最後の王・33


皇太子と青騎士団副長の訪いを受けた宰相グランマイヤーは上機嫌だった。何しろ、騎士団長の責務を果たすと宣言してからの皇子とまともに顔を合わせるのは初めてだったのだ。
彼自身、分刻みの執務に追われている。片やマイクロトフも青騎士団の本拠である西棟に入り浸りで、グランマイヤーの居る東棟には夜しか戻らない。
不慣れなつとめに苦慮しているのではないか、ゴルドーの魔手が近付いてはいまいか。最初はあれこれ思い悩んだものだが、そのうちに不安も消えた。自身の耳に問題が聞こえてこないのは、マイクロトフが順調にやっている証拠であり、彼が信頼を寄せた人物らが、その心に確実に応えているからなのだ、と。
皇子らを迎えて、いそいそと茶の支度を整えたグランマイヤーは、何気ない調子で向かい合った。生真面目な皇子のこと、律儀にも途中報告にでも訪れたのだろうと信じて疑わなかった。
だが、もたらされた報は彼を愕然とさせた。次には深刻な自責が広がり、頬は蒼白になった。
「何と……赤騎士団が、そのような……」
「我々は彼らと手を結び、謀略からマイクロトフ様を御護りし、マチルダ騎士団の在るべき姿を取り戻すため尽力する所存にございます。赤騎士団長でおられるグランマイヤー様にも御一報を、と思いまして」
青騎士団副長が丁重に述べるなり、グランマイヤーは膝の上の拳を戦慄かせた。
「赤騎士……団長……」
呻くように呟き、震える拳で卓を打ち据える。そのまま両手で頭を抱えた彼は、絞り出すように言った。
「そのような名で呼ばれる資格などない。わたしは何年も前に一度だけ、宰相就任時に赤騎士の前に立っただけの据えものだ。彼らの苦しみも知らずに理不尽を放置してきた無力な愚か者でしかない……!」
───称号として与えられた名だと思っていた。宰相として課せられたつとめは多く、もう一つの名の重みなど考える余裕は皆無だった。
もし、一度でも赤騎士団を顧みていたならば、刻々と力を増すゴルドーの前には救いとなれずとも、それでも騎士らは多少なりとも心慰められたかもしれないのに。
「御自身をお責めになりませぬように、グランマイヤー様。宰相というお役目の厳しさは誰もが存じております。だからこそ赤騎士団副長殿はグランマイヤー様のお耳に入れぬよう、心を砕かれたのですから」
「ならばいっそう自分が許せぬ」
いっそ遺恨を抱いてくれていれば、多忙を理由に自責から逃れる卑劣な人間になれようものを。一切の憤懣を胸に納めて苦闘し続けた、それほどまでに潔い男たちを、何も知らずに苦境に置き去りにした痛みは大きい。
苦悩を見守っていたマイクロトフが低く切り出す。
「……グランマイヤー、おれも遅れを取り戻すために必死にやっている。おまえもそうしてくれ」
はっとして顔を上げる。目前の皇子の精悍な顔を見るなり、熱していた頭が冷えた。
詫びるだけならいつでも出来る。事実を知った今、どう動くかが贖罪の一歩なのだ。乱れた髪を撫で付け、グランマイヤーは背を正した。
「わたしに……出来ることがありますかな?」
マイクロトフは副官を一瞥して説明を促した。乗り出した男の真摯な眼差しが説く。
「先ずは現在各地に派遣されている赤騎士団員ですが、手に余るつとめを課せられております。彼らを早期帰参させるため、青騎士団からも人員を送ります」
「大丈夫か?」
グランマイヤーは慎重に問うた。
「と言うのも、青騎士団には即位式の警護の中心を担って貰う心積もりだったのだよ。あまり疲弊されては……」
このままゴルドーがおとなしくマイクロトフを皇王位につけるとも思えない。大勢の人間が集まる即位式は、暗殺における最後の機会だ。ここには最大の配慮を払わねばならず、それには青騎士団員が中心となる警備網を敷くのが最も望ましいだろうと考えていたグランマイヤーなのだ。
