最後の王・48


呼び出した焔が狙った大地を抉り、そのまま皇子と刺客とを分ける壁となって紅蓮の翼を広げていった。突然の火魔法に拠る驚きが、男たちから対峙する敵への注意を一瞬だけ奪う。
呆気に取られたように身を竦ませるばかりの一味に向けてカミューは有無をも言わせぬ声を放った。
「命を惜しむなら、今すぐこの場から消え失せろ! 機会は一度だけだ、おまえたちが何を相手にしているか……己の目で見定めるが良い!」
ほんの束の間、刺客たちはぽかんとカミューを見詰めていたが、燃え盛る火壁へと視線を戻した途端、背に冷たい汗を走らせた。
揺れる紅の影の向こうに屹立するマチルダの皇太子。それは、一味が命を狙っていた若者ではなかった。
炎の輝きを弾く闇色の瞳には一切の感情がない。既に二人を斬殺しながら、その眼差しには闘志や高揚はおろか、冷酷の気配さえ窺えなかった。
一切の虚無。瓦礫でも映しているかのような、昏く沈み込んだ、索敵のためだけに働く双眸。
ゆるりと巡る瞳に射抜かれると同時に刺客たちは悟った。
人の則を越えた力、炎の照り返しを浴びて煌めく不穏の白刃。自身らが恐るべき魔性の脅威に直面しているのだと。
誰からともなく後退り、程無く全霊を懸けた逃走劇が開始される。
蜘蛛の子を散らすとは正にこれだ。仲間を押し除け、少しでも早く悪鬼の攻撃範囲から逃れようと走る一味には、もはや理性の欠片もない。ただ生存への執着だけが彼らを動かしているようだった。
炎の障壁が納まったとき、皇子の前には灰色の煙が立ち込めるばかりであった。屠るべき敵との間には既にかなりの距離が生じており、彼は考えるように微かに首を傾ける。焼け焦げた地を踏んで前進しようとする男の横顔に、凛然とした声が飛んだ。
「違えるな、おまえの相手は、このわたしだ」
のろのろと向きを変えた黒い瞳が、優美に立ち尽くす青年を映す。そして、彼が突き付ける白く鋭い切っ先を。
マイクロトフは完全に向き直り、真っ直ぐにカミューに対峙した。乾き切った眼差しで、傀儡のように動く体躯で、彼は大剣を引き上げる。眼前に掲げる刃は横たわる遺骸の血をたっぷりと舐めた筈なのに、一切の汚濁を許さぬ清廉に光り輝いていた。
敵という名の、けれど自らと同じ人間。その死を痛むことなく、非情を通して振るい続けるために生み出された剣。
多くのハイランド兵を殺し、代わりにマチルダの民を生かしたダンスニー。
呪詛と祝福を乗せた天秤が、遣い手の真価を量りながら不安定に揺らめいている。真に人の上に立つ身なら魔性の支配を越えてみせろと闇の縁から囁いているのだ。
「返して貰おう」
カミューは睦言めいた声音で言った。
「馬鹿な男だが、渡さない」

───魔剣に囚われた狂人など、マチルダ王家の末裔とは思えないから。

「その男は……わたしが生きてきた「理由」だからね」
カミューは艶やかな烈火の闘気を纏った。

 

 

 

 

 

最初の攻撃が細身の身体を擦り抜けて地を裂いた。枯草の間から顔を覗かせる赤茶けた土に深々と減り込む剣先が、強腕の凄まじさを語っている。
ぐ、と力を込めてダンスニーを引き抜いた男の目が、間合いの外に逃げた青年を追って幾度か瞬いた。感情が兆したようにも見えたそれは、標的の力量を量り直すための暇であったらしい。次の一閃は更に力強い踏み込みのもとに放たれ、カミューは紙一重でこれから逃れた。
僅かに首を傾げる仕草は思案するときのマイクロトフの姿そのままなのに、改めてカミューは相手が己の知る男ではないと痛感していた。
舌を巻くほどの剣戟の強靭は皇子の持つ特性だ。だが、そこから感情が消えた途端、攻撃に怜悧が加わる。
計算された素早い腕の振り、容赦無く急所を狙う冷酷は、マイクロトフの剣にはなかったものだ。
これまで、たとえ相手が人ならぬ魔物であっても、何処か慈悲を捨て切れぬ甘さのようなものが皇子の剣には感じられた。
それを失った男は殺戮のためにのみ動く繰り人形であり、しかも卓越した剣豪だった。

