今朝方の二騎士団閣議は、より詳細な情報を要した赤騎士団側の希望によって召集されたものであった。ゴルドーの皇子謀殺への執念、何も知らぬ青騎士を下手人に仕立て上げようとする非道など、いずれも闘技場でカミューより聞き及んだ以上であり、改めて両騎士団の強固な結び付きの重要性を認識したようだ。
赤騎士団副長が辞してからは青騎士団内の打ち合わせに入り、それを終えた時点で一度マイクロトフは自室となった客間へと戻った。カミューの容態を確認するためである。
半日で治まるという彼の言葉を信じて、昼食時に談合を、などと口走ってしまったが、性急だったかもしれない。
夕方にでも延ばすべきか。それ以前に、本当に明日からの査察に彼は同行出来るのだろうか───
案じる心が足を速め、マイクロトフは軍馬の勢いで廊下を進み、階段を駆けたのだが。
いざ、部屋で迎えた青年は呆れ返るほど普段通りだった。頬に浮いていた熱の花は消え失せ、あれほどマイクロトフの心を乱した瞳の潤みも一切見られず、何事もなかったかのように身支度を整えていたのである。
心配させたことを一応は気にしているふうに振舞う青年を舐めるように凝視したが、もはや細身の肢体には異変の影すら残されていない。自らも紋章を宿した魔剣に翻弄される身である。思うに任せぬ神秘の力に、またしても打ち据えられたような心地を覚えたマイクロトフだった。
昼になり、議場に食事が運び込まれた。赤騎士団副長の再来訪を待って、一同は和やかな雰囲気の中で昼食を取った。どのみち、気の張る話し合いが控えているのだ。食事時くらいは穏便な話題に終始しよう、そんな意識がはたらいたのか、街の噂話や騎士団内の滑稽な逸話などが会食の肴となった。
従者が食事の皿をすべて下げた後、青騎士団副長が「さて」と切り出した。
「先ずはわたしの方から幾つか報告を……。宜しいですかな?」
赤騎士団の同位階者に軽く許可を求めてから一同を見回す。
「マイクロトフ様の即位式典の警備であるが、青騎士団に一任されることになった。これについては赤騎士団の全面的な協力が約されている。即ち、マイクロトフ様を真の主君と仰ぐもので警備を取り仕切るという、我々にとって最善のかたちである」
ざわ、と同席する青騎士隊長たちがざわめいた。皇王の即位式などといった、国を挙げての行事に関して、白騎士団が表に立たなかった例は過去にない。
ましてゴルドーは何としてもマイクロトフを即位させる訳にいかず、この式典は最後の機会ともなり得る場なのだ。周囲を謀殺に加担する人間で固めようとするに違いないと推察していた一同にとって、副長の報告は僥倖に他ならない。
「……巧く運んだようですね」
控え目にカミューが呟き、副長が満面の笑みで頷いた。
「昨夜のうちに、あの提案をグランマイヤー様に耳打ちさせていただきました。今朝早く、ゴルドーを訪ねられたようです。これがもう、効果覿面。目を剥いていたそうで」
可笑しそうに副長は目を細めた。ゴルドーの居室から真っ直ぐに彼の許へとやってきた宰相は、してやったりと顔を輝かせていたのだ。
「……あの提案、とは?」
第一隊長がカミューを横目で眺めながら首を捻る。
「ゴルドーの命を狙うものがいるようだ、との丁重なる忠告だ。無論、出任せに過ぎぬが、自らも謀殺を企んでいるだけに聞き流すのは難しいだろうとカミュー殿が……。当分は己の身辺警護が優先されよう」
「式典の警備など我々で適当にやれ、というところですか」
保身第一の白騎士団長に呆れ顔を隠せぬ一同だが、ともあれ好都合には違いない。青騎士たちは、ゴルドーの弱みをついた策を捻り出した青年を眩しげに見詰めた。
