騎士団兵舎での初めての朝、フリード・Yは、誰よりも早く起き出して西棟と呼ばれる隣接した建物を目指していた。昨晩、同室となった騎士から予期せぬ歓迎──酒盛りとも言う──を受け、ほんの少しだけ頭は重いが、実に満ち足りた朝だった。
昨日の顛末を経て、青騎士団の任務予定表には大幅な変更が生じた。恒常的な訓練をすべて廃して、赤騎士団の援護として人員を送ることになったからだ。
既に昨日のうちから幾つかの部隊・小隊がロックアックスを離れている。早朝の基礎鍛錬も、休止となる旨の通達が全青騎士団員に行き渡っていた。
しかしフリード・Yは主君の性情を熟知している。その後の行動に支障がない限り、慣習となった鍛錬を欠かす男ではないのだ。そんな皇子に従うのも従者の喜びとばかりに、彼は西棟奥の客間へマイクロトフを迎えに行ったのだった。
「おはようございます。殿下、起きていらっしゃいますか?」
昨朝のカミューの寝姿を思い出し、ごく控え目に扉を叩く。が、握りを掴もうとするよりも早く開いた扉の奥から現れた顔は真っ青だった。
「フリード! 良かった、どうすれば良いのだ」
「は?」
今にも掴み掛からんといった有り様で、マイクロトフは従者を室内に引き擦り込む。凄まじい力に振り動かされて、目を回し掛けたフリード・Yだが、主君の必死の形相に留意するだけの余力は辛うじて残していた。
「殿下、ど……どうか落ち着いて」
あわあわと言うのに重ねて潜めた声が訴える。
「カミューが恐ろしい熱を出している。し……、死んでしまいそうな息だ」
「なっ、何ですって?」
仰天して、自らの腕を掴んだ皇子を押し退けるようにして寝台を覗いたフリード・Yの目に、徒ならぬ姿の青年が飛び込んだ。主従二人、もつれるように脇に歩み寄ると、白い額に細かな汗を散らしたカミューは、半分だけ覚醒したような面持ちで、苦しげな息を吐いていた。
「と、とにかく医師を───」
焦って駆けたためにずれた眼鏡を直しながらフリード・Yが踵を返そうとしたが、掠れた声がそれを止めた。
「呼ばなくていい、病気ではないから」
「カミュー殿、しかし……」
身体に触れてみなくても分かる。上気した頬、濡れた額に張り付く髪。紅を佩いたような目許と、潤んで色を増した琥珀の瞳。相当な高熱に襲われていると、一見しただけでも十分に見取れた。
どうしたものかとフリード・Yが見遣ると、皇子は苦渋に染まった顔を弱く振った。
「さっきからこの調子なのだ。どうしたら良いのか分からない」
昨夜、カミューの温もりを肩に、切なくも甘やかな、不可解なひとときを過ごした。
その後、眠りに落ちた彼を寝台に横たえ、自らも寝支度を済ませた。テレーズへの文をしたため、燭台の火を落として隣の寝台に潜り込んだときには異変など起きていなかった。窓の方へと半身を傾けたカミューの表情は窺えなかったが、呼気は穏やかで、緩やかに上下する細い肩が静かな眠りを物語っていた。
───なのに。
朝の訪れと共に様相は一変していた。
マイクロトフはいつものように、未だ明け切らぬうちから起き出していた。明日からの査察に備えて、出立を控えた騎士らには今日は軽易なつとめが与えられている。
マイクロトフとフリード・Y、そしてカミューにはこれといった予定が入っていない。これは、初めて騎士として郊外に出る皇子に対する気遣いである。城を空けている間にも着々と即位の日は近付く。それらに対処しておく必要もあろうかと、青騎士団副長は配慮したのだった。
こうして久々にもたらされた白紙の予定表。取り敢えず通常通り、朝の鍛錬は行うつもりだった。
カミューを起こさぬように身を起こし、静かに身支度を整えたところで窓側の寝台の様子を一瞥して───そして気付いた。熱っぽい息を弾ませる護衛の青年に。
「侍医を呼ぶ」「不要」と不毛な遣り取りを重ねた挙げ句、途方に暮れたところで従者の訪いを受けたという訳だった。
「大丈夫、明日の出立に支障はない」
掠れ切った声ながら、カミューの調子はいつもながらに軽い。寝台脇に並ぶ二つの顔に笑み掛け、長い息を吐く。マイクロトフはたちまち顔を歪め、空いた敷布に腰掛けた。
「何を馬鹿なことを……」
「……「馬鹿」って言ったな?」
間髪入れずにカミューは返し、億劫そうに上体をもたげようとした。フリード・Yが大慌てで寝台に押し返そうとしたが、応じない。やむなく枕を立てて背凭れを設えるマイクロトフに柔らかく笑んで、カミューは体勢を整えた。
