宰相の一言はマイクロトフの胸に暗く落ちた。
王と騎士団長は両輪、それが長くマチルダの不文律であった。遠い昔、身分の違いを越えて固く結ばれていた聖人たちを思えば、今の両者の関係はあまりに醜い。
苦しげに俯いた彼を、カミューの琥珀色の双眸が静かに見守っていた。グランマイヤーは語り継ぐ。
「我がマチルダでは十八歳をもって成人と認められる。そのため、前皇王が崩御されてよりおよそ四年、マチルダ皇王の座は空位だった。その間に白騎士団長の地位についたゴルドーが、たちまち野望を剥き出しに勢力を伸ばしたのだ。今ではどちらが高位だか分からぬほどの不遜ぶりで王城内を闊歩している。品性の欠片もない男だ」
それは温厚な宰相には相応しからぬ、不快そのものといった口調だった。
「何故、即位なさらなかったのです? 宰相殿もおられることですし、未成年の王が立たれても問題はなかったと思われるのですが」
控え目にカミューは疑問を挟んだ。
「国の法だよ、カミュー殿。過去に一度だけ幼い皇王が在った。が……、その結果、外戚だった当時の宰相家の力が増し、政治に公正を欠く事態に陥ったのだ。そこで将来を憂いた騎士団長が、王を説得して法に一項を加えた。たとえ王位が空座になっても、第一王位継承者は成人するまで即位を待ち、その間は騎士団長と宰相が協力して政務を執る、とね」
それは宰相と騎士団長、双方が互いに睨みを利かせて権力の不当な集中を阻む策といった一項であった。けれど、それより以降──幸いと言うべきか──条項を適用させる機会は生じず、皇王位は継がれ続けていた。
「前皇王は寛容にて聡明、しかも久方ぶりに武人の才も持ち合わせた見事な人物でおられた。ただ、惜しむらくは長く御子に恵まれなかったこと。無論、長い年月には嫡男に恵まれないときもあろう。そうした場合に備え、法は女王の即位、王族間の養子縁組も認めていた。それでも、もともと御子の少ない家系であるのか、今や聖マティスの血統は王家直系のみ、迎えるべき親族も絶えて久しい。にも関わらず、妃だけを想われ、側室も娶られず……そんな訳で、王は皇王制を終わらせる所存やもしれぬと騒がれ始めた矢先、マイクロトフ様がお生まれになった」
そこで彼は、心からの愛情を込めた瞳を皇子に向けた。
「宰相の立場としては、王家の血が絶えなかったことに先ず安堵すべきだったかもしれない。けれど、叶うならば我が子を抱きたいと願う皇王御夫妻の御姿を間近に見てきたわたしには、ただただ殿下の御誕生が嬉しかったよ」
歴代の皇王に比べれば、確かに世継ぎ誕生は遅かった。しかし、彼は非常に壮健だったし、世情も安定期にあったため、よもやマイクロトフが成人する前に没するとは誰もが予期していなかった。
結局、先の法の初めての適用がマイクロトフの代になって起きた訳だが、実際にそうなってみると、この法には若干の無理があった。
王と騎士団長は、ほぼ同等の力を持っているのだ。宰相とは王の相談役、政策実行を補佐する役人に過ぎず、権威はあくまでも騎士団長が上回る。
私心なき騎士団長であったなら、宰相に敬意を払い、丁重に遇しもしただろうが、生憎ゴルドーとはそうした人物ではなかった。
グランマイヤーにはゴルドーの渦巻く欲望を理解しかねたし、意見の対立時にも引き下がらざるを得ないことが多々あった。猛烈な野心家を相手にするには、彼はあまりにも育ちの良い人間だったのだ。
けれど、温厚な宰相は戦うために腰を上げた。マチルダの両輪の一片である筈の騎士団長が、もう一片を飲み込もうと目論む今、立ち上がらざるを得なかった。
皇国の歴史の中、騎士団長に命を狙われた王族などいない。それがいずれ国の主となる、即位を待つばかりの王位継承者だったことなどない。
過去の皇太子たちは毒殺を恐れることもなかったし、剣の試合中に危うい目に遭ったこともなかった。若くして父王の庇護を失ったマイクロトフだけが、命の危険に脅かされる不遇に見舞われた───
「ゴルドーは実に巧妙だ。決して尻尾を掴ませない。実際、掴んだ尻尾も切れるように予め手を打っている。首謀者がこれほど明白なのに、こちらからは動くことが出来ない。それを良いことに、とうとうあからさまな手段まで使ってきた。白昼堂々と殿下を暗殺しようとは……誇り高き騎士とも思えぬ恥ずべき所業だ」
真に温厚な男が怒りを孕むと、どうやら血の気が引くらしい。青白くなった宰相を横目で窺い、カミューはそうと分からぬ程度に肩を竦めた。
「日頃の殿下に対する態度といい、目に余るものがある。わたしは最近、あの男と顔を合わせると気分が悪くなるほどだ」
「王族への不敬ということで処罰は出来ないのですか?」
それにはマイクロトフが答えた。
「叔父なのだ」
「え?」
「おれの叔父君なのだ。だから、少々のことなら親族間における気安さと言い繕えられてしまう」
