最後の王・35


荷の移動は終わったとカミューは言った。差配はフリード・Yに一任しているから取り零しはないだろうが、どのみち通り道である。長く使った部屋への愛着も手伝って、マイクロトフは元の居室へと足を向けた。
大きな家具はそのまま残すつもりだったし、もともと荷物の少ない部屋だ。運び出しに苦労するとしたら、室内の一画を占拠したカミューの書の山といったところか。
そこまで考えて、マイクロトフの足取りは重くなった。
───カミュー。
展望所での冷ややかな態度が今も暗く胸を塞いでいる。
いったい、何に怒っていたのか。エミリアが言ったように、女性に対する乱暴な振舞いを快く思わなかったのだろうか。
以前、彼は言っていた。女性には優しくしろ、この世の半分を占める偉大な存在だから、と。
カミューのように器用な男なら、相手の望むまま優しく接することが出来るだろう。だが、マイクロトフとて心掛けてはいる。人として当然の行為だと思っているのだ───ただ、それがあまり上手く表現出来ないだけで。
何気なく女性の肩に触れたくらいで、乱暴だの強引だのと非難されるのはつらい。もし本当に彼がそんな理由で腹を立てているなら、何と釈明すれば良いのか。
そこでふと、マイクロトフは首を傾げた。
それとも、まったく別の事情だろうか。赤騎士団副長との間に齟齬があった、相談もなく部屋替えを決めたのが面白くない、あるいは別の何か──想像の限界だった──に傷つけられた、等々。
埒もなく堂々巡りに陥っていたから、扉を開いた途端に迎えた白い顔に驚いて後退った。
「何だい、化け物でも見たような顔をして」
呆れ口調でカミューは言う。積み上がっていた大量の書の殆どが消え、一抱えほどになった残りを持ち易いように紐で\めているところだった。
「い、いや……居るとは思わなかったから」
「わたしも引越しするとは思わなかったよ。丁度良かった、すまないがそっちの荷物を持ってくれないかな」
指したのは、彼が持ち込んだ小さな荷袋である。普段と変わらない気安い物言い。展望所でマイクロトフを怯ませた怒りの響きはない。
ほっとしたものか、怪訝に思うべきか、マイクロトフは迷った。カミューが一筋縄では行かない青年だとは分かっている。笑みながら、実はふつふつと怒りを煮込んでいるのかもしれない。何とかして探れないものかと歩み寄り、一\めになった書束を両手に取り上げた。
「……?」
「重そうだ、おれが運ぼう。力には自信があるから」
表情の読めぬ琥珀が暫しマイクロトフを見詰め、次第に和らいだ。
「まるでレディ扱いだな。確かにおまえの方が力はありそうだけれど」
「レ……レディ?」
そんな言い回しは耳に馴染まぬマイクロトフだ。パチパチと瞬いていると、カミューは優雅に立ち上がって伸びをした。
「まあ、騎士も同様か。これをこの部屋に運ぶときには、赤騎士たちが手伝ってくれたよ。「そのように重いものは我々が運びます」とか言って。そんなに非力に見えるかな」
「…………」
そんなことがあったとは。マイクロトフは唖然とした。
確かにカミューは、見ているだけで心弾むような容姿である。そんな人物の役に立ち、感謝でもされようものなら、いたく満悦をそそられるだろうが。
はっとして眉を顰める。好意を示したくてたまらないのは自分も同じか。彼の機微が気になってたまらないのは、自分も同じではないか。
「ともあれ、助かるよ。厳選して残したものの、重そうで、うんざりしていたんだ」
カミューは残された荷袋を手にして、つと窓を見遣った。それから、ひどく静かな声で呟いた。
「……結局、切らなかったな」
「何をだ?」
「枝だよ。伝って侵入されないために、幾つか落とせと進言したのに」
出会った初日のことだった。その後、事態は驚くほどの速さで進み、窓の下に警備の騎士を配備するようになったために必要なくなったのだ。
あれから幾日も経った訳ではない。だが、恐ろしく長い数日だった気もする。マイクロトフは一旦荷を下ろし、窓に向かう青年の横に進んで、同じ小景に眺め入った。
「知っているかい、マイクロトフ? 城の造りや警備的な面から見ると、この棟は意外と穴場なんだよ」
「……そうなのか?」
うん、とカミューは小さく頷いた。
「建て増しの関係なのかな、建物と城壁の距離が他に比べて短くなっている」
「ああ……、そうかも知れんな」
長い歳月の間に、城は増築を繰り返して今のかたちになった。一口に「何々棟」と言うが、各階を渡り廊下で繋ぐそれらは同一の形態をしていない。中央棟だけは元の基盤となる建物であり、殆ど手を入れられていないが、左右に伸びる二つの棟は必要に応じて建て増されてきたからだ。
