最後の王・39


「どうだ、一杯?」
美麗な椅子に腰を落としたカミューに突き付けるように、騎士団の支配者は酒瓶を揺らしてみせた。
「カナカンの極上品だ。マチルダでは滅多に手に入らぬ品でな、大枚を払ったものよ」
財力と権威をひけらかす男を薄い笑みで一瞥し、カミューは緩やかに首を振る。
「折角ですが、お断り致します。現在のわたしの役どころは「敵である白騎士団長に強引に招かれた皇子の護衛」ですから。意に染まぬ筈の会食で、心地好く酒を嗜む訳にはいかないでしょう」
するとゴルドーは陰湿に口元を緩めた。
「抜け目がないな、カミュー。このところ青騎士団の連中が何やらコソコソと動いているようだが……わしへの叛意を先導するのも仕事のうちか?」
自らに後ろ暗い面を持つ男は周囲の感情に敏感であるといったところか。ゴルドーの問い掛けの半分は厭味であるかのようだった。
「あなたと敵対する騎士らの側に在るわたしを、誰が刺客と疑うでしょう。より確実に任を果たすための手段です」
ゴルドーは依然、承服しかねる面持ちである。
「信用させ、油断させるためだと?」
「はい。それにしても……良くわたしがワイズメル公主の手のものとお分かりになりましたね」
すると男は得意気に腹を揺すった。
「確かにわしは長い間マイクロトフと個人的な話など交わしておらぬ。だが、あやつが友をロックアックスに招くなど、これまで一度としてなかったのだぞ。それがこの何かと多忙な時期に唐突に……まことならば多少は議員の間で話が出ても良さそうなものだ。そこへ「グリンヒル」という鍵があれば、流石に気付くわ」
それから再び忌々しそうに唸る。
「マイクロトフは既に十分、おまえの手のうちだろう。さっさと寝首を掻いたら良かろうて」
大切な人間だ───そう臆面もなく言い放った皇子が過り、カミューは一瞬だけ目を伏せた。
「そういう訳には参りません、ゴルドー様。わたしはワイズメル公主より厳命を受けておりますから」
「厳命だと?」
はい、と応じた次には妖艶な美貌が笑んだ。
「ゴルドー様との繋がりを決して気取られてはならぬ、と。これまであなたが皇子暗殺に幾度も失敗ったのは、グランマイヤー宰相以下、騎士団の人間でさえ知っています。ここで現れたわたしが即座に皇子を殺せば、あなたの息が掛かった刺客だと白状しているようなもの……、わざわざ策を弄して潜り込んだ意味がありません」
カミューは背凭れにゆったりと身を預け、しなやかな左右の指先を合わせて挑戦的にゴルドーを見詰めた。
「わたしがこうして皇子、そして彼に味方するものの側について動いているのは、逆にゴルドー様を御護りするための苦肉の策でもあるのです。そこは御理解いただかねば」
強い視線にたじろいだゴルドーは、威風を保とうとしたのか、わざとらしく数度に渡って咳払いした。
「ワイズメルはそこまで気を遣ってくれたのか。ふうむ、マイクロトフを亡きものにした暁には、せいぜい礼を尽くさねばなるまいな」

 

