蒼々とした、雲ひとつない空が広がっていた。
いつものようにフリード・Yを従えて、専用の厩舎から愛馬を引いて城門前広場に向かったマイクロトフは、既に集結していた騎士らに圧倒された。
その数およそ七十騎あまり、半数程は前回の市内巡回の際に見知った顔だ。彼らはマイクロトフ同様、可能な限り荷を抑えた出で立ちだが、残りの半数は逗留用の天幕など、かなりの大荷物を馬に括っている。目標の村には騎士を受け入れる宿などない。よって、最低限の寝食の備えは持参せねばならないという訳だ。
「荷物組に合わせると、どうしても行軍が遅れますからな。街を出たところで隊を二つに分け、身軽なものは先に村に向かいます」
第一隊長が端的に説く。
「日暮れまでには残りの連中も着くでしょう。それまでには作業方針を確定しておきたい」
マイクロトフが村で過ごす時は短い。明日の朝には次の目的地へと発たねばならないからである。限られた時間を如何に充実させるか、それが騎士隊長の思案どころであったようだ。
フリード・Yがふと周囲を見回した。
「それはそうと、カミュー殿はどちらに……?」
朝、皇子の部屋から三人連れ立って厩舎を目指した。カミューの馬は青騎士団用の厩舎に繋がれているため、そこで一旦彼と別れた。王族用の厩舎の方が奥まった場所にあるため、てっきり先に集合場所の広場に来ているものと思っていたのだ。
ところが、集う騎士の中に姿が見えない。あの華やいだ人物を見落とす筈もない、そう確信していたフリード・Yは、だから「ここだよ」と掛かった声に驚き、慌てて振り向いた。
見れば、皇子の背後に何時の間にか栗毛の一騎が控えている。主人に似た優美で細身の雌馬、その背にゆったりと身を委ねる艶やかな傭兵。
どうして声を掛けられるまで気付かなかったのだろうとフリード・Yは戸惑った。それは傍らの皇子も同じであった。
「ずっとそこに居たのか?」
思わずといった勢いで問うと、カミューは肩を竦めて笑んだ。
「居たさ、おまえが来たときから」
「まるで気付かなかった……」
この絶大な存在感を、片時であっても見失おうとは。これが「気配を消す」という技巧なのか。マイクロトフは舌を巻きつつ、ほんの僅かだけカミューが辿ってきた傭兵生活の一端を垣間見たように思った。
気を取り直したように騎士隊長が切り出した。
「では、そろそろ参りますか。両副長殿は見送りを控えさせていただくとのことです。団長の御不在はいずれゴルドーにも知れましょうが、こちらから教えてやる必要はありませんからな」
隠し通せることではないが、出来る限り伏せるのが望ましい。皇子の留守を見計らって、ゴルドーが新たな策に手を染めぬ保証はないからだ。副長たちとしては、初めて騎士として街から出る皇子を激励したい心は多分にあったが、そこは敢えて自制をはたらかせたのである。
理解してマイクロトフが頷くと、騎士はやや口許を緩めた。
「くれぐれもお気をつけて、実り多き旅となるよう祈る、……との御伝言です」
「そのつもりだ」
遣り取りを黙して聞いていたフリード・Yが、そこで再び首を傾げた。
「赤騎士の方が同行なさるというお話でしたが……?」
「同じ理由だ。一応は両騎士団長間で助力要請と同意の文書が交わされているが、これも苦肉の策だからな。二騎士団が協力体勢を敷いたのを極力伏せるため、彼らとは街門を出たところで合流する手筈になっている」
成程、と納得しながらフリード・Yは心中で嘆息した。
上に立つものの配慮たるや、頭が下がるほど細やかだ。愛する主君は立派な人間であるが、残念ながら、こうした細やかさには欠ける気がする。そうしてつい、その欠落を埋めてくれそうな青年への期待が膨らんでしまうのだった。
先日の市内警邏時と同様の隊列で一行は城門を潜る。
