最後の王・34


マイクロトフはエミリアを伴って東棟の展望所から城下を見下ろしていた。
宰相の部屋を出た際、内密の話があると言われた。女性の部屋に立ち入るのは憚られたため、ここへ案内した訳だが、そんな礼節を快く思ったのか、エミリアが見せる親愛は一年前のグリンヒル来訪時にも増していた。
副長とはあの場で別れたが、廊下を行く皇子には、今では大勢の部下の注視が払われている。決して負担を感じさせぬよう、だが皇子が安心して過ごせるようにと、騎士らは心を砕いているのだ。
女性と並んで歩く彼を不思議そうに見るものは多かった。結婚まで本決まりとなっているのに、マイクロトフは周囲から「女性の扱いが不得手である」と見られている。長い間、傍に侍らすのが乳兄弟の従者一人であったために広まった噂かもしれない。
実際、彼は女性が苦手だった。気の利いた洒落ひとつ言える訳でなし、どう相対したら良いのか途方に暮れるときが多い。
だが、尊敬出来ると感じた相手ならば別だ。性別を越えて一人の人間として向かい合えるからである。
主人の望みを果たそうと単騎マチルダを目指した勇敢な侍女。エミリアはそんなふうにマイクロトフの懐に迎え入れられたのだった。
石枠にゆったりと身を委ね、エミリアは心地好さげに目を閉じていたが、そのうちに唇を綻ばせてマイクロトフに視線を当てた。
「この街には豊かな風が吹くのですね」
「豊かな風?」
ええ、と彼女は虚空に手を伸ばす。
「表情があるとでも言うのかしら。マチルダについて記された書物を読んだときには、厳しい北風しか吹かない街かと思いましたのに、こんなにも穏やか……。何だか風に抱き締められているような気が致します」
いきなり詩的めいた話題から始まって、マイクロトフは面食らったものの、必死に頭を働かせて頷こうとした。
「この季節は西からの風が吹く。城は標高も高く、強風に感じる日が多いが、西風は比較的山脈に遮られる。だから穏やかに感じるのかもしれない」
エミリアはぽかんとし、それからくすくすと笑い出した。
「何かおかしなことを口にしただろうか?」
「いいえ……いいえ。本当にテレーズ様から伺った通りの御方ですのね。無論、褒め言葉ですわ。真面目で誠実な方だ、と」
「……お元気ですか、テレーズ殿は?」
「御輿入れが間近に迫って、何かと不安定になっておいでです」
不意に彼女は笑いを納め、真剣な眼差しになった。
「テレーズ様の御心は先程の文に記されています。ですがこうしてわたしが参りましたのは、マイクロトフ様の偽らざる本心を確かめたいとテレーズ様が望まれたからです」
「おれの本心?」
「書面では伝えられぬ心もありますわ。だから直接マイクロトフ様にお会いして、御真意を見極めたい───テレーズ様はそう願われたのです。代役として危険を覚悟で旅してきたわたしの心をどうかお汲みになって、ひとたび全てを白紙に戻し、その上でのマイクロトフ様のお考えを聞かせていただきたいのです」
眼鏡の奥の瞳が偽りを許さぬ真摯に燃えている。その眼差しから城下の展望へと視線を移したマイクロトフは、流れ行く風に微かに目を細めた。
「おれの心はテレーズ殿とお会いした一年前と何も変わらない。男がひとたび決めたこと、今更どうして揺らぐだろう」
「ですが、マイクロトフ様───」
縋るように呼ぶ侍女を柔らかく一瞥してから、ふと表情を陰らせる。
「それより、テレーズ殿こそ如何なのか。おれにはその方がずっと案じられます」
「テレーズ様は……公主様の一人娘として、いずれはグリンヒルを背負う御方と民の期待を一身に受けてこられました。なのにこうして故国を離れようとなさっておられるのですもの、御心が揺れるのも無理からぬことと思います」
「だが」
マイクロトフは真正面からエミリアを凝視した。
「それもまた、己で決められた道。どうか支えて差し上げて欲しい」
「はい……」
エミリアは仄かに涙ぐみ、眼鏡を外して目許を拭った。
父に決められた縁談の相手がこのマチルダ皇太子であった、それはテレーズにとって何よりの幸福だったのだと彼女は思う。誰もが自国の利を第一に考える中で、たったひとり、隣国の皇子だけが公女の理解者だった。
「……マイクロトフ様で良かったと、心から思いますわ」
「何がです?」
「婚姻相手としてお会いしたのが、です。わたしはテレーズ様のため、このさだめを祝します」
「さだめ───」
マイクロトフは考え込んだ。長い沈黙を訝しく思ったエミリアが案じる面持ちで覗き込む。
「どうなさいました? 何か不躾なことを申し上げたかしら」
「ああ、いや」
気遣わしげな侍女に慌てて笑み掛け、とつとつと打ち明ける。
「つい昨夜、おれは似たような言葉を口にした。会えて良かった、と……最近雇い入れたばかりの護衛なのですが」
「まあ、聞き捨てなりませんね。護衛というのは、まさか女性じゃありませんわよね?」
マイクロトフは吹き出しそうになった。
「男です。たいそう綺麗な姿をしているし、愛想も良いのだが、おれに対しては遠慮の欠片もない皮肉屋で、いつも怒られてばかりいるような気がする」
そこで深い溜め息をつく。
