青騎士団員の協力を得た日から、居室へと通じる廊下の張り番には信頼出来る青騎士が置かれている。夜の間は窓の下に不夜番が立つようにもなった。以前よりも遥かに安全になった部屋でカミューは剣を抜いた。
扉一枚を隔てて、皇子が立てる水音が響いている。そして小さな溜め息も。自身の発言を顧みては首を傾げる姿が目に浮かぶようだった。
カミューは哀れにも果汁に塗れた愛剣を丹念に清めた後、白刃に映る己の顔を睨み付けた。
どうかしている。あんな男と一緒になって、興奮して自制を欠くなんて。
自嘲は苦く、後味の悪い失態感が淀んでいる。
取り繕うのなど容易かった筈なのに。さっさと陳謝なり何なりして、会話を切ってしまえば良かったのに。
まるで子供の駄々に振り回されているかのようだ。
命を張るのがつとめの人間に自重しろとはどんな理屈だ。失うのが怖いとは、何を血迷った挙句の台詞だ。
純白の刃の上で見返す自身は、きつい眼差しにも拘らず、迷い子のように不安げだ。あの男を扱いかねて困惑する心が、そのまま映し出されていた。
「……カミュー」
おずおずと掛かった声にはっとする。視線を巡らせると、纏った夜着から湯気を立ち昇らせた男が気詰まりそうに覗き込んでいた。
マイクロトフは二度、三度と言葉を飲み、最後には自棄気味に言った。
「剣は大丈夫か?」
様子からいくと、浴室であれこれ会話の取っ掛かりを模索したのに、口を吐いたのはその何れでもなかったといった感じだ。しまった、とでも言いたげに唇を歪めて首を傾げる男に、反射的に笑んでしまうカミューだった。
「手入れは済んだよ」
くすくすと笑いながら剣先を確かめる。
「飛んでくる林檎を刺したのは初めてだ。旅芸人などがよくやるナイフ投げと、どちらが難しいかな」
「……大道芸を見たことがない」
生真面目に答える男は一国の皇太子だ。旅回り芸人の技など、確かに知らないかもしれない。カミューは剣を鞘に納め、手入れの道具類を片付け始めた。
「晴れて王様になったら城へ呼べば良いさ。金さえ出せば望むまま芸を披露してくれる」
マイクロトフは押し黙った。反論したいのを辛うじて抑えたのである。
芸人一座の技を見るなら、そんな権威を翳すような真似などせず、人々の間に混ざって楽しみたい。出来ればカミューと、フリード・Yも一緒に、ごく当たり前の若者のように歓声を上げて───
駄目だ。こんなことを望んでいるから、いつになっても剣に認められないのだ。己の中に潜む迷いを、あの剣は決して許さない。
「……マイクロトフ?」
「ああ、いや……何でもない。おまえも湯を使え」
「そうするよ。先に休んでいてくれ」
警備に万全を期してから、皇子を浴室に引っ張り入れる必要がなくなった。けれどカミューにはのんびりと湯を楽しむ習慣がない。今朝、フリード・Yと話し込むうちにのぼせたのを思い出して、早々に入浴を切り上げた。
昼のうちに侍女が洗っておいてくれた夜着を引っ掛け、室内に戻ったところで息を飲む。マイクロトフが床に座り込んで、長椅子の周辺に積み上げた書物類の山を凝視していたのだ。
「何を……している?」
掠れ声で呼ぶと、困ったような笑みが返る。
「今朝、おれが崩してしまったままだったから……戻そうと思ったのだが」
「そんなことはしなくていい!」
カミューは急いで部屋を横断し、男が持っていた一冊の書物を取り上げた。
「その山に触るな!」
マイクロトフは打たれたように怯んだ。その表情を見るなり迫り上がった感情が一気に冷える。
「いや……、触らないでくれ。一応、目を通し易いように分けてあるんだ。自分でするから、放っておいてくれないか」
「おれも分類されているのではないかと思った。だから、まだ手は付けていない。本当だ」