遮るもののない陽光を浴びた刹那、マイクロトフは溶け出すような浮遊感を覚えた。これより暫く戻らぬ王城へと沸き出でる愛着、先に待つ体験への期待といった感情がないまぜになった、複雑な感慨に拠るものだったかもしれない。
大聖堂を過ぎて市街地に入ったあたりから、フリード・Yが頻繁に首を捻るようになった。未だ街が完全に機能する刻限でなく、行き来する街人が少ないというのもあるが、一行を迎える彼らの様子が前回の巡回時とは些か異なるのである。
整然とした騎馬隊が目に入った途端、端に寄って道を譲るのは同じだ。ただ、前のように凱旋者を迎えるような熱狂を見せるでなく、粛々と礼を示す。
微笑みや温かな眼差しを見れば、街人の皇子に対する情愛が変容したとは思えず、フリード・Yの困惑は深まるばかりだ。堪らず近くの騎士に問うてみると、聞き止めた青騎士隊長が苦笑混じりに説いた。
曰く、今回は街の住人と親睦を温めている暇がない。故に昨日の巡回部隊によって予め人々に言い含めておいたのだ。マチルダ皇太子は実に純朴で、あまり盛大な歓迎を受けると戸惑いが勝る御方であるから、出来れば控え目に親愛を示してくれるとありがたい───
これにはマイクロトフも破顔した。先手を打ってくれた騎士隊長への感謝もあったが、あまりに的確な自らへの評価に、そうも自分は分かり易いのかといった可笑しさが込み上げたのだった。
そのままロックアックス住民に「控え目」に見送られ、一行は街門を抜けた。
マイクロトフが旅支度をして街を後にするのは、一年前のグリンヒル来訪時以来である。ただ護られる存在として騎士たちの囲いのうちに在ったあの時とは、心持がまるで違う。
騎士を背後に従えて進む一歩は、かつての幾倍も軽やかで、それでいて緊張がある。前者は皇太子という名のしがらみから解き放たれて一騎士として地を踏む満悦、そして後者は騎士団長として部下を従えているところに生ずる覚悟の重みであった。
門を過ぎて少し進んだところで、何処からともなく三騎が寄ってきた。これが同行する赤騎士かとマイクロトフが軽く会釈するうちに、先頭に並んだ年嵩の一人が言った。
「おはようございます、殿下。実は申し上げたき儀がございまして……」
何事かと青騎士隊長と顔を見合わせ、頷くと、赤騎士は丁寧に言上を続けた。
「道中ご一緒させていただく心積もりでございましたが、街道の村に立ち寄って、集結時用の食料の手配を果たさねばなりません。仲間への説明という任もございますし……よって、先行をお許しいただけますでしょうか」
「だが、我々も早駆けで進むのではないのか?」
何気なく返すと、傍らの騎士隊長が横目でマイクロトフを窺いながら肩を竦めた。
「……青騎士団員としては少々癪ですが、我らの早駆けと彼らのそれは同列に語れませんぞ。こちらが着く前に、つとめを済ませておいて貰った方が時間的無駄が省けます」
赤騎士の騎馬技術とはそんなに凄いものなのか、と背後のフリード・Yが感心しているうちにマイクロトフが背を正した。
「ならば、おれもその先行組に加えてくれないか?」
は、と青騎士隊長は眉を寄せたが、もう片側でカミューが吹き出した。
「機動力に長けた赤騎士に挑戦か、負けず嫌いな皇子様だね」
「いや、そういう訳では……」
慌てて首を振るマイクロトフだ。挑戦などといった傲慢ではない。ただ、そこまで見事と謳われる赤騎士団の騎馬行軍がどのようなものなのかを身をもって知りたい一念だったのだ。
渋い顔で返答を躊躇っている騎士隊長に向けて、マイクロトフは重ねて言った。
「彼らの枷にならぬよう心掛ける。付いて行けないと判断したら、おまえたちを待つ」
「申し訳ありませんが、団長……それは認めかねますな。街道には魔物も出現する。団長を危険に晒してくれるなと副長に強く命じられています」
「構わないのでは?」
不意にカミューが口を挟んだ。寛いだ姿勢で、並足を続ける馬の背に凭れる彼は、真っ直ぐに騎士隊長に瞳を当てた。