白騎士団長ゴルドー。王家の血を持たぬ、逸れものの王族。
己の立場の虚しさに気付いたのはいつの頃だったろう。連れ子としてマチルダ皇王家系図に名を印されたゴルドーには、かつては王族として恥じぬ働きを為そうと心掛けた時期もあった。騎士団に所属した後は、その剣才で周囲を感嘆させもしたのだ。
だが、ある日気付いてしまった。決して己が手に入れられぬ至高の地位、それを約束された人間の存在に。
第一王位継承者、皇太子マイクロトフ。彼は生まれながらの勝者だった。ゴルドーがどれほど望み、努力したところで昇り詰められぬマチルダの頂点を、彼は体躯に流れる血ひとつで得ることが出来る。そこに生まれた小さな妬心は、瞬く間にゴルドーを埋め尽くし、狂わせた。
もし、もう少しだけ謙虚であれば。そして思慮深ければ、己の力量で──多少は王族の一員であることの恩恵で──いつか得るであろう白騎士団長という栄名で満足しただろう。
けれど、一度狂い出した歯車は元には戻せなかった。ゴルドーにとってマイクロトフは、いつしか「己の得るべき栄誉を簒奪した憎むべき敵」と化していたのである。
どうせ得られぬ王位なら、王制そのものを葬り去ってしまえば良い。この国の行政の多くは騎士団が差配しているのだから、言ってみれば、今や自分こそがマチルダの支配者なのだ。そこに新たな王などいらない。
ひっそりと息を詰め、長いこと待った。どす黒く渦巻く野望をひた隠しにして、牙を砥ぎながら待ち続けた。最大の障壁であった前皇王が消えた今、何ひとつ野望を阻むものはない筈だったのに。
最後の王位継承権を持つ男は嫌になるほど強運だった。講じた数々の罠を潜り抜け、泰然とゴルドーの前に立ちはだかり続けた。
血縁はないにしろ、叔父が甥の命を狙う以上は慎重に事を運ばざるを得ない。自らが謀殺の首謀者と周知になっては、後の統治に障るからだ。故に、配下の騎士を直接暗殺に差し向ける訳にも行かず、結果、失敗の連続で皇子とその側近に己の害意を気付かせてしまった。
せめて表向きだけでも平伏しておけば、あるいは人の好い彼らを欺き通せたかもしれない。そう出来なかったところに策謀家としてのゴルドーの限界がある。
ただ、彼は最後の札を持っていた。騎士団外から護衛を招き、即位の日まで皇子を暗殺の魔手から隔てようと考えた宰相を出し抜く、絶妙な切り札を。

 

「よもやグランマイヤーも、前皇王とも親交浅からぬ仲であったワイズメルがわしと結んでいるとは思いも寄らなかったであろうな」
片手で白い顎髭を扱いて、くくく、と男は含み笑う。長く皇子の強運に敗れてきた身が漸く初めて優位に立った、そんな抑え難い満悦が豊満な体躯に溢れ出ていた。
宰相グランマイヤーは外交で近しくなった数人の人物に、優れた護衛を推挙して欲しいと依頼していた。
武力ではデュナン屈指の騎士団を有する国家、何ゆえに外部の武人を必要とするのか、依頼を受けた相手には多少の怪訝もあっただろう。しかし、そこはグランマイヤーの人柄がものを言った。彼らは深く詮索するでもなく、求めに応じたのだ。
グランマイヤーが書状を送った中に、グリンヒル公主アレク・ワイズメルがいた。近い将来、マチルダ皇王家と縁戚関係を結ぶワイズメル公は、グランマイヤーが最も信頼する人物の一人であった。婚姻によって両国の絆を深め、大いなる安寧と豊穣を目指そう───そう持ち掛けた公主を疑う理由など彼にはなかったのだ。
ゴルドーの度重なる皇子暗殺失敗を知るワイズメルに、これは天の与えた僥倖とも言える書状であった。彼は早速、ロックアックスで鬱々と過ごす友人に密書を送った。グランマイヤーの求めを逆手に取り、護衛の仮面を被った最高の暗殺者を送り込む、と。

 

