INTERVAL /10


今年産まれの若駒が一騎、夜の草原をひた走る。
初めて大人の手を借りず、一人で赴いた狩りだったが、結果は散々だった。空の荷袋を抱えて、少年は悄然と村を目指していた。
腕には自信があった。鳥でも兎でも、食用に狩る獣なら、欠片の苦痛も感じる暇を与えず仕留める技量を磨いている。
だが、肝心の獲物がまったく姿を見せないのではどうしようもない。こんなことは初めてだ。獣はまるで、迫る危険を察知して巣穴に篭ってしまったかのようだった。
命を繋ぐために別の命を摘む行為。陳謝の祈りを捧げながら矢を放ち、肉を捌くときも、それを口に運ぶときにも祈ることを忘れない、それがグラスランドの民だ。
ならばきっと、野菜のスープだけの夕食であっても寛容を失わず、「家族」は感謝の祈りを唱えてくれるだろう───カミューはそう自らを慰めた。
闇の深い夜だった。遠い地平線と空の境が消えるような、溶け入るばかりの静けさは、しかしやがて前方に滲む光によって壊された。
目指す先、村のあたりの空が燃えている。闇に茜色の触手が伸びて、忌まわしく揺れ動いている。
その異様なまでの火勢。単なる火事ではないと、本能的にカミューは悟った。
何かが起きている。何か、許し難い非道の魔手に故郷の村が襲われている。
馬に鞭を入れ、極限まで速度を上げて、少年は村外れに滑り込んだ。そこで馬を放したのは、小路に倒れた人影が点々としていて、騎乗したままでの前進が不可能だったからだ。
取り縋った最初の一人は既に事切れていた。殆ど自己流ながら武芸の鍛錬を積んできたカミューには、それが剣による傷だと一目で知れた。
次の村人も、また次も、迎えるのは亡骸ばかり。大人ばかりか、子供も、果ては乳呑み子に至るまで、無情な斬撃に晒されていた。
必死になって焼ける家々に駆け込み、そのいずれにも生きた姿を見出せなかったカミューは、最後に向かった広場の直前で、火の粉を浴びながらしたたかに吐いた。
死んでしまった───みんな。
狩りに出る前、昼まで明るく笑っていた人たちは物言わぬ骸になってしまった。
誰もいない。燃える故郷でただ独り、生きているのは自分だけ。迎えてくれる筈だった「家族」も、獲物の裾分けを待っていた「隣人」も、もう微笑んではくれない。優しく呼び掛けることも、見詰めてもくれることもない。
独りだ。独りになってしまったのだ。
そこまできて急速にカミューの思考は冷えた。
考えられるのは野盗の襲撃である。
街道を外れた小さな村は、グラスランド内で目立つ存在ではないが、水や作物は豊かだから、そうした連中の根城には悪くない地なのだ。
しかし、根を張るつもりなら家屋に火をつける必要はない。
死に絶えた村を包んでいるのは鎮魂の炎ではない。
これは悪意だ。悪鬼のような所行を、炎で覆い隠そうとしている。この地に生きた人々の存在そのものを消し去ろうとしているのだ。野盗が、そこまでするだろうか。
途中、若い女たちの死体も折り重なっていた。野盗なら女は殺さない。もっと酷い目算、慰むため、あるいは売るために女や子供は生かすのが常だ。
武器を手に抵抗を試みたらしい男たちの遺体。中にはカミューに剣の扱いを教えてくれた男もいたが、殆ど一撃で殺されていた。巧みに過ぎる敵の剣捌きが脳裏に描かれる。
───違う。ただの野盗ではない。
これは同じような訓練を積んだものの集まりだ。個々の自由な攻撃性を尊重するグラスランドの民とは異なる、統制の取れた一団が村を蹂躙したのだ。
荒い息、戦慄く四肢を励まして、燻される家屋の壁に縋りながら立ち上がったとき、広場に人いきれが生じた。
次いで馬が嘶く。襲撃者らが未だ立ち去っておらず、そこに集結しようとしているのをカミューは知った。
建物の影に身を顰め、息を詰めて窺っていると、何処に居たのか二十を越える男たちが集っていった。どうやら広場に馬を置いて村人を殺して回っていたらしい。