「わたしも一緒に行きましょう。それに……皇子の剣腕なら、マチルダ内に現れる魔物如きは敵ではないでしょう」
不承不承といった同意を示した男が、皇子に視線を移して大きく息を吐いた。
「……帰還後に副長の叱責を受けたら、どうぞ弁護していただきたい」
ぷっと笑いを零してから、マイクロトフは神妙に頷く。
「心得た。……感謝する」
成り行きを見守っていた赤騎士らが、「では」と一礼して馬に鞭を入れた。倣ったマイクロトフが隊列から飛び出し、更にカミューが続く。取り残されたフリード・Yがおろおろと後を追おうとしたが、これは騎士隊長によって止められた。
「無理だ、止めておいた方が無難だな」
「し、しかし、わたくしは殿下の御傍に───」
「……あれを見ても、まだ言えるか? カミュー殿が居る、任せろ」
男の眼差しの先、見る見る遠くなっていく騎影を眺め遣るフリード・Yは、ぽかんと開けた口から失意の呻きが洩れるのを止められなかった。あんな突風のような馬に並ぶなど、今の彼には到底不可能だったからである。
───速い。
最初の感嘆が焦りとなるまで、然して時間は掛からなかった。
前を行く三騎の滑るような疾走は、マイクロトフの想像を凌駕していた。三騎士団中で最も優れた騎馬技術を誇る赤騎士団、その中で伝令の任を負うに相応しい実力者たち。マイクロトフと然程変わらぬ年頃の騎士でさえ、仲間の速さに引けを取らず、三騎は疾走開始直後から矢先のかたちを全く崩さない。
始めのうちこそ何とか追走を果たしていたが、次第に愛馬の疲弊を感じるようになった。艶やかな漆黒の首筋が地を駆る振動に合わせて微かに痙攣している。マイクロトフ自身、吹き付ける風に目が乾き、先を進む馬との距離が刻一刻と開いていくのを霞む視界の中で呆然と見守るしかない。
赤騎士の一人がちらと背後を窺った。遅れ始めた皇子に気付いたのか、振り上げていた鞭をそのまま下ろす。己に合わせて速度を落とすつもりなのだ、そう解した途端、マイクロトフは遣る方無い無力感に見舞われた───けれど。
突如として、マイクロトフより僅かに後方を駆けていた栗毛が飛び出した。どのような技か、あっという間に三騎に追い付いたカミューは、赤騎士に向けて何事かを叫び、次には再び速度を緩めてマイクロトフの隣に並んだ。
「ここまでだ、マイクロトフ」
え、と反射で隣に向けようとした視線が、馬に鞭を入れた赤騎士の姿を捉える。カミューは騎士らに、速度を落とさず、そのまま行けと命じたらしい。それは脱落を宣言されたに等しく、マイクロトフにとっては堪らぬ羞恥であった。
しかしカミューは、並走を続けながらぴしゃりと言った。
「気が済んだだろう? これ以上、馬に無理をさせるな」
口調こそ柔らかかったが、否は許さぬ凛然を痛感して従わざるを得ない。手綱を操る合間にも赤騎士たちは遠ざかって行く。失意で騎影を見送っていたマイクロトフは、愛馬が並足まで速度を落としたところで深い溜め息を洩らした。
「駄目だ、まるで及ばない……」
独言を聞き止めたカミューがくすりと笑う。
「それはまた……「及ぶ」気でいたのかい? 本当に負けず嫌いな男だな」
「そうではない。ただ、もう少し付いていけるかと……」
「そういうのを負けず嫌いと言うんだよ」
息を切らせている皇子を横目で見遣り、彼はゆったりと馬の背に身を凭れ掛けた。
「優れた騎馬技術とは、人の技巧だけでも馬の質だけでも成り立たない。双方が巧く噛み合って初めて機能するものなのさ。おまえの馬は早駆けも久々なのだろう? 土台、相手にならないよ」
「…………」
「それにしても、たいしたものだ。後続があんなに遠い」
言われたように背後を振り向いてみると、遥かな平原の彼方に騎馬隊らしき影が浮かぶばかりだ。赤騎士たちの速さが如何に見事だったかを物語るようだった。
