周囲の騎士らが散った後、青騎士隊長は二人を自団所有の小部屋の一室へと誘った。備えの椅子に腰を下ろした途端、卓に両拳を投げ出してほっと息を吐き出す皇子を見守り、騎士隊長は目許を緩めた。
「よくぞ堪えられましたな。ゴルドーが公女殿を子作りの道具のように語ったときは、抜刀なさるのではないかと……もはやこれまでと覚悟致しましたが」
マイクロトフは卓上に弱く拳を打ちつけて呻いた。
「以前からグランマイヤーに忠告されていたからな。何気ない会話に興じていたら、いきなり斬り付けてきた───そんな乱心疑惑を口実に白騎士団の拘束下へ置かれぬように、ゴルドーが何を言おうと聞き流せ、と」
だが、と力ない自嘲が精悍な顔を覆う。
「心を抑えるのは……少し前までのおれには何とか果たせていたが、今は難しい。青騎士団や赤騎士団がここまで耐えてきたものを台無しにしては、との思いがなければ斬り掛かっていたかもしれない」
「騎士として生活し始められたことから生じた弊害ですか。しかしまあ、それもまた人間らしくて宜しいのでは、と……部下としては申し上げるしかありませんな」
自らの望みを、そして怒りを、飲み込み続ける生活は決して豊かとは言い難かった。実際に感情に正直になってみて初めて、それを知った。
それでもギリギリまでは堪えたのだ。だが、最後の言葉だけは流せなかった。
他国への不当な蔑視はマイクロトフが最も嫌う傲慢の一つだが、それ以上に、心を傾けた青年に対する侮辱は聞くに耐えなかった。そうして迸ったのは、これまで幾度となく喉の奥に抑え込んだ「不敬」の糾弾、王位継承者が持つ最大の権威の力であった。
「まったく的確な反撃でした。ゴルドーがぐうの根も出ない様を、あの場にいない騎士にも見せてやりたかった」
「その点ではおまえにも言っておきたい。おれは弁術が不得手なのだぞ。カミューは学友を騙る手前、黙っているのが妥当だったろうが、おまえは状況を把握しているのだし、もう少し加勢してくれても良いではないか」
膨れっ面で言うと、青騎士隊長は飄々と返した。
「申し訳ありません。口を開けば罵詈雑言が止めど無く溢れそうでしたので、最小に控えさせていただきました」
堪らず吹き出すマイクロトフだった。
この青騎士隊長は配下の騎士の中でも一風変わった男だ。優れた人材であるのは勿論だが、マイクロトフの抱える権威や立場といったものにあまり重きを置かぬあたりはカミューに似ている。それでいて、いざというときには全力を尽くしてくれるだろう誠意が感じられ、だからマイクロトフは彼を心から信頼出来るのだった。
「……白騎士団長の解任というのは、皇王のみが裁可を下せるのですか?」
そこまで沈黙していたカミューが初めて口を開いた。騎士隊長は肩で溜め息をつきながら頷く。
「でなければ疾うに宰相殿がゴルドーを放逐していたでしょうな。おまけに、あれでも一応は王族の一員だから、戒告に腰が引けるのは無理からぬ心情かと」
それに、とやや語調が沈む。
「皇王と白騎士団長、双方が空位になるのは対外的にも望ましくない。それでは常にデュナンの動向に目を光らせるハイランドに侵攻の切っ掛けを与えかねない。少々人格的に問題があろうと、新皇王が即位するまでの間くらいは、と消極的な見方に傾く議員も多いだろうから、宰相殿も頭が痛かっただろうと思われる」
「グランマイヤーは長いこと、おれの盾となって戦ってくれていたのだ。幾ら感謝しても足りない」
マイクロトフがしみじみ言い、厳つい顔に柔らかな親愛を浮かべた。
幼い頃は、政務の合間を見ては遊んでくれた。子供騙しの嘘偽りは口にせず、父と母の置かれた苦境までも包み隠さず教えてくれた。二人がマイクロトフに注ぐ深い愛情を確信させてくれたのだ。
だからマイクロトフは母のない寂しさにも、あまりにも突然の父にも耐える強さを持ち得た。彼らに貰った命を責務のため尽くす覚悟を持てた。
感慨深げな皇子を暫し黙して見詰めていた騎士隊長が、大仰な咳払いをする。丸めて小脇に持っていた地図と指令書を伸ばしながら説き始めた。
「さて……それでは御説明申し上げる。明後日より我々は一週間ほどの予定で査察の任に出立します。団長の御予定に不都合があれば日程の変更を行いますが、如何なものでしょう」
「特に問題なかった筈だ。今宵、グランマイヤーと食事を取るから、一応確認しておくが」
男は頷いて、地図をマイクロトフとカミューに向けて卓上に置いた。
「査察と大まかには銘打ってありますが、現実は少々違う。各地に派遣されている赤騎士団員を帰還させねばならないこの時期、のんびり領内を探索する暇などありません。つまり、我々も彼らの助勢に向かうのだとお考えいただきたい」
「……そうか。早くも動き出したのだな、何よりだ」
これで長く苦難に耐えてきた赤騎士団員に少しでも報いられる。マイクロトフはほっと安堵した。