目と鼻の距離にいたのに、カミューは馬の存在に気付かなかった。周囲の猛火にも怯まず、おとなしく騎手を待っていたところからも、これまた戦闘目的で訓練された馬であると分かる。
村長から譲られたユーライアを握り締め、カミューは尚も敵を窺い続けた。
数や剣腕から考えても、到底敵う相手でないのは理解していた。だが、臆していた訳ではない。一人このまま生き延びようとも思わなかった。
男たちが何者で、何のために村を襲ったのかを知らねばならなかった。村人の無念のためにも、一人でも多くを道連れにせねばならなかった。
だから量っていたのだ。敵の隙を突く、最善の瞬間を。
そんな少年の思惑も知らず、目的を果たし終えた敵は満悦に浸っているようだった。
代表らしい男が仲間を整列させ、欠けたものはいないか、点呼を取り始めた。それがカミューに、仇となるものたちの名を教える結果となった。
幼い頃から脅威的な記憶力を持っていた彼は、呼び上げられる名を一つ一つ正確に胸に刻み入れた。代表の男のそれも、別の仲間が呼び掛けたので知ることが出来た。
男たちは嘲っていた。村人たちの決死の抵抗を如何にして捩じ伏せたかを自慢げに報告し合っていた。
こうも言った。
『グラスランドの蛮族如き、デュナン屈指の武力を誇るマチルダ騎士の相手ではない』
───デュナンのマチルダ騎士。
広大な山岳地帯を国境として遠く隣接するマチルダ皇国。
彼らはそこから来たのか。こんな小さな、平和な村一つ壊すために、連なる山脈を越えて来たのか。
通常、デュナン地方からグラスランド領に入るには、南西部のティントを通る。そこにも山脈は広がっているが、古くから交易街道が通じていて、行き来を可能にしているからだ。
デュナンの各国家とグラスランド民族が長く不可侵状態だったのは、険しい山岳が両者を隔て、このティント経路以外には道らしい道が発達していなかったという要因がある。
マチルダ騎士がその街道を使って来たのなら、遠く外れた最果ての村に目をつける筈もない。彼らは山岳越えを敢行したのだ。
何のために、とそこまで思考が広がったのと、広場が騒然としたのは同時だった。
ぎくりとして身を縮めたカミューの目は、短剣を手に男たちの間に飛び込んでいく少年を映し出した。
『夕飯は兎鍋がいい』───狩りに出るカミューを見送り、そう背中に呼び掛けた少年。同じように近くに身を潜めていたらしい彼は、不慣れな手に武器を握って、父母たちの仇討ちに挑んだのだ。
やめろ、と叫んだのは自分の声であったのだろうか。
利かん気が強く、でも武芸はあまり得手ではなくて、本当は血を見るのも苦手だった「弟」。
突然現れた襲撃者に男たちは一瞬の警戒を見せたが、相手が子供と知れるなり笑みが零れた。追って飛び出したカミューの眼前で、彼らは少年を囲んで斬った。
脆い糸で繋ぎ止めていた憤怒が抜刀へと転じ、カミューは敵の一人に一閃を放った。初めて人の肉に剣を入れた感慨を覚える間もなく、返す刃で隣の男も斬った。
だが、当時カミューはどちらかと言えば小柄で、何とかユーライアを操れるようにはなっていたものの、訓練された大人と張り合うまでの力がなかった。殺すつもりで斬ったのに、敵は二人とも死ななかった。傷を負わせるだけで精一杯だったのだ。
そのまま大勢の手で取り押さえられた。すぐに殺そうとしなかったのは、男たちが些か驚いていたからだ。村の大人にさえ手傷ひとつ受けなかったのに、十代半ばでしかないカミューがそれを為したのが意外だったのだろう。
跪いた格好で押さえ込まれ、剣を奪われて。
無力に喘ぐカミューを代表格の男が覗き込んだ。
『たいした坊やだ、こんな細腕で向かってくるとは。度胸があるな』
尖った細い顎を捉えて揺すりながら、男は笑った。
『だが、おまえで最後だ。我々はつとめを果たした』
何のつとめだ、何が目的だ───そう叫んだ。
