部屋は何処かの民家であるらしかった。開いた目にあたりは薄暗く、火の爆ぜる音が小さく続いている。
清潔な香りのする寝具に包まれて横たわるカミューを、熱を帯びた眼差しが見下ろしていた。押し殺した声が呻き、やがて囁きとなった。
「良かった……気付いてくれたか」
「マイクロトフ」
弱く返して幾度か瞬く。
「ここは……」
「祖父母の家だ」
では、無事に村に行き着いたのかとカミューは思った。左肩からダンスニーが抜かれた後の記憶は曖昧だ。マイクロトフが正気に戻ったのを見て、安堵して意識を失ったのだろう。
思案する青年に気付いて、マイクロトフは寝台脇の棚から小瓶を取り上げて揺らしてみせた。
「それを飲めと? 嫌だよ」
白い顔が歪む。小瓶の中には何やら泥水のような液体が詰まっていたのだ。
「そうではない。井戸の水だ。出た直後の一掬いだそうだ。まだまだ使える代物ではないが、後はこのまま掘り進めれば良いから、と……そこまでを見届けて、追って来たのだ」
カミューが意識を失くして程無く、村に残った青騎士隊長が追い付いた。
傷こそ塞いだが失血で目を回している騎士たち、失神した青年に取り縋る皇子、放心し掛けたフリード・Yでは事態が進展するのも容易ではなかったろう。惨状に驚きつつも、騎士隊長は即座に的確な指示を出して、何とか一同を目指す村まで導いたのだった。
たった一つ残した単体回復魔法を、フリード・Yは迷わずカミューに与えた。皇子も負傷していたが、青年のそれは比にならず、このまま彼が失われるようなことがあれば、二度と皇子が立ち上がれないような気がした───彼は後からそう語った。
処置は騎士隊長の到着前に施してあった。が、そこまでが精一杯だったようだ。皇子に付き添う格好で呆けていた従者を、それでも騎士隊長は笑って褒めたという。
彼らは迎えた村の住人に宿を用意された。だが、マイクロトフだけは慣習通り、祖父母の屋敷に休むことになった。無論、カミューを離そう筈もない。
医師が呼ばれ、皇子の傷の手当てにあたった。回復魔法で傷自体は癒えていたカミューには他に治療のしようもなく、休ませるしかないと言い置いて帰っていったのだった。
「どのくらい寝ていた?」
「村に着いたのは昨日の日暮れ時だ。それから丸一日、おまえは目を覚まさなかった……」
窓の外には厚手のカーテンが垂れている。暖炉に火が入れられていて、他に明かりはなく、だから薄暗いのだと漸くカミューは理解した。
大剣に貫き抉られた傷に痛みはない。慎重に動かしてみたが、特に違和感もなかった。回復魔法とはありがたいもので、殴打への防御に使って砕かれたように痛んでいた腕も、今は何ともなくなっている。ただ、若干貧血気味なのか茫として気怠いだけだ。
「墓参りは済ませたのかい?」
「……祖父母殿には申し訳ないが、待っていただいている」
はるばる村まで来た一番の目的を、未だマイクロトフは果たしていなかった。
眠っているだけだから心配ないと、医師も従者も必死に励ましたが、青白い人形のような顔色を見詰める皇子には、とても同意出来なかった。緩やかな吐息が知らぬうちにひっそりと絶えてしまうのではないかと案じられて、傍を離れられなかったのである。
前にも思った。己の命が狙われていても恐れはしないが、カミューを失うのは怖い。そのときが訪れてしまうのではないかと、生きた心地もせずに目覚めを待ったマイクロトフだった。
「そんなことより、カミュー、おれは───」
ああ、と青年は苦笑した。
「詫びるつもりなら無用だよ。わたしもおまえを斬った。それに」
瞳が壁に掛けられている騎士装束に止まる。
「……形見も台無しにした」