それを聞くと青騎士団副長は微かに目を見開き、穏やかに笑んだ。
「光栄なるつとめ、謹んでお受けしたいと存じます───朋友たる赤騎士団員と共に」
そうか、とグランマイヤーもまた目を細めた。
所属は違えど、同じマチルダ騎士。互いを認め合い、尊重してきた歴史を取り戻そうと動き出した男たちに、もはや躊躇いはないのだ。
「ただな、グランマイヤー。つとめは命を受けた騎士団で果たすのが通常の慣習だ。下手に助力の手を出せば、ゴルドーに攻撃の口実を与えてしまう」
「殿下……は無理としても、副長殿が解任される恐れがあるという訳ですな」
「わたしのみならず、赤騎士団副長殿も危険です。安易に他団に助力を求めたと追求されかねません」
副長が言うと、グランマイヤーは考え込んだ。
「己の息が掛かったもので両騎士団の副長の首を挿げ替える……ゴルドーには願ってもない口実になるな」
さてどうしたものか、と思案する男に副長が続けた。
「そこでグランマイヤー様に文書の作成をお願い申し上げます」
「書状、だと……?」
はい、と副長は憚るものがないにも拘らず声を潜めた。
「赤騎士団長として、青騎士団に正式に任務遂行のための助力を求める、といった文書です」
「効力があるのかね?」
宰相として大まかな騎士団の内規には通じている。記憶を探っても、任を与えられた騎士団が他団の助力を仰いだという例はない。
グランマイヤーの懸念を、だがマイクロトフは不敵に退けた。
「効力があろうとなかろうと、それで押し切る。文書を交わし合ったのが赤・青、両騎士団長───つまりおれたちならゴルドーには解任の権限がない。それでも文句をつけてくるなら、おれも言いたいことが山ほどある」
「マイクロトフ様……」
宰相には若き皇子の静かな怒りがひしひしと感じられた。幼少の頃からの憧憬であるマチルダ騎士団、国の護りともあろう崇高な集団を歪められた憤怒は察して余りある。なまじ激昂しないだけに、かえってその奥深さを物語るというものだ。
「分かりました。赤騎士団長より青騎士団長へ、人的協力の要請書を……直ちに作成致しましょう」
一先ず、宰相を訪ねた一番の目的を果たし終えて副長はほっと安堵の息を吐く。片やマイクロトフは、出されたまま一度も口にしなかった冷えた茶で喉を潤し、気分を一新するように言った。
「そうだ、グランマイヤー。おれは今日から西棟に居室を移すぞ」
「は?」
「最近では寝るためだけに戻っていたようなものだからな、西棟に寝起きする方が何かと都合が良い。何かあったら、そちらに連絡してくれ」
さらりとした言に戸惑ったように瞬き、宰相は更なる説明を求めて副長に目を向ける。騎士は微笑みながら言い添えた。
「青騎士団所有の客間を御用意致しました。無論、警備は怠りませぬゆえ、御安心を」
「いや……しかし、あの棟の客間は……」
今の皇子の居室よりも明らかに狭い。同世代の男三人、寝起きを共に出来るものだろうかと首を捻ったところで察した副長が破顔した。
「フリード殿の部屋は兵舎に整えました。これは当人の希望です」
「……何と」
些か驚くグランマイヤーだ。従者としての役目を度外視しても皇子一途だった若者に如何なる心境の変化があったのか。
「フリード殿は騎士団を慈しまれるマイクロトフ様の御心をより深く理解するため、兵舎で生活したいと自ら申し出たのです。まことに従者の鑑ですな」
グランマイヤーは感慨を込めて溜め息をついた。
若人の成長は早い。たった数日で、これまでの人生を揺り動かすほどの変貌を遂げるときもある。マイクロトフにとって、そしてフリード・Yにとっても、今がその時なのだろう。
