棟を出て、建物の外周に備わる回廊を抜けると、広々とした青い芝生の絨毯が迎える。
柔らかな草の踏み心地と微かな香りとが、懐かしい故郷の夏を髣髴とさせた。あの地にはこんな立派な石造りの建築物など皆無だったが───
カミューは午後の日差しに輝く城肌を見上げて琥珀色の目を眇めた。大地と共に生きる民には無縁の、人為の巨城。マチルダ皇国の頂き、ロックアックス城。ゆるりと巡らせた視線から感傷が消え、冷徹な観察者のそれとなる。
こんなところで立ち止まっている訳にはいかない。好悪の情には意味がない。何のためにこの地に来たのか、それを忘れてはならないのだ。
眠りながらルシアの名を洩らしたという。皇子から指摘されたとき、自らも気付かなかった心中を暴かれた気がした。
夢を見たのだろう───おそらく、叱咤される夢を。
カミューのうちに生まれた弱さを、遠き草原の地から彼女は案じているのだ。忘れるな、意思を貫けと呼び掛けてきたのだ。
忘れはしない。命を賭してでも本懐は遂げる。あの黒く温かな瞳が、どれほど裏切りを忌んで陰ろうとも。
幾棟にも分かれた城は、堅固な城壁にしっかりと囲まれている。ただでさえ山の頂きに築かれた城で、敵兵の侵入が困難であるからか、城壁自体は然程の高さではない。しかしそれでも二百年の王家の歴史を包み込む重厚に溢れ、容易に越せぬだけの畏怖に満ちていた。
積み上がる巨石の壁を横目に歩を進めると、西の外れに小さな門があった。僅かに錆を纏った鉄製の門は、飾り気のない城には珍しく繊細な装飾を施されている。
傍に一人の白騎士が居た。一応は張り番なのだろうが、退屈そうに生欠伸を繰り返し、門脇の壁にだらしなく凭れている。
その様子を遠くから眺めていたカミューの背に、不意に声が掛かった。
「何か面白いものでもありましたか?」
振り向くと、第一部隊の若い赤騎士が大きな袋を両腕に抱えて、視線の先を追っている。幾許かの驚きを覚えつつ、カミューは若者に向き直った。
「君か……良く会うね」
勘の鋭そうな赤騎士団副長が密かに付けた監視ではあるまいか、そんな疑念を抑えながら問うたが、相手は邪気なく微笑んだ。
「そうですね。何せ、この城は広いし、普段は見つけようにも見つからないことが多いんですが。縁があるなら嬉しいな」
やや気を抜かれたカミューがつられたように笑うと、騎士は再び門へと目を向けた。
「熱心に見てらしたみたいだけど……門が何か?」
「実は城内探索中なんだ。あの奥には何があるのかと思ってね」
すると若者は抱えた荷を重そうにずり上げながらあっさりと言った。
「墓ですよ」
「墓?」
「門の先は小さな森になってます。小道を少し行ったところが騎士の墓地に当てられているんです。更に奥には皇王家代々の御陵もあるし、我々にとって神聖な場所ですね」
彼は丁寧に続けた。
「先祖代々の墓に葬られるものもいるけれど、やっぱり仲間と一緒に眠りたいと希望する騎士が多いんです。同じエンブレムをつけたもの同士の共同墓地みたいなものかな」
ふうん、とカミューは相槌を打ち、ふと思いついて尋ねた。
「罪人も?」
「え?」
「中には騎士として恥ずべき振舞いを犯したものもいるだろう。そうした人間でも、そこに葬られるのかい?」
「無論、死罪が適用された騎士は別扱いですよ。入ってすぐのところに、それ用の区画が設けられてます」
それから赤騎士は複雑そうに首を捻る。
「森は日が傾いてくると相当に暗くなるので、日没前の早い時間に門が閉鎖されるんです。行ってみるなら、張り番がいる今のうちですよ。案内出来たら良いんだけど、これから街に下りなきゃならないから……」
初めてカミューは彼の抱える荷に意識を払った。視線に気付いた若者は満面の笑みを見せた。
「そうだ、明日はおれも同行させていただきます。どうぞ宜しく」
赤騎士団副長が言っていた、仲間への説明係であるらしい。相手が多数の負傷者を出した部隊の騎士なのを思い出し、カミューは眉を顰めた。
「怪我は良いのかい?」
「まるで問題ありません。もともと「いずな」に引っ掛かれた程度で済んでいましたから。運には自信があるんですよ」
心底得意気な言い様に、カミューは肩を竦めて苦笑する。
「……で、出立を控えた君が抱えたその大荷物は何かな?」
「街道の村に集結となると、村の商人に駐屯用の食料提供を求めねばなりません。だから、団内の不要品を売り払ってその資金に当てようという副長のお考えなんです」
皇国内での騎士団の権威は強い。突発的な食料等の調達においても、商人に対して、後日払いを前提とした所謂「信用取引」を強要出来る立場にあった。しかしこれが行われた場合、掛売りの習慣を持たぬ商人には、一時的にではあっても、かなりの負担となってしまう。民を護るという騎士団の道義上、無用な負担は与えたくないというのが赤騎士団副長の心情なのだ。
ただ、多くの任地に部下を送っている今、赤騎士団は財政的にも豊かとは言い難い状態にある。故に、苦肉の策として不用品の売却が講じられたのだった。
カミューは温厚そうな男の顔を過らせ、心から呟いた。
