文に封をした後、いつになく深い眠りについた。そのためか、今朝は普段の数倍も寝覚めが良い。大きく伸びをひとつして、フリード・Yは颯爽と寝台から抜け出た。
これまで夜間、彼の寝所と隣室とを隔てる扉は常に開け放たれてきた。私的生活などあったものではないが、有事の際、皇子の身を護るためには必要と割り切らざるを得なかった。
ところがカミューの登場で事態は一変した。扉は閉ざされ、初めて「個」を与えられて熟睡した。御陰で朝から実に爽快な気分だ。少し前まで寝込んでいたのが嘘のようである。
昨日までなら隣室の物音に気付かぬほどの深い眠りを恥じただろうに、まったく現金なものだとフリード・Yは苦笑した。心強い味方が増した、それは単なる肉体的な負担の軽減に留まらず、心まで鷹揚にするものらしい。
そう言えば、隣の部屋にカミューの寝台はない。護衛の任に臨むため、彼はそれを断っていた。
床で寝起きしているのだろうか。こうして青騎士団員という共闘者も得たことだし、多少は自身の身体を気遣っても良いのではなかろうか。
彼には万全であって貰わねばならない。でないと皇子が何かと騒ぎ立てそうだ。グランマイヤーはフリード・Yの部屋にカミューの寝床を設えようと提案していた。あのときは尻込みしたが、今なら快く受け入れられる気がする。
もっとも、そちらに寝台を入れるより、広さに勝る己の部屋の方にしろと、今の皇子は憤然と主張しそうだが。
そろそろ早朝訓練の刻限である。既に皇子も起き出して支度を始めているに違いない。主人に遅れてなるものか、と早々に着替えを済ませ、洗面に向かおうと扉を開けたところで、フリード・Yは飛び上がった。
「な、な、何……───」
驚きのあまり言葉にならない。
目の先、広々とした寝台に皇子とカミューが並んで横たわっている。それも、隣り合って座していたのがそのまま倒れたような姿勢であった。
続いて彼は、だらりと伸びて床についた二人の足先に割れたグラスの破片を発見した。そして今ひとつ、純白の敷布に鮮血のように広がる染みも。置かれた盆の上で倒れたグラスに僅かだけ同色の水液が残っている。
すわ毒か、とフリード・Yは転げるように駆け寄った。
「殿下、マイクロトフ様! カミュー殿も……後生です、どうか、どうか目を開けてください!」
逞しい肩を掴んでぐいぐいと揺さぶると、マイクロトフはカミューに回した腕を──どういう訳だか、皇子は護衛を抱えるようにして眠っていた──解いて、唸りながら眉を寄せた。
「……あれ? 殿下……?」
「何だ、朝か……?」
やや掠れた、苦しげな声を洩らした次には黒い瞳がぱっちりと開く。
「朝か! いかん、寝過ごしたか」
跳ね起きようとしたが、彼の片腕はカミューの身体の下敷きになっていたため果たせなかった。そこで漸くはっきりと事態を把握したマイクロトフの頬は朱に染まった。
「脅かさないでください、殿下……わたくしはてっきり……」
「い、いや、おれは別に何も───」
「お二人が毒で殺められてしまわれたのかと……」
「おかしい、何時の間に眠ったのだろう。おい、カミュー」
「朝から肝が冷えました。ああ、でも良かった……」
「カミュー、起きてくれ! おれの腕がおまえの枕になっている!」
半身を捩って青年を揺り起こす皇子には、従者の声が聞こえていない。必死に昨夜の記憶を辿ってみても、どうしてこのような体勢で寝入っていたのか思い出せなかった。
酩酊するほどの酒量ではない。途中、告白の苦味に悪酔いした感はあったが、それも最後には消え失せていた。
青年の肩に額を預け、優しい温みに癒されたところまでは覚えている。
その後、眠りに落ちてしまったのだろうか───しかも、こんな抱き締めるような格好で。