「平気だ、初めてではないから勝手は分かっている」
「勝手、って」
胡乱そうに従者の若者が首を傾げる。
「持病でもお持ちだったんですか?」
ひどく可笑しなことを聞いたふうにカミューは苦笑したが、マイクロトフの目には疲弊し果てた窶れの風情とも見えた。
「そんな繊細な体質は持ち合わせていない。これでもわたしは、雑草並に丈夫だよ」
熱に浮かされた眼差しが、純白の掛け物の上に投げ出された手元に落ちる。彼の視線を追ったマイクロトフは、はっと目を瞠った。
上掛けに溶け入るが如き白い手、その右手の甲に紅の陰影が滲んでいる。奇妙な躍動感を持つ輪郭、幾筋かに分かれて伸びる薄赤い触手。紋章学の書に記される、火の眷族の証───
「……それが「烈火」か」
破壊と再生を司る聖なる火魔法、しかも世間的に知られるものより高位の紋章。カミューと共にこの世に生まれ出た灼熱の炎。
「そう。時たまあるんだ、抑えが巧く利かなくなる。熱っぽくて辟易するが、体調が悪いのとも少し違う。大抵は半日もすれば治まるから、気にしないで訓練に行ってくれ」
マイクロトフは深々と考え込んでしまった。
普段カミューの手に陰影が見えないのは、紋章を生まれ持つものの特質であると聞いた。人為で宿した紋章とは違って、それは宿主の体内奥深くに溶け込んでいる。宿主が魔法を発動させるという意思を持って初めて、紋章は眠りから浮かび上がり、本来納まるべき箇所へと呼び寄せられ、その存在を明かすのだと。
こうして陰影が目視出来る状態になっていて、尚且つ魔法が発動していないというのは、カミューの身のうちに炎が淀んでいるのに等しい状況に相違ない。とてもではないが、彼の言うような気楽な事態とは思えぬマイクロトフだった。
「放っておくなど出来ない、カミュー」
「そ、そうですとも。こんなに酷い熱……」
さっき彼を寝台に押し遣ろうとした際、布越しに触れた腕の恐ろしい熱さに竦んだフリード・Yも声を裏返して同調する。
「殿下は付いていて差し上げてください、わたくしが医師を呼んで参ります」
主君に言い差して行動しようとした若者を静かな声が再び止めた。
「医者には何も出来ないよ」
カミューは気怠げに汗に濡れた髪を掻き上げる。
「こればかりは本当にどうしようもないんだ。言っただろう? 初めてじゃない。慣れているから大丈夫さ」
主従は困惑し切って顔を見合わせた。確かに、紋章の神秘が原因では人的治療は及びそうにない。かと言って、このまま見守ろうという心情にもなれず、万策尽き果てたとき。
「……そうだ、そうです」
フリード・Yが背を正して右手を掲げ、極めて神妙な顔で覚えたての文言を口中で唱え始めた。既に何度か発動させた魔法、それこそ勝手も掴んでいる。危なげなく呼び出された癒しの雫がカミューを包み、ふわりと消えていった。
残されたのは、先程とは比較にならないほど穏やかになった息遣いである。カミューは数度瞬いて、淡く目を細めた。
「名の通り、優しい魔法だ。ありがとう、楽になったよ」
「良かった。お役に立てて何よりです、はい」
ほっと安堵の息を吐き出したマイクロトフは、同時に何も出来なかった自身が情けなく、やや消沈しながらポツと問う。
「しかし……どうしてまた急に? 何かそうなる原因でもあるのか?」
手近なあたりで昨夜カミューが口にした夜食の食材などを思い描いてみる。しかし、そんな皇子の想像とは遠いところで、カミューは暗澹に苛まれていた。
原因───的確な言葉を探すのは難しい。心の疲弊、意思の不調和といった不安定な状態からそれは起こる。身体の奥深く、眠れる紋章が目を覚ますのだ。
紋章からしてみると、共存する宿主の精神が安定を失す状況を案じているようなものなのかもしれない。ただ、魔法発動時と同じほどに存在を主張されては、肉体の方が追い付かなくなる。
体外に放出されるべき力が内に篭り、終に耐え切れなくなったときが所謂「魔法の暴発」という事態だ。生まれついて紋章を宿したものが隣り合わせる危険の一つである。
特に、カミューが宿しているのは強い破壊の本能を持つ火魔法だ。だから彼は、常に心の均衡を保ち続けるよう己に律さねばならなかった。
ゲオルグ・プライムに出会ったばかりの頃は、連日のように紋章の台頭を許した。半ば魂の抜け殻と化していたカミューには、それを抑え込む力がなかったからだ。