「出会えて良かった───そう言われたら負担なのだろうか。おれは嬉しい。今、エミリア殿の言葉を聞いて嬉しく思った。だが、あいつは困った顔をした。いや……顔は見えなかったが、多分そういう顔をしたに違いない。おれの言葉はいつもカミューを素通りする」
途中からは殆ど独言のような勢いだった。一気にそこまで言ってから、やっとマイクロトフは我を取り戻した。
「……っ、すまない。一人で勝手に長々と……」
「言い付けます」
「エミリア殿?」
「テレーズ様の御耳に入れたら、どんなふうに反応なさるかしら。ああ、楽しみ」
「な、……エミリア殿!」
狼狽して、無我無中で侍女の肩に手を掛けたとき。
低い声が呼んだ。
「ここにおられたのですか、殿下」
───カミューだった。
いつものように柔らかな笑みを浮かべ、彼はエミリアに向けて優美な礼を取る。何もやましいところはなかったのに、女の肩に乗せた己の手に気付くなり、マイクロトフの焦りは倍増した。慌てて手を離して数歩進み出る。
「カミュー! これは……」
「お話し中、失礼致します。居室内の荷の移動がすべて完了したのを御報告に参りました。それからこれは副長殿より、御伝言です。特に至急の案件がない限り、明後日より第一部隊と共に、領内の査察に向かわれたし───」
淡々とした声には感情が窺えない。カミューは一切の機微を廃して事務的な連絡に終始した。それから再度二人に丁寧に会釈すると、くるりと踵を返して足早に去って行った。
「あ……」
エミリアの肩から外した手を、青年の残像を掴むように伸ばしたまま、マイクロトフは呆然とするばかりだ。束の間の後、ヒソとエミリアが切り出した。
「……あれが「カミュー」様ですの?」
「そうです」
「お話の通り、見惚れるほど端正な殿方ですわね。それに立ち振舞いも優雅で……公主様の近衛隊長でも、ああはいきませんわ」
「ええ」
でも、とエミリアは愁眉を寄せた。
「……何だか、とっても怒っていらしたみたい」
「そ、そう思われるか……」
懸念を裏付けられて愕然とする。
今度はいったい何が不快の琴線に触れてしまったのか。思い当たるのは、やはり女性と密会じみた語らいの場を持っていたという一点しかないが、よくよく考えてみればカミューが腹を立てる理由が分からない。
「どうして怒ったのだろう?」
「わたしに聞かれても困ります。でも……そうね、肩に触れているのを御覧になったから、さっきの白騎士みたいに、横暴を働いていると誤解されたのではないかしら」
「……馬鹿な」
だとしたらひどい誤解だ。悄然としていると、エミリアが可笑しそうに指摘した。
「あまり動揺なさらない方が宜しいのではありません? それではまるで、恋人に浮気の現場を見られたみたい」
意表を衝かれて呆けた。即座に紅潮する頬を感じながら必死に言い募る。
「こ、恋人だなどとは心外です! 彼は、いや、おれたちは断じてそのような仲では───」
「嫌ですわ、どうか落ち着いてくださいな」
呆れ顔で諭され、やっとのことで言葉を飲む。
「冗談に決まっています。さっきの、テレーズ様に言い付けるというのも冗談です」
「冗談……」
無意識に復唱する皇子を見詰める瞳は愉快そうに笑んでいた。「冗談の通じない人」とテレーズはマイクロトフを語っていたが、本当にその通りだ。物慣れぬ若者を手玉に取る悪女にでもなったような、そんな楽しさと申し訳なさが今のエミリアには同居していた。
「ごめんなさい、悪ふざけが過ぎましたわね。テレーズ様に素敵な報告を持ち帰れると思ったものですから、ちょっと舞い上がっていたみたい」
「素敵な報告?」
「ええ。マイクロトフ様にも大切な人が出来た、と。真心を伝えたいと思うのは、相手が大切な証拠です。友人でも恋人でも同じ……、自分を知って貰うところからすべては始まるのですもの。どんなに素通りしいているように思えても、その中の一欠片くらいは伝わっている筈です。カミュー様が受け入れようとなさらないなら、何か理由がおありなのではないかしら?」
「理由? 例えばどのような?」
うーん、とエミリアは思案に暮れる。
「雇われた護衛という立場上、身分の違いで遠慮しておられるとか……?」
「遠慮どころか、あいつはいつもおれを小馬鹿にしているが」
「……いずれ辞去しなければならないから、必要以上に親しくならないように心掛けていらっしゃるとか」
「このままマチルダに留まって欲しいとは思うのだが、「任期の延長はない」ときっぱり言われたことがあって……」
はあ、と最後に彼女は嘆息した。
「御力になれず申し訳ありません。わたしには分かりかねます。男心って難しいわ」
「おれは男だが、まるで分からない。だが、エミリア殿の御陰で少しだけ安心した。単におれが鈍いという訳ではないのかもしれないな、カミューが難し過ぎるのだ」
そこまで来てエミリアは堪らず笑い出した。コロコロと耳触りの良い声が躊躇なく言い放った。
「難儀な方にお惹かれになったものですわね。心から御同情申し上げますわ、マイクロトフ様」

 

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多分このエミリア女史は
「ホモよ、ホモが居たわ〜!!」
……と、脳内スキップはしていない筈。

 

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