「殿下、わたくしの考えを申し述べても?」
顔色を伺うように上目で見詰める若者に、今まで宰相の座っていた椅子に座れと身振りで命じてマイクロトフは眉を顰めた。
「……いい加減に、そいつは置いたらどうだ?」
フリード・Yは木製の薬箱を抱えていた。手当てを済ませてキャビネットに戻そうとしていたのだが、そのあたりから始まった遣り取りに気を取られ、仕舞いそびれたのだ。
主人に劣らぬ生真面目な人物として城中に知られるフリード・Yだが、紅潮し、眼鏡の奥の瞳を動揺に瞬かせながら、赤子を抱くが如く木箱を胸に納める姿は珍妙以外の何物でもない。
自然、込み上げてくる笑いを隠そうとマイクロトフは顔を背けたが、物心付いた頃からの付き合いから生じた敏感には及ばなかった。フリード・Yは憮然と唸った。
「笑っていらっしゃれば良いんです、どうせわたくしの意見など聞いてくださる気はないのでしょう?」
「聞く気はあるが、受け入れる気はないな」
辛くも威厳を保った彼は、けれど真っ向から言い切った。しかし、フリード・Yも今度は退かない。宰相が消えた今しか乳兄弟の立場の利を使う機会はないと考えたのだ。
「わたくしが単に個人的な好悪の情だけで意見していると思っておられませんか? あの者、グランマイヤー様の目を欺く程度には礼儀を弁えているようですし、百歩譲って、わたくしを燃やそうとしたのにも目を瞑ります。しかしやはり、御側に置かれるのは賛成しかねます、殿下」
珍しいほど執拗に食い下がる従者を凝視する顔が曇る。軽く頷いて続きを促した。
「理由を聞こう」
フリード・Yは勢い込んだ。
「殿下も御覧になったでしょう、あの者が刺客を斬ってのけた姿を」
ああ、と腕を組んで背凭れに沈む。追い掛けるだけで精一杯だった一閃の鮮烈は脳裏に刻まれ、容易に取り出すことが出来た。
「実に見事な手並みだった。あれは騎士には見られぬ剣捌きだな」
すると従者は一瞬だけ口を閉ざし、それから幾分声を潜めて納得混じりに呟いた。
「……これで分かりました、殿下はあの者の剣を御覧になっていたのですね」
「どういう意味だ?」
「あまりに剣先が速くて、わたくしには追えそうにありませんでした。だから……わたくしはあの者を見ていたのです」
そこでフリード・Yはごくりと喉を鳴らした。決して怯懦な若者ではないのに、その体躯は微かに震え、木箱の止め具が微かな音を立てていた。
「あれは……血を流すことを何とも思わぬ者です。何の感情も持たずに命を奪う、冷酷な死の神の目です。わたくしは心底恐ろしかった───」
マイクロトフはその言葉を些か意外に思った。命を狙われる主君に仕えているだけあって、そこそこの用心深さを身に付けざるを得なかった従者だが、生来は気の良い人物で、こんな恐れ混じりの嫌悪感情を抱く若者ではない。
「御側に置かれるのは反対です、あれは殿下のために良からぬ者です」
「……フリード」
俯き加減で唇を噛みつつ訴える若者に暫し見入った後、マイクロトフは小さく嘆息した。
「おまえの懸念は分からないでもない。だが……剣士とはある意味、感情など持たぬ方が楽なものだぞ。人を斬るのに逐一憂いていては己が危うかろう」
だがフリード・Yは頑に首を振る。
「いいえ、殿下。仰ることは分かりますが、それでもまるで無感情でいられる人間は稀有です。わたくしも剣の修練を積む身ですから、思い悩んだり、いっそ高揚に酔うのでしたら理解も出来るのです。でも、あの者は違う。斬り捨てた敵を人とも見ていなかった。取るに足らぬ羽虫か、石塊でしかなかった」
「……そうか」
火魔法を放とうとして身構えたときの青年を思い返したマイクロトフは、朧げながらの同意を覚えた。あのとき彼は魅入られたとしか言えない情感に溺れていたが、フリード・Yにはそれが唾棄すべき脅威と感じられた訳だ。知らず自嘲の笑みが洩れる。
「成程、つまりおれは同類の気配に引き寄せられているのだな」
「殿下?」
「何の感情もなく、人を人とも思わず、冷酷に命を絶つ……おれもそんな目をしていたのだろうな」
主君の手が大剣を撫で上げるのを見たフリード・Yが、はっとして口を噤んだ。己の言及が、皇子の胸に深い傷として残った事件を堀り起こしてしまったのを悟ったのだ。彼は鎮痛な面持ちになった。
「違います、決してそのような───」
「あのときおれは何人殺した? 覚えていない。相手が盗賊共だったから賞賛もされたが、あれが罪もないマチルダの民だったらどうだっただろう? 乱心により廃嫡か」
「殿下……」