幾度かの攻撃で、長い上着はあちこち裂けていた。裁縫が巧みな宰相夫人も、これを完全に直すのは難しいだろう。
「服など構わない」
断固として言い張る男に、更に笑みが深まった。
───強がりを言う。手にしたとき、あんなにも舞い上がっていたというのに。
そう揶揄すると、マイクロトフは強く首を振った。
「強がりではない。確かに父上の形見だが、あれは品に過ぎないのだから」
袖を通したとき、父王の激励を受けた気がした。かたちだけではなく、真の青騎士団長として、残された日を過ごせと命じられたようにも感じた。
父の纏った装束を得て、同じように街を歩いた。それだけで、もう十分に形見の品は思い出として胸に刻まれたのだ。
「それより、おれがおまえにした仕打ちの方が余程……」
ダンスニーに支配されていた間については、良く覚えていない。フリード・Yに執拗な追求を行い、その一部始終を知ったときには自らへの怒りで目が眩んだ。
殺してしまった刺客たちにも胸は痛んだが、捕縛して詮議に掛けた後はどのみち死罪だったとフリード・Yに説かれ、何とか折り合いもつけられた。
けれどカミューにはそうはいかない。護りたいと思ったその手で重傷を負わせた。回復魔法がなければ間違いなく死に至り、良くても不具に陥っただろう。
自我を取り戻したときに己の為した行為を見た悲痛も大きかった。そこに行き着くまでの過程は、いっそう嫌悪を募らせる残虐だ。マイクロトフは寝台の傍らに寄せた椅子で頭を抱え、ひたすら自責を噛み締めていたのである。
カミューは、そんな皇子の深刻な表情を暫く無言で眺めていたが、不意にくすくすと笑い出した。
「剣に認められるかどうか、試してみたら良いと言ったのはわたしだ。そう出来て良かったじゃないか。しかも、どうやらおまえは主人として合格したのだろう? わたしはフリード・Yに魔法を残すように指示しておいたが、彼も主君の傷を知りながら、わたしの回復を優先してくれた。だからこうして生きているし、おまえの繰り言も聞かされている。全て丸く納まったというのに、何をそんなに小難しい顔をしているのか、さっぱり分からない」
マイクロトフは困惑して瞬いた。
「そういう……問題なのだろうか?」
「そうだよ。剣を抜いたらおかしくなる、それは予め聞いていた。わたしにはちゃんと覚悟があった。まあ……少しばかり手強かったが、約束は約束だ。追加手当を寄越せとは言わないさ」
軽い調子で言って、僅かに半身を反らせる。
「それより、認められた……のだろう? たまたま、とか言うのではなくて?」
どうにも浮かない顔が続くので、カミューはやや不安になった。流石に二度は御免だ。傭兵暮らしの中で、死神に微笑まれたのは初めてだったのだから。
マイクロトフは身を捩り、椅子に凭れ掛けさせてある剣を取り上げた。普段佩刀している模倣品ではない。柄の色は王家の宝のものだ。
片手で鞘を掴み、すらりと抜刀する。相変わらず禍々しいほど清らかな刃が暖炉の火に反射して煌めいた。
「……もう支配は受けない」
彼はポツと言った。
「こうして抜いても、自分を失ったりはしない。正直、今でも良く分からないのだ。全てを捧げる覚悟なく抜いてはならない───父上にそう教えられた。代々王家に伝わってきた訓戒だった。覚悟の強さなら、昔と何ら変わっていない。ダンスニーは王の器を量る剣、それが通説だ。だが、おれが王の器だとは今も思えない。なのにダンスニーはおれを持ち手として認めた。許した。支配を解き、おれの心に応えてくれた。だから考えたのだ。剣は、王としての器ではなく、願いの強さを量っているのではないか、と」
ゆっくりと、考え考え語られるそれを、カミューは不思議な心地で聞いていた。
