頷く。
「同じく、複雑にございます。部下一同、マイクロトフ様が新皇王として国を導かれる日を心待ちにしておりました。今も、心は変わりませぬ」
しかし次には穏やかで温かな眼差しが細められた。
「されど、マチルダの安寧を保つことこそ騎士のつとめ……国の未来を思われる主君に従うのもまた、臣下たる我らのつとめ。全霊でマイクロトフ様をお支え申し上げるのみにございます」
二人の副長の言を受けて、騎士団位階者らは次々に礼を取っていった。
何れの胸にも上官と同じ頓着がないとは言えない。しかし同時に、マイクロトフの描いた展望が最良であるとも思われた。憂いは静かに捩じ伏せられ、やがて力強い覚悟となって一同を埋めていったのだった。
「しかし、殿下。王制を廃された後、殿下は如何過ごされるおつもりです?」
ポツリと洩れた赤騎士団・第一隊長の問いに、マイクロトフは明るく笑う。
「成ろうことなら、子供の頃からの夢を叶えたいと思う」
「夢……?」
グランマイヤーが切なげに顔を歪めた。
騎士となって、マチルダを護る───幼少の皇子が繰り返し口にしていた夢。絵空事でしかなかった未来が、一気に現実味を帯びてきた。位階者らも察したらしく、微苦笑を浮かべている。
マイクロトフは更に続けた。
「己の身ひとつで道を極め、いつか本当の意味で騎士たちの先頭に立ち、マチルダの民が護れたら、と……それがおれの夢だ」
「……参りましたな」
ふと、青騎士隊長が呟く。一斉に集まる視線に構わず、彼は真っ直ぐに皇子を見詰めた。
「あのときの御質問は……そういった意味合いでしたか。ならばわたしは言質を取られたという訳だ」
北の村で受けた皇子の問い掛け。「王でない身には価値がないか」と聞かれて、彼は答えた。如何に肩書きが変わろうと、今と同じ心を持ち続ける限り主君である、と。
マイクロトフはすまなそうに苦笑した。
「言質などとは考えていないが、勇気づけられたのは確かだな」
「何の話だ?」
同位階者に胡乱な顔を向けられた青騎士隊長は肩を竦めた。
「王であろうが騎士団長であろうが、今この胸にある忠節は変わらない、と……まあ、そんなふうに申し上げました。まさか王位を捨てるおつもりとは思いませんでしたので」
複雑そうに考え込んでしまう赤騎士隊長から再び皇子へと目を戻し、男は量るように問うた。
「一つ、訊かせていただいても?」
「勿論だ」
「殿下はこれまで皇王制の廃止など全く考慮しておられなかった御様子……、何ゆえにここへきて、斯様に御考えになられたのか」
それは一同の疑問を総括するような一言だった。マイクロトフは小さく頷いた。
「そうだな、考えたこともなかった。他に選ぶ道などないと思い込んでいたからだ」
皇王家最後の直系。いずれ正妃を娶ってマティスの血を繋ぎ、王としてマチルダの安寧に努める。それが物心ついてからのマイクロトフの全てだったのだ。
「だが……気付いた。崩れようとしているものを護り抜く道もあるが、ひとたび壊して作り直す道もあるのだと。絶えかけた皇王家が君臨し続けるよりも、より良きマチルダの未来があるのではないか、と」
「───それは」
ポツとフリード・Yが割り込んだ。
「それはカミュー殿の影響、なのですか……?」
驚いたようにグランマイヤーが目を瞠る。傭兵の青年の名が何故ここで出るのか、彼には量り切れなかったからだ。
「カミュー殿? 彼が殿下に何ぞ吹き込んだとでも言うのかね?」
やや強い声音に、たちまちフリード・Yは身を縮める。そんなつもりはなかったが、そうも聞こえる発言だったと気付いたのだ。何と釈明するか迷う若者に代わってマイクロトフは笑みながら首を振った。
「カミューは関係ない。この件については何も話していないのだ」
それはそれで、幾許か意外を覚える騎士たちだ。
これほどの重大事である。てっきり皇子が、あの青年に何らかの意見を求めていると考えていたのだった。
───カミュー。
マイクロトフは心のうちで小さく呟いた。
彼という存在が切っ掛けとなったのは事実だ。
彼は教えてくれた。己の力量ひとつで生き抜く気高さや強さといったもの、何を置いても護り通したい人としての心を。
長く続いた歴史を壊すことへの畏れも、すべてを失って生まれ変わることへの竦みも、胸に燃える決意の前には瑣末なものでしかない。
マチルダの揺らがぬ未来、そして生涯の伴侶と決めた人と共に在る自身、双方を満たす道は天啓のように下りてきた。その後は、兆した展望の輪郭を固めることに尽力するだけだった。
「……殿下」
再びフリード・Yが、今度は幾分強張った声を上げた。不意にぽっかりと問題が浮かび上がったのである。
