最後の王・56


宰相執務室を出たときには、すっかり日も傾いていた。
副長らの厚意による宴が控えている。帰還の報は手短に、と考えたマイクロトフではあったが、久々に顔を合わせた、まして積年の懊悩の種であった魔剣を支配下に納めた皇子とあっては、グランマイヤーも容易く退出を認めようとはせず、結局そこそこ話し込んでしまった。
生真面目な騎士たちのことである。主役とも言うべき皇子が欠けては、最初の一杯すら口にしないで待っているかもしれない。そうフリード・Yが説いて初めて、グランマイヤーは慌てて皇子を解放した。彼もまた、街の要人を待たせたままであったのをすっかり失念していたのだった。
廊下を進みながらフリード・Yが苦笑する。
「グランマイヤー様が来客の約束をお忘れになるなんて、余程お嬉しかったのでしょうね」
マイクロトフもしみじみと頷いた。
「ダンスニーのことは、な……。おまえの進言通り、刺客に襲われたのを伏せておいて良かった。あれを持ち出していたら、朝になっても離して貰えなかっただろう」
執務室を訪れる前にフリード・Yは言ったのだ。ただでさえ心労を重ねている宰相に、刺客の件まで報告するのは如何なものか、と。
あの襲撃は、苦境をもたらしたものの、カミューの命懸けの阻止によって結果的には吉と出た。いずれ知れるとしても、今は経緯を隠しても良かろう。あの宰相は、既に余るほどの屈託を抱えているのだから。
「……しかし、うっかり抜いてしまったというのは間が抜けているな」
笑い含みでマイクロトフが言う。常に注意していた筈なのに、どうして抜刀に至ってしまったのか───肝心な部分を省いての説明に窮した従者が、咄嗟に口走った理由である。これにはフリード・Yも恐縮した。
「申し訳ありません、色々考えてはいたのですが……」
「まあ、「初めての査察に浮かれていた皇子」には有り得ない理由ではないが」
寧ろ、それで納得されてしまう方が問題かもしれない。やや複雑な心地に陥ったマイクロトフだったが、気を取り直して話題を変えた。
「明日の予定を無理に変更させたのは少々気が咎めるな」
明日、グランマイヤーは礼拝堂に赴き、即位式典に使う皇王家代々の品を確認する予定になっていたのだが、騎士団閣議への参席を求めたため、変更を余儀なくされた。これにはグランマイヤーも不思議そうだったが、是非にも、といったマイクロトフの気迫に負けたかたちだった。
「そんなに大切な案件なのですか? 滞りなく進みますよう祈っております」
そう言った若者に、マイクロトフは苦笑する。
「何を言っている。おまえも出席するのだ、決まっているだろう」
「わたくしが、ですか?」
騎士団位階者ばかりか、宰相まで揃う重要な会談の場に同席するなど考えてもいなかったフリード・Yは、困惑して立ち止まった。丸く見開かれた瞳に向けてマイクロトフは愉快そうに続けた。
「おまえはおれの一番古い側近ではないか。おれの決意を間近で見届けて貰わねばならん」
打ち震えるような感動がフリード・Yを襲った。音のしそうな勢いで背を正し、感謝の言上を述べようとしたが、それは唐突に現れた二人の赤騎士によって阻まれてしまった。東棟と中央棟を繋ぐ渡り廊下の中央、出会い頭の一声が響く。
「お……、お探し致しました、皇太子様!」
「ああ、申し訳ありません。グランマイヤー様との話が思ったより長引いてしまいまして……」
フリード・Yが慌てて頭を下げた。いつまで経っても宴の席に現れぬ皇子を二人が探しに来たと思ったのだ。しかし、騎士たちは即座に首を振り、足早に歩み寄る。互いを突き合い、一人が威儀を正した。
「カミュー様からの御伝言です。これより城下に下りるが、夜までには戻る、とのこと」
「何?」
意表を衝かれて瞬いていると、もう一人がひどく躊躇しながら切り出した。
「そのう、申し上げて良いものか迷ったのですが……実は御留守の間にカミュー様を訪ねてきた男がおりまして、その者から預った文をお渡ししたところ、カミュー様は斯様に言い残されて……」
「城を出た、と? 宴席も辞して?」
マイクロトフはフリード・Yと目を見合わせた。
「ロックアックスに御知り合いでもいらしたんでしょうか」