魔剣を見詰める漆黒の眼差しは、静かな強さに溢れている。熱情的な男の迸るような強さなら、これまでも何度か感じてきた。
だが、これは知らない。この、穏やかに凪いだ水面のように豊かに広がる強靭は。
「二度目だったから、前とは違って少しだけ分かった。剣に支配されている間も、おれの意思が全く消えてしまう訳ではない。攻撃を放つ、敵を追う───それは意思がなければ出来ないことだろう?」
分かって貰えるだろうかとでも言いたげに、不安そうに眉根が寄る。カミューはそっと頷いた。
「分かるよ、剣が勝手に動く訳ではないだろうからね」
「そうだ。ダンスニーの最大の力は、戦いへの意思を駆り立てるところにある。ハイランドの圧政から民を解放するために、何かを思う暇もなく、迷いを過らせる隙もなく、ただ目の前の敵を斬り捨てることにのみ専念する……そのために打ち出され、マティスに力を貸した」
節榑立った指が、意外な繊細さで抜き身の刃を伝う。慈しみの愛撫であるかのようだった。
「けれどダンスニーに宿された力は、持ち手の意思の力を上回ってしまっていた。闘争へと煽られる心と身体が、抑えようとする意思に勝り、だから自分では止められず、目に映る味方さえ分からなくなった。だが、持ち手の本当の心は消え失せている訳ではない。魔力の中に封じられながら、確かに在るのだ」
そこでマイクロトフは言葉を切り、カミューへと目を向けた。何処か懐かしげな瞳で、長々と見詰め続けた。
「……親友がマティスを止めたとき、声は届いた。他の誰の声も届かなかったのに、彼の声だけは届いた。彼がマティスにとって絶対の存在だったからだ。彼に恥じたくなかった。彼の信頼を裏切れなかった。彼の声にだけは、何を置いても応えねばならなかった───」
知らぬ世界にたゆったっているような、そんな不可解な感覚がカミューを包む。
マイクロトフは、これほど雄弁な男だっただろうか。まるで、遠い昔に民を率いて国を建てた王が、目の前の男の口を借りて語っているようだ。
「指導者として仲間を導く、それは戦いを始めたマティスが負った責務だった。友に誇れる己で在りたい、それは願いだ。同じ行為に臨んでいても、根底に在る意識の質は全く違う。人の願いは何より尊い。その重みが剣の魔力を越えたのだ。ダンスニーは持ち手の心の強さを信じて荒ぶる性を抑え、祝福の剣へと変化した」
マイクロトフは目を細め、子供のように微笑んだ。
「……と言っても、勝手な想像に過ぎないがな。ダンスニーに認められた過去の王族たちのことは分からないし、使いこなした父上でさえ、どうして魔剣の悲劇が起きるのか理解しておられぬようだった。ただ、少なくともおれはそうなのだ」
剣を鞘に納め、再び椅子脇に立てる。未だ柄の感触の残る掌を見詰めて続けた。
「ダンスニーに認められたかった。王位を継ぐものの資格だと考えていたからだ。マチルダの民を護りたい。皇子であり、騎士だから……そうするのがつとめだと弁えていたからだ。けれど、おれはこれまで一度として、ただの一人の人間として何かを強く願ったことがなかったように思う」
「何を願った?」
短い問い掛けに皇子は目を伏せる。
「……おまえと共に在る未来」
魔性の呪縛から解き放つ、そう約束してくれた人。
失いたくなかった。
だから全霊で願った───ダンスニーの支配を越える、解放を果たすだけの力を得たいと願ったのだ。
自由になった腕で彼を包みたいと。
己が許に繋ぎ止め、共に在る生涯を送りたいのだと。
「おれは諦めの悪い男らしい」
「今になって気付いたのか。鈍いよ、皇子様」
軽く往なされて小さな笑いを零し、マイクロトフはおもむろに首を傾げた。
「気付いたと言えば、もう一つあるのだ。前に、おれには紋章が宿せないと話しただろう?」