「それにしても、遅かったではないか。他の候補が護衛に決まっていたら、せっかくの目論見も終わりだ」
カミューははんなりと微笑んだ。
「そのあたりの事情は存じません。ですが……やはり国柄ではないかと。グリンヒルは武力とは無縁の国。暗殺者など、手配しようにも容易ではないでしょう。わたしが公主の御目に止まったのとて、たまたま郊外で家臣の一人を助けた偶然からですし」
断りはしたものの、目前のグラスにはいつしかたっぷりと酒が注がれている。薄い飴色の酒を見詰める瞳には、事実を述べる淡々とした冷たさだけがあった。
「一応、宰相が指定した「面接日」とやらには間に合いましたし、こうして皇子の懐に潜り込めたのですから、それで良しとしていただかねばなりません」
まあな、とゴルドーが嘆息するのを待たず、カミューは身を乗り出して愁眉を寄せた。
「それはともかく、公主です。ゴルドー様に申し上げても詮無きですが、公女と皇子の結婚などという大事な情報を、わたしは今日まで知らずにいたのですよ」
「何?」
これにはゴルドーも意外そうに目を瞠った。
「グリンヒルで耳に入らなかったのか?」
「殆ど一室に籠められた状態で、ロックアックス城内の造りや街の地理を学んでおりましたから」
ふむ、と眉を顰めて男は唸った。
「まあ、な……ワイズメルも実の娘を駒に使うのだからな、些か口にしづらかったのかもしれん。他意はなかろう」
「どんな駒です。まるで無意味だ」
マイクロトフ暗殺に加担するワイズメルにとって、この結婚話は負でしかない。婚儀を待たず婚約者に先立たれた悲劇の姫と、一時は公女に同情が集まるだろう。
が、将来的にはどうか。不吉な過去を背負った公女は他家に縁付くのも難しくなる。非難するように言うと、ゴルドーもやや気まずそうに声を潜めた。
「そこは賭け、よ。一縷の望みがない訳ではない」
「望みですって?」
ゴルドーは満たした杯をぐびりと煽った。
「公女テレーズは正式にマイクロトフと婚約を済ませているのだ。ほぼ、王家の一員と見做しても良い存在よな。さて、マイクロトフが死んで二百年続いた王家が断絶する───そこに皇妃となる筈だった娘が残っている。どうなると思う?」
「当人不在で婚約は破棄、それがものの道理でしょう」
「……あるいはテレーズを新皇王として仰ぐか、だ」
カミューは唖然とした。
「皇王位は始祖の直系の血縁者でなければ昇れぬのでは? だから王家の血を絶やすことで王制廃止を狙われたのでしょう?」
するとゴルドーは四肢の肉を揺らして乗り出した。
「無論、それが今までの歴史だ。だがな、カミュー。聞いたかも知れぬが、先王時代に王制の廃止は既に一度、取り沙汰されているのだ」
確かにグランマイヤーがそのようなことを言っていた。子に恵まれず、側室も持たぬ皇王の姿勢に、一時は王家の断絶が囁かれたと。
カミューが軽く頷くと、ゴルドーの声音はいっそう低くなった。
「分かるか。マティスの血は、今や昔ほどの重みを持たぬのだ。王位継承者の妻になる筈だった女を血縁者と同等に考えても良いのではないかといった意見は必ず出る」
「…………」
「わしとワイズメルの傀儡───初の女皇王。わしが表立って全権を掌握するより、世間的には穏便に、マチルダの新時代が始まるという訳よ」

 

ふと、カミューの胸に憐憫が兆した。
哀れな公女。己の父の展望を、何処まで知っているのだろう。
フリード・Yが言うように、聡明で気高い娘であっても、肉親の醜悪には気付かぬものか。それ以上に、親の決めた伴侶に惹かれるものがあったというのだろうか───

 

「もし首尾良く行かぬでも、マチルダとグリンヒルの協力体制には変わりない。後の縁組には精々留意してやるわ。そう……、わしの息の掛かった名家の騎士でも婿に送ってやるか」
からからと高笑う男には公女を道具としか見ていない冷酷があった。カミューはひっそりと息を吐いて言葉を接いだ。
「それから……改めてお聞きします。あの無頼の連中は何です?」
「無頼……?」
「ロックアックスへ来た最初の日、皇子は礼拝堂の近くで二十名ばかりの無頼漢に囲まれていました。腕も気概も三流以下の刺客です。わたしが来ると知りながら、あのような連中にまで声を掛けていらしたのなら、甚だ心外です」
ゴルドーは暫し沈黙した。が、すぐに思い当たって目を剥いた。
「そうではない。依頼したのは随分と前なのだ。あやつらは北の山脈に巣を張っていた山賊崩れでな、腕が立つとの触れ込みだったが、マイクロトフめがなかなか城から出ぬものだから……」