最初から広大な敷地を確保しておいたのが幸いしてか、特に城壁で封じ込まれているといった感はないが、確かにカミューが言うように、東棟は他の棟に比べて若干ではあるが、壁が迫っているように映る。
「……つまり、外から侵入するならこの棟が一番楽と言えるかもしれない」
「成程」
マイクロトフは苦笑する。
「だが、敷地内には警備の騎士が巡回している。城壁も低くはない。そう易々と入り込むことは出来ない筈だ」
「そうだね……」
そうしてカミューは黙り込んだ。
窓の外に当てられたままの瞳は穏やかなばかりだ。なのに不可思議な焦燥に駆られ、マイクロトフは努めて朗らかに呼び掛けた。
「それより、査察に出るそうだな。無論、おまえも同行するのだろう?」
「仕事だからね」
「どの辺りへ行くのだろう」
「……さあ、そこまでは聞いていない。今、両副長が今後の動向について打ち合わせている。それで決まるんじゃないか?」
グリンヒルからの使者の訪れは、青騎士団副長に大事な事実を思い出させたのだ。
即位の七日前には新皇妃となるグリンヒル公女がマチルダの地を踏む。気候や慣習に慣れるため、是非にと望まれた準備期間であった。
公女が着いた後は、マイクロトフは長く城を空けられなくなる。その前に、彼が楽しみにしていた自国内査察を果たさせようという副長の配慮なのだ。
よもやそこまでの気遣いと思い至らぬマイクロトフは、突然用意されたつとめに歓喜していた。
これで愛馬にも久々に平原の風を堪能させてやれる。いっときだけでも皇太子である身を忘れ、騎士としてマチルダの地を散策出来る───
「……こんなに急とはね」
陰鬱な声が洩れた。おや、と横顔を窺うと、カミューの表情は硬い。展望所における不機嫌はこれが関係しているのだと、機微に疎いマイクロトフでさえ直感してしまうほどの薄暗い声音である。
「何か問題があるのか?」
おずおずと問うてみると、カミューは口許だけを僅かに緩めた。
「いや……ゴルドーの周囲に群がる連中を徹底的に焙ってやろうと息巻いていたところなのに、と思ったのさ。査察の期間は一週間くらいを予定しているらしいよ。ここで間が空くのは痛い。即位前に敵を一網打尽、というのは絶望的だな」
「何だ、そんなことか」
マイクロトフは吹き出した。
「グランマイヤーとの契約は、おれを無事に即位させることだろう? 敵を割り出せとまでは言わなかったではないか」
「まあ、そうなんだけどね」
「……見事果たしたら、と……特別手当でも予定されていたのか?」
「ああ、そういう要求も出来たか……」
打てば響くように小気味良く応じる青年が、けれど心ここに有らずといった状態であるようにマイクロトフには見えた。試みに口を噤んでみると、カミューも無言に陥り、何事か深々と考え込む。その沈黙は、何故かひどく重苦しい。堪え切れずマイクロトフは正面から青年に向き直った。
「カミュー、おまえに聞きたいことがあるのだが……構わないか?」
四角四面な申し出がカミューを忘我から引き上げる。幾度か瞬いてから、いつものような皮肉げな笑みを浮かべた。
「構うか構わないかは質問次第だな。取り敢えず言ってみてくれ」
よし、と息を飲み込んで顔を上げる。
「おまえには───大切な人はいるか?」
「……は?」
あまりにも素頓狂な反応であった。唖然、としか言いようのない顔で凝視されたマイクロトフは、どうやら己が不始末をしでかしたらしいと思い知った。
「あ、……いや、これでは曖昧すぎるか。だからその、大切に思う人とか、護りたいと思う人……いいや、物でも何でも良い。とにかく大事な何かがあるか?」
懸命になればなるほど、本来の問い掛けから外れていく。カミューの不可解そうな表情を見るうちに、頭に血が昇るようだった。
「……大事な何か?」
「う、うむ」
「この剣……、ユーライアは大事だね」
腰に下げた細身の剣の鞘を握ってカミューは首を傾げる。
「後は……大切な人か。そうだな、剣の師でもあるゲオルグ殿がそう呼べる人かな。もう随分と会っていないけれど」
尚も真剣に考え続けるカミューの口からは、当然のことながらマイクロトフの名が出る気配はない。が、それ以上に気になる名も洩れようとはしなかった。
「……ルシア殿は?」
やや俯きがちに低く尋ねる。ところが、干渉に過ぎる己への後ろめたさに、知らず逸らされようとした瞳が、顔色を変えるカミューを捉えてしまった。
先程の、意表を衝いた質問に対処し切れなかった顔とはまるで違う。恐れのようなものを混濁させた面持ちが、呆然とマイクロトフを凝視していた。
「どうして?」
震える唇が問うた。
