最後の王・57


ふと、ゲオルグ・プライムの顔つきが一変した。何処か不機嫌そうだったそれまでとは打って変わって、厳つい顔に遊びを思いついた子供めいた無邪気が浮かび上がってくる。
「振り向かずに聞け。今入ってきた人物に、おれは見覚えがあるのだが」
宿の入り口に背を向けて座っていた青年が目を瞠った。ゲオルグは咄嗟に首を振る。
「残念ながら、違う。皇子なら、それはそれで見物だったろうが。若い眼鏡の御仁だ」
「……フリード・Yが?」
愁眉を寄せてカミューは小首を捻った。笑いを堪えるようにゲオルグは続ける。
「文を預けて幾日にもなるのに、嗅ぎ回る気配もない。少々気が抜けたものだが……やはり抜け目がないな、ちゃんと盗み見ていたか」
「騎士が、……ですか」
唖然として呟き、やがてカミューも苦笑した。
有り得ないことではない。どれほど信頼を勝ち得ていても、彼らにとってカミューは異邦の民だ。それを訪ねた未知なる第三者に警戒するのは実直につとめる証、悪意とは言えない行為であろう。
「彼らを試したのですか、ゲオルグ殿」
「おまえの戦場がどんなところか、興味があったからな」
飄々と嘯いて、男は身を乗り出した。低音で慎重に問い掛ける。
「向こうさんも気付いたようだぞ。どうする?」
「……一人ですか?」
「らしいな」
「では、騒がれる前に戻ります。彼はとても心配性で、あれこれと首を突っ込まずにはいられない人物なので」
自身でも気付かぬ温かな口調で言うなり、カミューはすらりと立ち上がった。卓を去ろうとするのを素早く制して、ゲオルグは厳しく命じた。
「おまえは適当に往なして宿を出ろ。あの若者、少し借りるぞ」
「え?」
「今、疑いを持たれては困るだろう。御魔化しておいてやる」
「でも……」
配慮はありがたかったが、会っていた現場を目撃されながら如何にして御魔化すつもりなのかと困惑するカミューだ。だが、ゲオルグは容赦なかった。
「行け、カミュー」
「……はい」
カミューは、ゲオルグがかつて何度も見た幼げな瞳を揺らして、踵を返す。そうして、帳場の前に立ったまま困ったように眉を顰めている従者に向かって真っ直ぐに歩み寄ったのだった。

 

 

 

