地方の小村が多数の騎士を迎える。それも一国の皇太子を交えて、とあっては騒ぎになるのも已む無しである。
初めのうちこそ気ままに辺りを闊歩していたマイクロトフも、やがて話を聞き付けて集まり出した人々の波に、散策を切り上げざるを得なくなった。
その後も暫く喧騒が村を包んでいたが、日が落ちる頃になるとそれも終息し、人々は家へと戻って行った。今宵、村人の食卓では、即位を前に青騎士団長としての責務を果たす実直な皇太子の話題が上ったことだろう。
今は完全に眠りについた村。冷えた夜の大気の中に、時折、野犬の遠吠えらしき響きが滲む。しかしそれは村人の安らぎを妨げる脅威ではなく、ごく当たり前の日常であるらしい。
月明かりの美しい夜であった。家々の灯は落ちていたが、路に敷かれた小石が月光の照り返しで真珠のように輝いている。一夜の寝所にと当てられた宿屋の前、設えられた柵に凭れていたマイクロトフは、冷気が体躯に忍び込み、心の奥底まで暴いていくのを甘受していた。
「───夜歩きの趣味があるなんて聞いていないぞ、皇子様」
不意に背後から呼び掛けた声に慌てて振り向くと、夜着に上着を引っ掛けた青年が、呆れ半分、腹立ち半分といった顔で立っている。
「眠れなかったものだから、風に当たろうと……」
次いで詫びようとしたが、その鼻先に厚手の布が飛んで来た。部屋に置いたままだった上着であった。
「散歩をするなら声くらい掛けろ。何かあったら、わたしや隊長殿が咎めを受ける」
隣に並びながらの冷ややかな叱責に恥じ入り、マイクロトフは悄然と項垂れた。
日暮れ前に後続の荷駄部隊が到着した。それと前後して作業地点が村の南、集落が途切れてすぐのところに定まり、周辺に拠点を構えるべく、天幕の設置が開始された。これには散策を終えて合流したマイクロトフとフリード・Yも参加したが、実に稀有な体験であった。
杭を打ち、仲間と力を合わせて綱や幕布を引く。部品に過ぎなかった支柱や布が、夜露を凌ぐ宿へと次第に姿を変えて行く。流れた汗の分だけ、完成した天幕を見上げる瞳に充足が溢れた。
てっきり夜はここで過ごすのだと胸躍らせていたマイクロトフは、だから日が落ちる間際に訪れた宿屋の主人に虚を衝かれた。何時の間に交渉したのか、青騎士隊長が皇子の宿だけ別手配していたのだ。
明日からも旅が続くのだから、ゆっくり休んで貰わねば困る。つとめは夜を徹して行うから、作業場の周囲は何かと騒がしく、皇太子の宿営地としては不向きである───それが騎士隊長の意向だった。
騎士たちが夜通し井戸掘りに臨むなら我が身も、と思わなくもなかった。けれど既に綿密な役割分担が為された後であったし、騎士隊長が言うように、慣れない作業による疲労が明日以降の行軍の枷になっては、と考え直した。そうして彼は渋々と、従者と二人、村の宿へと向かったのである。
夕食時になってカミューも顔を見せた。作業が完全に力仕事に入ったので、用無しを宣言されたのだと笑っていた。そこで三人、女将の心尽くしの料理を啄ばみ、今日一日を振り返って、話に花を咲かせたのだった。
宿屋の主人は滅多にない賓客に三つの部屋を用意していた。もともと来訪者の多い村ではない。ミューズ方面からの旅人なら、もう少し足を伸ばして街道の村に宿を取る。この宿も、食堂の二階に小部屋を幾つか用意しただけといった塩梅で、複数名が一室に眠るには作りが狭過ぎたのだ。
この村での安全を確信したのか、これについてカミューは異を挟まなかった。そんな訳で、マイクロトフは久々に間近に人を感じることなく寝台に横たわったのだった。
ところが、目が冴えて眠れない。様々な珍しい体験に拠る高揚を割り引いても、心地好い疲労が睡魔を招くと思われていたのに、いつもなら上掛けに潜り込んだ刹那で訪れる筈の眠りが、日が変わる刻限を過ぎても一向にやって来なかった。
仕方なく、こっそりと部屋を抜け出した。少しだけ夜風に吹かれて気分を変えようと考えたのだ。
扉は慎重に開け閉めし、青年や従者を起こさぬよう心掛けたつもりだったが、宵っ張りな青年も同じように寝つけず、何気なく立った窓辺で皇子の影を見つけて追い掛けてきたという訳だった。
「……少し歩くかい?」
ポツと静かな声が問う。白い貌が穏やかに微笑んでいた。
「健全な村人たちは既に夢の中だ。皇太子殿下が夜着姿でうろついても、咎めるものはないよ」
でも、とカミューは肩を竦めた。
「先ずはそれを着ろ。夜着の半分は隠せるし、風邪も引かずに済む」