「カミュー殿は今まで通り、殿下の寝所を護ってくれるのだな?」
「はい。しかしカミュー殿の手を煩わせぬよう、信の置ける張り番を室外に配備する予定ではありますが」
その一瞬、青騎士団副長の表情が和んだのにグランマイヤーは気付いた。
「どうだろう、副長殿。忌憚ない意見として……あのもののはたらきは?」
すると男は横の皇子をちらと見遣ってから苦笑した。
「わたしも伺って宜しいでしょうか? カミュー殿を如何程で雇われたのでしょう?」
「前金で五万、無事に殿下が即位された後に残り五万を支払う契約だが……」
「合計で十万ポッチ、ですか。こう申し上げては何ですが、安い買い物をなさいましたな、グランマイヤー様。あの方は今や我らにとって要とも呼べる存在。契約終了後には何とか騎士団に迎え入れられぬものかと思案しているほどです」
ほう、と感嘆めいた合の手を洩らした宰相は皇子へと視線を移した。
「殿下、実を申しますと……金銭で武力を売るのが傭兵なれど、彼は報酬に条件をつけませんでした。つまり、こちらの言い値も同然だったのです。金に執着していないとでも言いましょうか、あれにはわたしも拍子抜けしました」
「……カミューらしいな」
曖昧に笑みながら、そうポツリと零した。
カミューは「報酬」だの「仕事」だのと頻繁に口にする。だが武力で対価を得るだけの身が、ああまで献身に臨むものだろうか。
副長が言うように、カミューは騎士の中心的存在になりつつある。未だ二十歳も越えぬ青年の意見に、経験を重ねた男らが諾として従おうとする。
赤騎士団員も同様だ。ただ剣技が見事なだけなら、敬意は払っても、膝を折るまではするまい。彼らはカミューの中に何かを認めたのだ。騎士として尊ぶべき、頭を垂れずにはいられない何かを。
マイクロトフは目を閉じた。
「万一のときには、わたしが止めるよ」───耳朶に優しい声が残っているような気がする。その響きを反芻するたびに胸の奥に痛み混じりの熱が走る。ずっと求めていた、心を安らがせる言葉の筈なのに、この不可解な痛みは何なのだろうか。
グランマイヤーが笑い含みに締めた。
「そんな人物ですから、騎士団に価値を見出せば、そのまま留まる可能性もあるでしょう。ゆっくりと勧誘なさいませ」
「そうだな……」
内心の陰鬱を気取られぬよう、努めて笑顔を装った。既に一蹴されたのだと、今は打ち明ける気にはなれない。
何よりマイクロトフ自身が認めたくなかったのだ。あれほど温かく心の傷を癒してくれた青年が、次の瞬間には差し出していた手を退いた、とは。
「ところで、グランマイヤー様。先程、式典について仰せでしたが……我ら青騎士を中心に警備を組織する旨、如何様にしてゴルドーに認めさせるおつもりですかな?」
「それなのだよ、問題は」
グランマイヤーは愚痴めいた口調で唸る。
警備について実質的に差配するのは騎士団であり、その詳細を決める権限は白騎士団長にあると言ってもいい。グランマイヤーの提案を、ゴルドーは断固として認めまい。
「色々と抜け道を探してはいるのだが、わたしにそこまで指示する力はないしな」
「そうは言っても、時は待ってくれないぞ。騎士団に向けての警備任命状は必要だ」
皇子にまで言われ、グランマイヤーは苦しげに首を振った。
「分かっております、可及的速やかに善処致します」
深い溜め息が困難を物語っている。その様子を見た青騎士団副長は、心中密かに、後でカミューに相談してみようと思い立つのだった。
会談を終えて二人が宰相執務室を出ようと立ち上がり掛けたとき、扉外で何事かを訴える女性の声が響いた。