独言めいたフリード・Yの言葉に騎士たちは困惑げに顔をしかめる。
「それが……カミュー様は「知り合いは居ない」と仰っておいででした。が、文を読まれて、相手を察せられた御様子で」
「どのような人物だったのだ?」
尖った声に問われて、男たちはどう答えたものか苦慮する顔つきになった。もとより皇子とは接触の薄い赤騎士団員、話をするのさえ初めての二人にとって、いきなりの緊迫した遣り取りは重荷だったようだ。それに気付いたフリード・Yが、努めて取り成すように笑み掛ける。
「ええとですね、どんな風体の人物だったのでしょう?」
すると騎士は幾許か落ち着きを取り戻して応じた。
「四十がらみの剣士です」
「剣士だと?」
「はい、皇太子様。それは立派な幅広剣を佩いており、マチルダの民ではないように見受けられました。カミュー様が御留守なのは最初から承知していて、文を託けるためだけに来たようです。誰何はしたのですが、「古い知り合い」の一点張りで……名や来訪の理由は一切口にしませんでした」
フリード・Yが眉を寄せてマイクロトフを見上げる。偶然にも二人が描いた懸念は同じだったのだ。
「……査察のときに出会った敵は、最初に礼拝堂の前で襲ってきたときよりも減っている、とカミュー殿が言われましたね。それに、帰還の際には視線を感じた、と……」
「まさか、あのときの残党が……?」
大胆にも留守を見計らって城に顔を出したのか。そして、火魔法をちらつかせて襲撃の邪魔をした青年を恨んで、呼び出して───
「……探さねば」
呻くようにマイクロトフは呟く。もう酒席どころではない。ただ漫然と戻ってくるのを待つなど不可能だった。
「あいつのことだ。万が一にも、とは思うが……城外に誘い出したというのは気になる。良からぬ企みが進行しているのかもしれない」
「しかし、殿下。探すと言っても、いったい何処を……? いいえ、先ずは副長方にお知らせして、人手を用意していただく方が先ですね」
主君の不安が伝染したようにフリード・Yはおろおろと辺りを見回す。真っ先に目が合った赤騎士が、だが突如として顔を歪めた。その反応を訝しく思う間もなく、いま一人も紅潮しながら拳を震わせた。
「あの、……何か?」
小首を傾げて質すと、二人はその場に平伏しそうな様相で叫んだ。
「もっ、申し訳ございません!」
「我々は騎士にあるまじき不徳を……如何なる処罰にも甘んじます!」
間近で喚かれ、主従は一瞬だけ事態を忘れて目を瞠った。周囲に人気がなかったのは幸いだ。通り掛かるものがいたら、何事かと仰天したに違いない。
「ど、どうしたのだ。何を詫びている?」
「そうですとも、知らせてくださって感謝しておりますのに」
主従の声に、騎士はいたたまれなくなったように呻いた。
「その……カミュー様が向かわれたのは、おそらく礼拝堂を過ぎて最初の宿屋かと」
「宿屋って……、何故そんなことが分かるのです?」
すると一人が苦しげに釈明した。
「相手が剣士であることには、我らも最初から引っ掛かったのです。もしやカミュー様に害を及ぼす輩ではあるまいか、と……」
「あっ、ずるいぞ! 「敵ではないか」と言ったのはわたしであって、おまえは付け文説を唱えていたではないか!」
「付け文?」
目を丸くしたまま復唱したマイクロトフにフリード・Yが小声で囁く。
「ええと、……恋文のことです、殿下」
「それくらい知っている」
間髪入れずに返る不機嫌極まりない一蹴。視線を反らすように、従者は騎士らに向き直った。
「あのですねえ、訪ねてきたのは男性だったのでしょう? どうしてカミュー殿に付け文を、しかもわざわざ城まで届けに来ると仰るんですか」
「そうは言うが、フリード殿! あの御方は、我ら同性の目から見ても───」
「……それはもう良い」
うんざりとして、マイクロトフは首を振りながら遮った。
「横道に逸れずに説明してくれ。どうして行き先が宿屋だと見た?」
「は、はい。そういう事情ですから、後をつけて男の素性を明かしたかったのですが、御存知の通り、赤騎士団は人手不足でして……城門番を放り出して、という訳にはいかなかったのです」
そこまでは了解した、と主従が頷くと、彼らは更に小さくなった。