どうして皆を殺した、抵抗出来ない女や子供、赤ん坊まで殺さねばならない理由を聞かせろ、と。
男は少し考えて、頷いた。
『その剣腕と、けなげな心意気に免じて教えてやろう。我がマチルダ皇国はグラスランド侵攻を目している。ここはそのための最初の拠点、騎士団の水場に選ばれたのだ』
『山岳地帯を大量の兵が一時に越えるのは難しい。けれど敵領内に拠点があれば、先発させた兵を潤しつつ、後続軍の合流を待つことが可能になる。広がる山岳地帯の中でグラスランドとの距離が最短となる経路。山を越え切った草原で初めに迎えた豊富な水源を保持する地、それがこの村だったのだ』
『近くを流れる川、幾つもの井戸。騎士と馬を休ませる陣を張るのに理想的な場所だ。だが、そこにグラスランドの民はいらない。他の村や戦士を持つ部族に、今はまだマチルダの意図を知られてはならない。ゆっくりと時間を掛けて戦力を送り込み、一気に制圧に出るためには証人を残す訳にはいかない。だから必ず皆殺しにせよ、との皇王陛下の御命令なのだ』
騎士は淡々と言って立ち上がり、剣を抜いてカミューへと向き直った。
水場。グラスランドを攻める敵を憩わせる宿営地。
そんな理由で村は焼かれたのか。みんな殺されたのか。
豊富な水は命を育むために在った。殺戮者を呼び寄せるものであろう筈はなかったのに。
騎士───そしてマチルダの皇王。
カミューは憎んだ。目の前の男たちを、あらん限りの力で憎んだ。
更にそれ以上に、遠い王宮に座した、顔も知らぬ騎士たちの支配者を魂のすべてで憎悪した。
己の手を汚そうとはせず、言葉ひとつで多くの命を摘み取る異国の王。全てを奪いながら、多くの命が消え去った今も、豪華な王城で平安を貪っている人物。
炎の照り返しを受けた血色の涙が頬を伝う。憎むべき敵を前にしながら、何も出来ぬまま死なねばならない絶望と怒りが、情感のない雫となって、後から後から零れ落ちた。
騎士は目を細め、僅かばかりの憐憫を浮かべていた。
『良く見れば、綺麗な顔立ちをしている。素人臭いが、剣の腕もなかなかだった。我らマチルダ騎士に攻撃を入れたのだから、それは誇っても良い。恨むなら、蛮族に生まれた血を恨めよ』
───血か。
マチルダの血が、皇王の血が簒奪者か。
護るべきもの、愛おしむべきものを奪い去った手に、このまま敢え無く潰されるのか。
刹那、尋常ならぬ熱がカミューを襲った。
全身の血が沸騰したのかと思われた。内側から焼けるような痛み混じりの衝撃が突き上げ、それは男たちに押さえ込まれた腕の先へと駆け抜けていく。
やがて右手を貫くように吹き出したのは、あたりを焦がす焔にも勝る業火。罪びとを焼くという地獄の火炎であった。
刃を振り下ろそうとしていた男、その周囲に集まるものも、容赦なく飲み込んだ火勢は凄まじく、カミューは紅蓮一色に染まった視界の中で、苦悶に身悶える複数の黒い塊に呆然と見入るばかりだった。
爆裂音に似た炎の咆哮の向こうで、苦鳴が叫んでいる。
しかしそれも束の間で、炭屑と化した騎士らの影は次々と紅蓮の渦に消えていった。
半数以上の敵が瞬時に死んだ。だが、カミューには何が起きたのか分からなかった。目の前で人間が焼ける光景、耳を塞ぎたくなるような悲鳴が、彼の思考を麻痺させていたからだ。
放心していたのはカミューだけではない。残りの騎士らも、暫し唖然と立ち尽くし、事態を把握しようと懸命に努めていた。
そのうちに、一人が気付いた。腑抜けたように蹲ったままの少年の右手に浮かぶ紋章の陰影。この猛火は「烈火」と呼ばれる攻撃魔法が発動したのだと。
仲間を焼き殺された騎士の怒りは、即座なる剣戟へと移った。頭上に死が迫ったが、それにすらカミューは反応出来なかった。
窮地を救ったのは、第三の剣。「二刀要らず」の二つ名を持つ剣豪ゲオルグ・プライムが、哀れな村の最後の生き残りの生命を拾い上げたのだった。