そんなことを言っていたな、とカミューが頷くと、マイクロトフは身を乗り出した。
「おれが正気に戻ったときに、妙な光に包まれたのを覚えているか?」
「……何となく」
「あのあたりは、おれも自失気味でな。記憶がさだかではないのだが」
マイクロトフは勿体付けて右手を挙げた。
「手が……何か?」
「おまえの「烈火」は外せないだろう?」
「まあね。生まれ持った紋章は外せないことが多いと聞くが」
そこで抑え難い高揚がマイクロトフの頬を走った。
「今は見えなくなっているが、奇妙な紋用が浮かんでいたのだそうだ。騎士は紋章学も学んでいるから、教えてくれた。他の紋章が宿せぬ筈だ、既に先客が居たのだから」
ぱちぱちと瞬いて、興奮気味の明るい顔を眺め遣り、カミューは薄く笑んだ。
「……つまり、おまえも紋章付きで生まれたのか。で、何だったんだい? 今頃になって覚醒した呑気な紋章は」
聞く前から察せられる気がした。それ以上にマイクロトフを喜ばせる紋章は他にないと思ったからだ。
「騎士の紋章、だ」
やっぱり、と小声で呟いて上掛けに顔半分を潜り込ませた。ここで吹き出しては、こんなにも誇らしげな男が気の毒だろう。
他にも有益な紋章は幾らでもあるというのに、よりによって「騎士の紋章」とは。
己の身を傷つけても他者を庇う、そのための瞬発力を高める紋章。護られ、傅かれるべき王族には相応しからぬ力を、心底から歓迎する異端の覇者。
その覚醒は、やはり切迫によって招かれたものだったのだろう。宿主の命の危機に「烈火」が目覚めたように、「騎士の紋章」は護りたいと願う心に呼ばれた。
長き眠りから醒めた紋章は、もしかしたら魔剣からの解放にも力を貸したのかもしれない。生まれ持った紋章と宿主の絆は、それほどまでに深い。
体温が上がったようにカミューは思った。
身のうちの「烈火」がざわめいている。宿主の心の揺らぎを察して、案じている。
「───カミュー」
ふと、語調が変わった。そろそろと上掛けから顔を出すと、思い詰めた表情が待っていた。
「もう一つ……分かったことがある」
カミューは堪らず失笑を零した。
「それはまた、随分と多く学んだものだ。やはり実戦経験に勝るものはないな」
ひとしきり笑ってから先を促す。
「で? 次は何だい? 何を会得したのかな、皇子様」
茶化すように顎を杓ったが、マイクロトフは答えず、微かに唇を震わせていた。つい今し方までの朗らかな喜びは消え失せ、苦悩がちらつく。膝上の拳をいっそうきつく握り、視線を彷徨わせるばかりだ。
「マイクロトフ……?」
低く呼び掛けて初めて彼は顔を上げた。立ち上がった足元に長い影が伸びる。そのまま腕を広げてカミューの両脇の敷布に掌を預け、ゆっくりと身を屈めた。
軽く、触れるだけのくちづけ。
すぐに離れた唇は、もう一度、今度はやや強くカミューのそれを覆う。再び離れる刹那に熱い吐息が頬を掠めた。
覆い被さる男の双眸は、真っ直ぐに琥珀へと注がれている。
「驚かないのだな」
何ら示されぬ反応を、弱いながらに責める声音だ。見詰め返しながらカミューは呟いた。
「───そうでもないよ」
驚いている。
仇として狙う、しかも男にくちづけられたというのに、それを然して不快と思わぬ自身に。
思い詰めた眼差しを、触れた温みを、撥ね除けたいと感じぬことに。
多分、気付いていた。
見詰める瞳の誠実が、次第に熱を孕んできていると。
男の好意が、友人としてのそれを疾うに凌駕していたと。
知らぬ振りを通していた。
鈍い当人に気付かせてはならなかったから。
決してそれを許してはならない相手だったから───
「驚いて……いるよ」
「聞いてくれる気はあるか?」