美貌の青年が初めて見せた驚きと不快の顔に、慌てて付け加える。
「もっとも、血は繋がっていないが。母方の祖父の後妻の連れ子に当たる人で……系図上では叔父になる」
脳裏で素早くそれを描いたカミューが、ああ、と納得顔で頷いた。
「成程。では、そのゴルドーが王位を取って代わろうとしている訳ですか」
「いや、それは出来ないのだよ、カミュー殿」
マチルダ皇王となるには聖マティスの末裔であるのが大原則だ。
取り沙汰されたのはマイクロトフ誕生前という僅かな期間に過ぎないが、縦しんば始祖の血が絶えたときには王制の存続は無意味、そうした見方が大勢を占めていた。それほどまでに、建国の指導者の血を王座に戴かんとするマチルダの風儀は強いのだ。
しかしゴルドーはマティスの血を持たない。たとえ首尾良く皇太子暗殺を果たしたところで、王位には辿り着けないのである。
「すると、狙いは王制廃止ですか」
「然様。今や騎士団の影響力は大きく、これを掌握する者が影の王とも言えよう。だからゴルドーは殿下が邪魔なのだ。一国に王は二人いらぬからな」
けれどもマイクロトフが即位してしまえば状況は一変する。再び国に両輪が戻る。片方の輪が腐っているならば、取り除いて別の輪を据えるだけの権威を王は持つ。ゴルドーはそれを恐れているのだ。マイクロトフが強大な力を得る前に、王制もろとも葬ってしまおうという腹なのだろう。
「これまでは何かと姑息な手ばかり講じていたが、派手に刺客を放つとは……。即位の日が近づき、痺れを切らせたのだろう。カミュー殿、どうか殿下をお護りしてくれ。どうか、無事に登極を───」
先王の御代から王家に仕える宰相は、そこで言葉を詰らせた。はからずも苦難の道を用意された皇子への溢れるばかりの情愛が、老け込んだ誠実そうな顔を覆っている。カミューはそんな男をじっと見詰め、低く言った。
「宰相殿……いっそ、こちらから打って出てしまったら如何です? わたしがゴルドーとやらを始末してしまう方がずっと早い」
「駄目だ!」
───突然の大音響だった。
宰相、そして遣り取りを息を潜めて見守っていたフリード・Yは、剣の鍛錬のときでもなければ滅多に声を張り上げることもない皇子の怒声に仰天し、次には呆気に取られた。
カミューもまた、美しい目を瞠ってマイクロトフを凝視した。それまで終始沈着を通してきた青年だが、これは正に虚を衝かれたといった感だった。
マイクロトフはすぐに自制を欠いた己を恥じたが、同時に、目前のカミューが初めて見せた幼げな表情にはっとした。マイクロトフが照れ臭げな苦笑を浮かべると、彼もつられたように似た笑みを零す。
「……すまない、大声を出して」
一同に丁寧に詫びてから、皇子は改めて言い募った。
「だが、それはやめてくれ。悪意に悪意を返すような真似はしたくない」
カミューは不思議そうに小首を傾げる。
「憚りながら、殿下。それは綺麗事というものでしょう」
反射のように洩れた無防備な笑みが、再び計算づくの美麗なそれへと変わっていた。
「戦術においては先手を取れるか否かが勝敗を分けます。既に後手に回っているのですから、ここは起死の一打に出るのが最良かと。それとも……わたしの手腕を疑っておいでですか? 宰相殿や殿下に疑いの目が向けられるような失態は犯しません。案じていただかずとも、見事果たして御覧に入れましょう」
「……そのようなことを案じている訳ではない」
流暢に続く言葉を憮然と遮ったマイクロトフは、やや身を乗り出してカミューの瞳を覗き込んだ。
「おまえに、暗殺などといった卑劣な行為をして欲しくないのだ」
「……は?」
今度こそ間の抜けた声が上がった。カミューは綿でも投げつけられたような面持ちで皇子を凝視する。心底不可解そうな思案ぶりを見て、グランマイヤーがやれやれと割り込んだ。
「カミュー殿、マチルダでは古来より言う。王は剣、騎士団は盾。どちらが欠けても戦いには勝てぬという意味合いの文言だ。マチルダはそうして歴史を作ってきたし、これより先もそうあるべきなのだ。今現在、両者の関係は歪んでいるが、殿下が皇王に即かれれば是正出来る。だからと言って、そのために非道な手段を用いて王位を汚しては本末転倒───わたしも殿下と同じ意見だ」
少し違うな、とマイクロトフは心中思った。
周囲はとかく皇王位は聖なるもの、清浄たるものと考えるきらいがあるが、マイクロトフにはそうは思えない。世の多くの王朝は血塗られた剣によって開かれたものだからだ。
ただ、王には何を置いても流血の上に築かれた平穏を護る責務がある。ゴルドーが私欲によって騎士団長としての役割を軽んじるなら、確かに暗殺も一つの戦法かもしれなかった。
───しかし。
マイクロトフは皇太子であると同時に、青騎士団長の名を持つ男だ。それこそ、歴代の王族男子の中でも稀なほど「騎士」らしい男だった。