『おれはおまえに「剣を振るう心」を教え損ねた』

半年前の別れ際、ゲオルグ・プライムはカミューに言った。邂逅以来、四年半あまりも寝食を共にしてきた男の、それが惜別の言葉だった。
故郷の村を奪われ、魂の抜殻と化した十四歳の少年に、先ずゲオルグは剣を教えた。それが少年の凍った心を蘇らせる唯一の手立てと考えたからだったろう。
それからの日々、学問や教養、果ては礼儀作法に至るまで、カミューは熱心な生徒であった。
羽化する蝶の如く目覚める剣才の非凡は認めながら、だがゲオルグは常に厳しい目でカミューを見詰めていた。己を傷つけるように技を磨く若者の胸を占めた望みに、いつしか彼も気付いたからだ。

『確かに剣は殺すための道具だ。だが、握る心ひとつで生かすための道具にもなる。おまえは生かし方を知らない。今のままではおまえは不幸になるだけだ』
師は幾度となく諭そうと試みた。
『たかが剣、だが時として剣には未来を拓く力が宿る。殺す力ではなく、護る力を知れ。かつておまえはそうして剣を握った筈ではなかったか』

そうだ。
故郷の村、人々の笑顔を護るためにユーライアを授かった。
けれど今は何もない。
護りたかったものは全て失われてしまった。僅か一夜で、永遠に指先から零れ落ちてしまったのだ。
罅割れた心を埋めたのは、血飛沫くばかりの怨念と報復への決意。敵を葬るための力を磨くカミューを、最後の最後までゲオルグは諌めようと努めた。

