最後の王・3


マチルダ領の礎とも言えるロックアックス城は、長い歳月を掛けて現在の姿に至った石城である。王を始めとする政治の重鎮一同、更には数千にも及ぶ人員から成る騎士団の本拠として、改築に次ぐ改築を重ねたのだ。あるいは先人たちが未来を見越して広大な敷地を用意しておいてくれたのだろうか、さもなくば、さぞ見苦しい王城となっていたに違いない。
あれから主従は最大限に努力したものの、城の東棟にある皇子の居室へ戻るには難儀を極めた。襲われた痕跡も顕なフリード・Yの姿を見られぬようにと、それは盗人の如き慎重で、人目を避けながらの帰還だったからである。
城内を徘徊する騎士らの目を運良く逃れ──マイクロトフの部屋へと続く廊下を護る最後の見張りには、皇子自らが騎士の肩を抱いて窓の外へと注意を促す間に、背後をフリード・Yが擦り抜けるといった滑稽な一幕まで演じて──居室に滑り込んだは良いが、既に宰相との約束の刻限は大幅に過ぎていた。
身体の後ろで手を組み、室内をうろつき回っていた宰相グランマイヤーは、戻った主従、特に惨澹たる従者の姿を見るなり蒼白になった。
「殿下! いったい……」
事情を説明する間もない。口を開き掛けたマイクロトフの横、フリード・Yが平伏せんばかりに陳謝する。
「申し訳ございません、グランマイヤー様! わたくしが至らなかったのです」
「い、いや、いったい何が……」
「こんな日中から、それも城の目の前で襲われるとは考え及ばず……いいえ、決して理由になどなりは致しません、が、しかし───」
「襲われた? 襲われたのですか、殿下!」
初めて自身に向けられた声に、マイクロトフはほっと息をついた。
もともとフリード・Yはグランマイヤーの子飼いの部下とも言える若者だ。それが加味する訳ではないのだろうが、この二人が遣り取りを交わし始めると、無闇矢鱈と長くなる。
「少し黙っていてくれ、フリード。そうなのだ、襲撃を受けた。相手は十数ばかり、何処からか調達してきた無頼の連中といった感じだった」
それは、と束の間絶句したグランマイヤーだが、立ち直るのも早かった。
「ですから幾度も申し上げたではありませんか、御身大事にお過ごしあれ、と……こっそりと城を抜け出すようなお振る舞いはならさぬようにと、あれほど───」
「まったくもってその通りだ。非難は甘んじて受けよう。が、今はとにかくフリードの手当てが先だ」
それ以上の叱責を阻むだけの威厳をもって、皇子は泰然と言い切った。物足りなそうに眉を寄せつつ、もっともだと考えたらしい宰相がキャビネットから薬箱を取り出す。
「それにしても……大丈夫かね、フリード?」
「はい、グランマイヤー様。見掛けは派手かもしれませんが、浅い傷ばかりです」
言い置いて自ら器用に手当てを始める若者を溜め息混じりに見遣り、それからグランマイヤーはマイクロトフに視線を戻した。
「即位式を間近にして、形振り構わぬ所業に出たようですな。信頼出来る護衛をお付けしようというわたしの心も、これで理解していただけるかと」
「心遣い、感謝している」
「そんな他人事のような……」
ボソリとぼやき、彼は表情を引き締めた。皇子に着席を促し、自らもその向かいに腰を落とす。
「既に揃って応接の間に控えております。フリードの手当てが済み次第、顔合わせをなさっていただきましょう」
「揃って、とは……そんなに大勢と会わねばならんのか?」
たちまち顔を曇らせた皇子に宰相は苦笑する。
「呼び寄せた剣士は十名、いずれも十分に身元を吟味した、信頼出来る筋からの推薦を持つ者ばかりです。全てを側付として任じたいのは山々なれど、これより即位の日まで、昼夜を問わず顔を付き合わせる訳ですから、多少は相性といったものも考慮する必要があるかと存じます」
「……配慮をありがたく思うべきなのだろうな」
「そうしていただければ報われますな。これより顔合わせの結果、殿下の御心の障りにならぬものを最低でも五人、選んでいただきます」
左肩の後ろを斬られた傷に絆創膏が届かず四苦八苦していた従者を手伝ってやりながらマイクロトフは片頬を緩めた。
「相性の良さそうな人間が一人もいなかったらどうするのだ?」
「妥協してでも選んでいただきましょう」
きっぱりとした宣言に、知らず笑い出していた。穏健で寛容だが、時に譲らぬ宰相の忠義を温かく感じたのだ。
「ところで、グランマイヤー。その候補の中に、おれと同じくらいの年頃の男はいるか?」
宰相は瞬き、質疑の意図を量るように首を傾げたが、すぐに頷いた。
「おります。殿下よりも一歳ほど年上でしたか……、あまりにも若いため、初めは候補に入れるに躊躇したのですが、グリンヒルのワイズメル公主からの推薦でしたし……」
「それは薄茶色の髪で、蜜色の目をした……何と言うか、その───見目の良い者、か?」
漸く手当てを終えた従者の反応は顕著だった。あんぐりと口を開き、まじまじとマイクロトフを見詰めている。しかし、宰相の方は朗らかに笑い出した。
「随分と具体的に言い当てられましたな。これはどうやら、既にお会いになられたようだ」
冗談ではない、とでも言いたげにフリード・Yが乗り出したものの、マイクロトフの一瞥に怯んで硬直する。それは沈黙を命じた先程の命令を思い出させるに十分な、有無をも言わせぬ強い眼差しであったのだ。
そんな二人の機微には気付かず、宰相は続けた。