 

騎士を使えぬゴルドーが暗殺のために雇った一味だが、肝心な標的が城に篭ったままでは手出しのしようがない。悪戯に日が流れるうちにゴルドーは朋友からの心強い知らせを受けてあっさりと無頼漢らの存在を失念したが、当の男たちは前金しか受け取っておらず、暗殺を果たして残金を得ようと、城の外からマイクロトフの行動に留意していたという訳だった。

 

「とは言っても、もう少し相手は選ぶべきですね。グランマイヤー宰相は、謀略の尻尾が掴めない、掴んだ尻尾も切れてしまうと嘆いていましたが……あの連中が捕縛されようものなら、ぺらぺら喋るでしょう。無論、直接相対された訳ではないでしょうが、大事な側近の一人くらいは失ったかもしれませんね」
ううむ、とゴルドーは腕を組んだ。反応を見たカミューは、皇子との最初の邂逅の日にあった事件を本当にゴルドーは知らなかったらしいと確信した。低く嘆息して、首を振る。
「……ともあれ今後は、半端な手出しは無用に願います。皇子への接触も極力控えてください。戯言で挑発するなど論外です、何の利もない行為ですよ」
「しかし、カミュー」
男は阿るような猫撫で声で問うた。
「わしはいつまで待てば良い? いつ実行するつもりなのだ?」
「わたしが「そのとき」と判断したら、……です」
きっぱりと言い切った次には嘲笑うような陰りが浮かんだ。
「最も劇的なのは即位式典当日でしょうね。そこでわたしを捕らえれば、あなたは王権なき後のマチルダに君臨するに相応しい英雄として人々に認識される」
光景を描いているのか、男の小さな目がくるくると宙を彷徨う。
「悪くないな、英雄か」
独言めいた呟きに、薄い琥珀が煌めいた。
「けれど、わたしも自分の身は可愛い。後でこっそり逃がしていただける確証はないし、そこまでの危険は負えません」
「いや待て、カミュー。詮議をわしの手のもので行い、逃がすことは可能───」
慌てて言い差したゴルドーをやんわりと押し止め、カミューは優美に姿勢を崩す。
「最後の王位継承者の暗殺……詮議はともかく、最終的には間違いなく死罪が適用されるでしょう。わたしに似た死体を用意したところで、顔はどうするのです? 絞首にしろ斬首にしろ、宰相や皇子側の騎士たちが検分しない筈がない」
「う……」
「そんな面倒を背負い込んでまで、あなたが義理を果たしてくださるとは残念ながら思えません。傭兵と雇用者の信頼関係など、所詮はそんなものです」
ゴルドーは卓上の冷えた料理の皿を睨みつけるようにして暫く考え込んでいた。しかしカミューの主張を切り返すだけの妙案は浮かばず、やがて肩を落とした。
「……やむを得ぬな。最良の舞台ではあるが、確かに難しい。まあ良い、手段も時期も、すべておまえに任せよう」
言うなり彼は料理を啄み始めた。身振りでカミューにも食えと勧めるが、男の飢えた獣のような咀嚼を見るだけで胸が悪くなるようだったので、カミューは穏やかに断りを入れた。
「今後のため、幾つか確認しておきたいのですが……宜しいでしょうか」
「構わぬ、言ってみよ」
「グランマイヤー宰相を「始末」しなかったのは、やはり国の中心人物を立て続けに失うのは不自然とお考えになられたからですか?」 
するとゴルドーは大振りの手羽肉を噛み千切りながら嘆息した。
「それもある。皇王不在となって初めて、宰相という役職の重要性が浮き彫りになった。マイクロトフにも劣らぬ邪魔者だが、いなければいないで困るのだ。わしの手駒に、あやつに匹敵する政治力、外交手腕を持つものがおらぬ。奴を消しても、引き継ぐものがいなければ、たちまち国は大混乱よ。未成年の王位継承者は成人するまで即位を待つというのが国の決まりだが、ひとたび混乱に陥れば、未成年でも良いからマイクロトフを皇王位に就けよという声が出ないとも限らぬしな」