それから更にいっそう大柄な身体を縮めて皇子は言った。
「余計なことをするつもりはなかったのだが……すまない」
ふう、とカミューは嘆息した。
そう言えば昨夜は一睡もしていない。こんなにも過敏になっているのは、その所為なのだろうか。とは言え、たかだか一晩や二晩眠らぬくらいで、こうも抑えがはたらかないのは初めてなのだが。
「……悪かったよ、声を荒げたりして。やはり徹夜はまずかったかな、少し疲れているみたいだ」
酒瓶の並ぶキャビネットをちらと窺い、弱い笑みを零す。
「貰っても良いかな?」
勿論、とマイクロトフは急いでグラスの用意に立ち上がる。長椅子と卓が書物の山に囲まれて使用不能になっているので、悩んだ挙げ句、彼は寝台へとトレイを運んだ。
カミューも遅れてそちらに向かったが、ちゃっかりとグラスが二人分あるのに苦笑した。トレイを挟んで腰を落とす頃には平静を取り戻していた。
「それとね、皇太子ともあろう男が簡単に頭を下げるものではないよ。こうもおまえに謝らせていると知れたら、本当に宰相殿に報酬を削られてしまいそうだ」
マイクロトフは真面目な顔で思案する。
「それはないと思うが……。だが、もし報酬に不満があるなら───」
「この部屋の好きなものを何でも下賜する、……かい?」
破顔して、殺風景な室内を見渡す。最後に目に止まったのは寝台脇に立て掛けられた大剣──定位置だった長椅子脇を書物に侵食されて場所を移していた──だった。
「気持ちはありがたいけれどね。価値がありそうなのは、その王家の剣くらいじゃないか」
逞しい体躯がびくりとする。巡った視線が束の間だけ剣に注ぎ、すぐに逸らされた。
「……譲れるものなら良かったのだが」
「何を言っているんだ」
カミューは笑い、手を伸ばして大剣を取った。
王家の至宝にしては飾り気のない剣である。深い藍色の柄に、緩やかな曲線を描く厚みのある紫の鍔。特に変わった意匠が見られるでもなく、高価な玉石が埋め込まれている訳でもない。
鞘も同様であった。良い材質が使われているようだが、彫り物の一つもなく、実に素っ気ない拵えだ。カミューはつくづく考え込まねばならなかった。
「抜いてみても良いかな?」
「……ああ」
柄や鍔の様子から相当に年代物なのは確かだが、すらりと抜き放たれた幅広の刃は、昨日打ち出されたばかりの如く青白く醒めた光を放っている。
華美ではないが、良い剣なのは間違いない。ずっしりとした重みは無骨な武人を思わせた。切れ味の良いカミューの愛剣とは異なり、腕力のある剣士の手にあってこそ威力を発揮しそうな品である。
「いつも持ち歩いている剣は、これを模造したのかい?」
「そうだ。重みや長さに慣れた方が良いだろう、と……」
成程、と相槌を打って大剣を軽く振ってみる。カミューの腕には余る重さだ。これを軽々と操る力には、同じ男として妬心を覚えなくもない。
「それにしても……宝と言うよりは実戦向きの品だね」
「だろうな」
マイクロトフは頷いて目を伏せる。
「その剣はマチルダという国を築いた剣だから」
「え……?」
「王家の始祖、マティスのために鍛えられた剣なのだ。解放戦争を戦い抜くため、その剣───ダンスニーは生まれた」
「ああ……それで王家の宝か」
二百年余の歴史を紡ぐ剣。道理で重い訳だ。
「国を作った剣、か。つまり、始祖殿が子孫に残した祝福の品という訳だね」
「確かにそうだ」
マイクロトフは、そこでグラスを勢いよく干した。含み切れず唇の端を伝い落ちる酒は血のように赤い。初めて見る男の陰惨な様相に、知らずカミューは息を詰めた。
「だが、同時に呪いでもある」
「呪い……だって?」
愁眉を寄せて白刃を凝視する。マイクロトフは注ぎ足した酒も一気に呷り、ポツポツと切り出した。
