狂おしい情熱の海が凪ぎ、納まりゆく呼気が静かに室内に漂う夜更け。
愉悦の汗で火照った肌を分けた後、余韻を噛み締める間もなく、マイクロトフは己の果たした欲望の始末に勤しみ始めた。
冷えた水を絞った柔布で疲弊した体躯を清められる行為は、カミューにとっては情交以上に耐え難い羞恥だった。
雄の本能に突き動かされるばかりだった皇子が、我に返り、いつもの精励な男に戻ってしまった。理性ある眼差しに隈無く検分され、いたわりをもって触れられる。熱に支配された刻の有終とでも考えているのか、真剣な面持ちで作業に勤める男がカミューには堪らなかった。
泥を吸ったように重い身体を励まして、何とか抗おうと試みたものの、強い腕がそれを許さない。やむなく抗議に臨んだが、『甲斐甲斐しい母と思え』と一蹴された。
そこでカミューの抵抗への気概は砕けた。
以前与えた揶揄を逆手に取った逆襲。しかも、何とも間の抜けた言い草である。そんな男の無神経ぶりに羞恥を覚えても無駄であるように思えてしまったのだ。
丹念に拭われた身体に真新しい夜着が与えられた。村人が用意してくれた品であった。
不器用な手付きで、なめらかな肌を布で包んでいくマイクロトフは、満たされた心地半分、未だ満たされざる心地半分といった顔だ。
愛する人と身を繋げた今、確かに至福に酔っている。けれど同時に、何処まで求めても足りない、闇の狭間で永劫に絡み合っていたい、そうした心情も在った。
負傷の痕跡こそ消えているが、快癒したとも言い切れない青年に、既に十分に無理をさせた自覚がある。それでも、際限なく溢れそうな欲望に終焉を命じたのは、精一杯の自制だったのだったのだが───
皇子が箪笥から清潔な敷布を運び、寝乱れたそれと替えるに至って、カミューが抱えた極まり悪さは霧散した。こざっぱりした寝床に潜り込みながら、汚れ物を一\めにして籠に詰めている男に呼び掛ける。
「まったく……見掛けに寄らぬ、信じ難い忠実忠実しさだ。侍女としてでもやって行けるんじゃないか?」
「……せめて侍従か従者と言え」
マイクロトフは不服を隠さず口を尖らせた。
「洗い物は屋敷の管理を任せている村人がしてくれることになっているが、こうして\めておいた方が手を煩わせずに済むではないか。それに」
やや気恥ずかしげに、湿って重くなった敷布を摘まみ上げる。
「替えないと、おまえも心地好く眠れないだろう?」
言い終えるか否かの刹那、飛んできた枕がマイクロトフの顔を直撃する。
「……っ、何をする?」
枕を抱えて心底怪訝げに問うた彼は、白い頬に昇った朱に目を瞠った。
「どうした。何か気に障ったなら謝る、すまない」
幾度も悦びを吐き出した結果、使用に耐えない状態に陥った寝具。過らせたくない事実を突き付けておいて、それに気付かぬ鈍感な男。
途方に暮れて、カミューは上掛けを引き上げて紅潮した顔を隠した。
「何でもないよ。ちょっと手が滑ったんだ」
「……? どんな滑り方をしたのだ」
マイクロトフは小首を傾げながら籠を部屋の隅に押し遣り、それから寝台に戻った。漸く人心地ついたカミューが半身を起こそうとするのに手を貸して、枕を背当てに設える。青年が身体を落ちつかせたのを見届けた後、自らも寝台端に腰掛けた。
「まあ……、冗談は置いても、そういう意味では手の掛からない男だね。湯殿の支度や寝具の交換まで自分でする皇子なんて、聞いたこともなかったよ」
「作業に要する労力を知っていれば、人にして貰ったときの感謝を忘れずに済む。せめて自室の中での身の回りのことくらいは、と思ってな」
「成程、殊勝な心掛けだ」
ただ、と皺だらけの敷布を眺め下ろしての小声が続いた。