「人にはそれぞれ役割がある。皇子が伝令の任に就くことなどないのだし、彼らに及ばなかったからといって、恥じる必要はないさ」
「……それは慰めているのか?」
子供に言い聞かせるような調子が情けなく、顰め面で零すと、カミューはにっこりした。
「自分より図体の大きな男を慰めても、楽しくも何ともない。真理を説いて聞かせているのさ」
二人は馬を並べてゆっくりと先へ進み始めた。
「机上の知識が経験に及ばないのと同じ理屈だよ。もとの素質もあるだろうが、彼らの技術は実戦によって磨かれた力だ。でもね、皇子様。赤騎士団は伝統的に騎馬技術に優れているらしいが、だからと言って青騎士が彼らに劣ると思うかい?」
「…………」
「全てに秀でたものなどいない。もしも何かに劣るなら、別の何かを高めれば良い。騎士は皆、そうしている筈だ」
だが、とマイクロトフは唇を噛み締めた。ボソボソと口篭るように唸る。
「……おまえは平然と付いていっていた」
最後にカミューが速度を上げたところで分かった。彼は、あの赤騎士たちの疾走を楽々と追っていたのだ。息を乱すでもなく、馬に極端な無理を強いるでもなく、涼風のように泰然と。赤騎士に付いていけなかったのにも増してマイクロトフを落胆させたのは、カミューと並べなかったことだったのである。
それを聞いた青年は、淡い笑みを洩らした。
「わたしはこの道で糧を得ているのだから、引き合いに出されても困るよ。馬が命を繋いでくれるときだってある」
「それは分かるのだが……」
「わたしとて、全てに秀でている訳じゃない。おまえに勝てないところもあるさ」
マイクロトフは呆気に取られた。これまで何ひとつ青年に勝ると思えたものはない。そんな何かがあるなら、それはとても喜ばしいことであった。
「ど、どんなところだ?」
勢い込んで問い立てると、カミューは小首を傾げた。
「腕相撲をしたら、わたしが負ける。取っ組み合いの喧嘩をしても、多分勝てない。どうやら背丈も負けているし、横幅だって───」
「……もういい」
仏頂面でそっぽを向く皇子を笑いながら、青年はひっそりと胸の中で付け加えた。
何より、絶対的に及ばぬものがある。その善良で質朴な心根は、カミューが持ち得ぬ大いなる力だ。
誠実という名の輝きが自らに及ぶたび、抱えた闇が悲鳴を上げる。そこから抜け出せと手を差し伸べられている錯覚に陥る───
そこで琥珀の瞳がきつく瞬いた。しなやかな手がそっと愛剣の柄に伸びる。
「……もう一つあったよ。体力でもおまえの方が勝りそうだ」
「だから、もういいと……」
相変わらず不貞腐れたまま向き直ったマイクロトフは、はっと息を飲んだ。馬上の青年は、それまで軽口を叩いていた彼ではなかった。全身に殺気を孕ませた傭兵へと、カミューは変貌を遂げている。
琥珀が見詰める先、草を踏み締める三体の影が在った。人ではない。良く似た姿をし、手には剣を携えているが、全身を覆う青黒色の甲冑と、空に伸びる太い角とが禍々しい気配を醸している。こちらを獲物と見定めたらしく、完全に前途を塞いでいた。
「……どうする? お護り申し上げようか? それとも一緒に戦ってみるかい?」
敵を前にして揶揄の声が囁く。マイクロトフは奮い立つ血の熱に呑み込まれた。
「やるとも。体力も回復力もおれの取り得だ」
言い終わらぬうちにカミューは馬から身を躍らせていた。即座に倣ったマイクロトフは、先に立って魔物へと歩を進める青年の隣に並ぶために地を蹴る。
「実戦は初めてだったか、皇子様?」
頷こうとして、だが躊躇した。魔物どころか、人を殺したことがある───剣の呪詛に縛られ、何ひとつ記憶に残さぬまま。
「迷いがあるなら下がっていろ」
機微を察したカミューが鋭く一喝するが、ここで退くなど考えられなかった。
「……いや、やってみせる。ここで見過ごせば、罪なき民が襲われる」