「武力と慈愛か。理想的な指揮官だな」
でしょう、と賛同を示した騎士が小声で付け加える。
「でも、御本人はそう思ってらっしゃらないみたいなんですよ」
「どういうことだい?」
「真の指導者たるものは、存在だけで力となる人物を言うのだ、と副長はよく言われるそうです。前は分からなかったけど、今は何となく……マイクロトフ殿下を見ていると、そんな気がします。選ばれた覇者の気配、と誰かが言ってたかな」
「選ばれた───」
「まだお若いけれど、もし一介の騎士だったら十年も経たないうちに白騎士団長として全騎士団を束ねたんじゃないかって言う奴もいるくらいで」
そこで彼は苦笑した。
「……っと、これって不遜な発言に当たるかな。内緒にしてください」
屈託のなさが好ましく、頷きながらも不思議な心地だった。
未だ成人もしていない皇太子。剣腕は優れているにしろ、戦場で武功を立てた訳でもないマイクロトフに、何故こうまで騎士が心酔するというのだろう。真っ直ぐな気質、裏表のない正義、どれも美徳には違いないが、決め手には欠けると思われるのに。
「すいません、また長々と……。もう行かなきゃ」
唐突な赤騎士の声に我を取り戻し、カミューはにっこりした。
「説明をありがとう。その品が高値で引き取られるよう、祈っているよ」
「使いっ走りも大事な任ですからね、心してつとめます」
朗らかに言うなり、彼は気負った礼の仕草を残して去って行った。
暫し見送ったカミューは、すんなりした若い体躯が城壁沿いの木立の奥に消えるのを待って歩き出す。目指すは遥か先に構える東側の棟だ。
内庭をゆったりと、城の佇まいを眺め上げるような遠き眼差しで進む彼に、時折、回廊から丁寧な声が掛かる。カミューが普段接しているのは殆どが青騎士団の上位階者だが、まるで顔を知らぬ平騎士、更には赤騎士までもが親愛溢れる態度を見せた。
視線を送ってくるものの中には白騎士もいるが、他二騎士団員と言葉を交わすカミューに敢えて近付くものはない。基本的に自団が一番という自負が強いのか、所属の異なる騎士や部外者との交流には積極的でないようだ。
カミューは向けられる好意に逐一愛想良く応えていたが、やがて中央棟を過ぎて、騎士の通行がまばらになる頃から表情を変じ始めた。甘色の琥珀が、最初の通用門を捉えて怜悧に光る。
正門の雄大とは比較にならないが、門には政策議員と思しき人々、出入りの商人が多数行き来しており、それらすべてを数名の張り番が吟味していた。赤騎士団員の多くを欠いた今、この場の警備は青騎士が担当しているらしい。
墓地へ向かう門とは比ぶべくもない重要度。これでは騎士のはたらきぶりに差があるのは致し方ない。否、そうした軽易なつとめを与えられている時点で、国の護りとしての白騎士団の衰退が知れると考えるべきだろうか───カミューは尚も先へと歩を進めた。
殆ど城壁の最東端ともいうべき場所に、その忘れられた古門はあった。本当なら白騎士が見張りに立っている筈なのに、マイクロトフが語ったように、今も無人だ。周辺には草木が生い茂り、使用されなくなって久しいのが瞭然だから、白騎士も心置きなく怠慢に身を委ねるのだろう。
流石にここまで来ると周囲に人の姿はない。カミューは閉ざされた門の前に立った。
今にも朽ちそうな木製の扉は旧式の錠前で、これまた変色し果てた門枠に繋がれている。だが、よくよく見ると錠前は壊れていて、掛け具に下がった状態によってかろうじて施錠の様相を見せているだけだった。ここから脱出を図ったとは言え、皇子が壊したとも思えないので、おそらくだいぶ前からこの状態なのだろう。
軽く扉を押して城壁の外を窺うと、膝丈ほどもあろうかという草々が視界に広がり、道らしきものは見当たらない。それらを確認した後、カミューは嘆息した。
まったく、王城にあるまじき無用心である。どんなに堅固な城であろうと、ほんの僅かな綻びから崩れ落ちるときもあろうものを。
マイクロトフもマイクロトフだ。脱出の際に壊れた錠前に気付いたのなら、問題にすべきだろうに。
しかし、今ひとたび錠を睨み、ふと考えた。
最近では殆ど目にしない古い型の錠であるため、もしかしたらあの皇子はそれが壊れていると思わなかったのではないか。この城では、門は夜間しか施錠されない慣習になっているのかもしれない。だとしたら、皇子の警戒の薄さを非難するのは酷かもしれない───
そこまで考えて、カミューは白い頬に自嘲を浮かべた。
何を好意的に捉えようと努めているのだろう。あの男の鈍さは、己にとって利にしかならないというのに。
鋭い視線が通用門から建物へと移った。東棟と一口に言っても、実際は増築を重ねた幾つかの棟の集合体だ。その中でも一際大きく張り出して庭に面した一棟、皇子の本来の居室がある建物を睨み据える。
近くはない───けれど、遠くもない。
立ち尽くす青年の細い影が、傾く日を追い掛けるように長く暗く伸びていた。
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