最後の王・58


「傭兵時代のお知り合いの方だったようです」
宴もたけなわ、赤・青騎士の入り乱れた広間の片隅に皇子を招いたフリード・Yは、低く耳元に囁いた。
カミューを呼び出した相手が良からぬ輩でなかったことに先ず安堵して、それからマイクロトフは小声で問い返した。
「当人と接したのか?」
「それが……」
フリード・Yは口篭る。下手に皇子の関心を煽らぬように、そうカミューに諭されたときには素直に納得もした。だが、その直後に「当人」によってもたらされた一言が、重く心に圧し掛かっているのである。
「どうにもならないときは訪ねて来い」、「他言無用」───謎めいたゲオルグ・プライムの言葉。
今をもってしても、その意味は分からない。ただ、相手はあのカミューが心から敬愛する男だ。単に戯れから洩らした言ではないだろう。意図を量りかね、そして主君に黙せと命じられた我が身を思えば、困惑一色に塗り潰されるしかないフリード・Yだった。
「それが、すぐに部屋に引き取られてしまって……たまたまカミュー殿がマチルダにおられると知って訪ねて来られたようですが……」
成程、とマイクロトフは頷いた。
おそらく最初の街内警邏のときにでも、何処かでカミューを見たのだろう。大切なものは剣と師くらいだと言っていたカミューだが、旧交を温める傭兵仲間の一人や二人、居てもおかしくはない。そんな相手を深く詮索するのは行き過ぎだろう、そう彼は考えたのだった。
「煩わせてすまなかった。ところで……、その酒は何だ?」
従者がひしと胸に抱いている酒瓶を凝視しながら問うと、若者は頬に血を上らせた。
「あの宿を訪ねるための口実です。寝酒を切らしたので、譲って貰えないかと……。という訳ですので、殿下。今宵、お休みになる前に必ず一杯は召し上がってください」
言いながら、皇子の手へと酒瓶を押し付けるフリード・Yだ。
彼も主人同様、隠し事は得手ではない。話題が変じたのを幸いに、一気に押し切ってしまおうと考えた。
「わたくしも頑張りましたが、文が読まれたことは、おそらく半分以上はカミュー殿にバレています。となれば、殿下がわたくしを差し向けたのも知られている訳です」
「う……」
たちまちマイクロトフは顔を歪めた。
「……心配性だ、と怒るだろうか」
「そうならぬよう、お祈りしています」
小さな秘密によって生じた気まずさが、主君の困り顔に薄れていく。ゲオルグ・プライムの助言が杞憂で終わるよう、フリード・Yは祈らずにはいられなかった。
それにしても、と首を傾げる。
「カミュー殿、てっきりこちらに来ておられると思ったのですが」
ああ、と眉を寄せてマイクロトフは応じた。
「人づてに即位式の警備要綱を求めてきた。今頃は書面を睨んでいるのではないだろうか」
そうしてひっそりと息を吐く。
「まあ……仕方がないだろう。ダンスニーの一件で、完全に英雄扱いだ。このような席に顔を出せばどうなるか、おれでも想像がつく」
座のあちらこちらから青年の名が洩れ聞こえる。当人不在に落胆したのは最初のうちだけ、その後は声を大にしての讃美が延々と続いていた。
苦笑を浮かべてフリード・Yは頷いた。
「それはもう、十重二十重に取り囲んでの大騒ぎですね」
「社交的に見えて、あまり人の集まりは好まぬらしい」
あれほど華やいだ青年なのに、何処かカミューには影がある。人の輪に連なって一緒になって笑うより、一人静かに思索に耽ることを好むらしい青年。それは、彼が辿った辛い過去に起因するのだろうか。
再び失うことを恐れ、大切なものを持とうとせずに生きてきたカミュー。己が、騎士団が、そしていつかはマチルダという地そのものが彼にとって重い存在になれば、とマイクロトフは心から思う。
「……おれも、そろそろ辞した方が良さそうだな。深酒を過ごして明日の閣議に障るといけない」
瞬いた従者は、皇子が宰相と二騎士団の位階者の集合を求めていたのを思い出した。問うて良いものだろうか、と悩みつつフリード・Yは切り出してみる。
「あのう、殿下……そんなに重要な議案なのですか?」
「そうだ」
たった一言、短く答えてマイクロトフは目を伏せた。

 

 

 

 