「……一年ほど前になる。おれは所用でグリンヒルに出向いていた。皇太子としての正式訪問で、グランマイヤーも一緒だった。供廻りには赤騎士団員が同行していた」
更にグラスに注いだ深紅を揺らして、ひとたび言葉を切る。未だ血を流し続ける記憶を掘り起こすのは至難だった。
「その帰路、マチルダ領内に入ったところでグランマイヤーが体調を崩し、やむなく野営で一夜を明かすことになった。その晩、おれはフリードを連れて夜駆けに出た」
弱い自嘲が滲む。
「あの頃……既にゴルドーへの警戒が生じていて、城から出るのも久々だった。グランマイヤーに散々釘を刺されていたが、もう当分機会はないだろうし、朝までに戻れば問題なかろう、と……こっそり抜け出したのだ」
黒い瞳がちらと大剣を見遣る。
「最初に会ったとき、おれはその剣を持っていただろう?」
「代わりの剣を忘れたとか言っていたね」
「向かった先が礼拝堂だったからだ。王家の人間があそこに立ち入る場合、正装するのが慣わしとなっている。皇王不在の今、剣の所有者は最も王位に近いもの……つまりおれだ。おれの正装とは、ダンスニーを佩刀することなのだ。グリンヒル訪問時もそうしていた」
納得が示された直後、マイクロトフはきつく拳を握り込んだ。
「……夜駆けの途中で悲鳴が聞こえた。馬を向かわせてみると、我々と同じように野営していた隊商を夜盗の集団が襲っているところだった。剣腕には自信があったし、何より非力な民が襲われているのを見過ごせなかった」
そこで長い沈黙が落ちた。やがて洩れた声は痛々しいほど掠れていた。
「王家には代々伝わる遺訓がある。すべてを護る覚悟なくしてダンスニーを抜いてはならない、さもなくば大いなる恐怖と禍を招き寄せる───即ち、警告の教えだ」
「恐怖と……禍?」
意味はさだかならぬけれど、既に抜刀してしまったカミューには不穏な一言だ。やや刃を遠ざけつつ、細めた目で大剣を睨み据える。
「何度も聞かされていたのに……だからそれまで一度としてダンスニーを抜こうと試みたことはなかったのに。おれは心の何処かで自惚れていた。国を護る覚悟なら、父上が亡くなったときから出来ている。おれには剣を抜く資格がある、剣はおれを認める、と……」
そこで彼は両手で顔を覆った。
「だが、駄目だった。おれは剣に支配された。抜いた瞬間から何も分からなくなった。気付いたときには夜盗の死体が───」
「……マイクロトフ」
「おれは夜盗を追い払おうとしたのだ。本当に追い払うだけのつもりだった! なのに死体が転がっていた。全部で十七、悪鬼に引き裂かれたような、それは惨たらしい死に様だった!」
「マイクロトフ!」
鋭い制止と甲高い粉砕音が交錯する。突き上げる激情は寝台上のトレイを払い飛ばし、割れた瓶から溢れた酒が絨毯に血色の染みを広げていた。
間の障害物が失われるや否や、カミューは大剣を敷布に投げ捨てて、両手で男の肩を掴んで向き直らせた。逞しい筋肉の厚みが、今は脆く震えて、皇子の抱く記憶の戦慄をカミューに伝える。
宥めるように肩を揺らすと、喘ぎながらの告白が続いた。
「もし赤騎士が探しに来なかったら……フリードが隊商の人間を遠ざけてくれなかったら、更に多くの儀性が払われていただろう。あるいはこの手でフリードたちまで……赤騎士が風魔法でおれを眠らせ、剣と分けてくれなかったなら」
人知れず野営の天幕から抜け出した皇子と従者だが、その行動は宰相も懸念して騎士らに留意するよう申し伝えていたらしい。だから、捜索に散った騎馬部隊が主従を発見するまでに然程時間は掛からなかった。
彼らがそこで見たのは戦場とも見紛う地獄絵図だった。
相手が無頼の輩であるのは、煌々とした月が照らす風体から瞭然だ。一人が見慣れた体躯の若者に斬り掛かろうとしていた。
