最後の王・40


宰相夫人の手作り料理でグリンヒルから訪れた女使者を持て成した後、マイクロトフは西棟の入り口でフリード・Yと別れた。
決して盛大とは言えぬ晩餐だったが、エミリアは温かな心尽くしを満喫していたし、同席した宰相夫妻やフリード・Y、そしてマイクロトフ自身も、エミリアの機知に飛んだ話術に引き込まれて楽しい時を過ごした。
夜が更けるのも忘れて話に興じていた一同だが、やがて明朝早くに出立するのを思い出したエミリアが退席を申し出て、座はお開きとなった。
自室へと戻る途中、マイクロトフは副官を訪ねてエミリアの帰路に騎士を同行させて欲しいと伝え、快くこれを了承された。それから騎士らの親愛の礼に見守られて、目指す客間に着いたのだった。
扉を開けるのと前後して、部屋続きの浴室からカミューが姿を現した。濡れ髪が上気した頬に纏わりつく様が何とも艶美で、知らず息を詰めてマイクロトフは青年が二つの寝台の間に進むのを見守った。
「お帰り」
柔らかく声を掛けられて慌てて背を正す。
「あ、ああ。遅くなった」
「先に湯を使わせて貰ったよ」
夜着の下衣にローブを引っ掛けただけの青年。濃紺の布地から覗く白い胸元と、隆起する鎖骨に脆さが浮かび、努めて目を逸らしたところへ静かな声が呼んだ。
「こういう待遇は慣れないのだけれど……どちらを使えば良い?」
寝台を指されて思わず笑むマイクロトフだ。
「同じ寝台だろう? この部屋の安全は約束されたも同然だからな、好きな方にすれば良い」
「それじゃ、窓側を貰うかな。どうせ明日の朝も訓練する気だろう? わたしは遠慮するから、静かにそっと抜け出て行ってくれ」
聞くなりマイクロトフは吹き出した。やたら勤勉と思われた護衛だが、可能と判断したところはしっかり手を抜くつもりらしい。
「分かった、ゆっくり寝ていてくれ。おまえは過ぎるほど働いているのだからな」
そこで彼は、窓側の寝台に腰を下ろした青年と向かい合うように、もう片側の寝台に座った。持ち寄った小ぶりのトレイを一瞥したカミューが怪訝げに問う。
「……晩餐だけでは足りなかったのかい?」
トレイには幾つかの料理を小分けに盛った皿と蓋付きのスープ皿が乗っている。それをカミューの脇に置きながら、マイクロトフは彼を軽く睨んだ。
「夕食を取ったか?」
「…………」
「取ってないだろう。戻る途中で何人かに聞いたが、誰も食堂でおまえを見ていなかったぞ」
「……そんなことを聞いて回ったのか」
問われた騎士らは、皇子のそれを邪気の無い好意と微笑ましく取っただろう。だが、ゴルドーが示唆した意味での「寵愛」と見ないとも限らない。ポツと洩れた抗議の響きを無視したマイクロトフは得意げに続けた。
「どうもおまえは自分の体調には無頓着らしいからな。そんなことではないかと、晩餐の料理を持ってきた」
「…………」
「残りものではないぞ? ちゃんと初めから取り分けておいたのだからな。他の料理は冷めてしまっているが、スープだけはまだ温かい筈だ」
食べるようにと勧めた男に、カミューは暫し黙していた。湯気の立つスープが形良い唇に運ばれるや否や、マイクロトフは勢い込んで半身を乗り出す。
「美味いだろう? グランマイヤー夫人は料理が上手いのだ。食堂で騎士と取る食事も悪くないが、彼女の手料理はやはり格別だ」
「……そうだね」
「こっちも試してみろ、カミュー。仄かな辛味が絶品で……」
尚も言い募る男をひたと見詰めたカミューが、薄い苦笑を浮かべた。
「マイクロトフ……おまえが女だったら、良き母親となっただろうな」
あまりに意表を衝いた指摘を受けて呆けた皇子が、次には目を剥く。
「は……母、だと?」