三者が顔を見合わせ、代表するかたちで副長が扉を開けたところ、今にも部屋に入ろうとしていた女性と、彼女の腕を鷲掴んで押し留めようとする数人の白騎士と鉢合わせた。
副長の影から事態を目にしたグランマイヤーが仰天して立ち上がる。
「あなたは……グリンヒル公女の……」
「一年ぶりになりますかしら、グランマイヤー様。ええ、テレーズ様付き侍女のエミリアです。覚えていてくださって嬉しいですわ」
騎士と争ううちにずれた眼鏡を擦り上げながら、女は宰相に笑んだ。それから挑発的に目を光らせて己の腕を掴む騎士を睨み付ける。
騎士はすぐさま気まずそうに手を離したが、乱暴な扱いを受けた侍女は納まらぬ面持ちだ。冷ややかな目で自らを取り囲む男らを眺め回し、大仰に息を吐く。
「いったいどういうことですの? わたしはマイクロトフ様宛のお文をお預かりして参りましたの。城門で迎えてくださった青騎士様は御親切にも一緒にマイクロトフ様を探してくださったというのに……そこの廊下でこの方たちにお会いした途端、まるで罪人のような扱いですわ」
「い、いや、それはその……」
白騎士の一人が室内の三者の顔色を窺いながら抗弁しようとしたが、エミリアのきつい一瞥に怯んで口篭る。
先ずは時候の挨拶とか、訪問に対する慰労とか、そういった会話が為されるべき状況だったろう。しかしエミリアの迫力に、マイクロトフらも言葉が出ない。呆気に取られるうちに、漸く事態を重く見たらしい白騎士が陳謝した。
「相済まなかった。グリンヒルから来訪されたと聞き、てっきり御婚儀に関する使者かと……白騎士団長の許へ御案内しようとしたのだ」
あら、とエミリアはいっそう冷徹に男を凝視する。
「御婚儀絡みの使者でしたら、それこそ皇太子殿下か皇国宰相をお訪ねするのが筋じゃありませんか。どうして白騎士団長にお会いせねばなりませんの?」
これには平手打ちほどの力があったようだ。白騎士たちは言葉に詰まって互いを窺い合っている。
グランマイヤーはあまりにも見事な正論ぶりに失笑を噛み殺し、同時にゴルドーの目論見が破れたことに心中で快哉を叫んだ。
「まったくだ。ゴルドーが、他国の使者は自らの許へ連れてくるよう命じたのか?」
これはまずいぞ、といった表情が騎士らの間を走り、一人が渋々と頷いた。
「……グランマイヤー様の御負担を減らすための御気遣いかと」
「ならば伝えよ。騎士団長の権限を逸脱した気遣いなど、わたしは欲しておらぬ、とな」
「は、はい……」
「まして御婦人の身体に手を掛けるなど言語道断。猛省するが良い」
「申し訳ございません……」
「では、直ちに下がるが良い」
騎士たちは深く頭を垂れ、エミリアにも一礼して去って行った。
一同の姿が視界から消えた刹那、エミリアは入室して扉を閉め、改めて微笑んだ。
「言い過ぎましたかしら?」
「とんでもない、実に爽快な非難だった。騎士たる本分を忘れたものには良い薬だ」
グランマイヤーも笑み返して椅子を勧める。そのままマイクロトフも座り直したので、青騎士団副長も元の席を温めるに至った。彼に気付いたエミリアが丁寧に会釈する。
「こちらの騎士様は、お会いするのは初めてですわね。グリンヒル公女テレーズ様に御仕えしているエミリアと申します」
「彼は青騎士団の副長職を勤めている。殿下の忠実なる臣下だよ」
グランマイヤーの紹介に、副長は背を正して礼を払った。これまでマチルダの貞淑で口数の少ない女性ばかりと接してきた彼には、エミリアの物言いは斬新すぎて、どうにも居心地の悪さが否めないのだ。
そんな機微を察した女は堪らぬといった様子で苦笑した。
「申し訳ありません、我慢出来なかったものですから……。あの方たち、ここまで案内してくださった青騎士様を、ひどく高圧的に追い払ったんです。わたしが幾らマイクロトフ様にお会いしに来たのだと言っても、「いいから来い」ですもの」