一方のカミューは「そんな入れ知恵もしたな」程度の感慨しかない。本当の決め手は、自身が囁いた一言だろう。現実には行われぬ即位式などよりも、王家なき後の国の全権を如何に素早く確実に握るか、その方がゴルドーには重要なのだから。
青騎士団副長は更に続けた。
「式典における参席者名簿と席次をグランマイヤー様より頂戴した。赤騎士団の意見を仰ぎつつ、最良の警備配置を敷く」
視線を送られた赤騎士団副長が丁寧に礼を返す。二人の副長が敬意と配慮で固く結ばれているのを窺わせる光景であった。
「前件について質疑がなければ、次にわたしから報告させていただきましょう」
赤騎士団副長は茶で喉を潤してから、居並ぶ青騎士隊長を順に見渡した。直属の部下でないので、やや勝手は違うだろうに、態度と眼差しは落ち着き払ったものだ。その泰然が、知らず騎士らの背を正させた。
「殿下の謀殺に加担している白騎士……、貴君らの仲間を利用したとして名が挙がったものたちの動きを止めよと、昨朝カミュー殿より依頼を受けたが、取り敢えず二人ほど目的を達した」
これには他の誰にも先んじてカミューが唖然とした。
「もう、……ですか? しかも二人も?」
「情報の収集は我々の取り柄だからね。こうもあちこちに部下が飛ばされていなければ、名簿の半数は消化出来たと思うのだが」
男は穏やかに微笑む。
「一人は数ヶ月前、街の防具屋で代金の踏み倒しをしている。相手が最高位騎士だと言うことで主人は泣き寝入りを決めたようだが、証人も数名、歴とした窃盗罪が適用されそうだ」
「───マチルダ騎士ともあろうものが、恥曝しな真似を」
愛想も尽き果てたといった口調で第一隊長がぼやく。マイクロトフも、これ以上ないくらいに同感であった。
「二人目だが……」
赤騎士はコホンと咳払いし、小声で続けた。
「愛人がいる。これ自体は当人の倫理観の問題であろうから、意見は控えるが……この男、資産家の婿養子なのだ。ゴルドーの重用は細君の家の資産によるもの。よって、愛人の存在を細君に知られれば即座に身の破滅と言えよう」
マイクロトフを筆頭に、一同は凍りついた面持ちで赤騎士団副長に見入る。
よもや一日足らずの間に、個人の内情をこうまで探り出そうとは。男たちの心情を代弁するようにカミューが苦笑した。
「諜報が得手とは伺っておりましたが……恐ろしいほどですね」
すると副長はにっこりした。
「ロックアックスに在る赤騎士は皆、漸くゴルドーに一矢報いられると血気盛んだからね。その結果だよ、カミュー殿。ああ……貴君ら、そのような顔をしなくても……。身を潔白にして日々を過ごしている者なら、何も恐れる必要はない」
自らの私生活を覗かれでもしたような顔つきをしていた数人が、思わずといった調子で照れ笑う。その通り、恥じる行いに心当たりがなければ、どれほど身辺を探られたところで平然と構えていれば良いのである。
「残りも早急に対処する。して……、集めた手札は如何するかね?」
「一先ず、そのままお持ちください。使うときが訪れればそれも良し、来なかったとしても、新体制発足後、腐敗の一掃に役立つでしょう」
朗々とした意見に、副長は躊躇なく頷いた。彼がカミューを完全に相談役として仰いでいるのを見て、それが最良のかたちと考えていたマイクロトフでさえも、些か舌を巻く思いであった。
青騎士団副長が背を正した。
「第一部隊は予定通り、明朝、三時課をもってロックアックスを出立。目標の村にて赤騎士と合流、水脈の発見及び井戸の設置に尽力するよう。尚、マイクロトフ様とフリード・ヤマモト、カミュー殿はそこより別行動となる。供廻りの人選は一任する」