狼狽を微笑みで一蹴し、カミューは皿に眺め入った。
「食事まで運んでくれるなんてね。こうまで甲斐甲斐しく世話を焼いて貰ったのは子供の頃以来だ。ちょっとした感激かな」
「……何とでも言え」
半ば自棄になってマイクロトフは応じた。ありがたいと思うなら、素直にそう言えば良いものを、何かしら揶揄めいた台詞で韜晦するカミューにもすっかり慣れた。
寧ろ、美味そうに咀嚼を重ねる姿に安堵する。まったくこの男は、もしも自分が気を回さなかったら、空っ腹を抱えて眠るつもりだったのだろうか。
「カミュー、さっきのあれを気にしているのか?」
「何を?」
「ゴルドーが不快な暴言を吐いただろう」
ああ、と彼は首を振った。
「馬鹿が何を言ったところで、気になんかならないさ」
実に辛辣な評価である。次にマイクロトフは、やや落ちた語調で重ねた。
「では、おれの言葉は不快だったか……?」
ずっといつまでも傍に在って欲しい大切な存在───偽りでも誇張でもなく、真実、胸を衝いた思いだった。しかしカミューには、控え目にではあるが、親愛を退けようとする気配がある。衆目の中での宣言が、そんな彼の気に障ったのではないかと案じられたのだ。
これにもカミューは首を振った。
「別に不快だなんて思わないよ。あれでゴルドーはたいそう狼狽えていたからね、なかなか興味深い一幕だった」
「別に策だとか、ゴルドーへの意趣返しで言ったのではないぞ」
マイクロトフは憤然と遮った。
「おれは本気で、おまえに留まって欲しいと思っている」
「前にも言わなかったか? 契約期間の延長はない」
「次の行き先が決まっているのか? ならばその後、いつでも構わない。おまえの身が空いたときに───」
不意に琥珀が凍った。
「もう黙れ。食事の邪魔だ」
う、と絶句したマイクロトフが渋々と座り直す。どうしてこう機微が読めず、我武者羅に突き進むばかりなのかと、カミューに対しては自制が利かぬ己の不器用をつくづく悔やみながら。
気詰まりな沈黙の中、それでもカミューは料理を綺麗に平らげた。最後のスープを啜って息をつくと、頑なだった表情が和らいだ。
「美味かった。本当に宰相夫人は料理上手だ」
それからトレイを手に立ち上がり、室内を見回す。
「これは……どうすれば良い?」
「そこの棚にでも置いておけばいい。明日の朝、訓練に出るついでに、おれが片付けておく」
他者に片付けさせようといった意識は皇子を過らぬようだ。マイクロトフという男は、つくづく傲慢とは無縁の王族なのだとカミューは改めて思い知った。言葉通りにトレイを置いて、再び寝台の縁に腰掛け、低く切り出す。
「……悪かった。傭兵として留任を望まれたならありがたく思うべきだろうに、「黙れ」だの「邪魔」は酷い言い草だな」
弱く零れた陳謝に驚いて、マイクロトフは急いで首を振った。
「いや、おれが悪かったのだ。おまえの都合も考えず、希望を押し付けるような真似をしてすまなかった」
ただ、と小声で言い添える。
「考えて貰えたら、とは今も思っているが」
それを聞いてカミューは小さな笑いを洩らした。如何にも機嫌を窺うような、皇子の声音と目つきが可笑しかったのだ。
「次の契約が決まっているという訳ではないんだ。ただ……この仕事が終わったら、グラスランドに戻ろうと思っている」
「里帰りか?」
何気なく問うたところ、返った答えに息を飲む。
「まあね。もう何年も帰っていない。墓を守る人間はわたししかいないのに」
「御家族の墓、か……?」
マイクロトフの脳裏に夕方の遣り取りが去来したが、それはカミューにも同様だった。虚ろな視線を彷徨わせながら彼は頷いた。