居室へと戻ったマイクロトフは、ローブ姿で寝台に寝そべりながら書面を捲っている青年に迎えられた。お帰り、と軽く片手を挙げるカミューに苦笑う。
「早いな、もう湯を済ませたのか」
すると彼は飄々と言った。
「今のおまえは油断出来ない。浴室にまで踏み込んできそうだから」
ひどい言い様だ、とマイクロトフは顔をしかめた。それではまるで、青年の意思を無視して交情を迫る暴君のようではないか。
言葉では抗いながら、結局は快楽に身を任せる結果に終わった昨夜の顛末を、未だカミューは根に持っているらしい。やれやれ、とマイクロトフは嘆息した。
我欲を通すつもりはない。同性を迎え入れる行為が肉体的に負担であるらしいのは十分に分かったし、だから昨夜とて、愛しい人の悦びを引き出すのみに徹して、自身の欲求は抑え抜いた。
なのにまるで信用されていないのは少し切ない───そんな消沈を見取ったカミューは、くすりと笑いを洩らした。
「……嘘だよ。こざっぱりして頭を切り替えたかったんだ。これに目を通したかったからね」
「即位式の警備案か」
そう、と頷いてからカミューは身を起こした。軽く伸びをして、片膝を抱え込む。
「ざっと見た限り、特に意見するような点はなさそうだけれどね。明日の予定はどうなっているんだい?」
「朝はいつものように訓練だな」
げんなりと肩を落とす青年に吹き出しそうになりながら、いま一つの寝台に腰を下ろす。
「午後に閣議を予定しているが、それまでは特につとめは入っていない」
初めての査察に臨んだ皇太子。青騎士団副長は、気持ちを切り替えるための時間が要る、とでも慮ってくれたのかもしれない。
その空白の時間の使い道も決している。襤褸と化してしまった団長衣の代わりとなる品を作るために仕立屋を招こう、そう副官が言っていた。
装束が仕上がるのが先か、着る機会を失う方が先か。そんな微妙な時期であるのを承知しながらの申し出を、それでもマイクロトフは喜ばしく思った。
意匠は無論、父王の形見と同じにする。こっそりと、もう一着、頼んでしまうのも良いかもしれない。
前にフリード・Yが言っていた。「青と赤、色違いで揃えたら映えるだろう」、と。
青騎士団長衣は丈が長いから、全く同じに誂えてしまうと「派手だ」と拒否されかねない。その点に配慮した上で、彼のしなやかな体躯に合う型を考案して貰ったらどうだろう。
青も悪くないが、それ以上にカミューには緋色が似合う気がする。彼が操る峻烈なる焔の色、そして白い肌のうちに巡る命の色───

 

 

「……聞いているかい、マイクロトフ?」
「えっ?」
独り、胸弾む想像に漂っていたマイクロトフを、厳しい声が引き戻した。
「何度も呼ばせるな、夢想癖があるとは聞いていないぞ」
「す、すまない。何だ?」
カミューは息をつき、気を取り直して切り出した。
「だったらわたしはその間、人相書き作成に協力してくる。絵心のある騎士がいると良いんだけれどね、わたしはその方面にはさっぱりだから」
「ああ……、刺客の人相書きか」
朝が苦手と見える青年にしては積極的なことだ、と妙に感心しながら頷き、マイクロトフは知らず息をついていた。
「ゴルドーを丸め込むための、場限りの虚言かと思っていたが……本当に連中の顔を覚えているのか」
「勿論だよ、記憶するのは得意だと言っただろう?」
「それにしても、あの数だぞ。常人離れしている」
「……人を化け物みたいに言うな」
軽い一睨み、そして緩やかに綻ぶ唇。
「その気になれば、人の顔や名前の十や二十、いけるさ。書物もだよ、そこそこの厚みの本なら一度読めば諳んじられる。「騎士の心得」を暗唱してみせようか?」
それを聞いてますますマイクロトフの驚嘆は深まった。
剣才、知性、容貌。その上、使いようによっては恐ろしい武器となる記憶力。
天は、何とあまたの力をカミューに授けたことか。大いなるものの手に選ばれ、祝福された存在───マイクロトフにはそうとしか思えない。
「しかし……そんなに片端から覚えていたら、頭が破裂しそうにならないか?」
カミューは愉快そうに目を細める。
「ならないね。「その気になれば」と言っただろう? そうでないときのわたしは人並み以下だ。顔どころか、名すら碌に覚えない」
「……どういうことだ?」
多分、と彼は視線を彷徨わせた。
「必要か、そうでないかを無意識に量っているんだろうね。有益となりそうな相手なら覚えておいて損はない、警戒を要する相手も同様だ。それ以外を記憶に留めるのは無駄だ、と……そんなところかな」
ちくり、と胸を刺すものがある。マイクロトフは不満も隠さず眉を寄せた。敏感に気付いたカミューは苦笑った。
「有益か無益かで人を量るなど誠実ではない、おまえはそう言うだろうね」
「……いや」
かろうじて低く応じるマイクロトフだ。
確かにそう感じる一面もある。けれど、人が自身に益となるものを重んじるのは自然と言えよう。まして彼のように、命の遣り取りをしてきた身なら尚更だ。
ただ───ほんの少しだけ思ってしまうのである。それは寂しい生き方ではないか、と。
「記憶力が有り過ぎるというのも大変なのだな」
ポツと零すと、カミューの面差しは陰った。伏せた琥珀の奥に昏い光が揺れる。
「……そうだね」