命を受けた第一隊長が厳しく引き締まった表情で一礼する。
「敵にとっては警護の目が減る絶好の機会だ。十分に気を付けるのだぞ」
そこで赤騎士団副長が言葉を挟んだ。
「その行軍なのだが……赤騎士を数名、最初の村まで同行させて貰いたい」
は、と青騎士隊長は怪訝そうに眉を顰めた。
「そちらの残城人員は不足しているのでは?」
「確かに。だが、無理を押しても同行する必要があるのだよ」
代わって青騎士団副長が口を開く。
「第一部隊の帰還以前から各地に派遣されている赤騎士には、此度の事情が通っていない。各団は互いのつとめに干渉せぬという訓戒もある。ここで突然、青騎士団員が助力に現れるのは、彼らにとって不審でしかないのだ」
「我々は長く過酷な戦いに臨んできた。信じられるのは自団の仲間といった空気もないとは言えぬ。何より、これまで守り通してきた忠誠の誓いを破らねばならぬのだ。事情を説くのは同じ所属の騎士の方が望ましい。故に、昨日から助力に出てくれた青騎士団部隊にも赤騎士を同行させて貰っているのだよ」
「成程……」
マイクロトフが感心して溜め息をつく。
赤騎士団の奮戦に対して、結果的に青騎士団は傍観を貫いてきたも同然だ。それが指揮官の希望だったと赤騎士たちが理解していても、ここへ来ての急激な方向転換を訝しむ向きもあるだろう。仲間の騎士の説明は、そんな彼らの不審を払う最善の手段である。
「承知致しました。赤騎士団の運営に支障がないと良いのですが」
第一隊長が言うと、赤騎士は温厚な眼差しを細めた。
「貴君らの仲間が助けてくれている御陰で、数日中にも幾つかの小隊が帰城を果たせそうだ。懸念には及ばぬだろう」
すると今度はカミューが半身を乗り出した。
「それなのですが、副長殿。帰城の時期については少々手を打たれた方が宜しいのでは?」
甘い、けれど凛として良く通る声は、今や騎士らの注意を一瞬で引き付ける響きとなっている。たちまち真剣な面持ちが青年へと向かい、その中でカミューは艶然と笑んだ。
「せっかく帰還しても、間髪入れずにゴルドーに動かれては意味がありません。蜻蛉返りで別の任地に送られるのは気の毒です」
痛いところを突かれて顔を見合わせる二副長である。
「有り得ますな」
「策があるのか、カミュー」
マイクロトフが腕を組んで問うと、青年はちらと視線で頷いてみせた。
「ロックアックス間近の郊外……街道の村と言うのだったか、あのあたりに集結させておいたらどうだろう。おまえの帰還に合わせてロックアックス入りして貰うのさ。赤・青、両騎士団員を揃って従えての行軍……それはそれは皇太子に相応しい光景だと思わないか?」
それに、と鋭く琥珀が光る。
「そうすれば、戻ってきた騎士らを再び散らすことなく集結させられる。もしゴルドーが赤騎士に次の任を与えようとしたら、そのときこそおまえの出番だ。言ってやれ、こうも一騎士団に任務を偏らせているのはどんな理由だ、とね」
「……何と答えるか、見ものですな」
第一隊長が苦笑し、他の騎士隊長らも控え目に倣う。カミューは淡々と続けた。
「戻る見込みだった騎士が遅れては人員的にも苦しいでしょうが、先ずは一騎士団としての態勢を整えるのが肝要です。如何なものでしょう」
意を問われた赤騎士団副長は強い賛同を示した。
「今は青騎士という味方が在る。人的な不足など、無きが如しだ」
「在城の騎士は、二騎士団合わせて一騎士団分といった有り様ですが、何とか凌げるでしょう」
いま一人の副長も微笑んだ。
「では、各地に早急に伝令を送りましょう。任を終えたら街道の村に集結、マイクロトフ様の到着を待って共に帰城する旨、伝えます」