『殺せば満たされるのか。死したものたちへの手向けとなるのか。憎しみだけで振るわれる剣の何処に未来がある。おれはおまえにそんなことを教えた訳ではない』

───残念だ。
小さく呟いて背を向けた男。師とも父とも慕った剣士との道は、そうして分かたれた。
そして今。
カミューは対峙する男に己を見る気がした。
温みを失った死した瞳に、焼け落ちた村に佇む幼き自分が重なる。
優しい感情は人々の亡骸と共に墓に埋めた。
柔らかく笑みながら刃を隠し持ち、誠意を裏切り、好意を退け、ただ宿願を果たすためだけにカミューは在った。
そんな自分の醜さが、目の前の男に重なるのだ。
復讐の刃を掲げるとき、己は今の皇子と同じ目をするに違いない。冷めた表情で、欠片の慈悲も持たず、断罪を宣言するだろう。
だが、彼は。
マイクロトフはそう在るべき男ではない。
器用に生きるすべを知らず、沈着に努めようと試みながら果たせぬ激情家で、隠そうともせずに好意をぶつけてくるこの男は、誰よりも光に属す男だ。
たかが剣の支配などによって従者や部下を斬らせてはならない。憎悪の中で目覚めた炎が焼いた敵に、それでもカミューが悔恨を過らせたように、人は己の意思でのみ戦うべきなのだ。
打ち下ろされた大剣を受け流したが、剣圧に押されて体勢が崩れる。よろめきながら飛ばした剣先が男の腹部に向かうのを、これまたカミューは反射でずらしたが、僅かに掠めた刃が群青の騎士装束の一部を裂くのまでは止められなかった。
冷たい汗が白い額を伝う。
危ういところだった。これは殺すための戦いではない。致命傷を与えず、回復魔法で癒せる範囲内での痛手を被らせ、男の手から大剣を落とさねばならないのだ。
手立てを探る隙を皇子は見逃さなかった。正攻法では容易に倒せぬ相手と認識したのか、剣ではなく、拳がカミューの鳩尾を襲う。左腕で辛うじて急所を庇ったが、重い殴打は骨を砕くばかりの衝撃で、堪らぬ苦悶の呻きを誘った。
「カミュー殿……!」
離れたところから見守る若者の悲鳴が響き渡った。片腕を傷めた青年の頭上に白刃が迫り、彼は転がって攻撃から逃れ出る。十分な間合いを取って再び立ち上がったときには息が弾んでいた。
フリード・Yの叫びは、カミューにもう一つの事実を思い知らせた。これは護るための戦いでもあるのだ。
もしもカミューが敗れれば、次にマイクロトフはフリード・Yを斬る。回復魔法で命を繋いだばかりの騎士たちも、主君の剣の餌食になる。
マイクロトフの目を彼らに向けさせないためには、カミューが戦い、そして勝たねばならないのである。
皮肉なものだ。かつてゲオルグが言葉を尽くして教えようとした戦いを、こんなかたちで実践する羽目に陥ろうとは。
生かすため、護るための剣を、マチルダ王家の男によって学ぶことになろうとは───
防御に用いた腕もろとも痛打を食らった腹部を庇いながら愛剣を握り直す。
「剣ごと利き腕を落とす……というのは反則かな、皇子様」
剣とマイクロトフを分けるなら、それが一番手っ取り早い。力では相手に分があるが、速さならカミューが上だ。大柄なマイクロトフは攻撃の際に懐が開く。そこへ飛び込み、一瞬で右腕を斬り落とせば狂乱は終わる。おそらくカミューにとっては最も確実で、傷も負わずに済む筈の戦法だ。
けれど、マイクロトフの剣士としての命は潰える。己の剣で民を護りたいと願う皇子、騎士への憧れはその強き右腕が抱えているのだ。たとえ正気に返ったとしても、利き腕の喪失は死より残酷であるに違いない。

 

───面倒だ。
堪らないほど面倒だ。
殺すだけなら刹那で終わる。どうしてこの危地に、男の心情まで慮ってやらねばならないのか。

 

呟き続ける心の声を、カミューはそっと封じ込んだ。
理由など分からない。
恩師の心からの忠告を終に理解し得なかった身には、温かな情感が導く戦いの意味など分かりようがないのだ。
マイクロトフを止める。
剣士の肉体を損なわせず、生きたまま剣の呪縛から解き放つ。
───それが約束だから。
闇の中で、一瞬だけ寄り添った心が交わした誓いだから。

 

地を蹴った青年が瞬時に男の間合いに滑り込み、攻撃を掻い潜りながらの一閃を放った。
魔剣の力か、刃への恐れを見せぬマイクロトフは交わそうともせずに次の手に出ようとする。カミューの剣は、そんな男の胸元を浅く抉った。上着の合わせに使われたベルトが数本切れて、内着に滲む血を覗かせる。
そこで初めてマイクロトフに変化が訪れた。肉体に走った痛みがそうさせるのか、不思議そうに瞬いて、片手で自らの胸を探る。
瞳が掌の血痕を認めると同時に、逞しい体躯が戦慄いた。次いで、獣じみた咆哮が迸る。ダンスニーに宿されるという「怒りの紋章」が完全なる解放を得た合図のようだった。
カミューの目には、皇子を包む異様な覇気が見えた。真の主人を求める魔剣の吠え声が聞こえた。
しかし、驚愕する速さで襲った攻撃の軌道は見極め切れなかった。
止めようとして上げたユーライアごと叩き払われ、よろめいたところを下段からの突きが見舞う。避けようとして、けれど叶わず、大剣の切っ先はカミューの左肩口を深々と貫いた。
「カミュー殿!」
殆ど腰が抜けた状態で戦いを見詰めていたフリード・Yが、喉も裂けよと声を荒げる。
視界の先では皇子の剣に刺し貫かれた青年が反撃の刃を繰り出していた。だがそれは、痛打と言うには遠く及ばぬ、男の左腕を軽く掠めただけのものに終わった。肉体が受けた激痛を危ぶんだ「烈火」が発動しそうになり、それを抑え込むのに集中が削がれたのだ。
浅い傷では到底マイクロトフは止まらない。彼は、青年の体躯を抉ったままの大剣を引き抜こうと力を加える。瑣末な動きが傷を広げ、肩口から鮮血が噴き出した。
「殿下! おやめください、もうやめて───殿下!」
「来るな、フリード・Y!」
見るに耐えず、駆け出そうとした若者を厳しい声が制した。
俯いていた顔がゆっくりと上がる。それを見るなりフリード・Yは、縫い止められたように足を竦ませた。
白磁を通り越して青く凍る頬、苦痛とも愉悦ともつかぬ不可解な輝きに濡れた瞳。形良い唇には、優しいとさえ映る微笑みが昇っている。
「……捕まえたぞ、皇子様」
カミューは囁き、ダンスニーの柄を握る皇子の手首を鷲掴んだ。
マイクロトフは剣の自由を取り戻そうと試み、そのたびに青年の身体から鮮血を絞ったが、屈み気味に取った体勢が禍してか、なかなか目的が果たせずにいる。刻々と流れる血が、やがて刀身すべてを覆い尽くすまでに及んだ。
魔性の剣が紅に染まる。さながら血鞘に納まるが如く。