辛うじて暴発を防いだのは、「烈火」がもたらす災禍を忌む、人としての最後の理性。何としても身のうちに留め置かねば、恩人であるゲオルグまでをも巻き込んでしまうといった、切迫した祈りであった。
その後、カミューは「烈火」を意識下に繋ぎ、平穏なる共存を保ってきた。己の道がさだまり、精神状態が安定したためだ。ゲオルグと別れたときも、そしてマチルダ行きを決した際も、紋章は静かにカミューと共に在ったというのに。
目覚めて、久方ぶりに体躯から溢れた熱に気付いたカミューは、隣で狼狽える皇子以上に困惑していた。平静な顔を繕いながら、途方に暮れていた。
これは心が揺らいでいる証拠だ。確固たる決意が迷いに蝕まれている証なのだ。カミューにとっては、あってはならない事態であった。
その最大の厄災である男は、いつもにも増して誠実な眼差しで重ねて問うた。
「他に何か出来ることはないか? 水を飲んだ方が楽になるのではないか?」
言いながら、忙しなく棚から水差しを取り上げ、グラスを探して視線を彷徨わせる。カミューは目を閉じてゆっくりと首を振った。
「いいから、訓練に行ってくれ」
「しかし、カミュー……」
「そう大袈裟に騒がれては本物の病人になりそうだ。大丈夫、回復魔法まで掛けて貰ったんだ。戻ってくる頃には治まっているさ」
淡々とした早口にフリード・Yが眉を寄せる。皇子の横顔を窺って、おずおずと提案した。
「殿下、少し眠らせて差し上げた方が良いのでは……。こうしてわたくしたちが居ては、カミュー殿も気を遣われるでしょう。それに、訓練はともかく、エミリア殿の出立をお見送りせねばなりません」
言われてみればもっともだ。横で悪戯に騒ぎ立ててもどうにもならないし、エミリアに文を渡して来なければならない。ならば当人の希望に添うのが一番かもしれない───無力感はどうしようもなく募るけれど。
「……分かった。行ってくる」
ほっと溜め息を洩らしながらカミューは笑んだ。
「そうしてくれ。あ、それと……赤・青、両騎士団副長に、午後にでも時間を空けて欲しいと頼んで来てくれないか?」
「……?」
真っ直ぐな視線がマイクロトフへと注いだ。未だ熱っぽく潤みながらも、瞳には騎士団参謀役としての鋭利が蘇っていた。
「我々は一週間もロックアックスから消えるんだ。不在中の諸々について、念入りに打ち合わせておかないとね」
結局、マイクロトフはこの日、久々に朝の訓練を行わなかった。鍛錬場へと向かう途中、副官の伝言を携えた騎士に呼び止められたからである。
グリンヒルへと戻るエミリアの護衛には自団の騎士を付ける心積もりのマイクロトフだったが、これを知った赤騎士団副長が、是非ともその任を赤騎士に、と申し出たのだ。
ただでさえ人員不足の赤騎士団、多少怪訝に思わないでもなかったが、副長間で合意に達しているものを、敢えて反対する必要もないと考えた。
それに、無骨者揃いで知られる自団員に比べて、赤騎士には社交的な男が多いとも聞く。女性の供に付けるなら、彼らの方が適任であるとも思われた。
軽い朝食を共にして、赤騎士に護られたエミリアを送り出した後、マイクロトフとフリード・Yは自団の位階者執務室へと向かった。そこには、在城中のすべての赤・青、両騎士団の位階者が顔を揃えていた。
他団の位階者同士が──双方ともかなりの数が欠けているが──こうして一堂に介するのは稀なことだ。なのに彼らは旧友の集いの如く、実に自然に、和やかに長卓を囲んでいる。その光景こそが自らの望むマチルダ騎士団の姿だと心からの喜びを覚え、マイクロトフは束の間だけ、臥した青年を案じる憂いを忘れた。
「使者殿は御出立なさいましたか」
赤騎士団副長が穏やかに笑み、それから深々と頭を垂れる。
「急なお願いに快諾していただき、感謝申し上げます」
「エミリア殿に信頼出来る護衛を付けたかっただけで、それが赤・青、どちらの騎士でも良かった。ただ……今の赤騎士団には負担ではないのですか?」
壮年の騎士はやや表情を硬くした。一瞬、助力を求めるように同位階者へと視線を送り、それに応えて青騎士団副長が切り出す。
「これもつとめで、どのみち一両日中には赤騎士がグリンヒルに赴く手筈となっていたそうです。ならば、護衛と兼任すれば都合が良かろう、と……」
「成程、その分の青騎士を他のつとめに回せるか」
限られた人員を可能な限り有効に使おうとしている二人の副長を好ましく思いながら頷いた。そこで赤騎士団・第一隊長がふと首を傾げる。