懸案のひとつが決着したところで、ずっと疑問に思っていた点がポロリとカミューの口を吐いた。
「不思議でなりません。赤騎士団が各地でつとめを果たす一方、青騎士団は訓練や街内警邏を行っていた……そこまでは分かりますが、白騎士団は? もともと人員が少ないのかもしれませんが、城内ですらろくに見掛けません。何の任に就いているのです?」
「警邏ですよ、カミュー殿。ごくごく限られた地区の」
ひとりの騎士隊長が発言した。口調は抑えたものながら、顔が不快で満ちている。
「ロックアックス・北六区……この地域には街の資産家が邸宅を構えています。彼らの主だった任と言えば、この北六区の警邏です」
「……だけ、ですか?」
はい、と男は唇を噛む。
「非常に遺憾ながら、そこだけです」
束の間ぽかんとする青年に、赤騎士団副長が小声で説いた。
「身入りの多い任なのだよ、カミュー殿。豪邸の立ち並ぶ区画を念入りに巡回する……資産家たちは感謝して白騎士らに金銀を落とす」
「いっそ「落とさせられる」と明言なさっても宜しいのでは? あそこは街で最も奥まっていて、そうそう外部から無頼の輩など入らぬ、安全な区域です。楽をして、挙げ句、不当な対価を得る……ほとほと見事なはたらきぶりだ」
皮肉げな調子で第一隊長が吐き捨てる。辛辣な物言いに赤騎士団副長は驚いて目を瞠ったが、大枠では同感だったので、苦い笑みを零すにとどめた。
「これ以上、騎士団の恥部を曝したくなかったのだが。まあ、そういう訳だよ。後は……ゴルドーの周辺と、幾つか決まった箇所の城内警備が白騎士の主なるつとめと言えよう」
「決まった箇所、というのは……あまり重要とも危険とも言えぬ、……実際、言ってみれば「楽」な場所ですな」
別の騎士隊長が、つかえつかえに補足する。だいぶ言葉は選んでいるが、状況は十分に把握可能だ。ゴルドー配下の騎士の腐敗について、何を聞いても驚かないだけの耐性はつけていたカミューであるが、ここまでくると乾いた薄笑いを洩らすしかない。
不意にマイクロトフが記憶を紐解いた。
「そう言えば、あの通用門の警備担当も白騎士団だった」
「……?」
怪訝そうに瞬くカミューに彼は教えた。
「おまえと初めて会った日、おれは礼拝堂へ行くため、こっそり城を出たのだ。城壁の東端に今は使われていない小さな通用門があってな。一応は門兵が配備されているのだが、これがしょっちゅう居なくなるのだ」
「門兵がサボる隙を突いて脱走を図ったのかい? 呆れた皇子様だな」
「そこで刺客に囲まれたのですな? 二度となさらないでいただきますぞ」
青年と副官から畳み込むような叱責を受け、これは藪蛇だったとマイクロトフは身を竦めた。
暫し考え込んだカミューが副長たちを交互に見た。
「四年前、両騎士団から白騎士団に移った騎士ですが、彼らもゴルドーに加担していると思われますか?」
二人は目線を絡め、複雑そうに返す。
「正直なところ、分かりません。謀略にまで関与しているとは思いたくないが、腐敗に染まった可能性は有り得るでしょうな」
「同感だ。敢えて律を護るなら、騎士団を辞した方が楽だろう」
赤騎士団副長は沈痛を湛えて卓上の手を戦慄かせた。
「もっと早くゴルドーの企みに気付いていたら、間者を任ずることも出来たのだが。つとめを遂行している間の騎士は強い。だが、単に利用価値があるというだけの理由で白騎士団に置かれては……汚泥の中で、清浄であり続けるのは難しかろう。せめて謀略にだけは無縁であって欲しいと、わたしも思う」
やや重苦しい雰囲気になったのを嫌って、フリード・Yが努めて明るく声を張った。