先刻、青騎士団副長に示唆した通りの思惑があった訳だ。形良い唇に冷笑が浮かぶ。
「……それなら犬猿の仲であっても生かしておく方がマシ、という訳ですか」
「いずれは消えて貰うがな。マイクロトフが死に、わしがマチルダの頂点に立つまでは精々働いてもらう」
カミューは内心、ゴルドーへの評価を修整していた。
先程の皇子との顛末では感情的で薄慮な男としか見えなかった男だが、侮れない面もある。「最悪」を回避するために忍従を取ることも出来る、これは対マイクロトフには見られなかった一面だ。
してみると、やはりゴルドーには相当の抑圧があるらしい。他の何に譲れても、王家に対してだけはそれがはたらかない、己を制し切れぬ抑圧が。
「……今ひとつ。現在、赤・青騎士団にゴルドー様の手のものはいますか?」
ほんの少しだけ声が掠れた。しかし男はそれには気付かず、目を細める。
「何故だ?」
「皇子に加担する騎士らが血眼になって「敵」を探しています。下手に見顕わされぬよう、配慮し、庇わねばなりませんから」
「間者らしきものを入れていたのは、わしが白騎士団長になるまでだ」
ゴルドーはきっぱりと言った。
「上昇志向の強いもの、金で動きそうな連中、王家などなくて良いと考えるもの……、そうした騎士を探り出して手中に納めた。他にも、利用価値のあるものは白騎士団長就任時に、我が団に迎え入れた」
そこで微かに表情が曇る。
「いや……本当は間者を配備しておきたかったのだ。だがな、どういう訳だか騎士はあまり腹芸が巧くない。おまえの言うように、見顕されては、と……人員移動の際、すべて白騎士団に引き上げさせた」
それは知らなかっただけだろう、とカミューは心中で嘲った。間者として動くだけの才覚を持った騎士たちが、たまたまゴルドーの許に集まらなかっただけなのだ。
しかも、諜報に秀でた赤騎士団を些細な恨みから虐げ、完全に敵に回した。それだけで、ゴルドーが人を使う術に長けていないと露見したも同然である。
「今の赤・青騎士団は、わしの希望に背いたものばかり。王制を廃した後は、両騎士団を解体して目にものを見せてくれるわ」
傲然と吐き捨てるのを呆れ顔で見詰め、カミューは首を捻った。
「ゴルドー様、それは……それでは騎士団が一気に弱体化するのでは? それこそ、他国に付け入る隙を与えます」
「案ずるには及ばぬ。騎士は所詮、騎士でしかない。他に生きる道などないのだ。王家大事を言い張る位階者はともかく、下の連中は上の顔色を見ながら従っているだけよ。解体のかたちで位階者らを放逐すれば、自然、わしに従うようになろうて」
「…………」
「そこでわしの望みは完成する。マチルダ皇国は騎士団領として生まれ変わるのだ。白騎士団長が支配する、強大な軍事力をもった一領として、やがてはデュナン一帯の覇者となる」
カミューは無言のまま、陶酔し切った様子の男を凝視し続けた。
この男は決定的な過ちを抱いたまま大望に向かっている。騎士団という組織、更に小さく騎士という存在ひとつについても、理解せぬままここまで来てしまったのだ。
彼が全騎士団の長を名乗るなど、何という滑稽だろう。
それを許されるのは、民を思い、己の正義を貫こうとする人間。常に正しき己の在り方を確かめながら、それでも真っ直ぐに信念の描く道を進もうと努める男。
そう、例えば───
漆黒に輝く瞳が過った瞬間、カミューは息を詰めた。話の合間に忙しなく料理を頬張る男をひっそりと見遣り、静かに続ける。
「最後に一つだけ。どうやらグランマイヤー宰相は即位式典の警備を青騎士団に一任したいと希望しているようです」
「世迷い言を。最高位である白騎士団が中心を担うべきであろうが」
ゴルドーは陰湿に喉の奥で含み笑った。
「いや……どのみち即位式典など行われぬか」