「とは言っても、グランマイヤーにしてみれば、二百年続いた聖マティスの血を断絶させ、主権を騎士団に奪われる訳にはいかないか」
「殿下!」
壊れたように続く自責の苦鳴をフリード・Yは悲痛に遮った。
「お止めください、過ぎたことです。あれは事故です、罪ではありません」
いや、とマイクロトフは目を伏せた。
「罪だとも、フリード。マティスの末裔でありながら、未だ覚悟足らぬ、おれの未熟が為した罪なのだ」
陰鬱な沈黙が落ちた。
暗い過去を蘇らせた主君に掛けるべき慰めも見つからず、フリード・Yは後悔に苛まれながら拳を握る。「同類」という言葉には承服しかねたが、完全には否定し切れないのもまた事実だったのだ───およそ一年ほど前に起きた、あの悪夢のような一幕は。
やがてマイクロトフが重苦しい空気に耐え難くなって、調子を変えて切り出した。
「おれが感じたのは別のことだ。あのカミューとかいう男、おれたちにはない価値観を持っているようだった」
話題の方向が変じたのをフリード・Yは素直に感謝した。相変わらず薬箱を膝に抱いたまま、僅かに身を乗り出す。
「身分とか権威とか、そういったものを重く捉えていないらしい。彼にとっては己の目に映るものがすべてなのだろう。それは今のおれに望ましい公正だ」
つまり、と従者の目を覗き込みながら続けた。
「敵と、そうでない者とを嗅ぎ分けてくれるのではないだろうか」
フリード・Yは釈然とせぬ面持ちだった。敵は明白ではないかとでも言いたげな顔に、マイクロトフは苦笑った。
「グランマイヤーも、「あちら」に与する者すべてを把握している訳ではあるまい。だから護衛の任に就く者をマチルダの外から呼び寄せた。腕に覚えのある剣士なら、騎士団に幾らでもいるというのに」
渋々といった同意が浮かぶ。
「それに───」
マイクロトフは言葉を切った。
それに、権威に跪かぬ人間なら、個として対等に付き合えるのではないだろうか。
蒸し返せば従者は唾を飛ばして非難を再開するだろうが、マイクロトフは「おまえ」などと呼び掛けられたのは初めてだったし、それは思いがけず快く、新鮮な響きだった。
彼がもし、あのときの姿勢を崩さずにいてくれるなら、フリード・Yとは違った形の、心通わせる存在になり得るのではないか。
胸に灯った小さな期待は何を置いても護りたい温みであったのだ。従者に秘密を抱いたまま、マイクロトフは薄く笑った。
「……それに、どのみち即位するまでの辛抱だ。おれとて、いつまでも不本意な立場に甘んじているつもりはない。敵を一掃する力をこの手にするまで、殺される訳にはいかないからな」
「殿下……」
「心配するな、フリード・Y」
彼は親愛のこもった眼差しで若者を見詰めた。
「おれは死なない。たとえおまえが言うように、カミューという人物が死の神に近しい者であったとしても、それに飲み込まれはしない。おれには国を護るつとめがある。この身には「建国の父」の最後の血が流れているのだからな」
雄々しき宣言にもはや何も言えず、フリード・Yが深々と頭を垂れたところで扉が鳴った。神経質そうな叩き方は宰相の癖である。グランマイヤーが抑え切れぬ笑みを浮かべながら再入室を果たした。
「剣士たちは引き取らせました。やれやれ、とんだ出費に見舞われたものです。これは殿下に充てられた予算から捻出させていただきますからな」
悪戯っぽく言って皇子を軽く睨み、それから表情を引き締めた。
「改めて御紹介……した方が宜しいのでしょうな? 入られよ、カミュー殿」
宰相の後に控えていた影が、ゆっくりと室内に足を踏み入れる。
旅装束の外套を脱いだ青年は、往来で見たとき以上にほっそりとしなやかな身体付きだった。あの見事な身のこなしを目にしていなかったら、卓越した剣士とはとても想像出来ない。それほどまでに彼は優美であった。
息を殺して椅子から立ち上がった二人と目が合った途端、ほんの僅かに琥珀が見開かれた。そこにはマイクロトフらが見た凍れる闘気はない。かと言って、大仰に驚いた気配もなかった。
「……皇太子殿下でおられましたか。知らぬこととは言え、先程はとんだ非礼を……深くお詫び申し上げます」
フリード・Yの顎を外させかねない慇懃で、艶やかなマチルダ式の礼を取る。だがマイクロトフは、その端正な顔に潜んだ苦笑を見取っていた。
「カミューと申します。以後、宜しく御見知り置きを───マイクロトフ殿下」
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