皇子に命じられて、大急ぎで城を出た。城門番の青騎士が、せっかく催された宴をすっぽかす彼を不思議そうに見送っていたが、それどころではなかった。
「おまえならば」と信頼して任された以上、最善を尽くさねばならない。ただ、実際にカミューと対峙してからを思うと、途方に暮れるフリード・Yだった。
青年を呼び出したのが敵なら、果敢に戦ってみせる。もっとも、当のカミューは助勢など望まぬ矜持と、それに見合う武力の持ち主であるけれど。それでも、いざとなったら命を賭してでも、という崇高な決意がフリード・Yにはあった。
しかし、本当に知人だったらどう相対すれば良いのか。
赤騎士たちの心情を思えば、何とか理由をこじつけるしかないが、偶然を装ったところで白々しいし、欺き通せる自信もない。あまり考えたくないが、もしかしたら主君の胸にも無意識にそうした竦みがあって、結果、役目を自分に譲ったのではないか、とまで思えてしまう。
道中、周囲の景色は殆ど目に入らなかった。筋書きを練るのに忙しく、歩みと呼吸以外には力を費やせなかったのだ。
そんなこんなで到着した宿で、フリード・Yはすぐにカミューを見つけた。彼の後ろ姿はすっかり目に焼き付いている。常に皇子の隣で馬を駆る優美な肢体。その姿を背後から眺めるのに慣れた目には、一目でカミューが見分けられた。
今ひとり、青年と向かい合って酒を呑む男。相手が刺客でなかったのには心から安堵したが、これでフリード・Yの立場は少々複雑になる。先ずは息を整え、迎えた女将に一礼した。
「お泊りですか?」
「いえ……その、こちらは食堂も営んでおいでですね。ワインを分けていただけないかと思って参りました」
道中で必死に練り上げた口実である。女将は微苦笑を浮かべた。
「すみません、お酒の商いをしている訳ではないので……」
常備してあるのは宿泊客や食事に訪れる民に出す程度の量で、余分な備えはないのだろう。しかしそこはフリード・Yも考慮していた。
「お願い致します、そこを何とか。一本だけで良いのです」
生真面目そうな若者の必死の懇願に心を揺らしたのか、女将が小さく首を傾げる。
「それに、御所望の銘柄があるかどうか……」
フリード・Yが持ち出したのは、マチルダの飲食店なら何処でも置いてある、ごく一般的に飲まれている種だ。万一に備えて次候補、これまた有り触れた品名も挙げてみる。女将はにっこり笑んで頷いた。
「ああ、それでしたら……一本だけなら御譲りしましょう」
「助かります、感謝致します、はい」
深々と頭を下げる間に女将は厨房らしき方へと向かい、代わりにカミューが近付いた。途端に跳ね上がる鼓動を抑えつつ、若者は自然な驚きを装った。
「カミュー殿、城を出ていらしたんですか」
「まあね……奇遇だな、こんなところで会うなんて」
「殿下の御使いなのです」
実は、とフリード・Yは切り出す。
酒を過ごした夜、皇子が必ず寝酒に用いるワインがある。ところが、生憎と自室の備えを切らせてしまっていたので、城から一番近いこの宿屋で手に入らないかと足を運んでみた───
「ふうん」
軽く往なしてカミューは眉を顰めた。
「かなり良い酒を揃えていたみたいだったけど……城下で簡単に手に入る品なのかい?」
ぎくりと強張ったものの、従者は懸命に取り繕った。
「殿下は大抵の酒は悦んで嗜まれます」
「……だったら、城の常備品でまかなえば良かったんじゃないか?」
「───あ」
そこそこ良く出来た筋書きだと自負していたが、やはりカミューには通じない。おまけに追求を受けてあっさりボロを出してしまった。フリード・Yは引き攣り、真っ赤になって声を裏返した。