命じられたように上着を羽織る間に、カミューは柵を越えて小路へと進んだ。急いで追いながら、マイクロトフは後ろ背に呼び掛けた。
「どうせなら、作業の様子を見に行きたいのだが」
「騎士たちが徹夜でつとめに励んでいるのに、呑気に休んでいるのは気が退ける……かい?」
振り向きもせずに青年は一蹴した。
「止めておいた方が良い。そろそろ作業も軌道に乗ってきた頃だろう。そこへ皇子が顔を出してみろ。殿下、お休みにならずとも良いのですか、そんなところにおられては風邪を召されます、こちらに茶の支度を致します、御足元に御気をつけください───たちまち余計な気遣いと仕事を負わせてしまう。邪魔以外の何ものでもないよ」
ぺらぺらと良く回る口だ、と堪らず吹き出して首を振る。
「辛辣な意見だが、否定出来ないところが辛いな」
「皇子だろうが団長だろうが、おまえは彼らにとってそういう存在なんだ。天幕設置に参加したあたりで満足しておけ」
二人は暫し無言で歩み続けた。
宿は村外れに在ったため、幾らも行かないうちに家並が途絶え、村の果てを意味する木柵と、漆黒の平原が眼前に広がるようになった。足を止めたカミューが柵に手を預けて小さく言った。
「魔物は本来、人いきれを嫌う。だから村の中まで侵入して来るものは稀だ。人の輪、生活の匂いが一種の結界の役割を果たしているからだ。けれど、一歩村を出れば結界の恩恵は薄らぐ。特に、夜は危険だ。柵より先に進むなよ、マイクロトフ」
それは書物にも記される事実であり、マイクロトフも十分に弁えていた。しかしこうして闇を前に語られるそれは、学問として得た知識以上に胸に響く。彼は柵に両腕を乗せて、広漠と広がる夜を睨み据えた。
「それにしても、眠れないとは珍しいじゃないか」
ふと、カミューが語調を変えた。
「いつもぐうぐう大の字になって寝るくせに。何か気になることでもあるのかい?」
苦笑しつつマイクロトフは目を細める。
「聞いてくれる気があるのか?」
するとカミューは愁眉を寄せて、村の外に目を向ける皇子とは反対に、柵に背を当てて凭れ掛かった。控え目な同意の仕草に感謝の眼差しを送り、ゆっくりと口を開く。
「子供の頃、おれには二つの夢があった。一つは騎士になること。それも、騎士団長になって勇猛な騎士たちの先頭に立ち、彼らと共にマチルダのために尽くすことだ」
短い沈黙の後、小さな声が割り込む。
「……叶ったじゃないか」
そうだな、と弱く頷いてマイクロトフは目を閉じた。
「この身に王家の血が流れる限り、いずれ終わる夢だ。束の間でも叶ったのを喜ぶべきなのだろうな」
昼間、村の少年と話したときから胸に淀んでいた思い。騎士のままでは有り得ぬ己を痛感した。それは痛みであり、切なさである。しかし、王となるものには捨て去らねばならない未練でもあった。
贅沢な未練と非難するかと思われた青年は、だが意見を述べようとはせずに一言だけ短く問うた。
「もう一つの夢は?」
マイクロトフは口篭った。優しい琥珀に誘われて洩れた声は低く掠れていた。
「……この世で唯一の人を見つけること」
怪訝そうに見詰める青年から努めて目を逸らし、弱く続ける。
「生涯を共に歩む人───父上と母上がそうであったように、互いを唯一の相手と認め、生涯変わらず想い合う……そんな相手を得たかった」
そこでカミューは瞬いた。
間もなく妃となる人を迎える男とは思えぬ、暗く沈んだ瞳。グリンヒル公女との婚姻が、結局は政治の域を出ないのだと遠回しに告げているかのような陰鬱があった。
「分かっているのだ、父上が稀だったのだと。歴代皇王の婚姻の多くには何らかの利益が絡んでいた。他国の王家を見ても、己の望んだ人を伴侶に迎えた例は少ない」
一気に言い切ってから溜めていた息を吐き、横に並ぶ青年を一瞥した。
「カミュー、どうして王家の直系がおれだけになってしまったか、分かるか?」
「え……?」
「この一帯では一夫一妻制が原則だ。外つ国には王家の血を存続させるために複数の妃を迎えるところもあるらしいが、少なくともマチルダでは、初代皇王の時代からそうした手立ては講じられなかった。結果として子孫の数は先細りし、今はおれだけが残された」
───だが、果たしてそれは無策だったのだろうか。
初代皇王・聖人マティスの長子が、ハイランドの支配から解き放たれた地に新たな国の誕生を宣言した。戦いによって疲れた民は、絶対的な指導者による強き庇護を求め、それは皇王制というかたちで具現化した。
けれど、そこから始まった王家の歴史には繁栄への執着が見られない。