神妙に過ぎる確認である。黙って肩を竦めると、マイクロトフは囁くように言った。
「……好きだ。何ものにも替え難い、おまえがおれの唯一だ。何を失っても構わない。だが、おまえだけは失えない。失いたくない」
精悍な顔がくしゃりと歪む。
「ずっと得たいと願ってきた、身も心も全てを分かち合いたい、ただ一人の相手だ。抑えられない。どうしたら良いのか分からない。おまえが欲しくてならない」
次第に早口になって、最後は吐き出す勢いだった。言い終えるなり、苦渋に染まった顔をカミューの視線から外すように俯ける。
「……グリンヒル公女はどうする」
束の間の葛藤の末に、押し殺すようにカミューは問うた。
「幾日後かには公女がロックアックス入りする。更に幾日か経てば、おまえの妻となる」
「結婚はしない」
瞳を合わせて生真面目に、だが迷いなく言い切る男にカミューは表情を消した。
「不実な男だ。前の村でおまえはわたしを責めたが、おまえの方がずっと不実だ」
「カミュー?」
驚いたように瞬く男を睨み据える。
「愛情の有無はともかく、自分の意思で決めた結婚だろう。公女を愛するように努めるのが道理じゃないか。それを一時の感情で放棄するなど、公女に対して不実でなくて何だ」
次に、逞しい胸倉を拳で打った。けほけほと噎せる涙目の皇子を厳しい声が一閃する。
「その上、わたしが欲しいだと? 愛人にでもする気か? 公女と寵を争えとでも? 唯一などと言う気か、それで!」
マイクロトフは暫し目を瞠っていた。が、やがてゆるゆると破顔した。
「……そうではない。テレーズ殿とは最初から結婚するつもりはなかったのだ」
「どういう……ことだ?」
皇子は身を起こして寝台の隙間に座り直した。言葉を探すように幾度か息をつき、それから切り出す。
「今から話すことは、おまえの胸一つに納めておいてくれ。誰にも───フリードにも、内密を守って欲しい」
そう前置いて、語り始めた。
「一年前、おれはグランマイヤーらと共にグリンヒルに行った。テレーズ殿との顔合わせという話だったが、実際には婚約の手筈まで整っていた。伴侶は自分で選びたかったが、何より世継ぎ誕生を望まれる身だ。もしかしたら心惹かれる人かもしれない、用意された出会いだが、これも一つの機会かもしれない、……そう考えた」
公女は美しく、気高かった。女性としてだけではなく、人間として尊敬出来る相手だった。けれど溢れてくるのは敬愛ばかりで、胸を焦がす情熱ではなかった。
互いを認め、好意を抱いた。
恋情ではない。もっと奥深いところで、二人は価値観を分かち合ったのだ。
「テレーズ殿には想い人がいる」
「えっ?」
「護衛として長く傍に付いていた男だ。異国の武人で、シン殿と言う。立場の違いが壁となり、相愛であるにも拘らず、二人は心を伏せるしかなかった」
テレーズの父・ワイズメル公は早くから娘の夫には他国の有力者を、と考えていた。政治的な手段としてばかりではなく、娘に不自由させまいとの父親らしい願いもあったのかもしれない。
ともかく、彼はマイクロトフの父が没した直後に婚姻を申し入れてきた。テレーズはマイクロトフの一つ年上、年齢的にも相応で、何と言ってもマチルダの力は魅力だった。
婚約だけでも済ませておいて、成人と同時に結婚───それがワイズメルの思惑だったが、最初のそれはグランマイヤーによって丁重に断られた。
その一幕が、テレーズに改めて己の立場を思い知らせたのだ。既に当時、護衛に抱いていた仄かな想いは葬るしかないと、彼女は切ない努力を試みもした。
けれど、ひとたび宿った火は容易には消せず、歳月を経るごとに鮮やかを増すばかり。二人は互いの立場を守ったまま、ただ瞳を見交わして、ひっそりと寄り添うだけの純愛を保ち続けていたのである。