「そこで已む無く、決して本意ではなかったのですが、文を、その……」
「───見たのか」
「…………はい。ほんの少しだけ」
「と言っても、宿名しか記されていなかったのですが」
他人宛の文を覗き見たのだ、恥じ入るのも道理である。
だがマイクロトフは、二人を責められなかった。もし同じ立場だったら、やはり文を開いたかもしれない───振り翳すだけの大義があったなら。そんな複雑な胸中のまま傍らを見ると、フリード・Yも同じ意見に行き着いたような難しい表情になっていた。
騎士は続ける。
「ともあれ、宿泊先が判明したので、いざという時には何とかなると考えました。本当に知人であったなら、我らが影で嗅ぎ回るのをカミュー様が快く思われないだろう、と……それ以上の詮索は控えたのです。しかし文を読まれたときのカミュー様がただならぬ御様子で、それで……」
「心配になった、という訳だな」
皇子が言うと、二人は深々と頷いた。フリード・Yは顎に手を当てて考え込んでいたが、やがて意を決して顔を上げた。
「そういう事情でしたら、殿下が向かわれるのは得策ではありませんね」
「何?」
「宿の名しか記されていなかったのに、相手を察せられたのです。ならば、本当に知人なのかもしれません。殿下が街の宿に顔をお出しになれば、騒ぎになります。カミュー殿もそう考えて一人で向かわれたのかもしれない」
しかし、とマイクロトフは煮え切らぬ口調で唸る。従者の推論が正しいような気もしてきていたが、何かが胸につかえているのだ。
青年が万一にも危険に直面したなら己の手で護りたいという願望と、あるいは──認めるのは苦痛だったが──自身の知らないところで青年が知人と会っているといった想像からくる妬心であったかもしれない。
「殿下まで宴を欠席なされば、騎士の皆様も怪訝に思われます。下手に騒ぎが大きくなれば、またしても叔父上に付け入る口実を与えてしまいます」
険しく顰められた太い眉を見た赤騎士らが、再び互いを突き合って進み出た。
「我らは現在、手が空いております。御命じくだされば、件の宿に様子を窺いに行って参ります」
「でも、それではあなた方が文を御覧になったのがバレてしまいますよ」
「……皇太子様の御為とあらば、盗み読みの恥辱にも甘んじます」
そうは言うものの、皇子のためと言うよりは、寧ろカミューの身が気になって堪らないといった面持ちである。マイクロトフは嘆息気味に首を振り、フリード・Yへと瞳を当てた。
「頼む、フリード」
「はい?」
「おまえなら適当な言い訳を作れるだろう。「天雷」の札はまだ持っているな?」
査察時の守りに、と青騎士団副長から与えられた品である。刺客から取り戻した後、それがフリード・Yの懐に大切に納められているのをマイクロトフは知っていたのだった。
「いざとなれば、それでカミューに加勢出来るだろう。頼む、おれの代わりに状況を見てきて欲しい」
「殿下……」
フリード・Yは切ない感動に胸を震わせた。
皇子がどれほどあの青年を大切に思っているか。性格上、すぐにでも後を追いたい心地であろうに、必死に堪えている。今になって足元を掬われぬように、カミューや騎士らの尽力を無駄にせぬために、皇子は敢えて自らを抑える方を選んだのだ。
そんな主君に見込まれて否はない。フリード・Yは奮い立った。
「行って参ります。カミュー殿が城を出られてからどのくらい経ちますか?」
問われた騎士たちが計るように首を捻る。
「それほどでもありません。小半時足らずでしょうか」
それを聞いて若者はにっこりした。
「グランマイヤー様に引き止められていたのが幸いしましたね」
「そうだな。だが、急いでくれ。相手が「敵」なら、それでも長い」
表情を引き締めたフリード・Yは、一礼して駆け去っていった。
見送る三者はいずれも沈痛を浮かべたままだ。自身らが命じられなかったことで消沈していた赤騎士が、皇子の顔色を窺うように問うた。
「念のため、手隙の人間を───多勢は難しいかと思われますが、集めておきましょうか」
「……頼む。おれも万一に備えて、酒は控えておこう」
それはそれで怪訝に思われるかもしれないな、などと思案を巡らせながら、マイクロトフは拳を握り締めたのだった。