世の慣習通り、娶る妻は一人だけ。時には別の女性に心を揺らす王も在ったようだが、そうして目に止まった女性は生涯を日陰の身で通した。正妃との間以外に子を授かった王はほんの一握りで、その場合、赤子は皇王夫妻の実子として系譜に記された。
皇王家はごく自然のままに血を繋いできたのだ。建国から二百年が過ぎ、先王の時代に初めて側室云々が取り沙汰されるまでは。
マイクロトフはきつく唇を噛み締めた。
「……十五になって間もない日のことだ。フリードは宿下がりをしていて留守だった。夜、部屋に戻ると、見知らぬ女性が待っていた。役目を果たさねば退出は許されぬ、これは政策議会に課せられたつとめだから───そう彼女は言った」
数度瞬いたカミューが、はっと息を飲む。理解されたのを悟り、マイクロトフの胸は締め付けられた。舌に自嘲を転がし、感情の抜けた声で語り接ぐ。
「父上の時代に王家の断絶の危機に直面した議員たちには、それはとても重要な案件だった」
つまり、と柵に乗せた腕に顔を埋める。くぐもった息が吐き捨てた。
「おれが男として機能するか否か……無事に子を残せる身体かどうか、最低限の事実を確認する必要があった訳だ。もしも否なら、手立てを講じねばならない。だから彼女が遣わされたのだ」
行為だけを取れば、それなりに教育が施されていた。
だが、心は別だ。
慈しむ相手との崇高な触れ合いと信じていたそれは、王位を継ぐ人間が負わされた義務でしかなかった。
導かれるまま初めて知った人肌は、砕かれた夢の味がした。ひどく苦い、無情の夜だった。
「……後でグランマイヤーが激怒した。堅い人間だからな、彼には知らせず、数人の議員で決めた仕儀だったらしい。グランマイヤーは即刻その議員らを放逐し、女性を城の一室に軟禁した」
「軟禁?」
無意識に復唱して、すぐにカミューは顔を歪めた。理由に思い至ったのだ。
もしも女が身ごもれば、それは貴重な直系王族だ。皇子が成人前であっても、まして後に女が皇妃に立たずとも、生まれた子は第二王位継承者として大切に遇されたに違いない。
別の見方もある。たとえ子を宿さなくても、女が直後に他の男と通じて、皇子の種と騙る恐れもあるために、外部との接触を絶とうとしたのかもしれない。
女は策を弄した議員の娘だった。およそ半年の軟禁の後、ミューズへと移り住んだ親の元へと渡った女は、一昨年、同地で平凡な結婚をしたらしい。それだけがマイクロトフの救いであった。
「グランマイヤーは議員の先走りにたいそう腹を立てていた。だが、おれには分かる。もしあのとき子が出来ていたら……やはり彼も、王家の嫡子として受け入れていただろう」
それは皇子に抱く情愛とは違った次元の問題なのだ。
宰相とは王家を護り、国政に協力するつとめ。皇王不在によって被る尋常ならぬ負担を、あのグランマイヤーは決して忌んではいまい。ただ、王家の血を残すことにだけは情を廃して臨まねばならないと、彼もまた覚悟している筈だった。
「人と肌を重ねる行為は、相手への情がなければ出来ぬことと思っていた。その人のすべてを慈しみ、己のすべてを捧げる……生涯の想いを誓い合う行為なのだと。おれには過ぎた望みだったが」
続く沈黙に意識が止まり、儚い笑いを浮かべて隣を見遣る。
「可笑しいか?」
いや、とカミューはそっと首を振った。
「恋愛沙汰には疎い男と思っていたからね、おまえの口からそんな話が出るとは意外だっただけさ。でも……」
ひどく言い難そうに、小声で付け加える。
「そうまで堅苦しく思い悩まなくても良いんじゃないか? おまえも、議員らの焦りを理解出来ないではないのだろう? 「過ぎた望み」は言い過ぎだ。世の男女の関係すべてが相愛から始まる訳ではない。一辺倒な思考は生き方を狭めるよ」
「おれの生き方など、最初から限られている」
反射のように零れた言葉を聞いた途端、美貌が凍った。今は遠い王城に在る男を過らせ、カミューは淡々と言った。
「おまえに用意された人生は人とは違う。その栄誉を望んで得られず、非道に手を染めるものもいる」
それは、と口を噤む間に、青年は緩やかに片手を空へと伸ばす。
「人には望み得ぬ道がある。得られぬからこそ尊く思える道だ。第一、おまえは自分の意思で公女との結婚を承諾したのだろう? その言い方では、妃となる人に夢を抱いていないように聞こえる」
びくりと身体を強張らせ、マイクロトフは腕に埋めた顔を上げながら憮然と唸る。
「テレーズ殿のことを言っている訳では……」
「じゃあ何だ? 初めての相手が好いたレディではなかったという恨み言か?