 

 

 

 

 

『おれが斬ったのは五人。逃げて行ったのは四騎だった』
後に、ゲオルグはカミューにそう告げた。
酔狂な気質もあるこの剣士は、その夜も街道を行かず、辺鄙な草原を駆けていた。そこで夜空を染める茜色の火に気付き、何事かと馬を向けてみると、無惨な殺戮の跡地に迎えられたのだ。
カミュー同様、村を回った彼は、行き当たった広場で驚くべき光景を見た。火魔法の炸裂。それも、あまり見ない暴発に近いかたちでの発動であるようだった。
次に、複数の男たちが押さえ込んだ少年を処刑しようとしているのを知った。面倒事には立ち入らぬ主義だったが、流石に見過ごせなかった。
火魔法を放ったのが少年だとしても、完全に戦意を喪失したと見える無抵抗な人間を押さえて斬るというのが気に入らない。それでなくても、囲み討ちはゲオルグが嫌う戦法であり、目にしたからには止めるのが人道だと彼は思った。
割って入ったゲオルグを、一味はすぐに敵と見做して向かってきた。事情を聞こうと試みる最大の誠意を無視されたからには、もはや加減は要らない。彼は、圧倒的な剣腕で相手を薙ぎ倒していった。
分が悪いと認めたのか、四人が逃げて行った。去るものは追わないのもゲオルグの信条だ。それより、減たり込んだままの少年の方が気になった。
何度か揺すって、辛うじて自失から脱した少年がゲオルグを味方と認識するには時間が要った。厳つい顔で笑みながら、優しく聞こえる声音で、彼は少年を宥め続けた。
そうして漸く救われたのだと悟った途端、少年は泣き濡れた頬に新たな涙を走らせ、喘ぎながら訴えた。ここで行われた無惨、その理由、何者がそれを為したのかを壊れたように紡ぎ、語り終えるなり昏倒した。
ひどい発熱を起こしている少年を懐に抱き入れて、ゲオルグは、次第に炎も納まりつつある死した村で夜を明かしたのだった。
翌朝、困睡から覚めたカミューには何をすれば良いのか思考がはたらかなかった。『亡骸を葬ろう』とゲオルグに言われて、初めてそれを思い出すような有り様だった。
作業は一日がかりに及んだ。ゲオルグの手、彼の馬の力を借りても村中から遺体を集めるのは容易ではなかった。
五体満足でなかった亡骸もある。失われてしまった腕や足を探して焼け落ちた家屋の間を回るうちに、いつしかカミューの涙は枯れた。感情が上手くはたらかなくなっていたと言っても良い。ずっと小さかった頃に遊んだ玩具を見つけて、知らず微笑むような瞬間もあった。
日も落ちて、何とか墓らしきものを作り終えたときには、またしても熱を出した。
それが、生まれ持った紋章が不自然な目覚め方をした結果起きる弊害であり、宿主の精神が崩れそうな状態なのだとゲオルグは理解していた。
彼にはカミューを見捨てることが出来なかった。一夜にして幸福を失い、悲嘆ばかりを残した少年の行く末は容易く想像がつく。自虐に走るか、狂気に走るか、いずれにしても碌な末路ではない。
『当てもない旅だが、一緒に来るか?』
感情の抜けた目をしてカミューは頷いた。
『剣を学ぶか』
そう尋ねたのは、救い出した際、真っ先にカミューが剣を握ろうとしたのを覚えていたからだ。
何かに打ち込んでいる間は痛みを忘れられるだろう。未来を見詰められるようにもなるかもしれない。そんな理由からゲオルグは、師事する気があるかを問うたのだ。
カミューはやはり頷いた。
おとなしげな優しい顔立ちに煌めく琥珀の瞳の中、意図したものとは別の決意が宿っているのに、ゲオルグはその先も暫くは気付かなかった。

 