 

「わたしを殺すか、マイクロトフ」
急激な失血に霞みそうになる意識を叱咤してカミューは問うた。
「殺すか。そして次にはフリード・Yを、おまえの忠実なる部下たちを。それでも足りずに斬って殺して回るのか、おまえの護るべき民を」

 

───ふと。
フリード・Yは皇子の動きが止まったのに気付いた。
とどめを下すため、剣を我が手に取り戻そうとしていたのを忘れたように、大きな体躯は身じろぎ一つしなくなった。
「それが望みか。騎士に憧れて剣を手にしたおまえの願いか」
次第に喘ぎが増して、口調は弱く震えた。力が入らなくなったのを機に、カミューは握った愛剣を大地に突き刺し、空いた手で男の肩を掴んだ。
「国を築いた剣に未来を砕かれて良いのか! そんなことを許すつもりか、マイクロトフ!」
張り付いたように動かぬ男の四肢から忌まわしき覇気が薄れていく。
最後にカミューは、大剣の楔を受けたまま男を引き寄せた。しなやかな肢体が刃元近くまでダンスニーを飲み込む残虐に、見守るフリード・Yは引き攣れた悲鳴を上げた。
「───マイクロトフ」
もはや濁った息の合間に言葉を絞り出すばかりだ。カミューは男の肩に掛けた手に残る全ての力を集める。
「……傍に居て欲しいとわたしに言ったな。だったらおまえが戻って来い!」

 

 

刹那、皇子は顔を歪めた。
突如として大剣を操る右手の甲に熱が集まる。それは目眩いばかりの光となって放出され、二人を包み入れた。
ゆるゆると、逞しい左腕が上がる。
木偶のように力を失うカミューの身体を支えるように片手を差し伸べたまま、皇子は大剣を抜き取った。これまでとはまったく異なる、細心を払った動きだった。
身を貫いたダンスニーを心棒にして立っていたも同然の青年は、そのまま崩れ落ちていく。両の膝を折って機敏に抱き止めた男が、低く低く呻いた。
「カミュー」
半身を血で染めたカミューを壊れもののように腕に納め、静かに剣を置く。
「ああ、カミュー」
狂気が過ぎ去ったのを悟って駆け寄るフリード・Yにも気付かずに、マイクロトフは蒼白の頬に己の濡れた頬を押し当てた。
「カミュー……」
薄く目を開けたカミューが、弱く笑った。
「……約束は果たした。手が掛かり過ぎるぞ、馬鹿皇子」

 

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「すまん〜」と地面にゴンゴンしたくても、
今のところ赤を抱っこしてるから
出来ないプリンスなのでした。

 

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