「何故その名を……」
たちまち激しい呵責がマイクロトフを襲った。黒髪を掻き毟って失言を呪う。
「……っ、すまない。聞いてはいけなかったのだな。寝言で呼んでいたのだ。女性の名だろう? おれはてっきり、おまえの想う人かと……」
そうして、またしても刺すような痛みを胸に走らせるマイクロトフだ。
深い眠りの中で、誰とも分からぬひとの名を呼んだカミュー。苦しげに、切なげに───そこに居ない人を手繰り寄せるかのように。
触れてはいけない人だったのだ。自らを殴りたいほどの悔恨に項垂れていると、不意に忍び笑いが起きた。
「想い人? ルシアが、わたしの……?」
はっと顔を上げると、カミューは誇張ではなく、腹を抱えて笑いを堪えていた。
「マチルダへ来る少し前に、グラスランドのとある村に幾日か滞在していた。彼女はその村の族長の娘だ。でも、想い人というのは勘弁してくれ。ルシアはね、こんなに太い鞭を武器にしている女傑だよ。心からの敬意は抱いているが、それ以上の感情はなあ……彼女にしても、わたしみたいな男は好みと違う、とでも言いそうだ」
指で輪を作って鞭の太さを示したカミューは、何とも可笑しそうに掠れ声で続ける。
「強いて言うなら、同朋……同じ草原に育った、遠い、血の繋がらない兄妹みたいなものかな」
「そうなのか……」
死んだ恋人、などといった悲劇的な方向に想像が働いていただけに、マイクロトフは安堵で包まれた。
触れて欲しくない傷をこじ開けてしまったなら、どれほど詫びても足りなかっただろう。だからカミューに引き擦られるように一緒になって笑ううち、マイクロトフは重要な事実をひとつ、気付かぬままに記憶から零した。
今し方、カミューが見せた驚愕ぶり。たった数日、同じ村で過ごした族長の娘の名を聞いただけでは有り得ぬ過敏。唇まで色を失って、彼にしては珍しく声も出なくなるような、恐怖にも似た衝撃───それらは全て、目前の笑顔によってマイクロトフの意識から抜け落ちてしまったのだ。
笑いを納めてカミューが呟いた。
「似ていたんだ、わたしたちは」
「似ていた……?」
「姿かたちではないよ。そう……、さっきおまえが言った大切なもの、護りたいものを失くした人間同士だったのさ」
え、とマイクロトフは目を瞠った。控え目な促しに気付いたカミューは、ゆっくりと目を伏せた。
「彼女は族長である父親を亡くしたばかりだった。何も出来なかった自分を責め、憤っていた。わたしも昔、同じ思いを舐めた。失ったものの大きさに、無力な自分を憎みもした」
「カミュー……」
「互いの気持ちを理解出来るという意味では、わたしにとってルシアは大切な人間なのかもしれない。それ以外の理由で人生が交わることはないだろうけれどね」
「カミュー」
堰を切ったような衝動に突き動かされて、マイクロトフは青年の腕を取った。詮索への自戒が過ぎる暇もなかった。
「おまえは何を失ったのだ?」
───だからそんな目をするようになったのか。
相対した敵を感情もなく見据える冷酷な眼差しは、殺すために振るわれる剣は、その喪失から生まれたものなのか。
「……すべてだ」
琥珀が揺れた。一瞬だけ、泣き出すのではないかと思われる熱に支配された瞳が、ひたとマイクロトフを見詰める。
「すべてだよ、マイクロトフ。残ったのは、この身と剣だけだ。ゲオルグ殿に出会わなかったら、生きていられたかどうかも分からない」
「そ、れは……どういう……」
反射的に問い質そうとしたが、優しい手に遮られた。カミューはマイクロトフの胸に掌を当てて静かに首を振った。
「話し過ぎたな、ここまでだ。おまえが知る必要はない」
そんな、と目を剥いて詰め寄ろうとする。
肝心なところで肩透かしを食らったも同然だ。これまで一度として語られなかったカミューの過去。それも、こんな苦しげな顔を見せておいて、そこで終わりとは。
必死の形相で迫る皇子を、胸に当てた手に力を込めて押し遣った青年は、自嘲混じりに呟いた。
「護る力がないものは「大切な何か」など持ってはいけないんだ。これが十四歳のわたしが、すべてと引き換えに得た教訓だよ、皇子様」

 

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ルシア殿・恋人疑惑は晴れたものの、
またしてもうっちゃりを食らったプリンスの心は
鳴戸の渦潮のようであり……(「北○国から」っぽく)

次はゴルドー様、36話目にして初登場。
待ちくたびれて暴食を重ね、体重を増された模様。

 

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