「前にカミュー殿が仰っていたのを思い出しました。移動なさった赤騎士の方々には副長殿の密命が課せられているかもしれないと警戒して、ゴルドーも重要な役割を与えないだろう、と。きっと、卑劣な企みは御存知ない筈です」
「───青騎士は?」
ボソリと第一隊長が問う。一瞬詰まった従者は、更にいっそう力強く拳を握った。
「青騎士の皆様のように実直な方々に謀略は似合いません。だから大丈夫です」
一応の褒め言葉と受け止めた青騎士隊長らは、困ったような、しかし満足そうな顔つきで、紅潮している若者に笑み掛けた。
さて、と青騎士団副長は一同を見回して質疑の有無を問う。沈黙が応じ、閣議は散会に至った。位階者らが退室していくのを待つ間に、マイクロトフはヒソとカミューに囁いた。
「今日はもう、特に予定が入っていない。これから馬の様子でも見に行こうと思うのだが───」
言葉の途中でカミューはカミューは幼げに首を傾げた。
「あの馬には嫌われているからなあ……」
「いや、そうではなく。念のため、おまえは休んだ方が良いのではないかと言おうとしたのだ」
「……病人ではないと言ったろう?」
「しかし」
最後にフリード・Yが扉を出て、室内に二人となったのを確かめたマイクロトフは、大きな掌でそっと白い額を覆った。ぴくりと竦んだ体躯に気付かぬまま、彼は顔をしかめた。
「まだ、だいぶ熱いぞ」
「だから、これはもともと平熱が高いんだ」
苛立たしげに男の手を振り払い、カミューは瞳を煌めかせた。
「ここへ来るまでにわたしが一度でもふらついたか?」
「いや」
「思考力が鈍っているように思えたか?」
「……いや」
マイクロトフが言葉を探しあぐねている間に、カミューはさっさと部屋を出ようとした。ところが、一度退出していた赤騎士団副長と鉢合わせ、危うく胸に飛び込みそうになった。
「……っと、失礼。一応、知らせておこうかと戻ってきたのだが」
カミューを見詰める男の灰色の目が物言いたげに瞬く。ただそれだけで、カミューはすぐに昨日依頼した件だと察した。内密にと特に強く願い出た訳でもなかったが、マイクロトフの存在に配慮してくれたのだ、と。
カミューは皇子に向き直った。
「行ってくれ、マイクロトフ。それと……おまえが厩舎に行っている間、城を見学しても良いかな?」
「城を?」
うん、と小さく頷く。
「ここへ来て何日にもなるのに、わたしはまだ限られた場所にしか行っていない。明日からは暫く戻れない訳だし、デュナン屈指の石城を見て回りたいんだ」
「無論、構わないが……」
唐突な申し出にやや面食らいながらも、荘厳な王城への誇らしさもあって、マイクロトフは了承した。
「では、案内を───」
「いいよ、一人の方が気楽に見て回れる。それに、今は騎士に余計な労力を割かせている場合ではなかろう?」
道理である。明日の出立を控えた第一部隊騎士でさえ、午後は近場の市内巡回が課せられている。してみると、暇を与えられた身が心苦しくも感じられたが、不慣れな任に臨むための気構えの時間を与えられたのだと割り切るしかない。マイクロトフは渋々といった面持ちで頷いた。
「……分かった。では夕食までには部屋に戻ってくれ」
マイクロトフは無言で立ち尽くしていた赤騎士団副長に丁重な礼を払い、同様の姿勢を返されて、そのまま部屋から出ていった。開け放たれていた扉をゆっくりと閉めながら、副長は目を細めた。
「何やら申し訳ないことをしてしまったようだ」
皇子の追い出しに加担してしまったのを感じていたらしい。カミューは薄く苦笑する。
「わたしは世話焼きの母親から解放されたような気分です」
「……殿下のことかね?」
吹き出すのを堪えたような顔で、副長は神妙に言った。