「正直申し上げて、あの者は最年少ながら、此度の候補者の中でも傑物ですぞ。若さに似ず礼節厚く、物腰はまことに優美で。これで推薦通りの武力を持つなら、正に皇太子殿下の側付に相応しき人物です」
「……嘘でしょう?」
呆然とした呻きが応じる。
礼節、そして優美な所作。フリード・Yの脳裏に浮かんだ人物と宰相が語る人物には恐ろしい開きがあったのだ。已む無しか、と心中で呟きながらマイクロトフは言った。
「グランマイヤー、残りの九名には断りを入れてくれ。呼び立てておいてすまないと丁重に詫びて、な。増やす護衛はその者だけで良い」
「殿下?」
従者ばかりでなく、今度は宰相も仰天した。手を尽くして信用の置ける剣士をデュナン湖周辺諸国から掻き集めたというのに、いらぬと一蹴されては当然である。たちまち表情を険しくして、ずいと身を乗り出した。
「失礼ながら、往生際が悪いとしか申せませんぞ、殿下。護衛の増員は了承していただけたものと思っておりましたが」
「そうだな。だが、五人以上とは聞いていないぞ。フリードもいるのだから、増やすのは一人で十分だ」
「マイクロトフ殿下……」
呆れ果てた様子で宰相は首を振った。
「襲撃を受け、危険な目に遭われたばかりではありませんか。フリードだけでは手に余る事態に至っているのですぞ。仰せの儀は量りかねます」
「それについては反省している」
マイクロトフは微かに鎮痛を浮かべた。腰に携えた剣の鞘を握り締めて低く息を吐く。
「礼拝堂に行っていたのでな、迂闊にも代わりの剣を持参し忘れた」
王族が聖なる扉を潜る際には、正装するのが古来よりの習わしだ。彼にとって正装とは、即ち王家の宝物たる大剣ダンスニーを佩刀することにある。いつもは別の剣を下げているのだが、今日は迂闊にもそれを失念してしまったのだ。
確かに、とグランマイヤーは小声で言った。
「殿下の剣腕に勝る敵など、そうはいないでしょう。しかし……」
それとこれとは話が別だ───そう言いたげな顔を認めて、マイクロトフは急いで続けた。
「考えてもみろ。これから即位の日に向けて、何かと外へ出る機会も増す。周囲を強面に囲まれたおれは民の目にどう映るだろう? 即位前から命を狙われている人間が国の主として立つのかと、不安になるのではないだろうか」
普段、マイクロトフは多弁な質ではない。それ以上に、こんなふうに筋道立てて抗弁する男でもなかった。それがグランマイヤーを戸惑わせ、即座に異を唱えるのを躊躇わせた。
押し黙ってしまった男を凝視しながら、マイクロトフは熱心に言い募った。
「同世代の人間なら学友とでも見えるだろう。それに、その者の力量は保証する。ついさっき、危ういところを助けられたばかりだからな」
「……何と」
グランマイヤーは驚いて深々と考え込んだ。一方、フリード・Yの表情は雄弁だ。あれを助けられたと言うのか、そんな不満が渦巻いている。
「おまえが探してきてくれた剣士たちを、顔も見ぬまま返すのは心苦しい。だが、己の身も護れぬ人間に民が護れるとは思えない。無論、信頼出来る人間を警護に置かねばならない現状は弁えている。だから、そこは譲歩する。但し、一人だけだ」
「殿下……マイクロトフ様」
縋るようにフリード・Yが袖を引くが、彼の主君はちらと視線を投げただけだった。
「いいから、もう少し黙っていろ」
「……はい」
マチルダ皇国・宰相グランマイヤーは長いこと思案に暮れた。諸々を鑑みれば、皇子の言い分は何としても退けるべきである。
けれど彼にはそう出来なかった。何故なら、父王が身罷ってからというもの、鬱いだ顔がすっかり板に付いてしまった皇子が、今ばかりは不可思議な高揚を覚えているらしいのを感じ得たからだ。
「……論述の御成績は些か芳しからぬ、そう学者殿から伺っておりましたが」
せめてもの報復とばかりに厭味を上らせ、だが最後には微笑みを浮かべた。
「言い出されたら退かぬところは御父君に似ておられる。畏れながら、厄介な御性情と言わせていただきますぞ、マイクロトフ殿下」
そうしてゆるゆると立ち上がる。
「集めた者たちには、時間を取らせた償いに幾許かの金を持たせましょう。諸事を終え、それから件の人物に御引き合わせ致します」
そこでやや眉根を寄せる。
「……よもや、顔を合わせた後に否はないでしょうな?」
「ない。我が剣と名に誓う」
「つまらぬことを誓われては、剣も御名も嘆きますぞ」
終に破顔して、宰相は大袈裟に息をついてみせた。
「ときにグランマイヤー、その者の名は何というのだ?」
おやおや、と彼は目を瞠る。名も知らぬ人物を強硬に推していたのかとでも言いたそうな面持ちだ。それこそグランマイヤーの愛する、一本気な皇太子の真の姿なのである。
「確か───そう、カミューと名乗っておりました」
「……カミュー」
噛み締めるように復唱する。
礼を取り、扉を出て行く宰相。話から置き去りにされたまま困惑を深める従者。この一瞬、マイクロトフの心は完全に彼らから離れ、ただ一人に捕われていた。
柔和そうに見えて、抜き身の剣の如く硬質だった青年を脳裏に蘇らせながら、今ひとたび繰り返す。
「カミュー、か……」
生命の危険まで伴うほどに緊張した、けれど緩慢に過ぎ行くばかりだった日々が、穏やかに崩れ始めた刹那であったかもしれない。

 

← BEFORE             NEXT →


重ねて申し上げます。
プリンスは決して男スキーではございません。

 

TOPへ戻る / 寛容の間に戻る