絶対の忠節、確固たる正義と信念、弛まぬ鍛錬、領民への深い慈愛。マチルダ騎士は国中の少年の憧憬の的だ。
それはマイクロトフも同じだった。初めて父王と並んで、整列した騎士団員の前に立った日には、足が震えるほどの高揚を覚えたものである。
勇壮な軍馬、一糸乱れぬ統制だった動き、陽光に煌めく白刃の峻烈。幼い胸を突き刺す、それは混じり気のない感動だった。思わず「王よりも騎士団長になりたい」と洩らして周囲の苦笑を誘いもした。
あのとき父が何と答えたかは覚えていない。だが、優しい眼差しが向けられていたのだけは覚えている。王は誰よりも騎士を理解せねばならない存在だから、幼い皇子が騎士団に関心を示すのは良いこととして受け止められたのだろう。
マイクロトフは過去の皇子の誰よりも深く、騎士を、そして騎士団を愛おしんでいる。騎士団が掲げる訓戒を大切に思っている。そこに暗殺・謀殺の類は固く禁じられていて、だから彼の選択肢よりそれらは零れ落ちるのだ。
そして今ひとつ、カミューに暗殺実行を許したくない理由がマイクロトフにはあった。この場では控えた方が良かろうと敢えて口を噤んだが───
「……出過ぎたことを口に致しました。仰せに従います」
カミューは丁重に礼を払いながら言った。にっこりしてはいるが、内心では「堅物共め」などとでも吐いているのだろうな、とマイクロトフは可笑しくなった。
これまで出会ったどんな人間よりも、カミューが自身を繕うのに巧みなのは間違いない。往来での彼を知るフリード・Yは相変わらず狐に摘ままれたような顔をしているし、グランマイヤーは端正な青年の礼儀正しい言動に完全に魅了されている。
置かれた環境上、不満や偽善といった負の感情は漠然と感じ取れるようになってしまったが、生来マイクロトフは他人の機微にあまり敏感な質ではない。なのに、カミューの内なる声が聞こえる気がする。これは実に不思議だった。
「……良いか、カミュー殿。最良の道はゴルドーを退陣に追い込むだけの証を掴むことだが、これまでの狡猾を見れば難しかろう。よって、殿下の身を護ってくれれば十分だ。この殿下の居室には続きの間がある。今はフリードが使っているが、もう一つ寝台を運び入れよう。君はそこを使うが良い」
ここへ来てフリード・Yが自失から立ち戻った。慌てて腰を浮かせたものだから、膝から木箱がずり落ちそうになる。それを抱え直しながら彼は叫んだ。
「わっ、わたくしと同室ですか、グランマイヤー様!?」
「何か不都合があるかね?」
若者の頓着など知らぬ宰相が瞬く。邪気のない問い掛けにフリード・Yは口篭った。
「いえ、その、あの……」
「これは彼のつとめだ、多少の不便は我慢しなさい。即位の日まで、たかだか一月ではないか」
「い、いいえ、勿論それはそうなのですが……」
不便というより感情の問題であって、虫が好かない上に怖いのだ───とは本人を前にして言えよう筈もない。おろおろとするフリード・Yをちらと一瞥したカミューが、小さく溜め息を洩らした。
「寝食を共にし、殿下をお護りする。良く分かりました、宰相殿。寝台は必要ありません」
「カミュー殿?」
彼は広い室内をゆっくりと見回して距離感を測る。
「護衛が隣室に控えていては、いざという時に出遅れます。わたしはこの部屋で寝起きします。ああ……御懸念には及びません。
殿下の生活を侵すような無粋は冒さず、空気のように綺麗さっぱりと気配を消して御側に控えさせていただきますから」
後半の言は目を丸くしたマイクロトフに向けられたものだ。カミューは艶然と笑みながら、琥珀をひたと皇子に注いでいた。
成程もっともだ、とグランマイヤーは首を傾げつつ頷く。
「……だが、やはり寝台は要るだろう。そこのキャビネットをずらして───」
「寝心地の良い寝台で眠ったりしたら、肝心な時に目が開くかどうか不安です」
初めてカミューは調子を崩した。朗らかな声音で続ける。
「いざ疲労が耐え難くなれば、この立派な長椅子がありますし。これまで眠った中でも最高の寝床かと」
そう言ってポンと長椅子の柔らかさを示すように掌を埋める。
「任を果たして報酬を得る、それが傭兵というものです。過分な待遇など望みは致しません」
ううむ、とグランマイヤーは考え込み、しかし最後には同意した。警護に関してカミューの言い分を要れるのは道理であるように思え、必要以上の厚情を拒む無欲も好ましかったのだ。
誠実な味方──対価は要したが──を得て上機嫌の宰相、何が何だか分からないといった情けない顔をした従者、そして高揚とも緊張ともつかぬ心地を抱えて精悍な顔を微かに紅潮させている皇子。
白く整った面差しが静かに俯く。青年の形良い口元に怜悧な笑みが浮かぶのを、見届ける者はなかった。
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