「具体的なつとめの内容ですが、我々が向かうのはここ、街道の村より北北東にあるこの小村です」
指し示された村を二人は両側から覗き込む。名もろくに聞かぬような村の印が小さく書き込まれていた。
「一昨日、赤騎士団の小隊がこの村に向けて出立しています。……井戸掘りの任で」
「井戸掘り?」
ぽかんと復唱した皇子に、男は冷えた笑みを洩らす。
「然様、聞き違いではありません。彼の村の井戸の水の出がこのところ芳しくない。民の嘆願に応じて、新たな井戸を掘り当てるために小隊は送られたのです」
「何故そんな……? 専門家の指示のもと、人足を雇うべき作業だろう。経験のない騎士を送ったところで、容易ではなかろうに」
至極もっともなマイクロトフの疑問を、騎士隊長はあっさり一蹴した。
「そこはもう、嫌がらせですから。「掘り当てるまで帰ってくるな」と命じて、不慣れな作業に赤騎士らが困り果てるのを狙っているのでしょう。まったく誰の策だか、こういうことにばかり手が込んでいる……というか、姑息ぶりには頭が下がる」
何かと情報通な赤騎士団である。時間を掛ければ、助言を仰ぐ専門家も用意出来ただろうが、今はとにかく人手が足りない。そうした方面に多少の知識がある騎士もいたらしいが、今は別の地に送られていて、連絡を取るにはこれまた人と時間が要った。
赤・青、両騎士団の副長はあれから綿密に今後の方針を検討した。助力に望ましい人員数を赤騎士団副長が割り出し、青騎士団副長が自団のつとめを調整しながらこれに応じる配分を決定したのである。
「我が部隊に、生家のある村の井戸掘りを間近で見たものがいます。多少は役に立つでしょう。それと、赤騎士団の副長殿が関連書物を幾つか集められたので、持参します。何でも、赤騎士団の出立には間に合わなかったそうで」
「書物頼りか……」
たった一週間で大丈夫なのかと不安混じりにマイクロトフが呟く。通常、こうした任務には専門学者を同行するのが常識だ。まったくの素人が手当たり次第に地面を掘り返したところで、果たして地下水脈に出会えるものだろうか。
「同行してくれる学者の手配は出来ないのか?」
「それがどうにも……あちらの副長が言われるには、声を掛けようとした人物には予め手が回っていたようで、体調が思わしくない、とバラ色の顔で辞退されてしまったそうです」
学術都市として名高いグリンヒル公都なら、学者は掃いて捨てるほど居る。だが、マチルダはそこまでに至っていない。やれやれ、とマイクロトフは嘆息した。
「……古い地図を持って行った方が良いかもしれない」
ふと、カミューが言った。
「長い歴史の中で埋没した川とか泉とか、今現在の地図と照らし合わせれば、水脈に行き着く可能性は高いんじゃないかな」
「成程……」
感心したように青騎士隊長は地図を睨み付けた。
「確かにそれは期待出来そうだ、大昔の地図を用意するとしよう」
「詳しいな、カミュー。本で読んだのか?」
マイクロトフが何気なく問うと、彼は穏やかに笑った。
「グラスランドではそうしているのさ。もっとも、ちゃんとした地図がないような辺境の村では、老人の昔語りとか、村の言い伝えが頼りだけれど」
「先人の知識、侮るべからず、……ですな」
青騎士隊長も笑み、再び地図を指した。
「人員ですが、我が部隊から先日の市内巡回に御供した騎士と、更に倍ほどの人員が同地に赴きます。後者は人足作業を睨んで力自慢を集めてみました。ここからが本題です。団長は更に先へ赴かれたし、との副長の進言です」
紙面を伝う指を追ったマイクロトフは、微かに目を瞠った。
「これは……」
「部下と一緒に地面を掘りたい、などと仰せにならぬよう。御即位前に、母君の御生家や祖の墓前に参られた方が宜しい、と……副長はそのようにお考えなのです」
マイクロトフは絶句した。騎士隊長が示したのは、マチルダ北東の最果ての村、母が生まれ育った村だったのだ。
祖母は母が幼い頃に病没したと聞いている。再婚によってゴルドーとの縁を繋ぐに至った祖父も、マイクロトフが生まれる前に世を去った。
今は誰も暮らさぬ屋敷は、かつては皇王夫妻、そして今は皇子が村に滞在する際の宿代わりにと維持されているが、当のマイクロトフが村に出向いたのは、重要な法要が行われた十年も前である。一度も顔を合わせたことのない祖父母にはあまり深い情が抱けなかったし、まして皇太子たる身では彼方の村へ頻繁に出掛けられよう筈もなかった。
祖父母の家は、貴族の称号こそ持っていたが、もともと裕福ではなく、一人娘だった母を嫁がせた時点で直系は断絶している。祖父の後妻だったゴルドーの実母も既に故人だ。
即位式典に関る一連の流れの中に、この祖父母への配慮は盛り込まれていない。悪意で流されたのではなく、単に皇子との関わりが薄かったために議案に昇らなかったのだろう。