「テレーズ様との御婚儀は……どうなさるのです?」
あ、と一同は目を瞠った。特に宰相グランマイヤーは、忘れてはならない重大事を失念していた自身が信じられぬといった面持ちであった。
マイクロトフも、従者の口から出た名に息を詰めていた。婚姻が実現しないと知るのはマイクロトフ一人である。だが、この場で公女と交わした密約を洩らして良いものか躊躇われ、初めての狼狽に見舞われた。
一度は和み掛けた空気に緊張が走る。誰も発言しようとしないのを見取った青騎士隊長が、やれやれと頭を掻いた。
「こう申し上げては何だが、ワイズメル公の申し入れは未来のマチルダ皇王に対して為されたもの……その大前提が覆るとあっては、旨味が失われるというものでしょうな」
「……それは言葉が過ぎよう」
むっつりと赤騎士団・第一隊長が諌めるが、鋭い視線が睨め返す。
「言葉を飾ったところで何になると? 政略結婚が意味を為さなくなる、事実はそれだけです」
やや剣呑とした遣り取りに、マイクロトフが慌てて割り込んだ。
「その通りだ。婚儀の話は白紙とせねばなるまい」
これは困った、と唇を噛む。
予定では、数日中にもテレーズはグリンヒルを出てしまう。マチルダへ赴く途中で、まことの想い人と逃げるために。
それより先に報を送ったらどうなるか。
ワイズメル公の性格なら、青騎士隊長が語ったように、王でなくなる男に娘を嫁がせようとは思わない筈だ。だが、婚儀の中止はテレーズにとって吉とは言えない。父公は、マイクロトフに代わる有力者を探し出して、彼女に充てがうに相違ないからである。
どうすれば良いのだろう。マイクロトフは頭を抱えたい心地だった。
マチルダの恒久的な親愛をグリンヒルに約して、代わりにテレーズと恋人との仲を認めて貰うのが最善かもしれない。けれど、他国の内政にそこまで嘴を挟むことが果たして許されるものだろうか。
ならばやはり、当初の予定通り、テレーズの出奔を待つべきか。機を誤れば、取り返しがつかなくなってしまう───
「……公女殿がグリンヒル領内に留まっておられるうちに、報を入れねばなりませぬな」
赤騎士団副長が慎重に切り出した。
「マチルダに入られる前と後では、事の大きさが違いましょう。ワイズメル公が如何様に判断なさるとしても、万一にも輿入れ中の公女殿がマチルダ領にて引き返すようなことになれば、諸外国に我が国の誠意を問われかねません」
そうだな、とグランマイヤーが難しい顔で腕を組む。
「先日エミリア殿に聞いたところでは、確か……そう、確か今日だ、テレーズ殿はワイズメル公と親子水入らずで最後の観劇をなさるという話だった。明日・明後日と休まれて、それからマチルダに向けて出立なさる予定の筈……」
指を折り、記憶を手繰りながらの発言に、赤騎士団副長は頷いた。
「ならば、かろうじて御出立前に間に合いますな。直ちにグリンヒルへ使者を送り、殿下の御意向を伝えましょう。先方も判断に時を要しましょうが、何れにしても一刻も早い方が宜しいかと」
「待て、少し待ってくれ」
マイクロトフは進退窮まるといった心地だった。
自身、そしてマチルダの未来に関しては精一杯に考えた。が、テレーズの件を取り零していたのは痛恨である。
婚儀が中止となる可能性が高いだけに、赤騎士団副長が言うように、公女の出立前に知らせるのが肝要だ。だが、下手を打って恋人たちの必死の計画を潰してしまう真似も絶対に出来ない。
「……使者の出立は明朝まで待って貰えないか」
苦悩を堪え、絞り出すように言うと、赤騎士団副長は幾度か瞬いた。
「ワイズメル公への親書は、おれ自身で認める。テレーズ殿にも一筆入れたいのだ」
それを聞いたグランマイヤーは、首を傾げ、道理だとでも言いたげに騎士に向けて首肯した。
「こちらの誠意を示すには、それが最善でしょうな。どうだろう、副長殿」
「然様ですな、明朝一番にロックアックスを出れば、日の変わる前には到着が叶いましょう。ここで半日ばかり遅れたところで、御出立直前なのは同じですし……」
彼はそこでマイクロトフへと笑み掛けた。
「殿下の御心に添わせていただきましょう」
「感謝する。今宵中に書き上げて、明ける前に必ず渡す」
こればかりはカミューに頼るしかない。聡明な彼ならば、すべてを満たす妙案を捻り出してくれるに違いない。後先を考えないからだ、と手痛い叱責を浴びるかもしれないが。
一応の決着を迎えたマイクロトフの心は、ここに不在の愛しき人へと飛んでいた。
───淡い幸福の終焉が近いとも知らず。
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