「……ともかく、要求を受け入れてください。あちらの希望通りに事が進んでいる方が油断も生じ易い。理想的なのはゴルドー様が完全に謀殺を諦めたと思わせることですが、今更それも無理でしょうし」
く、と身体を揺すり、堪え切れなかった笑いを零してから男は頷いた。
「構わん、好きにやれと寛容ぶりを披露してくれるわ。グランマイヤーめ、それはそれで小心を突かれて慌てるだろうて」
引き攣れた笑顔は不快以外の何ものでもない。カミューは会見を切り上げようと背を正した。
「こうして皇子の傍にいる以上、機会など腐るほどあるのです。その中で、最も安全かつ確実に、そして依頼主であるワイズメル公主とその御友人に利となる舞台を選ぶのがわたしの役目。一切の御懸念には及びません。新皇王がゴルドー様を解任する前に、契約は果たします」
契約───皇太子マイクロトフの暗殺。
声にした刹那、口腔を苦いものが満たした。それを更に煽るように、回り込んでカミューの横へと場所を移した男が低く囁く。
「頼もしいな、カミュー。あの堅物をああまで誑し込むとは、いったいどんな手管を使ったのだ」
馴れ馴れしく肩に回った手のじんわりとした湿り。息が触れるほど接近したゴルドーの顔には仄かな情欲が来している。もう片方の太い指がしなやかな手に重なると同時に、カミューは冷ややかに言い放った。
「……そのような奉仕までは契約にありません」
「するとマイクロトフはおまえの容姿になびいた訳ではないのか。わしはてっきり───」
白磁の首筋にゆっくりと顔を埋め、ゴルドーは掴んだ肩を引き寄せる。荒い息遣いが耳朶を侵食するに至って、カミューはやんわりと男を押し退けた。その左手は、椅子に立て掛けた細身の愛剣の鞘を握っていた。
「わたしは武力を売る傭兵なれど、色まで売るつもりはありません。そうした人間をお望みなら、手を引かせていただきます」
ゴルドーは無念も顕に顔をしかめる。部屋に招き入れたときから胸にあった欲望を手厳しく退けられて落胆したものの、青年のもたらす成果と量りに掛けた結果、諦めざるを得なかった。
「惜しいな、刺客として来たのでなければ……。おまえほど美しい男なら、それこそ手厚く遇してやったものを」
それはどうも、と感情もなく言い捨ててカミューは立ち上がった。そのまま退出しようとしたが、ふと足を止め、卓に放置されたままのグラスに視線を落とす。
「……やはり頂戴しても宜しいでしょうか?」
ゴルドーが頷くのを待たず、酒を喉に流し込んだ。自らもグラスを取り、広がる芳醇な香りと味を堪能したゴルドーが、窺うように笑みを深めた。
「どうだ、良い酒だろう」
「少し苦いですね」
「そうか?」
ええ、とカミューは俯いた。
「……わたしには合わないようだ。それでは失礼致します、ゴルドー様」
男の反応も一顧せずに扉に向かう。出迎えた白騎士が送ると申し出るのを丁重に断り、彼は足早に廊下を進んだ。
全身を不快に陥れているのは、男たちの策謀でも、絡み付くゴルドーの愛撫の感触でもなかった。既に脳裏から離れなくなっている、生真面目な皇子の信頼の眼差し。それだけが得も言われぬ苦味となって、カミューを覆っているのだ。
石段を降り切り、周囲に行き来する騎士の多くが青・赤騎士となったとき、薄い唇に自嘲が滲んだ。
───皇王なきマチルダの未来には、あの男、ゴルドーも残しておくべきではない。
「せめてもの良心、か……」
西棟の部屋を目指しながら、カミューは小さく呟いた。

 

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やっぱゴルドー様といったら
お約束=セクハラがないと!(笑)

そんなこととは露知らず、
プリンスは呑気に御食事中。

 

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