 

もし、この力がなかったら。
あの騎士たちの名を記憶していなかったならば、生き方は変わったかもしれない。
四方からの炎の照り返しが凄まじく、一人一人の顔を覚え抜くことは出来なかった。だから点呼が始まったのを僥倖と思った。
無論、復讐を考えていた訳ではない。死は覚悟していた。彼らの名を心に抱いたまま、命果てても終わらぬ呪詛を大地の精霊に叫ぼうとしたのだ。
奇しくも生き延び、事情は変わった。計らずも覚えた名が、手立てになり得ると悟ったからだ。
もし、彼らの名を覚えていなかったなら。
幾千ものマチルダ騎士の中から個を特定することは出来ない。まして、一人で全てを滅ぼすなど不可能だ。自然、どれほど望んだところで復讐は絵空事、やがては諦念が勝って、ゲオルグが導こうとした道へと目を向けられるようになったかもしれない。

 

「今もそうか?」
唐突な問いにカミューは瞬いた。
「何がだい?」
マイクロトフは言葉を探すように逡巡しながら言う。
「今、周囲に居るマチルダ騎士も、利になるか否かで量っているのか?」
考えた割には直截な物言いだな、とカミューは嘆息した。本当にこの皇子は容赦ない男だ。
「……考えたこともなかった。ただね、一つだけ言える。わたしは傭兵として五年近く過ごしたが、記憶に留めた人間はほんの一握りだ。騎士の顔や名は、もう随分と覚えたよ」
最初は皇子の言う通り、目的を果たす手駒とするために。そして今は、おそらく情感的に───
「ほんの一握り、か。城におまえを訪ねてきたのはそういう人物なのだな……」
独言気味に洩れた声を聞いてカミューは顔を上げた。
「そうだ、思い出した。おまえ、フリード・Yをああいった画策に使うのは人選的に間違っているぞ」
「……何の話だ?」
「とぼけるな。別に、文を読まれたことや、誰と会っているのか確かめようとした点に腹を立てている訳じゃない。所詮わたしは余所者なのだから、騎士たちが警戒するのは当然だ。だからと言って、フリード・Yを使うのは気の毒だろう。彼もおまえ同様、腹芸には向いていないぞ」
やはりカミューを欺き通すなど無理な話だった、と肩を落としつつ、マイクロトフには捨て置けない一節があった。顔をしかめ、切々と切り出した。
「すまない、干渉されるのは嫌うだろうとは思ったのだが。だがな、カミュー……おまえは一つ思い違いをしているぞ」
「どれを、だ」
「城門番たちが文を読んだ理由だ。おまえを警戒したからではない。おまえに害が及ぶのではないかと案じて、だ」
幼げな戸惑いが端正な貌を掠める。カミューは小首を傾げて呟いた。
「……己に降り掛かった火の粉くらい、振り払えるつもりだけれど」
「分かっている。それでも案じてしまうのが情というものだ。おれも同じだ。宴席を抜ければ騒ぎになる、だから敢えて留まった。だが、追いたくて堪らなかった」
「…………」
「おれたちにとって、おまえはもう「傭兵」ではない。「余所者」だなどと思っているものもいない」
カミューは長く黙した。沈黙の意味を悟れず、マイクロトフは殊更に明るく言い切った。
「おれが行けないならフリードを、と思ったが……確かに、考えてみると大変な役目を押し付けたようだな。反省する。おまえも気を悪くしないでくれ、カミュー」
「……だから腹を立てている訳では……」
小声で唸り、それからカミューは柔髪を掻き上げた。白い頬に浮かんでいるのは、何よりマイクロトフが好む、少し困ったような笑みである。彼はそのまま自身の寝台を降り、マイクロトフの膝へと腰を落とした。
刹那、マイクロトフは息を詰めた。それまで努めて意識に止めまいとしていた事実を突き付けられた心地だったからだ。
白い素肌にローブ一枚、ひどくなまめいた姿で密着する青年。まるで予期せぬ行動に、上擦った声が呻く。
「カ、カミュー?」
「もしもおまえが皇子でなかったら……攫って逃げたかもしれないな」
む、と眉を顰めて考え込む男の首に腕を絡めて、啄むようなくちづけを与えて。
すぐに応えて背を引き寄せた逞しい力に、カミューは弱く喘いだ。
ルシアが動く───グリンヒル公主が逝く。
その報は、時置かずこの城にも届くだろう。新皇王即位と同時の婚儀を目していたマチルダに動揺が走る。正に好機だ。
次第に熱を帯びる触れ合いに息を切らせながら男の耳元に囁く。