そして二度目の結婚話だ。
今度のワイズメルは磐石の備えで獲物を囲い込もうとしていた。マチルダが世継ぎを切望しているのは衆知である。婚約の支度まで整えた状態なら、生真面目で思い遣り深いと聞くマチルダの皇太子が、話を退けてテレーズに恥をかかせる真似はすまい、そう目論んでいた。
マイクロトフとテレーズの邂逅は、そんな状況下で果たされたのだった。
「ワイズメル公が二人の仲を許す人物でないのはおれにも分かった。おれが断ったところで、次の相手が探されるだけだ。テレーズ殿に親しいものたちは、逃げよと勧めていた。二人もそれを望んだ。おれは、その計画に加担したのだ」
「加担、って……」
「テレーズ殿と婚約する。マチルダへの輿入れの途中で、彼女はシン殿と出奔する」
「何だって?」
呆気に取られて声を上げるカミューに皇子はにっこりした。
「おまえも会ったグリンヒルからの使者、エミリア殿も同志の一人だ。他にも仲間が複数名いる。そのものたちで輿入れの供を勤め、テレーズ殿を「行方不明」に仕立てるのだ。良い考えだろう?」
「良い考え……って、おまえ……」
「おれは婚約者を演じるだけだから、計画における碌な戦力とは言えないがな」
信じ難い愚か者を見る気がした。カミューは窺うように目を凝らし、ヒソと言う。
「分かっているのか? 公女と護衛が一緒に消えるのだろう? 当人が恋仲であると触れ回ったのではないだろうから、集まった同志というのは、二人の仲を察した人間ということだろう?」
「そうだ。見ていてあまりにもどかしく、これは手を貸すしかないと立ち上がったらしい」
深い嘆息が溢れた。そこまで知っていながら、どうしてこの男には分からないのだろう。
「……ならば他のものにも、いずれ事情は洩れるぞ。二人が駆け落ちしたのだと。おまえは寝取られ男の烙印を押される。グリンヒル公女はマチルダの皇子を嫌って、身分違いの護衛と手に手を取って逃げたのだと、デュナン中で噂されるようになる」
「かもしれないな」
あっけらかんと認めて、彼は笑う。
「それが何だ? 想わぬ男に嫁ぐ女性を救うのだぞ? 誰に何を噂されても気にならない。言いたいものには、言わせておけば良いのだ。テレーズ殿はおれを信頼して計画の一端を委ねてくれた。それだけで十分おれは満たされる」
「…………」
何と目眩しいばかりの潔さ。お人好しもここまでくれば立派である。カミューはそっと顔を背けた。
「恋人たちはそれで良いかもしれない。でも、グリンヒルはどうなる? 彼女は公主の一人娘なのに」
「マチルダに嫁がされようとしているのだぞ、政治を執る人間は他にもいると考えての決定ではないか。テレーズ殿が出奔した後も、おれはグリンヒルに今と同じ、あるいはそれ以上の友好を約束するつもりだ。ならばワイズメル公に不満はあるまい」
ただ、とやや表情が曇る。
「肝心のテレーズ殿が、決めた後も気に病んでいる。国主となるよう育てられたのに、国を捨てるのだからな、無理もない。だから別の道も用意した」
「別の道?」
「ワイズメル公も、そうまで娘が思い詰めていたのを知れば考えを違えるかもしれない。それくらいならシン殿との仲を許すかもしれないだろう? エミリア殿がグリンヒルに残り、様子を窺う役目を担う。常にテレーズ殿と連絡を取り合えるようにしておいて、首尾良く行きそうなときが来たら帰参を促す───おれが思うに、それが最善の幕引きだな」
呆れが高じて、いつしか賞賛に変わっていた。カミューはふるふると首を振った。
「ご立派だよ。なかなか良く練られた策だ」
「ちなみに、別の道というのはおれの発案だ」
得意満面といった顔で、マイクロトフは胸を反らせた。