考えれば考えるほど混乱に陥る。それでも何とか下敷きになった左腕を取り戻そうと力を込めると、カミューは端正な面差しを幼げに歪め、何事か呟きながら寝返りを打った。やっと解放された腕は激しい痺れに苛まれ、それがどうやら夜通し貫かれた体勢であったことを訴えている。
ともあれ、ほっとして腕を擦ろうとしたところでフリード・Yが声を上げた。
「殿下、お怪我を!?」
右手は布で覆われ、微かではあるが血を滲ませている。慌てて従者の目から隠そうとしたが、一瞬遅れ、両手で掴まれていた。
「いや……ちょっとグラスで……」
激情に駆られて破片を握ったとはとても言えない。自傷に走ったなど、知ればどれほどフリード・Yが胸を痛めるだろう。苦しい釈明を開始しようとしたが、従者は納得顔で嘆息していた。
「やはり、グラスを落とされた音だったのですね」
言いながら皇子の手を包んだ布を解いていく。そして気付いた。それが包帯ではなく、布の切れ端だと。
続いて巡らせた目が、今は背を向けて丸まっている青年に止まる。彼の夜着の裾は引き千切られたように破れていた。今度こそフリード・Yは長い溜め息を洩らした。
「……呼んでくだされば良かったのに」
扉ひとつ先に回復魔法を宿した人間がいるというのに、何故こんな応急処置で済ませているのか。薬箱の用意があるのに、包帯も使わず、自らの夜着を裂いて代用する青年。皇子を大雑把と呼びながら、実は良い勝負なのではないかとフリード・Yは苦笑を噛み殺さずにはいられなかった。
早速、初めての魔法発動を試みる。今後、皇子の護りに欠かせぬ重要な力だ。教えられた詠唱を口にして、心を鎮めるうちに紋章を宿した右手が不可思議な感覚を捉えた。
輝く水面に手を翳したが如きだ。きらきらと散る淡い光が細波のように揺れ、それはすぐに大きく広がっていった。
胎動じみた動きから生まれた空色のしずくが皇子に注ぐ。光のしずくが退いたときには、右掌を抉った傷は無論、左腕の痺れも綺麗に消え失せていた。
「……凄いな」
感嘆気味にマイクロトフが呟く。フリード・Yも同感だった。
もっと早く回復魔法を宿していたら、幾許かは気持ちも楽だったろうに。
それを提案してくれた人物を見遣り、従者は無意識に一礼する。が、頭を上げた途端にポツと零した。
「……にしても、カミュー殿……」
間近でこれだけ騒いでいるのに、まるで目を覚ます気配がない。そればかりか、皇子の腕から解放されたためか、床に投げ出されていた足までが何時の間にか寝台に乗っている。
獣の仔のように小さく四肢を折って眠る姿を一瞥し、マイクロトフは目を細めた。
「朝には弱いらしいのだ。最初の日も、おれが早朝訓練に行くと知って文句を言っていた」
はあ、とフリード・Yは首を傾げる。
「それで大丈夫だったんでしょうか」
「何がだ?」
「傭兵というものは、夜討ち朝駆けが茶飯事だと思っておりましたが」
マイクロトフは破顔した。
「寝入っていても殺気には反応するらしいぞ。試してみたらどうだ?」
「……そんな恐ろしい真似は出来ません」
ぶんぶんと首を振る従者から再び青年に目を移したマイクロトフは、多少の後悔を噛みながら言った。
「すまないことをした。前の晩に徹夜していたのに。早く休ませるべきだった」
───それで、あの言い合いはどう決着したのか。心からの疑問を、だがフリード・Yは口に出せなかった。眠るカミューを見守る男の眼差しが、胸を衝かれるほど柔らかかったからだ。
これまでも皇子は新任護衛に対して親愛を隠さなかった。けれど、こんな瞳は初めてだ。未だ嘗てフリード・Yは、マイクロトフのこのような表情を見たことがなかった。
「殿下……?」
「何だ?」
そう言って巡らされた顔は穏やかだ。何か大きな稜線をひとつ越えたような、安堵とも満足ともつかぬ、それでいて輝くばかりの至福をも混濁させた顔。若いフリード・Yには想像も及ばぬ一夜の変貌である。