村人たちの仇を討つ。
逃げた四人の騎士を殺す。たとえ地を這い、傷だらけになっても───何年掛かっても、誰にも負けないだけの力を得て、あの騎士たちを斬る。
そして、侵攻を命じた、誰よりも憎むべき異国の王の首級を取る。その血に連なる存在すべてを、この世から消し去ってやる。
血を恨めと騎士は言った。だから恨む。全霊で憎む。
マチルダ皇王家の血を根絶やしにする日まで、どれほど身を汚しても生き抜いてみせる。
十四歳の少年に宿った決意は、底知れぬ深い闇にひっそりと隠された。

 

 

 

 

マチルダのグラスランド侵攻については、様子を見ようというのがゲオルグの意見だった。
もともと国と国の諍いに関与を望む男ではなかったし、拠点の確保という前提を覆されたマチルダがどう動くかを見定めぬうちは手出しのしようがない、そうした言葉にはカミューも賛同するしかなかった。
事実、それからの歳月は平穏に流れた。近場を旅しながら時折訪れる故郷の村は、あの日のままひっそりと眠りについている。次の騎士が送られた様子もなく、忘れ去られてしまったかのようだった。
『おまえという生き証人を残したために、グラスランド側が警戒に入ったという見解も出るだろう。及び腰になったのかもしれない』
ゲオルグの語る展望は温かないたわりに満ちていた。
もしそれが本当なら、少なくとも僅かな間は草原の平安を保てたのだと、カミューはひとり生き延びた己という存在を許せたからだ。
しかし、一年も経たぬうちに意外なかたちで事態が動いた。マチルダ皇王の死去である。
復讐の一閃も浴びせられぬまま、最大の怨敵が失われたのは、カミューにとって不運としか言いようがない。
遠い地にまで名君と伝えられる男の裏の顔を、喪に服す自国の民は知らない。首級を取り、その非道をぶちまけてやりたかったのに、敵は墓の下で、もう手が届かない。
指導者を失ったマチルダは、当分の間は他国への侵略などよりも自国の平定に力を注ぐだろう。無念ではあるけれど、猶予は出来た。この間に剣技を磨き、決して過たぬ手法を探る。
皇王は死んだ。
でも、まだ逃げた四人の騎士がいる。
そして皇王の血を引く息子がいる。
次代のマチルダ皇王、再びグラスランドに牙を剥くかもしれない敵、絶つと誓った王家の血を持つ存在が残っている。
彼らを葬り去るまでは、死ねない。どんなに心が乾いても、愛することを忘れ掛けていても、今となってはそれが生きる理由なのだから。

 

 

 

───なのに。
皇王家最後の血を身のうちに流す男は、途方も無い馬鹿だった。
お人好しで、曲がったことが許せなくて、他人の痛みに憤ることが出来る男。
色々悩んでいる割には拍子抜けするほど脳天気で、良く言えばおおらか、言い替えれば単純。王ではなく騎士で在りたいなどと洩らす、薄慮極まりない王位継承者。
仇と狙う心も知らず、あけすけな好意を真っ直ぐにぶつけてくる皇太子。
馬鹿で手が掛かる、なのにどうしようもないほど温かな男、マイクロトフ。
十四で生まれた宿願は、五年の歳月を経ても色褪せることなく息衝いている。首尾良く騎士団内に潜り込み、逃げた四人を探し出す手筈も既につけた。
後は、皇子だけなのに。
あの男の死によってしか解放されない。
長きに渡る痛み、哀しみの日々、体躯に巣食った憎悪も、彼を殺せば癒される筈なのに。
何に迷っているのだろう。
どんなに好ましい男であっても、前皇王の血を引く存在であることに変わりはないのに。
顔も知らぬままに逝ったカミューの敵を、懐かしげに語る男。立派な王、尊敬する父と、その所行も知らずにいる男を哀れむ気持ちが兆しているからか。
この男は父王とは違うと、心の何処かが認めているからだろうか───

 

 

 

ふと、意識が浮上した。
開いた目に漆黒の双眸が映る。精悍な顔を泣き出しそうに歪めて見詰める男。大きな掌が震えながら頬を撫でた。
「……マイクロトフ」
掠れた声は、けれど怨敵の息子を何故か甘やかに呼んでしまう。

 

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これで赤の事情は
だいたい出揃った……かな。

 

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