いったい、何がどうしたというのだろう。
軽く寝酒を楽しむ筈が、何処からこんな深刻な告白劇となってしまったのか。
寄り掛かる男の重みを噛み締め、カミューは密かに葛藤していた。
マチルダ王家に遺された祝福と災禍を合わせ持つ剣。
通常ならば宿せぬ紋章を納めたダンスニー、そしてそれを鎮める封印の鞘。抜刀と同時に封印は解かれ、遣い手を選別しては脅威を奮う───虚妄な話と、だがカミューは笑えなかった。
二十七の真の紋章、そしてその眷族は現世界を形作ってきた大いなる力だ。人が駆使する紋章の力など、ほんの一欠片に過ぎない。魔道に精通したものほど、その底知れぬ深遠に畏怖を覚えるという。
普通の鍛冶職人には不可能でも、神秘の縁を覗いたものなら出来るかもしれない。体躯にしか宿せぬ筈の紋章を武器に定着させた、それは一種の呪術だろうか。そんな技を持つ身なら、封印の鞘を用意することも可能だっただろう。
紋章が人を支配する───あるいは遣い手と認めて力を貸与する。紋章の意思といった不可思議、それもカミューには否定出来なかった。
皇子の背に回していた手を、そっと目の高さまで移してみる。
そこに宿る「烈火」を、カミューはあの日まで知らなかった。灼熱の焔にも似た激情、噴き上げる宿主の怒りに呼ばれて紋章が目覚めた日。
世界には稀に紋章を生まれ持つものがいるのだと後から知った。そうした人間は人為で保持者になったものよりも紋章との繋がりが深く、詠唱なしで魔法を発動させるのも容易いらしい。
時に、宿主の意思の有無に拘らず発動するのだとも聞いた。多くは宿主が生命の危機に瀕しているときで、これは共存者を失うまいとする紋章の防衛本能ではないかという話だ。また、爆発的な宿主の感情の起伏にも応えるときがあるという。「烈火」の覚醒は、この後者に当たったのだろう。
自ら引き起こした結果とは言え、攻撃魔法の苛烈は甚大だった。当時十四歳、魔力もそこそこだった。高位紋章の力を見たこともなく、それが己に宿るとも知らなかったカミューにとって、眼前の光景は地獄でしかなかった。
何があっても戦った───刺し違えてでも殺したかった。
そうまで憎んだ敵が炎に焼かれて悶絶する様は、しかし決して胸弾む光景ではなかった。
業火の中から呪詛の悲鳴が聞こえた。ほんの一瞬で落命した筈の男たちの終わりなき叫びが、今も折にふれて耳に過る。それを上回る悲憤と決意がなかったら、いっそ狂っていたかもしれない。
だから分かるのだ。マイクロトフの痛みが。
意思を問わず何ものかに動かされ、周囲に禍をもたらす己への恐怖が───思わず手を差し伸べずにはいられなかったほどに。
今はもう、カミューは「烈火」を完全に支配している。苦い教訓と様々な教えが両者の共存を護っている。だが、マイクロトフは一筋縄ではいかない相手を前に、未だ恐怖の檻に囚われたままなのだ。
剣が王の器を量るというなら、マイクロトフを認めないとは考え難い。一年前の彼は知らないが、気質はそう変わらないだろう。生真面目で、先ずはマチルダの民ありき、といった男が王に相応しくないなら、歴代の王の半分は失格者となるに違いない。となると、何が決め手か分からないだけに、懊悩も理解出来る。
性情から、親しい従者にも苦悩をぶちまけたことはなさそうな皇子。長く膿んでいたものが漸く零れ出た、そんな告白に聞こえた。肩に乗る重みと熱は、幾千の言葉よりも切々と心情を叫んでいた。
彼は望んでいるのだ。
始祖に唯一届いた声───暴走を止め、魔剣を上回る力を始祖から引き出した友、聖人アルダと同じ位置に立って欲しいとカミューに求めているのだ。
「……重いよ、皇子様」
その信頼は重過ぎる。男から流れ込んでくる情愛を、カミューは忌んだ。
不器用で、自らの思いさえ巧く言葉に出来ない皇子。
けれど幾倍も胸のうちを語る真っ直ぐな眼差しが怖い。
誠実には誠実が返されると信じ抜いている男の清浄が、耐え難いほど厭わしい。
暫し思案の泉に沈んでいたカミューだが、肩へと与えられた圧迫が刻々と強まっていくのに眉を顰めた。緩やかに肩を揺らし、窘め口調で囁く。
「おい。本気で重いぞ、マイクロトフ」
しかし応えはない。そればかりか、振動で多少姿勢を違えた男の体躯が遠慮なく凭れ掛かってくる。
「マイ───」
気付けば皇子は寝息を立てていた。
最後に一際大きく肩を上下すると、ずり落ちた男の頭は胸を這い伝って膝に納まった。うつ伏せ気味から僅かに見える横顔は安心しきった子供のそれだ。未だ掴まれたままの片手からも、漆黒の瞳と同じ、無上の信頼が呼び掛けてくるようだった。
男が完全に眠り込んでいるのを確かめた後、カミューは小さく言った。
「皇子のくせに……人前でそうも無防備では、寝首を掻かれても文句は言えないな」
それから硬い黒髪に指を埋め、無造作に掻き回す。一瞬だけマイクロトフは眉根を寄せて唸ったが、すぐに再び安らかな息を吐いた。
寝入った男から瞳を巡らせ、長椅子脇に積み上げた書の束を見遣る。皇子がそれに触れていたのを目にした衝撃は生半ではなかった。
もし彼が鋭い観察力を持っていたなら、露見したかもしれない。「仕事」とはまるで無縁の記録を読み漁っていたと。小さな枝葉を見顕されぬよう、膨大な木々で覆っているのだと。
必要な情報は入手した。早々に書庫へと戻しておくべきだろう。
出会えて良かった───男はそう言った。
心底からの言葉と聞こえた。
だが。
「……わたしにとっては間違いだった」
カミューは目を閉じ、重苦しい嘆息に包まれた。
別のかたちで出会ったなら、あるいは同じように思えたかもしれない。どうにも手が掛かりそうな男だが、望むものを与える気になったかもしれない。
───彼が皇子でさえなかったら。
「愚図愚図していると、命取りだな……」
黒髪を解放した手が青醒めた貌を覆う。
掌のうちで、噛んだ唇が微かに血色を滲ませていた。
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