「ファントム、……と言ったかな、あれは?」
「そうだ。分散して背後から奇襲を掛けてくる厄介な魔物だ」
ならば、とカミューは剣を抜き去りながら微笑んだ。
「初実戦の相手として不足はないな。初手は譲って差し上げるよ。後続の騎士が着く前に、さくさくと終わらせよう」
「尽力する」
すらりと剣を抜き──それがダンスニーでないのは無念だったが──カミューよりも一歩前に出る。その動きが合図となったかの如く、魔物は一斉に向かってきた。
敵からの最初の一閃を打ち落とし、間髪入れずに攻撃に転じる。剣が黒い甲冑に食い込む感触が、ビリビリと腕を伝った。その横では、カミューが魔物の間合いに潜り込んで鮮やかな剣戟を見舞っている。猛り狂う魔物が反撃に出るより速く、彼は間合いの外に身を翻した。
マイクロトフが上段に剣を振り翳したところで、突然目標が消失した。分散された、と咄嗟に背後へ目を遣ると、何時の間に回り込んだのか、カミューが魔物の剣を止めていた。心強い味方が敵の奇襲を封じてくれると悟った刹那、マイクロトフは快楽にも似た興奮を覚えた。
己の死角、そして経験の浅さを埋めて余りある存在。風の中を軽やかに舞い、確実に敵を弱体化させてゆく艶やかな青年。
今のカミューに、あの冷たい死神めいた気配は感じなかった。自らを勝利に導く神であるかのようにさえ、マイクロトフには思えた。
高揚は剣へと移り、弥増す力が敵を屠る。幾らもしないうちに、周囲は元の静けさを取り戻していた。
マイクロトフの思考は暫くはたらこうとはしなかった。僅かに弾む息を抑えながら立ち尽くす。最後の魔物が消えたあたりにカミューが身を屈めるまで、彼は剣を納めるのも忘れて戦いの余韻に酔い痴れていた。
「なかなか見事な初陣だったな、マイクロトフ。御褒美だ」
カミューが地から拾い上げたものを投げる。慌てて受け止めたのは金であった。
「魔物が金を落とすというのは本当だったのか……」
半ば呆けて呟くと、カミューは手に付いた土を払いながら頷いた。
「魔物は光りものが好きらしい。懐を漁るほどの知恵はないが、殺した人間が金を落とせば別だ。必ず持って行く」
「すると、この金は……」
「その魔物による犠牲者の遺品ということになるかな。でも、今はおまえのものだ。魔物を倒したものが得る正当な対価だよ」
「しかし……」
眉を顰める男にカミューは淡々と続ける。
「弱き民は魔物に打ち勝つすべを持たない。それを為すのは武力を持つ人間だ。武人は犠牲者の形見を得て、いっそう装備を充実させて次の戦いに臨む───また別の、弱き民の命が摘み取られぬように」
そうか、とマイクロトフは掌の上に乗る金を睨み据えた。これは死した人の願い、次の儀性を生まぬようにと祈る心なのだ。そっと握り締めて頭を垂れた。
「分かった、無駄にはしない。……それで良いのだな、カミュー?」
「それで良いんだ、皇子様。魔物が金を落とす、それは「知識」だ。その金の持つ重みを知ることが「経験」なのさ。おまえはこれまでよりも一歩先に進んだ。剣士としての道を、……ね」
「カミュー……」
胸の奥を熱いものが駆け抜ける。今日のカミューは、いつもと変わらず皮肉めいてはいるものの、それでいて何かが違うとマイクロトフは思った。見詰める瞳は真摯で、今までにはなかった情のような温みが存在した。
「今日は何だか優しいのだな、カミュー」
知らぬうちに口走っていた。聞くなり青年はむっとした顔になる。
「いつもは意地悪だ、と……そう言っているのか?」
そのまま熱く輝く黒い双眸から顔を逸らし、彼方を見遣って呟いた。
「ああ、丁度良い頃合だったな。残りの金を拾って、馬に戻ろう」
風に揺れる草の向こう、勇壮な騎馬部隊が近付いていた。
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