「……言っては何だが、あまり巧くないね」
するとマイクロトフは神妙な面持ちで頷く。
「そうなのだ。城でも、何時の間にかフリードの仕事になってしまった。おれの作業が粗いので、手出しせずにはいられないのだろう」
カミューは吹き出し、立てた膝を上掛けごと抱え込んだ。暫し考え、ぽつりと切り出す。
「傲慢とは無縁の王族か。おまえの御陰で、これまでの認識に書き換えの必要を生じたよ」
「そうでもないぞ。おれの中にも傲慢はある」
「え……?」
意表を衝いた意見に瞬くカミューを、今は穏健を湛える漆黒が凝視していた。
「覚えているか? 初めて会ったとき、おまえはおれを非難した。礼も弁えぬ人間に頭を下げる気はない、そう言った。決してそうなるまいと心掛けていたつもりだったのに、おれは何時の間にか人に傅かれることに慣れていた」
最初の邂逅。窮地を救われたことへの礼より先に、先ず馬から下りるよう、皇子を見下ろさぬよう求めた従者。
思い出したカミューは、やんわりと微笑んだ。
「おまえにはすぐに詫びて貰った覚えがあるけれど」
いや、と首を振って立ち上がった皇子は、薪を足すべく暖炉に向かう。放り入れた木片が新たな火を纏って明るく爆ぜた。
「非難の正当を、新鮮で心地好く感じたのだから、やはり傲りがあったのだ。おまえが気付かせてくれた」
更に幾つか木切れを投げ、マイクロトフは懐かしげに言った。
「幼い頃には不思議でならなかった。周りの誰もがおれに頭を下げる。騎士や議員、立派な大人が敬語を使う。政務の暇を見ては遊んでくれたグランマイヤー、物心ついたときから一緒だったフリードまでもが、おれを一段高いものとして見ていた」
火掻き棒で薪を整え、軽く手を払う。
「だから欲しかったのだ───おれを皇子としてではなく、一人の男として見てくれる相手。歯に衣着せず、過ちを正し……おれが望む、在るべき姿を支えてくれる人。マティスにとってのアルダを、おれも得たかった」
再び寝台に戻って敷布に腰を乗せ、切なげに目を細めた。
「……多分、初めて会ったときから惹かれていた。おまえがそうなのだと思った」
しっとりと濡れた薄茶の髪を掻き上げ、覗いた額にくちづけて囁く。
「おまえの存在がおれの進む道を護ってくれる。幾らでも強くなれる」
亡き父王が、母に見つけた永遠はこれだったのだ。
何を置いても手に入れたかった至高、燃え盛る情愛の行き着く場所。
マイクロトフは腕を広げ、弛緩した細身の体躯を胸に招き入れた。身じろぎもせず、温かな抱擁に身を任せていたカミューが小さく呟く。
「人に丁重に扱われるのを不思議に思う皇子、か……本当に変わっているよ、おまえは」
緩やかに解けた拘束の先で皇子は笑った。
「立派に責務を果たしている身ならともかく、何の役に立たぬ子供が礼を払われるのはおかしいではないか。どうしてなのかと父上に聞いたことがある。父上は言われた。「近い未来に役に立って貰うための期待の前払いだと思え」、と」
ぴく、と体躯を強張らせた青年に気付かず、続ける。
「それから、こうも言われた。「前金を受け取ったからには励めよ」、と。おれは知らぬうちに借財を負っていたらしい」
笑いながら言う皇子からカミューは目を伏せた。
「良き……御父上だったんだな」
「人として忘れてはならぬ、価値ある様々を教えてくださった。親とはありがたいものだ。おまえには大勢の親御殿がおられたのだから、やはり色々と学んで───」
何気なく言い差して、はっと言葉を飲む。その全てを青年が失っているのを思い出したのだ。慌てて目を逸らし、唇を噛んだ。
「す、すまない……おれという男は……」
だが、カミューは小さく首を振る。