「カミュー殿は御一緒ではないのですか?」
「それが……」
これにはフリード・Yが口を開き掛けて、躊躇した。「すぐに治る」と言い張る不調を、集った要人に洩らして良いものか迷ったのだ。
しかし意外にも、そんな懸念が押し遣られるような朗らかな笑いが赤騎士の間に広がっていった。
「朝が苦手でおられるというのは本当だったのですな」
「不思議なものだ、昨朝はあんなにも凛々しい剣士でいらしたのに」
「今後は毎朝、副長ご自慢の目覚まし茶を処方して差し上げては?」
これには青騎士らもぽかんとしている。彼らもカミューと長い付き合いとは言い難い。だが、昨日から参戦を決したばかりの赤騎士よりは余程青年を知る自負があった。にも拘らず、思いもつかぬ事を語られて、それが不思議でならなかったのだ。
赤騎士団副長が苦笑した。
「責務は立派に果たしているのだから、恥じることでもなかろうと、つい洩らしてしまったのだが……やはりまずかっただろうか」
フリード・Yは咄嗟に傍らの皇子に目を向け、その表情を見取るなりぶんぶんと首を振った。得体の知れない紋章の力で発熱していると知れるより、寝汚い習慣という方がずっと穏便だ───その点で主従は一致したのである。
「起き抜けは半病人のようだが、切り替えは速いぞ。あれはなかなか真似出来ない」
「もともと夜更かし体質でいらっしゃるんでしょう。その分、朝に皺寄せが来るとでも言いますか……」
ふむ、と赤騎士たちは興味深げに頷いた。代表するかたちで第一隊長が言った。
「傭兵として身を立てている人間に対して、こう言っては非礼だろうが……ともあれ、体調には重々御留意いただきたいものだ」
「見た目は屈強とは言い難いが、なかなかあれで侮れない人物ですからな。心配は無用かと」
青騎士団・第一隊長が初めて口を開き、赤騎士らは苦笑いで応じた。
「では副長、我らはこれで」
「御苦労だった。午後あたりより、近隣から幾つかの小隊が戻り始めるだろう。長い休みは与えてやれぬが、せめて十分に労ってやるが良い」
「心得ております」
赤騎士団員は副長一人を残して退出していった。そこでマイクロトフはカミューの依頼を切り出した。
「実はカミューが、両副長に時間を空けて欲しいと……不在中について、相談しておきたいらしい」
二人は即座に頷いた。
「我々もそうしたいと考えておりました。今すぐにでも構いませんが」
「……出来れば午後が良い」
これではまるでカミューの朝寝坊が深刻であるようだ。何か別の適当な理由を捻り出すべきだっただろうか、そんな困惑を覚えながらマイクロトフは続けた。
「彼も考えを\める時間が必要だと思う。そう……、ここで昼食でも取りながら、というのはどうだろう」
「良いですな。では、出直して参りましょう」
赤騎士団副長が微笑みながら立ち上がる。青騎士一同は深い礼をもって退室する男を見送った。苦境に在っても沈着を失さず、配下の騎士を慈愛で包む彼に、所属を越えた敬意を抱いているのだ。
最初に姿勢を崩した第一隊長がちらとマイクロトフを見る。
「団長、あちらの隊長とカミュー殿に勝負させたのは失敗でしたな」
「何故だ?」
マイクロトフは驚いて瞬いた。確かに自身も乗り気で許した訳ではないが、結果的にあの勝負が赤騎士団員を惹き付け、カミューへと跪かせたのだ。それを否定するかのような男の言葉が意外で、知らず首を捻っていた。
青騎士隊長は不機嫌そうに言い募る。
「恐ろしく結束の固い筈のあの連中が、すっかり彼を受け入れている」
「……理想的ではないか」
「とんでもない」
男は嘆息して、どっかと椅子の背に凭れ込んだ。
「これで赤騎士団が任期終了後のカミュー殿を欲しがるのは必至です。我が青騎士団としては、手強い競合相手が生じてしまったことになる」
フリード・Yは必死に笑いを噛み殺した。「機動力の赤騎士団」、そんな評価を思い出していたのだ。彼らは既に、カミューへの好意を示すための進物まで済ませている。行動に出る迅速といったら、到底青騎士団の比ではなさそうだ。
───所属がどうあれ、あの優れた才知を持つ青年が、騎士としてマチルダを第二の故国としてくれたなら。
従者の若者は、次代の王の心を慮りながら、そんな未来を思い描いていた。
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