「それは……不快な目に遭われましたな。マチルダ騎士としてお詫び申し上げる」
副長が心を込めて言うと、エミリアの表情は和らいだ。
「騎士団の序列では白が最も高位でしたか、地位に溺れるとはこういうものなのですね。ええ、あれが全てのマチルダ騎士だなどとは思いません。以前マイクロトフ様と御一緒にグリンヒルにいらした赤騎士の皆様、今の御親切な青騎士様……立派な方々を存じておりますもの」
言葉尻が穏やかになったためか、意見そのものに感じ入ったためか、ともあれ副長は当初の苦手意識を失い、一度目よりも遥かに気持ちの篭った礼をエミリアへと捧げた。
「それよりエミリア殿。供廻りは何処に?」
「おりません。一人で参りましたの」
エミリアはあっさりと皇子の疑問に答え、これには男たちも絶句した。
「お一人で、ですと?」
「ええ。テレーズ様は内々に事を運ぶように希望されておいででしたから。供廻りなどつけては目立ちますでしょう?」
もっとも、と朗らかな笑い声を零す。
「たった今、不本意にも目立ってしまったようですけれど。こちらがテレーズ様からのお文です。お納めくださいな」
しなやかな指が小さな荷袋から一通の書状を取り出し、マイクロトフの手元の卓に乗せる。
「これを届けるために、一人で旅して来られたのか?」
半ば呆然と、独言気味に呟かれたグランマイヤーの言葉にエミリアは頷く。
「どのようにして……?」
「馬で参りました」
「いや、そうではなく。グリンヒルからの道中、危険もあったろう。抜け道を使われたのかね? あそこは特に魔物が多く、男一人でも通るのが躊躇われると聞くが」
エミリアは得意気に眼鏡の奥の瞳を輝かせた。
「勿論、旅支度は万全でしたわ、グランマイヤー様。ニューリーフ学院の生徒の協力で、攻撃魔法の札を大量に持参しましたから」
札というのは紋章の封印球を特殊な技術によって加工したものである。これを発動させると、紋章を宿しているのと同じように自在に魔法が操れるという利便性の高い品だが、作成出来る人間が稀少で、巷の店には流通しにくいという難もある。
ニューリーフ学院はグリンヒル公国随一の学び舎で、マイクロトフの遊学先でもあった。流石は学術都市と名高いグリンヒル公都とグランマイヤーが感心したのも束の間、エミリアは吹き出した。
「でも……駄目ですわね。机上の知識しか持たない学生の作った品では、一割程度しか発動しないんです。グリンヒルから幾らも進まないうちに、これは無謀だったかと悔やみました。あそこで同行者を得られなかったら、一旦引き返すしかなかったでしょうね」
「同行者?」
「ええ。とても紳士的な剣士でいらっしゃいました。御自身も丁度ロックアックスを目指しているから一緒に行こう、と」
「エミリア殿、そのように軽々しく人を信じては……」
グランマイヤーは嘆息した。
侍女は二十代といったところだ。娘でもおかしくない年頃の女性に、自然、諭すような口調になる。親切ごかしに言い寄る悪人は何処にでもいるのだ───そう続けようとしたところで、毅然とした声に遮られた。
「御心配には及びません、これでも人を見る目には自信がありますから。それはそれは目を瞠るようなお強さで、安心して旅が出来ましたわ。御礼をせねばと思いましたのに、行き先が同じだっただけだと固辞されてしまって……。見掛けに寄らず、甘いものがお好きだったので、街の入り口でお別れする際、近くの店で求めたチーズのケーキをお贈りしました」
勇猛な武人とケーキの取り合わせが何とも珍妙で、男たちは気を抜かれて笑い出した。