 

 

 

 

 

一方、過中の青年は。
そんな騒動に及んでいるとは知らず、指定された宿に到着していた。宿の扉を開けるなり、素早く内部を見渡す。
この地方には有り触れた設えであった。入ってすぐのところに帳場があり、その脇の広間が食堂になっている。夜ともなると酒場の色も添えるそこでは、早めの夕食を取る数人の客が楽しげに談笑し合っていた。
扉に呼び鈴でも備えてあるのか、帳場の奥から女将が現れた。戸口に立ち尽したカミューに向けて丁寧に頭を下げる。
「いらっしゃいませ、お泊りですか?」
相手が滅多に見ない美貌を持つ青年であるためか、声音には商いを越えた親愛が潜んでいた。カミューは慌てて首を振り、椅子に座る客を一人ずつ検分していく。
「知人がこちらに宿を取っていると聞いて訪ねてきたのですが……」
まあ、と女将は宿帳を取り出す。
「でしたら、お知らせしてきましょう。お泊りの方の御名前は?」
しかし、答えるよりも早く、カミューは相手を見つけた。食堂の一番隅の目立たぬ席から放たれる視線。胸苦しさを誘う鋭くも温かな眼差しを、違え取ろう筈もない。
「……もう良いのです、会えました」
ポツと言うと、カミューは女将に笑み掛ける。
「南方の強い酒があったら、頂戴したいのですが」
「カナカン産の品が一本だけ御用意できます。かなり値が張りますけれど」
「構いません。あの奥のテーブルにお願いします」
彼は手早く代金を払って歩み出した。
咀嚼に忙しい客たちは、つい数刻前に皇子の横で馬を駆っていた人物と目前の青年が同一とは気付かぬようだ。
カミューは周囲に溶け入るすべを持っている。ひっそりと気配を殺した彼からは絶大な存在感が失われる。稀なる容姿に注目するものは居ても、そうした目にも、張り詰めた緊張を漂わせたときの青年とは別人に見えるのが常であった。
邪気のない興味の視線をぬって壁際の卓に進んだカミューは、迎えた男の前で足を止め、暫し身じろぎもしなかった。そんな彼を椅子上から一瞥し、男は微かに眉を上げた。
「座るなら座れ。突っ立っていられたら、気になるだろう」
「宜しいのですか?」
「もう師弟の縁は切った。おれは一人の人間としておまえの前に居る。いちいち許可を求める必要はない」
言いながら男は空いた椅子を引いて着席を促す。カミューは心許なげに瞬きつつ、優美に礼を払って従った。男が啄んでいた品に目を止め、小さく微笑む。
「……またそんなものを」
卓上には酒瓶の他に数枚の小皿が置かれていたが、そのいずれにも可憐な菓子がちんまりと鎮座している。男は背凭れに身を投げながら欠伸した。
「色々と食べ比べてみたが、ここが一番だったから宿に決めた」
「太りますよ、……「二刀要らず」の名が泣きます」
「危ないな。このところ運動不足気味だ」
神妙に応じて、男は菓子の小皿を押し遣った。丁度、女将が酒瓶とグラスを運んできたところだったのである。
空いた卓に乗せられた品を窺い見た彼は、女将が去ると同時に率先して栓を抜いた。グラスに流し込んだ酒の芳香を確かめながら片目を瞑る。
「悪くない。男の再会には、やはりケーキよりも酒が合いそうだ」
「───ゲオルグ殿」
自らのグラスにも注がれる液体を睨み据えるようにしながらカミューが切り出した。
「いつロックアックス入りなさったのです? それに、どうして文を……二度と会わぬと仰ったのに」
弱く震えた声を聞くなり、剣豪ゲオルグ・プライムは、そうと知れぬように青年から目線を外した。
「マチルダに来たのは、かれこれ十日近く前になる。野暮用でな、ついでにおまえと連絡を取るつもりだったのだが」
そこで彼は溜め息をついた。
「そこそこ長い逗留になりそうだったから、美味いデザートを出す宿を探していて失敗した。まさかおまえが査察とやらで街を出るとは思わず、後で宿の連中が噂しているのを聞いて唖然としたさ。人間、目先の欲を優先させると碌なことはない」
渋い表情の剣士に、カミューは堪らず苦笑する。
「それは申し訳ありませんでした。やはり昼間の視線はゲオルグ殿だったのですね」
帰還の途で懐かしい師の眼差しを感じた。ここに居る筈のない人物だと一度は自らに言い聞かせたものの、こうして再会すれば慕情が募る───たとえ、縁切りを宣言された相手であっても。今のゲオルグは、背を向けたのを忘れたように、かつての気さくな師そのままだったから。
ゲオルグは杯を呷りながら片手で天井を指した。
「二階の部屋から、……な。険しい顔で見上げられて、つい身を隠してしまったが」
そんな、と笑みを深めた青年を横目で眺め遣った男が、不意に鋭い一閃を放った。
「あれがおまえの皇子か」
たちまち失われる表情に頓着せず、ゲオルグは手酌で次の一杯を満たす。