「そっ、そうですね、そんなことにも気付かないとは……フリード・ヤマモト、何たる迂闊」
ははは、と乾いた笑い声を聞いて、カミューも表情を緩めた。この、嘘のつけない従者が気の毒になったのである。
ゲオルグからの文が読まれたのは確実だ。けれど彼らは相手が「敵」ではないと、漠然と感じ取っていたのだろう。だから皇子や騎士でなく、フリード・Yが来た。いざというとき、最も害のない人物として。
事実、不快は感じない。寧ろ、看破されかけているのを察しているのか、極度に狼狽する姿に哀れをそそられる。いっそはっきり「文を見て来た」と言ってくれれば、適当に偽る気にもなっただろうものを。
「……良いんじゃないか? 気楽な使いで城から出るのも気分転換になるよ。わたしもそうだった。知人が訪ねて来てくれたんだ」
カミューは優しく言い、肩越しに背後を指す。
「あの隅のテーブルに座っているのがわたしの剣の師さ」
殊更に何気なく語られて瞬いたが、次の刹那、フリード・Yは飛び上がった。
「け……剣の師、カミュー殿の剣の師と言ったら───」
シッ、と人差し指を唇に当ててカミューは言い添える。
「聞いてくれ、フリード・Y。確かにあの人は剣の世界では有名だけれど、それで騒がれるのを好まないんだ。ロックアックスは騎士の街、「二刀要らず」が滞在していると知れたら最後、一勝負と願う騎士が大挙して押し寄せないとも限らない」
「そ、それは大変でしょうね」
「そう、大変だよ。まして君の主人の耳に入ったら、真っ先に飛んで来そうだと思わないかい?」
「……もっともです、ええ」
カミューはそこでいっそう声を低めて、確認するように続けた。
「今、彼には剣の勝負などに勤しんでいる暇はない筈だ。だから君はその名を忘れなければならない。わたしが知人と会っていた、でも相手の素性は分からない……良いね、フリード・Y」
若者は素直に頷いた。カミューの言う通りである。
剣豪ゲオルグ・プライムの名を聞けば、剣士なら誰でも胸を弾ませるだろう。手合わせのひとつもして、己の力が名高い剣士に何処まで通用するのか試してみたい、そんな願望が兆すに違いない。
フリード・Yでさえそうなのだから、あのマイクロトフがどう感じるかは瞭然だ。しかも今は、宝剣ダンスニーを自在に操れるようになったばかりなのだ。周囲が止めるのも聞かずにゲオルグを訪ねる皇子の姿が目に浮かぶようだった。
「古い傭兵仲間とお会いだった、……それで宜しいのですね?」
うん、とカミューは小さく笑む。
傭兵仲間───仲間と呼べるような存在を持ったことはない。これまでも、そして今、このときも。
広大な石城で、カミューを仲間と見る人々も、いずれ悟る。互いが決して相容れぬさだめに生きる身だと。最初に会った日にフリード・Yが口にした通り、城に入れるべき人間ではなかったと。
そこへ女将が頼んだ品を持って戻ってきた。狼狽や驚愕で画策を失念し掛けていたフリード・Yが慌てて支払いに向かう。それを機に、カミューは先に立って宿屋を出た。
歩きながら、はたと思い出す。「御魔化しておく」とゲオルグは言ったが、もう必要なくなったのではないか。逆に、取り敢えず落着した話が、かえって拗れるのではないか───
しかし既に店を出てしまった以上、戻るのも不自然だ。咄嗟に適当な口実も思いつかなかったため、ゲオルグに任せることにした。彼も場の空気を読むのには天性の資質を持っている。会話の主導を握るのは得手中の得手だ。
フリード・Yを中に残したまま扉が閉まる。カミューは已む無く、ゆっくりと城へと歩を踏み出したのだった。