「マイクロトフ……、その午後の閣議というのには、わたしも出ないと駄目かな」
白い首筋に伝う脈動から唇を外し、マイクロトフは困惑を噛み締めた。彼の中で、カミューの参席は、考えるまでもなく決定事項となっていたからだ。
「……何か不都合があるのか?」
「礼拝堂に行ってみたいんだ」
「礼拝堂に?」
うん、と首肯してカミューは言う。
「警備案を貰ったは良いが、やはり図面だけでは感覚的に掴みづらい。実際にこの目で見てみないと」
「ならば何も、明日でなくても良いのではないか?」
「気になることは早めに済ませたい性分なのさ。どうしても閣議を優先せねばならないなら、仕方がないけれど……」
ひとたび拘束を解いて思案したマイクロトフは、すぐに思い直した。
この閣議に限ってはカミューを要さない。寧ろ、不在である方が望ましいかもしれないと考えたのである。
「……分かった。誰か、手隙の騎士を連れて行くと良い」
聞くなり美貌が笑み崩れた。
「いいよ、一人で」
「しかし、それでは不案内だろう」
「一人の方が好き勝手に検分出来る。それに……」
甘い琥珀色の眼差しに闇が灯るのにマイクロトフは気付けなかった。
「式典の場に立って、「刺客の立場で」警備の穴を探すのだからね。一人の方が感覚が鋭敏にはたらく」
そういうものか、と納得に努めながら頷くマイクロトフだ。
「礼拝堂には司祭が常駐している。必要なときには、彼に頼めば案内してくれるだろう」
「そうするよ」
短く言い置いて、カミューは男の上着を寛げ始めた。膝に座られたとき以上の驚きでマイクロトフの声は掠れた。
「なっ、……何をしている?」
「何、って」
壮絶な色香を纏った挑発の視線。
「……本気で聞いているのかい?」
開かれた襟元に忍び込んだ細い指先が、あっという間に上体を露わに陥れた。更に下衣に伸びようとする手を、泡を食った勢いで掴み、マイクロトフは荒い息を吐く。
「いや、その、ちょっと待ってくれ」
「人の制止は聞かないくせに」
「カミュー……」
困り果てて、終には深々と頭を垂れる。
「……半端に煽らないでくれ、心臓に悪い」
「真剣に煽っているつもりだけれど」
え、と瞬いた先には悪戯げな瞳がくるめいていた。
「昨夜はわたしばかり愉しませて貰ったからね、借りを返すよ」
「貸し借りではないと思うが……」
無意識にごくりと喉を鳴らしてマイクロトフは青年を凝視する。
そうした行為には気が進まないのだろうと思っていた。男として不自然な立場に置かれる上に、肉体的な負担まで伴うのだ。及び腰になるのも無理からぬこと、そんなふうに考えていた。
望まぬ行為を強いたくない。次の機会があるとしても、遠い先になるだろう。それでも良かった。
昨夜のように、触れ合うだけでも想いは満ちる。そんな中で、気まぐれであっても応じる気になってくれれば───マイクロトフは、控え目な期待で自らを制していたのだった。
なのにカミューは艶然と笑う。
冷えた空気に曝されたためか、あるいは行為を渇望する欲深な己への恐れか、微かに震えたマイクロトフの肌に、温かな唇を伝わせながら微笑んでいる。
「ま……、まだ湯を浴びていないのだが」
「そうだね、少し埃っぽいかな」
「……本気か?」
「わたしから求めるのがそんなに意外かい?」
くす、と吹き出してカミューは鍛えられた胸筋を突いた。
「それとも……こういうわたしはお嫌いかな、皇子様?」
そこまできて、マイクロトフの思考は弾けた。太い腕で絡め取った青年の肢体を狂乱の勢いで寝台に倒し、呼気を荒げながら瞳を合わせる。
「歓迎のあまり、理性が飛びそうだ」
「───もののついでだ、わたしの理性も飛ばしてくれ」

 

低い懇願は届いたのか、否なのか。
我武者羅に抱き竦めてくる男。手荒とさえ言える、もどかしげな愛撫に四肢を戦慄かせながら、カミューは静かに目を閉じた。

 

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おお、実に久しぶりに
青と赤が同じ頁に居る〜(笑)
でも、これも次回まで。

またすぐに別行動です。
次に同じ頁に出るときは……嗚呼。

 

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