だとしたら、相手をするのも馬鹿らしくなってくる」
カミューは挑戦的に皇子に瞳を当て、冷笑を浮かべた。
「わたしも、これまで幾人もの女性と情を交わしてきた」
「えっ?」
「訪れた街や村の数だけ……おそらく、片手では足りない。一夜限りの人もいたし、そこそこ続いた相手もいた。遊びと言われればそれまでだが、付き合っている間は真剣に接したつもりだ」
マイクロトフは唖然と目を瞠り、まるで書物の朗読のように感情を交えず語る青年を凝視せねばならなかった。
でも、と初めて声音が沈んだ。
「離れた後も恋しく思った人はいない。追い縋られたこともない。彼女たちは最初から知っていたから───わたしとの関係に未来はないと」
「何故だ?」
背を正し、片手で柵を握り締めて、マイクロトフは青年に向き直った。
「何故、そんなふうに……?」
皇子の深刻な眼差しに、ふわりとカミューは笑んだ。何度か見せた、空虚な笑みだった。
「わたしが一所に留まる人間ではないと察していたからさ。その地に足を踏み入れたのは傭兵仕事の一環で、遠からず去る人間と見られていたからだよ。わたしも相手を選んだ。束の間の夢を共有する人、後腐れのない関係で終われる相手を、ね」
「……それは不実だ」
考えるより先に零れ出た一言は、非難というにはあまりに弱かった。カミューは、憤るどころか、逆に笑みを深めた。
「おまえらしい、誠実な感じ方だな。そうだ、わたしはおまえのように純粋に伴侶との未来を夢見たこともなければ、別れた人を懐かしむ優しさも持ち合わせない。そうした感情の枯渇した人間なのかもしれない」
「そんな───」
そこでカミューは目を伏せた。洩れた声は聞き取り難かった。
「失う痛みを知れば、臆病になるものさ」
「カミュー、それは……」
「おまえは違う。失った訳ではなく、未だ得ていないだけだ。その気になれば幾らでも温かな関係を築ける男が、過ぎた体験で薄暗くなっていても鬱陶しいだけだ」
正論が胸を射抜き、マイクロトフを項垂れさせた。
調子を変えた青年が、「据え膳を食った男が後から文句を言うとは不届き」などと茶化している。実際、そう称されても仕方がない。
宰相以下、政策議員たちが、一日も早く次の王位継承者を、と望んでいる。
数日前に青騎士隊長が、その件について言及したゴルドーを「公女を子作りの道具のように語るなど」と詰っていたが、それはマイクロトフにも通じる言葉だ。血脈を絶やさぬために嫡子を求められる身は、やはり道具に等しく思われた。
王族として生まれたものに課せられた責務。そう弁えてきた筈なのに、何故かこのところ心が揺れる。カミューと出会い、己の心に正直に向き合う機会が増したからなのか、未だかつてないほどに父母の関係、二人が交わした誓いに羨望が募った。
「……やはり、ロックアックスに比べて夜は冷えるな」
ふるりと体躯を震わせた青年が、今更のように上着の襟を手繰り寄せる。空を振り仰いでマイクロトフは言った。
「城の方が標高が高いし、気温は低い筈なのだが……平原の村には遮るものなく風が行き来するから、そう感じるのかもしれない。そろそろ戻ろう、眠らないと明日の行軍に障る」
そうして自らの上着を脱ぎ、薄い肩を覆った。驚いたカミューが返そうとするのに首を振り、唇を綻ばせる。
「おれはこの寒さに慣れている。だが、そうやって隣で震えられると見ていて寒い」
「マイクロトフ、……」
「人目はないと言ったのはおまえだぞ。おれがどれだけ寝巻きで歩こうと、咎めるものはない」
───そうだ。
次代の皇王となる男に真っ向から意見するのは、この青年を置いて他にない。
この優しく冷たい、異邦の剣士の他には。
カミューは暫し無言で目前の皇子を見詰めていた。先に歩き出した広い後ろ背に向けて、物言いたげに白い手が伸びる。
けれど彼は、そのまま空を掴んだ手を握り締めた。喉元にまで溢れた情感を発せぬまま、カミューは皇子の影を追ったのだった。
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