 

 

 

片やフリード・Yは、ワインの瓶を抱えてカミューに続こうとしたところで視界を過ったものに気を取られ、鼻先で扉が閉じるという不運に見舞われた。慌てて取っ手を掴んで青年を追おうとしたが、今ひとたび目を向けた先で手を振る男に呆気に取られる。
「二刀要らず」───大剣豪。世の剣士の憧憬の的、名声を恣にする男が、親しげに手招いている。
硬直し切って両隣を見遣り、更に自身と男の間をも確認したが、他に呼ばれている人間は見当たらない。念のため、己を指で差してみると、男は厳つい顔を可笑しそうに歪めながら大きく頷いた。
この瞬間、フリード・Yの脳裏からは、カミューを追わねばといった意識が消し飛んだ。転げる勢いで食堂の奥に進むなり、背筋を正した。
「わっ、わたくしに何か御用でしょうか?」
「ちょっと聞きたいんだがな」
ゲオルグは軽く前置いて身を乗り出す。
「おまえさん、この街の人間だろう。美味い焼菓子を置いてる店を知らんか?」
は、と目を丸くして若者は男を凝視する。
「いや、この宿の生菓子は美味いんだが、焼菓子は扱っていなくてな」
「え、ええと……」
見れば卓上の更は甘味だらけだ。剣士と菓子の取り合わせ───記憶が何かを訴えていたが、あまり唖然としていたので、それどころではなかった。
「焼菓子、ですか……あのう、確か……」
困惑の汗を滲ませる若者を、暫しゲオルグは眺めていたが、そのうちに辛抱が切れたといったふうに吹き出した。
「……あいつめ、馬鹿正直に話したのか」
小声で呟く。
鯱張った緊張、そして菓子を持ち出したときの驚きと戸惑い。対峙する相手の正体を知ったとしか思えぬ応対ぶりに、ゲオルグはカミューが事実を打ち明けたのだと悟ったのだった。
ふと、笑みが消える。多くを見詰め、赦してきた瞳が、暗く陰った。
すべてを偽りで塗り固めるよりも、事実を折り交ぜた方が暴かれ難い───ゲオルグにはそれをカミューに教えた覚えがない。
いずれ人生を懸けた戦いに挑むために、彼は常に自らを磨き続け、何時の間にか処世のすべを会得した。柔和な笑顔で武装し、流暢な弁術で欺き、敵中深く身を沈めることさえ。
「ええとですね、大変申し訳ないのですが、わたくし、菓子にはあまり詳しくなくて……」
悩める若者がボソボソと言い出す。深刻な顔になった剣士は、眼鏡の奥の目を真っ直ぐに見た。すべてを見透かす、鋭い、それでいて穏やかで深い眼差し。裸にされたような心地で身を竦ませるフリード・Yを低い声が覆った。
「菓子はもういい。別の質問だ。おまえさんの目に、あいつはどう映る?」
「あいつ……とは、カミュー殿ですか?」
またしても予期せぬ一言。だが、今度はフリード・Yも動揺しなかった。この問い掛けには真っ向から答えられるからだ。
「素晴らしい方です、とても」
夢想に浸るかの如く視線が泳ぐ。
「知略と言い、剣の腕と言い……同じ年頃なのに、わたくしは遠く及ばず、無念に思うほどです。けれど、それ以上にカミュー殿は……」
彼を快く思わなかった時期が一瞬でもあったことが今では信じられないほどである。
あの青年は大いなる運命に導かれてマチルダへ来たのだ。未来の王、マイクロトフを支える力となるために。
「カミュー殿には、いつまでもマチルダに留まっていただきたいと心から思っております」
ゲオルグ・プライムは僅かに目を細めた。そうか、と呟きながら逞しい腕を組む。
帰還してきた騎士の一行の中で、皇子の傍近く侍していた若者。こうして遣わされてきたのを見ても、皇子に極めて近しい存在であると知れる。
感情に正直で、やや沈着に欠けるものの、誠実は疑いようもない。ゲオルグにとっては、正に願ったりの人物だった。
「……おれは当分この宿に留まるつもりだ。部屋は二階の一番奥、昼間は街をうろつくときもあるが、夕飯時には戻っている」
脈絡もなく、唐突に語り始めたゲオルグを、フリード・Yは怪訝そうに見詰めた。委細構わず、男は続けた。
「どうにもならない時が来たら、訪ねて来るがいい」
「は?」
パチパチと目をしばたいて若者は息を詰める。静かな声音に潜む強靭に気圧されたのだ。
「それはどういう───」
乾いた舌が巧く回らず、口篭った。
現在、すべては順調に運んでいると思われる。ゴルドーの悪意は空回り気味だし、迎え撃つ騎士も万全の構えを固めつつある。少し前なら、皇子の魔剣について相談を切望しただろうが、今はそうした不安も消えた。
ゲオルグの言う「どうにもならない」という状態が、フリード・Yには分からない。
稀なる剣豪の力を要する時。例えば大きな武力衝突でも起こると予見されているのだろうか。そしてそれが、皇子やカミュー、騎士たちの力をもってしても窮地と判断されているのか。
ぐるぐると巡る思案に困り果てている姿を見守っていたゲオルグが再び口を開いた。
「いいか、若いの。他言は無用だ、時が来るまでは胸ひとつに納めておけ。おまえを信じて託す」
「あの……」
「馬鹿な弟子だが、それでも可愛い」
深い色の瞳が微かな痛みを過らせる。最後にゲオルグは、きつく両手を握り合わせた。
「……師として、あの馬鹿にしてやれるのはそれだけだ」
感情を押し殺すような、呻きじみた響き。
フリード・Yには、それ以上を質すことは出来なかった。

 

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ここで今一度ゲオルグ氏は休憩に入ります。
出てきたばっかなのに(笑)
再登場は10話以上先になるかな。

と言うより、
果たしてそこまで書けるだろーか……
最近、ちょっと不安。

 

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