何処の世界にも悪人はいるが、それに負けぬ数だけ心正しき人間もいるのだ。侍女の幸運を祝しながら、グランマイヤーは言った。
「何はともあれ、無事で幸い。暫し休まれるが良い。すぐに部屋を整えよう」
「では、御言葉に甘えて……わたしの部屋を使わせていただけますでしょうか?」
異国へ嫁ぐ公女に付き従って、グリンヒルから数人の侍女がマチルダへ移り住む手筈になっている。エミリアも、既にロックアックス城に小部屋を用意されている人物の一人であった。
明朗なグリンヒル出の侍女は、最後にマイクロトフを見詰めてにっこりした。
「あまり長居は出来ませんの。テレーズ様が返書を心待ちにしておられますから。今宵一晩休ませていただいて、明日には戻ります」
「分かった。ならば急ぎ返事を書く。帰路は部下に送らせよう」
二人の遣り取りの傍ら、忙しないな、などと独りごちるグランマイヤーは、しかし内心、安堵でいっぱいだった。
グリンヒル公主アレク・ワイズメルから婚儀について初めて打診があったのは、前皇王の喪が明けた日のことだ。まるで、四ヶ月間に渡る服喪の終了を待ちかねたような使者の到来に、些かの不快を覚えたものである。
公女テレーズは一人娘、他に世継ぎ候補がある訳でなし、何の気迷いかと怪訝にも思った。そしてそれ以上に、父を亡くしたばかりの皇子に縁談など持ち出せよう筈もなく、そのときは丁重に、遠回しながら断りを返した。
一年ほど前に行われた再度の申し入れは両国の将来的な統一を盛り込んだ具体的なものだった。
マチルダとグリンヒルが一つになれば、デュナン地方最大級の国家となる。未だ南下を目論むハイランドに対しても、大いなる牽制となるだろう───礼を尽くしたワイズメルの書状に、僅かながらグランマイヤーも揺れた。
彼が束ねる政治議員らは、この話に大乗り気だった。多方面から鑑みれば、グランマイヤーも賛同せざるを得なかったが、政治的に利用される皇子の心情を思うと一抹の後ろめたさが拭えなかった。
取り敢えず顔合わせでも、とワイズメルに押し切られて皇子と共に訪ねたグリンヒルで、既に婚約の準備まで整っていたのには騙し討ちを受けたような気がしたが、数日の滞在の後、マイクロトフがあっさりと結婚を了承したのには更に驚いた。
成程、公女は評判に違わぬ美しく聡明な乙女であった。色恋に無関心とさえ言えた皇子だが、これは心惹かれても無理からぬ姫君だ、そうグランマイヤーは納得した。
あれから一年余、二人が文を取り交わしているのは知っているが、その全てが両国間に行き来する文書のついでといったかたちだった。このように文だけが寄せられたのはグランマイヤーが知る限り初めてである。思い掛けず情熱的な二人の親交に、政略結婚を整えてしまった自責は消え、喜ばしさが込み上げたのだ。
青騎士団副長も同様の心地であった。婚約者からの文を大切そうに懐に納めるマイクロトフを見て、何とも言えぬ感慨に包まれる。
皇子の口から公女の名が洩れるのを聞いたことはない。気乗りしない結婚なのだろうと決め付けていたが、これは意外だ。静かな黒い瞳には紛れも無い親愛が宿っている。
未来のマチルダ皇王は、父王にも劣らぬ愛妻家となるのかもしれない───そんな温かな祝福を込めて、副長は若き皇子に笑んだのだった。

 

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初めて女性キャラが出たものの、
雑魚白騎士より男らしいのが何とも(笑)
チーズケーキの人は、勿論あの人。
遠い遠〜〜い出番を待って
毎日ケーキ食いながらロックアックスに潜伏中。

 

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