「国主となるべく生まれたものに課せられた責任と伴侶、双方を手に入れられるよう、テレーズ殿のために必死に考えた。ただ、そうなると駆け落ちが裏付けられてしまう。おれに申し訳ない、と彼女は悩んでいるらしい」
「……おまえももう少し悩んだ方が良いと思うな。宰相殿やフリード・Yは、おまえが結婚するとばかり思っているのに」
そうだな、と神妙な顔でマイクロトフは頷く。
「婚礼の準備が無駄になってしまうのはすまないと思っている。しかしまあ……幸い日もあるし、多少は取り消しが利くのではないだろうか」
「そういうのを言っている訳ではないんだけれどね……」
カミューはどっぷりとした疲労を覚えて大きく息を吐いた。
分かっているのかいないのか、マイクロトフという男は、なかなかに掴み難い。
誰が準備や費用を案じているというのか。そこを思いつくなら、宰相や従者の心情を量れと叱り飛ばしてやりたい。
最愛の主君が不名誉な噂に晒されたら、本人は良くても、彼らは切ないだろう。そこに至ればマイクロトフも、彼らにだけは真実を打ち明けるかもしれない。が、それで噂が消える訳ではないのだ。
何より彼らは、これが単に政治的な結婚に終わらず、幸せな関係になるようにと願っているのに。
そしていつか生まれる命を待ち望んでいるのに───
「不実な男ではないと理解して貰えたか?」
「……まあね。馬鹿も度が過ぎると、大物に化けるのかもしれないな」
やれやれ、と笑いながら応じる青年を、マイクロトフは小首を傾げて見詰める。窺うような、確かめるような色が瞳を過り、少しずつ輝きを宿していく。
「カミュー……そろそろ話を戻しても良いか?」
「戻す?」
怪訝そうな瞬きを見たマイクロトフは、堪らず苦笑を洩らした。
「おれはおまえに想いを告げたつもりなのだが」
間髪入れずに一蹴されると予期していた。
しかしカミューは、テレーズのことは気にしたが、告白そのものを拒絶したふうではなかった。
その確信が、マイクロトフに力を与えた。
「もう一度言うぞ。好きだ、カミュー」
「……おまえはマチルダの皇子だ」
───そして、仇の血を引く存在だ。
心の声を、降りてきた温かな抱擁が塞ぐ。
「忘れてくれ。今だけで良いから」
そのときカミューには、マイクロトフの胸に潜んだ重い意思までは量り得なかった。心地好い温みが、冷えた鎧に亀裂を生んだ。
「本気でわたしが欲しいと?」
「無理強いする気はない。嫌なら言ってくれ、今なら……」
「諦めるかい?」
「想いは消えない。だが、欲望は殺すよう努める」
「……嫌になるほど真っ正直な男だね」
疲れ果てていた。
ただでさえ血が失われて全身が怠い。皇子に付き合って、あれこれ考えるのも億劫になった。
いずれ自分は彼から全てを奪うのだ。愛を説く声も、力強く剣を振るう腕も、そして瞳の輝きも。
ならば、未来を奪う代償に、望むものを与えよう。
これまでだって欺いてきた。容易いことだ。
愛する振りをし、微笑みもしよう。くちづけに応えて、その背を抱き返す。
くれてやる。身体など、幾らでも好きにさせてやる。
束の間の蜜月を手向けに、その身に流れる血を絶つ。
骸を前にしたとき、初めて偽りから解放される。
彼を惜しんで心の底から泣いてやっても良い。
カミューはそっと腕を伸ばして男の背に回した。驚いたように半身を浮かせるマイクロトフを引き止めて、誘うように柔らかく微笑む。
マイクロトフはまじまじと青年を見詰め、やがて狂おしく呻いた。
「……愛している、カミュー」
弾ける暖炉の焔が、ゆるゆると重なる影を映していた。
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