「い、いえ……何でもありません」
「おかしな奴だな」
笑ったところでマイクロトフは顔を引き締めた。
「まずい、支度をせねば訓練に遅れるな」
「カミュー殿はどうなさいます?」
「……一応、起こしてみる。先に洗面を済ませろ」
従者が浴室に向かうのを見届けたマイクロトフは、青年を覗き込んでみた。躊躇がちに肩に手を掛け、壊れもののように揺らす。
「カミュー」
破れた夜着が目に入ると、何とも切ない情感が込み上げる。布を裂いて傷を押さえてくれた彼の、伏せた琥珀色の瞳が脳裏を過り、一瞬言葉が詰まった。
「カミュー、起きられるか?」
努めて呼び掛け続けると、カミューはもぞもぞと身体の向きを変え、今度はマイクロトフに相対しながら再び縮込まっていった。
「……無理みたいだな」
やれやれ、と苦笑する。ただでさえ寝不足の相手に理不尽な議論を持ち掛け、挙げ句、長々と話を聞かせた自責があるため、無理に起こすのも憚られた。
警戒が彼の眠りを浅くするなら、今は安心し切っているとも言い替えられる。傭兵として生きてきたカミューにとって、他者の間近で熟睡するのは生命すら脅かしかねない行為の筈だ。
その禁を犯した、それはつまり安全な存在と認められた証ではないか。マイクロトフは些か自身に都合の良い解釈に到達した。
手を伸ばし、乱れた薄茶の髪に触れてみると、絹糸じみた頼りない感触が指先を滑った。頬にもつれた髪を、眠りの邪魔にならぬようにと梳いたとき、薄い唇から弱い呻きが洩れた。
「烈火」が宿るという右手がきつく敷布を引き絞っている。寝苦しいのだろうかと案じたマイクロトフが身を屈めた刹那、吐息と共にそれは聞こえた。
「───ルシア」
覆い被さる姿勢のまま、マイクロトフは硬直した。眼下の青年はきつく眉を寄せ、泣き顔にも似た表情で繰り返した。
「ルシア……」
聞いてはならないものを聞いたような衝撃。マイクロトフは勢いをつけて寝台から立ち上がり、そこで戻ってきたフリード・Yと対面した。
「どうなさいました?」
さっぱりした顔で笑む若者に返す表情もさだまらず、引き攣れた頬のまま小さく首を振る。フリード・Yは不思議そうに小首を傾げたが、近付くなり大仰な息を吐いた。
「駄目ですねえ。せめて早朝訓練の間だけでも寝かせて差し上げたら如何でしょう」
「……そうだな」
未だ弾む鼓動を従者に気取られぬよう苦労しながら、マイクロトフは頷いた。
眠る青年を覆うべく、掴んだ上掛けの下から大剣ダンスニーが顔を覗かせる。慎重に取り上げたつもりだったが、刃が鞘内で微かな音を立てた。間髪入れず、琥珀は開いた。
「あ……」
熱っぽい潤みを湛えた甘い色の瞳と直面してしまい、マイクロトフは息を飲む。
「すまない、起こしたか」
「……代わり映えのない台詞だね、皇子様」
カミューは縮めていた四肢を緩やかに広げ、仰向いたまま天井を睨み付けた。そうして睡魔への傾倒を捩じ伏せた彼は、勢いをつけて半身を起こす。
「おはようございます、カミュー殿」
にこにことフリード・Yが言ったが、カミューは日頃の愛想も何処へやら、不機嫌な声で返した。
「朝から元気な主従で何よりだ。ああ……そこ、危ないよ」
若者の足元にあるグラスの破片を指し、カミューは幾度か瞬いた。
「そうだ、マイクロトフが怪我を……」
「処置しましたとも、回復魔法で。素晴らしいですね、傷跡も残りませんでした」
「……対応も早くて何よりだ。これ以上怪我をされては困るから、そのままにしておいた。この部屋には掃除用具がなさそうだったし」
「ええ、後で片付けて貰いましょう」