草原に眠る「家族」へと思いを巡らせるたびに胸を裂いた痛みが、今は不思議と感じられない。ただ、泣きたくなるほどの優しい懐かしさが込み上げるばかりだった。
「……そうだね、色々教えて貰った。人は死んだら土に還る。大地の精霊に抱かれて、次の命を与えられるまで休息を取る───幼いわたしは、産みの母が精霊の膝で眠る姿を何度も想像したよ。だから悲しくなかった。ゆっくり休んで欲しいと願った」
躊躇がちに頬に触れた大きな手の温もりに笑んで、静かに続けた。
「燕が低く飛ぶと、次の日は雨になる。どのくらいを「低い」と判断するのか、良く分からなかった。それでも、薪が濡れないように覆いを掛けた」
記憶を紐解き、首を傾げる。
「それから、平地よりも高所の方が早く湯が沸くとも聞いたな」
「そうなのか?」
「子供に山を登るのは許されていなかったからね、未だに確かめられないままだ」
マイクロトフは穏やかに口元を綻ばせる。
「ロックアックス城の標高で試せば良い。先に平地で湯の沸く時間を測っておいて……」
「同じ量の水を城で沸かして?」
「そうだ」
「元の水温が同じでないと、正確な結果は出ないよ」
「……そうか」
困ったように首を傾げる男を見詰める琥珀の瞳が愉快の色を浮かべた。
「大人が教える、子供が感心する。伝承なんてものは、確かめないままでいるのが正解なのさ。間違いだったら、がっかりするじゃないか」
カミューは一つ息を吐いて背凭れの枕に沈み込む。
「こうして並べてみると、あんまり実用的な教えではないな。子供の頃は目を輝かせて聞き入ったものだが……世俗擦れしたな、わたしも。わたしにとっては、生きるとは汚れることらしい」
「そんなことはない」
間髪入れず一蹴して、マイクロトフは身を乗り出した。あれこれと異論を飛ばそうとする意思を認めて、カミューは柔らかに男の言葉を封じた。
「ああ、思い出した。「鏡文字」は実用的だ」
狙い通り、男は怪訝そうに瞬いて、すぐに好奇でいっぱいになった。
「それはどういうものだ?」
「何か書くものはあるかい?」
「ああ、確かここに……」
寝台脇の棚の引き出しから羽筆とインク瓶、更に用箋が用意される。筆先をインクで湿らせたカミューは、瓶を皇子に持たせて用箋を取り上げた。そのまま筆が描き始める不可解な線に、マイクロトフは息を詰めて見入る。
「裏返しに文字を書くんだ。人に読まれたくない文章を記す手法さ、鏡に映すと反転されて普通の文字になる」
「成程、だから「鏡文字」か」
すらすらと書き記されていく文言は、奇妙な模様にしか見えない。青年は筆を休めず、軽く言い添える。
「グラスランドは昔から他国からの侵略の脅威に晒されていた。国家としてこそ確立していないが、有事の際には各部族・各村が協力してこれの排除に立った。書状で連絡を取り合う場合、敵の手に落ちてもすぐにはそうと知れぬように、暗号の考案が盛んだったのさ」
もっとも、と彼は肩を竦めた。
「かつて頻繁に攻め入ってきた国……ティントやサウスウィンドウが長く沈黙を守っているからね、今は暗号としてより邪気のない遊びとして使われるのが殆どだが」
そうして記されたのは、一見したところでは意味のない悪戯書きとしか取れぬ線の羅列だ。マイクロトフは紙面を手に、思案に暮れた。
「さっぱり分からん」
「それで第一段階だよ。裏返しに書くのが最低限の基本。予め色々と取り決めをしておくと、更に意味不明な書面になる。文字に装飾を入れたり、単語を縦に読み進めたり、二つ飛ばしに読んだり……約束事が多ければ多いほど、解読は困難になる」
だから、とカミューは薄い肩を震わせて笑った。