皇太子の窮地───駆け寄る馬に鞭を加えた騎士らは、だが累々と散る死骸に阻まれ、敵の一閃を見守るしかなかった。
皇子はそれを巧みに交わし、次の刹那、振り下ろされた大剣が夜盗を二つに割っていた。高々と上がった血飛沫が対峙する皇子の頭上に降り注いだ。
皇子とは普段殆ど接触のない赤騎士たちも、彼の剣才は耳にしていた。しかし、彼らはその光景を武勇と見ることは出来なかった。何故なら、ゆるりと巡らされた皇子の貌からは一切の感情が抜け落ちていたからだ。
知らず馬を止めて事態を把握しようと努めた騎士たちは、皇子の背後、かなり離れたところにいる集団を見つけた。皇子の従者である若者が剣を抜き、一同を庇うように前面に立ち尽くしていた。
やがて騎士に気付いた従者は必死に叫んだ。『決して殿下の間合いに入らず、剣を手放させてください』───
近寄らずに剣を奪え、とは。騎士たちは混乱に陥ったが、悠長に悩んでいる暇はなかった。
既に無頼漢の大半は地に沈んでいたが、数人が逃れようと皇子に背を向けていた。事もあろうか、皇子は逃げるものまで背後から両断し始めたのだ。
聞くに耐えない恐怖の叫びが黒い平原に響き渡る。正義の鉄槌などとは到底呼べぬ、凄まじき殺戮の図であった。
風魔法を操る騎士が居たのは天の慈悲だったかもしれない。催眠魔法の発動によって、凄惨なる虐殺は終わった。大地に倒れた皇子は血池に浸ったが如き様相で、剛胆なる騎士たちも暫し言葉が出なかった。
距離を置いて固まる一行の許へ向かう騎士と入れ替わりに駆けてきた従者が、死体の山を掻き分けて大剣の鞘を探し出した。そして、地に仰臥した皇子の傍らに膝を折り、泣きながら剣に鞘を与えたのだ───剣そのものには決して触れようとせずに。
鞘に納めた大剣を握ったまま、皇子は己が築き上げた死体の山の一画で、己の堕ちた闇も知らず、魔法の効力が切れるまで静かに眠り続けたのだった。
「抜いたら自我を失う、と……?」
悲痛な懺悔の後、カミューは瞳を大剣に向けた。柔らかな敷布に鎮座する重厚な刃には、忌まわしさの影もない。
「でも、わたしも抜いたよ?」
項垂れる男がうっすらと笑う。
「流石だな、カミュー。誰もが触れることさえ躊躇する。剣に拒まれている気がするのだそうだ。なのにおまえはあっさり抜いてみせた。きっと、剣がおまえの力量を認めたのだろう」
それではまるで剣が生きて意思を持っているかのような言い方だ───カミューは慎重に男の理性を探る。やや虚ろな表情ながら、正気は保たれており、記憶の暗澹に転げ落ちていく心をかろうじて繋ぎ止めてようとする疲弊だけが窺えた。
マイクロトフは、そんな彼をちらと見た。
「大丈夫だ、他の誰が抜いたところでダンスニーの支配は及ばない」
叩き落としたグラスの破片が足元に散乱していた。マイクロトフは欠片の一つを拾い上げ、掌に納めて力を込める。握った拳から細い糸のような血が一筋、ゆっくりと垂れ落ちた。
「よせ、マイクロトフ!」
カミューは慌てて男の手首を掴んで拳を開かせた。小さな、けれど深く破片を飲み込んだ傷が、ねっとりとした血を絞り出している。闇色の眼差しが不穏な紅を凝視した。
「……剣の狂気はマティスの血にのみ作用する。彼の血を受け継ぎ、国の頂きに立とうとするものだけが剣に試される。後継者、持ち主として相応しいか否かを量られる」
慎重に破片を取り去り、自らの夜着の裾を破って皇子の傷を押さえる青年の耳朶に苦く重い声が忍び込んだ。
「ダンスニーはマティスのために作られた。一切の感情を封じて、相対したものを斬る───そんな魔性の非情を宿した剣なのだ」
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