けれど青騎士団副長は、式典を司る議員らと考えを異にしていた。たとえ面識はなくても、彼らが存在したから今の皇子がある。城を出るついでに、母方の祖へ報告をするのが肝要だと考えたのだった。
「そうか……提言をありがたく受けよう」
些か情の薄い孫だった己を恥じながら言うと、騎士隊長はにっこりした。
「わたし以下、青騎士が数名、御供申し上げます。戻るまでに井戸が掘り当てられれば良いが」
「もし間に合わなければどうするのだ?」
「団長にはそのままロックアックスにお戻りいただきます。副長も、大切な上官に長々と城を空けられてはお寂しいらしいので」
───小さな嘘だった。グリンヒル公女は即位日の七日前にはロックアックス入りする。それを迎えるのに、皇子にもそれなりの準備が必要だと副長は弁えたのだ。戻って後、数日の猶予があるように帰還の日程をさだめたらしい。
それを感じ取ったマイクロトフは、やや俯きながら頷いた。
「分かった。つとめを完遂し、皆で戻れると良いな」
「団長がそのように仰せだったと部下に伝えておきましょう。活力が増しそうだ」
青騎士隊長は地図を片付け始めた。首を捻って付け加える。
「旅荷に関しては侍従殿に説明が行く筈ですが、特にお持ちになりたいものがあれば御自身で御用意ください。但し、あまり大荷物にならぬように。日程的にかなり忙しない移動になります。身軽なほど望ましい」
「早駆けで向かうのか?」
「それはもう。最初の村まで、半日の勘定しか当てておりません」
そうか、と嬉しげに頬を緩める。
「久々に馬を思い切り走らせてやれる」
「畏れながら、馬の世話は団長御自らの手でなさっていただかねばなりませんな。あの馬は、我らでは近寄れない」
「心得た」
談義の終了を迎えて、マイクロトフは浮かれ立つ心を抑えられなかった。
憧れが一つ叶う。フリード・Yや騎士たち、そしてカミューと共にマチルダの平原を馬で走る。何処までも広がる空を見上げ、穏やかな風を感じて、そこに生きる民の生活を己の目で確かめる。
祖父母の墓前に花を手向け、亡き母が生まれ育った家で夜を過ごしたなら、また新たな何かが見えるだろうか。ハイランドとの国境に近い村は、最後に父と訪れたときと同じ、静かな平穏に満ちているのか───
「宰相殿と夕食を取られると仰せでしたな。そろそろ行かれた方が宜しいのでは?」
窓の外の暮れ具合を見ながら騎士が言う。そうだな、と応じて立ち上がろうとすると、一瞬早くカミューが腰を浮かせた。
「それじゃ、わたしは一足先に新しい部屋を堪能させて貰うよ」
「ではわたしが客間まで御案内しよう」
「いいえ、その辺の誰かに聞いて行きます。ゴルドーに楯突いたばかりですし、大事ないとは思いますが、一応会食まで皇子に付いていて差し上げてください」」
今度はマイクロトフが声を上げた。
「待て、おまえは食事はどうするのだ?」
「子供ではないのだから、食堂くらい一人で行けるよ」
カミューは騎士隊長に軽く一礼して、そのまま部屋を出て行った。見送る男の眼差しが僅かに硬くなる。
「……妙ですな」
「妙、とは?」
いえ、と束の間の躊躇の後、騎士隊長が言葉を選ぶようにゆっくりと続けた。
「ゴルドーに謂れのない暴言を浴びせられたのは事実だが、それを気にするカミュー殿とは思えません。何故ああも沈んでいるように見受けられるのか」
「沈んでいる……のだろうか、やはり」
ひどく無口になったとは感じた。査察の任などに関しても、カミューは必要以上に口を挟もうとはしなかった。
ゴルドーの暴言よりも気になるのは、自らの言動そのものだ。マイクロトフは低く息を吐きながら呟く。
「おれがあのようなことを言ったからだろうか」
「ああ……「大切な人」だの「傍に居て欲しい」だのといった聞いていて照れるような御宣言ですか」
身も蓋もない図星。さっと頬を染める皇子を困ったように一瞥して、騎士は首を振った。
「一国の皇太子殿下に一片の曇りもない信頼を示されれば、感激するか、恐縮するのが普通です。ですが、カミュー殿は平凡な民とは言い難い。これまで見た限りでは、真っ直ぐな親愛には照れる傾向にあるように思われます。しかしながら、そうした場合は照れ隠しも兼ねて文句の一つも口にしそうだ。何やら余所事に気を取られていて、それが思わしくないことであるかのような……わたしにはそのように感じられましたが」
これまた的を得た言である。騎士はカミューの性格を見事に把握している。そこで下された見解は、同じように感じていただけにマイクロトフの胸を衝いた。
気を悪くしたようには見えなかった。なのに何かが歪んだ気がして、ひどく心を騒がせる。
マイクロトフは青年の消えた扉を見据えながら過った不安を押し殺そうと努めた。
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