それよりも今後はわたくしを呼んでください、せっかく回復魔法を宿したのに使わなければ意味がありません、カミュー殿はお怪我はないのでしょうね、やはり割られたのは殿下ですか───
従者の明るい声音が遠くに聞こえる。至近に居ながらマイクロトフは、己だけが見えない靄に囲まれている気がした。大剣の鞘を握る手が戦慄くのを止めようと必死だった。
何に打ちのめされているのか、自身でも分からない。
ただ、眠りの中でカミューが洩らした一言が重く圧し掛かっている。
ルシア───女の名。
己の知らぬカミューが心に秘めた、何処の誰かも分からぬ人の名。
焼けつくような胸の痛みが、鈍い熱となって体躯を侵食する。昏く滾る憤りに似た感情には未だ覚えがなく、途方に暮れながら立ち尽くすしかない。
だからマイクロトフは、扉の外に響いた張り番騎士の声に救われたような心地だった。
「マイクロトフ様、宜しいでしょうか?」
気付けば身支度を整えているのはフリード・Yだけだ。束の間迷ったが、この重苦しさを紛らわせるには好都合である。マイクロトフが声を張って諾を示すと、張り番の背後から一人の青騎士が入室してきた。
夜着姿の皇子、寝台に腰掛けた青年が、これまた着替えを済ませていないのを見るなり、青騎士は申し訳なさそうに顔をしかめた。
「御無礼を……しかし、急を要しましたので」
「構わん、何事だ?」
はい、と伝令者は背を正した。
「先触れが参りました。先日来より洛帝山の魔物掃討の任に出ておりました赤騎士団の部隊が、間もなく帰城致します。中央鍛錬場を使いたいとの御申し出がございまして、副長が許可を求めておいでです」
「となると、こちらの訓練は中止せねばなりませんね」
フリード・Yが相槌を打つ傍ら、マイクロトフは不快な胸騒ぎに襲われた。任で城を出ていた騎士が、まだ城が完全に機能していないこんな早朝に帰参するのは、よほど切迫した事情があるとしか思えなかったからだ。
鍛錬場を使いたいという申し出がそれを裏付ける。赤騎士団の部隊は大量の負傷者を運び入れるのに広い空間を必要としているのではないか。
「ひどいのか、被害が?」
殆ど接触のない他団とは言え、同じマチルダ騎士である。心痛を浮かべて詰めよると、伝令の青騎士は微かに躊躇しながら答えた。
「……現在のところ死者はいないと聞いております、マイクロトフ様」
「だが、鍛錬場を空けろと───」
「これは赤騎士団の慣例なのです。医師の手を煩わせる前に、負傷者を一所に集めて回復魔法を施す……無論、出兵先でも応急の処置は為されますが、更に万全を期すための策なのだそうです」
回復の術者を同行させても限界はある。それを補うため、城に残った術者総出で今一度回復を図るのだと青騎士は語った。
マイクロトフは厳しく従者を振り返った。
「フリード、おまえも行け」
「は?」
「何のための回復魔法だ、行って助力しろ!」
「は、はい!」
宿した水魔法は皇子のため、などといった異論を唱える余地もない。強い力に追い立てられるように、フリード・Yは慌てて飛び出して行った。
ぽかんと見送っていた伝令騎士が、改めてマイクロトフに向き直る。
「位階者の方々は議場に集まっておられます」
「分かった、すぐ行く」
使者が去るや否や、夜着を脱ぎ捨てて着替えを始める男の背に、ずっと沈黙していたカミューがヒソと問うた。
「戦力的に見て、赤騎士団はどうなんだい?」
「どういう意味だ?」
いや、と彼は考え込みながら片膝を寝台の上に抱え上げた。先程までの茫とした色を消した鋭い視線が、マイクロトフを擦り抜けて長椅子の周辺に向かう。
「他の団に比べて凄まじい頻度なのさ、……出兵が」
乱雑に積まれた書類の山の一番上には騎士団の任務記録書が乗っていた。
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