「多少は噂を聞いた。なかなか見所のある男らしいな」
「…………」
「それに、騎士の不審死の噂も聞かない。手古摺っているようじゃないか」
周囲の卓は空いていたが、殊更に潜められた声だった。殆ど唇の動きだけで語られた言葉がカミューを俯かせた。
「そういう訳では……」
「今も心は変わらないか」
「……変わりません」
ぽっかりと浮かびそうになる異心を捩じ伏せて答えると、ゲオルグ・プライムは目を細めて長い息をついた。頬杖をつき、酒瓶を弄びながら低く呟く。
「おまえを呼んだのは、ルシアから伝言を頼まれたからだ」
「ルシア? お会いになったのですか?」
乗り出した青年に、瓶の硝子越しに頷いて淡々と続けるゲオルグだ。
「グリンヒルで、ばったり……な」
そのまま指を折って日を数える仕草を見せてから顔をしかめる。
「……ギリギリで間に合った。早ければ明後日にも報が入るだろう」
「ゲオルグ殿?」
困惑して瞬いたカミューは、次の一節に息を飲んだ。
「マチルダ皇子とグリンヒル公女の結婚は中止になるぞ。父公の喪に服すか、共に死ぬか……ともかく、公女がグリンヒルを出ることはない。おれがマチルダへ向かうと知って、伝えてくれと頼まれた」
「では、ルシアは……?」
「大まかな事情は聞いた。おそらく、確証を掴んだのだろうな。婚儀の延期、あるいは中止……何れにしてもマチルダには寝耳に水、たいそうな騒ぎになるだろう」
ひとたび言葉を切り、ゲオルグは疲れたように目頭を摘まんだ。
「カラヤの民には一宿一飯の借りがある。その族長の頼みとあっては、無下に断わる訳にもいかん。確かに伝えたぞ」
それは、「混乱に陥るマチルダ中枢の隙に乗じろ」というルシアなりの厚意なのだ。カミューはきつく唇を噛んだ。
グラスランドの民の誇りに懸けて、虐げられた同朋には手を差し伸べる───夕映えの中で口にした誓いを、自身の宿願が佳境を迎えた今なお、彼女は忘れていない。飾り気のないその誠実に応えるためにも、もはや躊躇は許されない。
未だ口をつけぬままだったグラスを取り上げ、目の高さに掲げる。
「……カラヤの若き族長ルシアに、精霊の加護のあらんことを」
琥珀の瞳が昏い光を放ち始めたのを見届けた男は、唱和しようとはしなかった。
時代を担うべき若者たちが、過去にばかり目を向けるなど間違っている。ゲオルグは心底から思っていた。
けれど、この期に及んで口出しする気もなかった。
虐げられたものの痛みは、虐げられたものにしか分からない。人の決意を曲げられるのは、その人物と深く関るものだけだ。師弟の縁を切ると宣言して、ひとたびカミューの許を去った己には、既に資格は失われているとゲオルグは考えたのである。
やや調子の変わった青年の声が呼び掛けた。
「一つ、お願いがあるのですが」
「聞く気はないが、言ってみろ」
そんな男の言いように困ったように瞬いて、しかしカミューは静かに続ける。
「カラヤの村に金を預けてあります。あなたと一緒に、傭兵として働いていたときの報酬です。ゲオルグ殿、その金で雇われてはいただけませんか」
「何だと?」
「もしもわたしが失敗ったら、代わりに志を果たしていただきたいのです」
表情には出さず、ゲオルグは心中で呆気に取られた。
失敗、とカミューは言ったのか。図抜けた才知を持つ彼にして、手を下す前からの、この弱気。
目前の青年に兆した感情を違え取るゲオルグではなかった。面白くもなさそうに腕を組んで空を睨む。
「師弟の縁を切っても、おまえが弟子であった過去は消えない。おれが金で動く人間でないのは良く知っているだろう」
「……では、情で引き受けてください」
「情か……。出会った頃のおまえはともかく、今の澄まし込んだおまえは可愛くない。礼儀作法など教えるのではなかった。そいつを武器に、敵の懐へ潜り込むとはな。思惑に気付かなかった自分に腹が立つ」
むっつりと言ってから、ゲオルグは力を抜いた。
「余計な事を考えていると思わぬ失態を犯すぞ」
「悪戯に剣を抜いてはならない、けれど抜いたら決して迷うな───最初の教えでしたね」
弱く笑む青年に当てられていた眼差しが、グラスの中に揺れる酒へと移る。不吉な血色に似たそれを睨みながらゲオルグは言った。
「……おれがおまえに剣を教えた事実も消えない。後始末くらいはつけてやる」
声音には、仄暗い決意が宿っていた。

 

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あああ、パラレル作でも
赤騎士団員はBAKA……。
こいつらなんか、
絶対に赤よりお兄ちゃんな筈なのに。

 

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