「恋文とか、逢瀬の申し入れには有効なのさ。うっかり落としても、人に読まれずに済む」
釣られて笑い出した皇子は書面から顔を上げ、室内を見回した。しかし生憎、この客間には鏡が備えられていない。己の目で確かめられないのを僅かばかり惜しみながら問うた。
「それで、これは何と書いてあるのだ?」
「一行目は御句を並べただけだ。わたしたちの名前、マチルダ……それと、騎士」
「二行目は?」
「……皇子は世話好きだが、不器用で、情緒に欠ける」
「何だ、それは」
吹き出して、最後の一行を指す。
「これは?」
ふと。
カミューは押し黙った。
二行目よりも短く、一言で終えられる筈の説明を待って瞳を輝かせる皇子の手から、紙片をそっと奪い取る。素早く部屋を窺い、寝台の反対脇にある屑入れを目に止めるなり、丸めた紙を放り投げた。巧みな制御で過たず籠に舞い下りるそれを、呆気に取られてマイクロトフは見送った。
「何故捨てる?」
「……書き損じた。駄目だな、長く使っていないと技術も鈍る」
「そうなのか?」
多少間違っていても分からないのに───皇子の目はそう言いたげだった。カミューは疲れた息を洩らした。
「……朝まで間がある。少し寝るよ」
「腹は減っていないか? 下に、村人が持ってきてくれたスープがあるが」
「いらない。今は食欲なんてないよ」
「しかし、それでは体力が戻らないぞ」
「マイクロトフ、おまえ……」
カミューはふわりと腕を伸ばし、挑発的に男の肩に回した。
「散々わたしから精を絞り取っておいて、どの口がそれを言うのかな?」
「そ、れは……」
たちまち紅潮する皇子に向けて艶美な眼差しが注ぐ。
「それとも、言って欲しいのかい? 「初めて男と情を交わし、胸が一杯で、今は食べられそうにありません」とか?」
「カミュー……」
困惑し果てて、マイクロトフは弱く首を振った。
「分かった、おれが悪かった。どうか、そのまま休んでくれ。スープは明日の朝にでも飲んでくれたら嬉しい」
深々と頭を下げた後、彼は敷布から腰を浮かせた。
「何処へ行く?」
「いや、火の番をしようと……」
カミューは目を瞠り、それからもぞもぞと寝台の隅に寄った。軽く上掛けを持ち上げて、視線で促す。動こうとしない男に、今度はやや苛立たしげに眉を顰めた。
「早く入れったら。ずっと満足に寝ないで付いていてくれたのだろう? もののついでだ、添い寝をさせてやるよ」
皇子はぱちぱちと瞬いて、再び頬に血を集めた。
会話を経て、漸く鎮まった情欲に火を点けられそうだ。愛しい人の体温を間近にして、どうして心静かに眠れよう。
「冷えるからな、暖炉の火を絶やしては……」
そんなふうに遠回しの断りを試みたが、優しい声が一閃した。
「わたしは「烈火」持ちだぞ。抱えていれば温かい。火が消えても問題ないさ」
「いや、それはそうかもしれないが……」
おろおろと言い募る皇子の腕を掴み、カミューはそっと引き寄せる。甘いくちづけが、それ以上の言葉を塞いだ。
「……すぐに離れるのは交情後の礼に悖るぞ、皇子様」
───だから情緒に欠けるというんだ。
そう付け加えられて、苦笑が溢れた。
マイクロトフは命じられたように褥に潜り込み、のろのろと横になる青年を見守る。ここで更に求めたら、非難どころでは済まないだろうな、などと過らせながら、熱を帯びたまろやかな肩を抱き寄せた。
マイクロトフは思った。
火の番は出来ないが、別のつとめに励むとしよう。
最愛なる人の眠りを守る騎士のつとめ。自らにしか果たせぬ、幸福な役割を。
情熱の夜が、甘い幻のように深まり、溶けていった。
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