此度は飽く迄も私的な訪問だからと、グリンヒル公女の侍女はあらゆる持て成しを固辞する姿勢だった。
しかし、それでは遥々隣国より足を運んでくれた相手に礼が立たぬと熱心に訴えたマイクロトフに根負けし、最終的には「ごく内々での夕食なら」というところで落ち着いた。
東棟にある部屋までエミリアを案内したマイクロトフは、彼女が室内へと消えるのを見送った後、ぼんやりと視線を巡らせた。
この廊下の突き当たりに皇妃のための部屋がある。
中央棟にある、歴代の皇王と妃が住まってきた正式な居室とは異なる、隠れ家のような一室。侍女に与えられた部屋と広さも変わらず、内部の様子に至っては、そこらの民家の一室をそのまま移したような錯覚を起こさせる部屋だ。
唯一目を引くつくりと言えば、並外れて大きな窓のみ。朝陽の昇る方角へと設けられた窓には、蜜色のたっぷりとしたカーテンが下がり、春になると良く吹く東風に揺れて室内を踊る。
それは前皇妃、即ちマイクロトフの母のために作られた部屋だった。
前皇王がまだ皇太子だった頃、周囲は妃探しに奔走していた。彼は即位後、歴代の王の中でも長く名君となるだろうと期待される人物だった。そんな男の横に並ぶに相応しい乙女を求めて、デュナン中の名家の娘が次々と選別にかけられていた。
だが、彼が選んだのは財も持たぬ地方貴族の娘だった。騎士を従えて査察に訪れたマチルダ最北の村で、一杯の水を振舞った乙女だったのだ。
そう頻繁に騎士が立ち寄る村でなく、だから彼女は知らなかった。一人異なる装束を纏う男が青騎士団の長であり、聖人の血を引く最後の王族であるなどとは。
求められるまま平凡なグラスで水を差し出し、飾り気のない無邪気な笑みを見せた乙女に、男は永遠を見た。このひとを生涯かけて護り慈しもうと決意した。
無論、反対がなかった訳ではない。
政治的な片腕となり得るような妃、あるいは同盟をより強固なものにするために他国の姫を迎えるべきではないか。名家の娘を欲しいまま望める身が、何の気迷いで利もない地方貴族の娘などを、と口さがなく言うものもいた。
だが、皇太子の心は揺らがなかった。
妃に付随する利が惜しいか、ならばわたしは己の力で同じだけの利を掴み取る。
妻と呼び、生まれる子の母になって欲しいのは彼女だけ。共に生き、いつかマチルダの土に還るときも、傍らに添って欲しいのは彼女だけなのだ。
国を護るのがマチルダ皇王となるもののつとめ。
この乙女を護るのは、一人の男としての我がさだめ───
眩しいほどの熱意に最初に負けたのは皇太子の母だった。現皇妃が認めては、声高に異を唱えるのも躊躇われたのだろう、みるみる反対派の意見は消えていった。そうして皇太子は、晴れて乙女を迎えに行ったのである。
騎士の一人だとばかり思い込んでいた男が皇太子として現れ、目の前で膝を折り、厳粛に妻問いを言上した。その刹那で、乙女の人生は色を違えた。
数月前、見知らぬ騎士に仄かな恋心を抱いたものの、つとめを終えて騎士はロックアックスへ戻った。名も知らず、けれど優しい瞳で「いずれまた」と言い残した男。
いつかまた会えるのだろうか、そんな切なさを込めて見送った相手が迎えに来た。それも、思いも寄らぬ重い肩書きを背負って。
何も出来ないと乙女は泣いた。いずれ王となる人に添うには、あまりに無力な身だったから。
もっと相応しい女性がいる筈だ。何故、自分のような平凡な娘を荒波へと誘うのか、あなたはひどい、ひどい人だと皇太子を責め立てた。
分かっていたのだ。抗えぬさだめだということは。
どんな人間だろうと構わない。愛したのは、水を受け取りながら照れ臭げに笑んでみせた男。堅苦しい物言いながら村の子供と楽しげに語り、老人の手を引き、そして自分を真っ直ぐな眼差しで見詰めた男なのだ。
皇太子は乙女に言った。
他に何も望まない、あなたにしか出来ないことがある。
笑ってください───わたしの傍で。
ただそれだけで、わたしは幾らでも強くなれる。
あなたが傍に居てくれるなら。
いつしか亡き母の部屋へと足を踏み入れていたマイクロトフは、当時のまま残された品々を眺め遣った。
父は嫁いでくる母のためにこの部屋を作らせたのだ。民家の居室の再現。多大な環境の変化、そして気後れに妻の心が潰れてしまわぬよう、心安らぐ空間を用意したのである。
妻の好む色のカーテンを下げ、生家の居間にあったものと似た暖炉を設え、家具は彼女が使っていたものをそのまま運び入れた。
傍で笑ってくれるだけで───父が母に求めたのは、本当にそれだけだったのだ。
皇王位に就いた後も、若き日の情熱は変わらなかった。長く世継ぎに恵まれぬ切ない時期も、父は母を護り続けた。側室をあてがおうとする側近らを退け、母だけを愛し続けた。
やがて彼女が命を懸けて産み落としたマイクロトフを、二人分の愛で慈しんだ。
「大切なひと、か……」
マイクロトフはポツと独りごちた。窓辺へ進み、硝子を開け放ってみる。
幼い頃、ひとり部屋に立っては、風に翻る蜜色の布を身体に纏わりつかせて何時間も過ごしたものだ。そうしていると、絵姿でしか知らぬ母に抱かれている気がした。
どうして自分には母がいないのか、そう心沈ませる幼いマイクロトフに、いつであったか、宰相がこっそりと父母の馴れ初めを語ってくれた。
二人がどれほど互いを想っていたか、そしてマイクロトフの誕生をどんなに待ち望んでいたか。
たとえ傍におられなくても、母君は常に殿下を愛し、見守っておいでです───宰相グランマイヤーはそう言って幼い皇子の頭を撫でたのだった。
亡き母への思慕を掻き立てる部屋が、成長と共に、両親の恋へと思いを馳せる部屋となった。
その人と共に生きられるなら、どんな過酷な道も喜びへと変わるような熱情。手を差し出した父と、その手を取った母。両者に交わされた尊き誓いを心から羨んでいる。
いつかさだめの人と出会い、手を取り合って生きていけたら。父と母のように、生涯変わらず想い合えたら。
父が急逝する前は、そんな甘い夢想に耽ったものだ。けれど今は、最後の王族であるという現実が重くマイクロトフに圧し掛かっている。
もしも自分が生まれなかったら、王家の血は絶えた。マチルダの土台である王制が終焉を迎えていたのだ。
母は眠れぬ夜を過ごしただろう。夫に他の女性を勧める周囲の声を退けることも叶わず、もしかしたら覚悟さえしていたかもしれない。
だが、父は?
父に怖れはなかったのだろうか。自らの代で始祖の血が絶えても、それでも構わなかったのだろうか。
一人の女との誓いを遵守し、最後の王となる覚悟が父にはあったのか。ひとつの時代を終わらせ、新たな時代の創世者となる覚悟が───
───敵わない。父はあまりに大き過ぎる。王として、そして男としても。
マイクロトフはきつく拳を握り締めたまま、暖炉の上に置かれた絵を見詰めた。肖像画と呼ぶにはあまりに小さく粗末なそれは、当時の侍女の手による画だという。
そこに皇王と皇妃はいない。ただ、父と母が幸福そうに笑っていた。
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