「情愛が重いと言えるのは幸せな証だよ。失ってしまえば、そう感じることすら出来なくなる」
零れた冗談に見合う揶揄を返しただけだったのだろう。けれどカミューには、ぐさりと突き刺さるような言葉だった。更にもう一言を返すことは出来ず、目を伏せて弱く問うた。
「お話というのは……お願いした件でしょうか」
男は彼に着席を勧め、自らも隣に座って折り畳んだ紙片を卓上に伸ばした。昨日カミューが渡した、現在の起居を知りたいと願う騎士を記した紙片。四つの名のうち、上から三人目が線で消され、端に小さく死亡の文字が添えられていた。
「判明したのは一人だし、すべてが揃ってからにすべきかと悩みもしたのだが」
そう前置いた副長に、カミューは紙面を睨んだまま低く、いいえ、と呟く。
「情報は……単発的にでも得たいと思っていました」
すると副長は安堵らしき息を吐いた。
「この者に関しては調査の必要がなかったのだ。四年半ほど前に騎士団を辞し、それから三月もせぬうちに自宅で死んだらしい。近くに生家がある部下がいてね、詳細を記憶していたよ」
「亡くなった、とは……ご病気か何かで……?」
姿勢を崩して足を組み、騎士は卓に頬杖をつく。表情から更に暗い報がもたらされると身構えたカミューであったが、それは予想を上回った。
「表向きには事故と処理されたが、当時は自殺とも囁かれたようだ。詳細は、この騎士の退団理由にまで遡らねばならぬ。彼はな、カミュー殿……心神喪失状態によって騎士団を辞したのだよ」
え、と瞬いてカミューは男を凝視する。
「記録上では「一身上の都合」と記されていたように思いますが……」
「当人の名誉のためにね」
副長は肩で大きく息をついた。
「軍では珍しいことではない。戦場で、そして日々のつとめの中で、他者の命を奪う行為に耐え切れず心身に支障を来す者は必ずいる。彼は当時、白騎士団所属だった。何が切っ掛けとなったかまでは分からぬが、つとめに耐えぬと判断され、表面的には任意というかたちの強制除籍を受けたのではないかと思う」
「…………」
「その後、自宅で療養生活を送っていたらしいが、ある日、家人が目を離した隙に庭に出て、池に浸かっていたのだそうだ」
「池に?」
そう、と副長は痛ましげに眉を顰めた。
「頭から足まですっぽりと。水を飲み、相当に苦しんだだろうに、助けを求める声を上げなかったらしく、家人は気付かなかった。哀れなことだ」
黙り込んでしまったカミューを案じるように顔を覗き込む。
「……大丈夫かね? すまない、やはり出立前にすべき話ではなかったな」
いいえ、と弱く否定して、カミューは薄い笑みを浮かべた。
「いずれ知る事実なら、いつ知っても同じです。副長殿が気に病まれる必要はありません」
「最初がこのような報告で残念だよ。会って話したかったのだろう?」
暗い色に染まっていた琥珀が微かに揺らめく。束の間の沈黙の後、彼は静かに返した。
「……それも天意でしょう。受け入れます」
「引き続き、残りの人物を探そう。次は今少し明るい報告をしたいものだ」
カミューは初めて、年相応の顔で副長を見詰めた。
「調べてくださっているのは負傷者の方々なのでしょう? 傷に障らぬよう、無理をなさらぬようにとお伝えいただけますか?」
すると男は目を瞠り、温かな微笑みを浮かべた。
「彼らも闘技場での一件を、見たり聞き及んでいるからな。既に君は我が赤騎士団の尊崇の的だ。そんな君に案じられたと知っては、いっそう調査に熱が入るだろう。査察から戻る頃には、すべての人物の現況を明らかにしたいと思っているよ、カミュー殿」
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