「わたしが護りたかった「大切なもの」だ。護れなかった。わたしに力がなかったから」
「…………」
「家族───そう、家族だ。血は繋がっていなかったけれどね」
「え……?」
初めて身辺を語る気になったらしい青年を驚きをもって凝視していたマイクロトフは、さらりとした一言に目を瞠った。
「生みの母は、赤ん坊だったわたしを抱えてグラスランドの草原で行き倒れていたんだ。とある村の住人が、瀕死の母を見つけて村へ運んでくれたが、介抱及ばず母は死んだ」
「…………」
「だからわたしは母の顔を知らない。父親が何処の誰かも分からない。母には言い遺す力もなかったそうだから。それからわたしは、その村で育てられた。ああ……、そんな顔をするな、わたしは不幸だった訳じゃない」
何時の間にか表情を歪めていたのを柔らかく指摘される。そんな慰撫が身に染みて、逆にマイクロトフは堪らず唇を噛み締めた。
「わたしは一度だって自分を孤児と思ったことはなかった。村中の人間が親であり、兄弟だった。優しい人たちだったんだ、本当に……。子供の頃のわたしには、あの小さな村が世界の全てだった」
マイクロトフは、ふと気付いた。先程よりカミューは村人について過去形で語り続けている。口を挟んで良いものか迷いながら、おずおずと切り出した。
「カミュー、墓というのは……どなたが亡くなられたのだ?」
短い沈黙が落ちた。琥珀を彩る長い睫が揺れ、やがて洩れた声は痛々しいほど弱かった。
「全員だよ。わたし一人を遺して村は死に絶えたんだ」
な、と思わず息を詰め、食い入るように俯いた青年を見詰める。
「流行り病か何かで……?」
今度は、いっそう長い沈黙だった。それは躊躇に他なるまい。これ以上傷を探らぬようにと、マイクロトフが問い掛けを取り下げようとしたときだ。感情の死滅した、あの冷えた声が語り始めた。
「十四のときだった。ある夜、狩りから戻ると村に火の手が上がっていて、至るところに村人の亡骸が転がっていた。何が起きたのか分からなかったが、誰か生きていないか、助けられる命はないかと村中を走り回って───そして見つけた。村人たちを殺した敵を」
「…………」
「わたしの目の前で、最後の一人が死んだ。わたしを兄と呼んでくれていた子だ。武器も満足に扱えぬ幼い少年を、彼らは囲んで斬り殺した」
盗賊か、と胸を裂かれる思いでマイクロトフは目を閉じた。淡々と語る青年の心に刻まれた悲劇を痛み、呼吸までもが苦しくなるようだ。
「剣を抜いて向かっていったのだけれどね、あの頃のわたしは身体も技術も未熟すぎた。敵の数は両手に余るほどだったから、今考えると無謀としか言えない。二人までは何とか斬り付けたが、それも致命傷には程遠かった。だからわたしは、あのとき一度死んだも同然なのさ」
───絶体絶命の窮地、そして耐え難い悲憤に応えて眠れる紋章が目覚めなかったなら。
心の声は、しかしマイクロトフには届かない。屈強の皇子は無言で戦慄くばかりだった。
「……そこへゲオルグ殿が通り掛った。あの偶然がなかったら、わたしも村人と同じ末路を辿っただろうね」
「ゲオルグ・プライム殿? おまえが剣を学んだという?」
そう、とカミューは懐かしげに笑む。
「命の恩人だよ。剣の基礎も仕込んで貰った。平和な村だったからね、正式な剣術の師となるような人はいなかったんだ。自己流でも、そこそこの敵なら立ち向かえる。けれど、相手がそれなりの腕を持っていた場合は通用しないと思い知った。それから四年半あまり……半年ほど前まで、彼と一緒に傭兵の真似事をしながら方々を旅して回った」
「……そんなに長く共に過ごしたのに、どうして別れてしまったのだ?」
するとカミューは瞬き、ふっと力を抜いた。
「考え方の違い、かな。わたしはあまり良い弟子ではなかったんだ。愛想を尽かされても仕方がないと思っている」
「そんな……」
馬鹿な、とマイクロトフは自問した。
卓越した剣腕、煌めく才知。どれをとってもカミューは稀に見る逸材だ。上位騎士の誰もが心から騎士団招聘を口にしている。人柄とて──マイクロトフには複雑な多面性を見せるが──文句のつけようがない青年だ。何をもってしてゲオルグの不興を被ったのか、マイクロトフにはまるで理解出来なかった。
カミューは唐突に調子を変えた。
「そんな訳で、長い不義理を墓前に詫びに行かないとね。その先のことは……今は考えられないな」
そうか、と弱く相槌を打って、それから静かに言い添える。
「グラスランドか。いつかおれも行ってみたい」
「え?」
「空や草の色、マチルダにはいない鳥や獣……さぞ雄大な地のだろうな」
そして何より、カミューが育まれた地だ。己の知らぬ、彼の微笑みや涙を見守った遥かな草原。
「何を言っているんだ、そんな身軽な立場じゃないだろうに」
苦笑混じりに言って、カミューは目を伏せた。
この男の目にはどう映るのだろう。村の残骸と、その地に生きた人々の末路は。
全員の墓標を立てるのは到底不可能だった。ゲオルグの手を借りて掘った大穴に亡骸を\めて葬るしかなかった。
そこに眠る人々を覚えているのはカミューだけだ。赤子だった彼を抱いてあやしてくれた女たち、精霊の話をしてくれた老婆、剣をくれた村長、狩りを教えてくれた男たち。
大きな盛土の下にどんな人々が眠っているのかを知るのは、今やカミューだけなのだ。
耐え難い痛みが突き上げ、低い声となって溢れ出た。
「来い、マイクロトフ」
「えっ?」
「ここへ来てくれ、……早く」
訝しげに眉を寄せつつ、言われたようにカミューの隣に移る。敷布に腰を落とすなり、ふわりと鼻先を柔らかな髪が掠めた。マイクロトフは、肩に押し当てられた額にぎくりと硬直した。
「カ、カミュー?」
「昨夜はわたしが肩を貸してやっただろう? いいから少し、このままでいろ」
「う、うむ。おれで良いなら、そうさせて貰う」
些か珍妙な応えを返して、マイクロトフは身を固くしたまま黙り込んだ。一瞬だけ、グリンヒル公女への返書を記さねばと過ぎったが、今はそれどころではなかった。
昨晩、マイクロトフは己の過去を打ち明けて随分と楽になった。けれどカミューは違うらしい。どうして語る気になったのかは分からないが、口にした諸々は彼の心を癒すどころか、いっそう深く傷つけたのだという事実だけは察せられた。
肩口に伏せられた表情は見えない。悲しみを堪えているような震えも見出せなかった。しかしマイクロトフには、彼の悲鳴が聞こえるような気がした。
「……何故なんだろうな」
ポツと洩れた響きに眉を顰める。
「何がだ?」
控え目に質すものの、予期された通り、答えは返らない。カミューは熱に浮かされたように呟き続けた。
「どうして……」

 

何故、この男の肩はこうも広く、温かで心地好いのだろう。
何も知らない、ただ綺麗なだけの、マチルダ皇王家最後の一人が。
カミューは皇子の肩に顔を伏せたまま、冷たい涙を滲ませた。

 

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いきなり急接近に出た赤。
硬直しとらんで抱き締めんかい、プリンスめ。

27話から続いた(←……)長い一日が終了。
そら、疲れて泣きたくもなるわな。

 

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