「あのとき、毒物を考えたのだろう?」
「……少なくとも林檎とは思わなかったさ」
従者を部屋へと追い立てた後、遣り取りはそこから再開された。
「目には自信があるからね、咄嗟に刃物でないのは分かった。剣先を包みにほんの少しだけ突っ掛けて止められれば、と……そんなところだったのだけれど」
飄々と言う青年から目を逸らし、マイクロトフは唇を噛む。
その手に関する書物なら人並以上に読破してきた。粉末状の毒物を使った殺傷手法も、彼自身は嫌悪しているが、知識としては弁えている。従って、カミューが取った行動の大意も理解していた。
あの場合はそれしかなかった。先に気付いたのが自身なら、やはりそうした。だが───
「おまえは、自分の危険はまるで考慮しなかったのか?」
掠れる声音とは裏腹に、漆黒の瞳に熱が篭る。真っ向から見返す青年は、だが冷笑を浮かべていた。
「伸るか反るかの一瞬に、そこまで考える暇などないね」
「一人で大量の毒を被る可能性とてあったかもしれないのだぞ」
「盛大に撒き散らすよりはマシだろう。それに、フリード・Yが居たじゃないか、何のための回復魔法だ?」
「魔法があるから安全だとは限らない!」
そこまで来るとカミューは不快そうに顔を歪めた。
「何を怒っているのか、さっぱりだよ。わたしは傭兵だ、自分の遣り方で仕事をこなす。文句を言われる筋はない」
「分かっている! だが、おれはそんなふうに護って欲しくなどない……!」
理不尽だとは分かっている。
自らの生命さえ切り売りするのが傭兵というものだ。対価の前には一切の情を持たぬ人種、その価値観は契約の如何によって真逆にも変わる。
中には気高く信念を通す傭兵もいるが、ほんの一握りに過ぎない。志は僅か一枚の契約書と同じ重みで、より多くの金を払う相手に簡単に寝返り、昨日まで肩を並べて戦っていた人間に容赦無く刃を向ける───だから軍属に在るものは、彼らの力を認めながらも、これを忌む。
そうした傭兵たちに共通するのが、人を人とも思わぬ点だ。彼らにとって敵は報酬に換算される「物」に過ぎず、その体躯に命があることなど考慮されない。ときには殺戮そのものを楽しみ、血を浴びるのを望んで戦いに身を投じるものもいる。
カミューがそのような人種だとは思わない。だが、最初の日に従者が口にした彼への戦慄は、マイクロトフの胸にも蟠りを残していた。感情を交えず、冷酷に他者を屠る死の神───そんな例えを、完全に否定することは叶わなかった。
揶揄を交えて微笑む青年、真摯な眼差しで最良の道を示唆してくれるカミュー。堪らないほど心惹かれる魅惑の中に、けれど冷淡がちらつくときがある。
暴漢に「烈火」の宿る手を掲げたとき、そして柔和に笑みながらゴルドー暗殺を提言したとき。芝居とは到底思えぬ、底知れぬ闇を垣間見た気がした。
即座に周囲を魅了する彼と、得も言われぬ酷薄を滲ませる彼と。それが傭兵という生業によって生じた差異なら、カミューは何処へ向かおうとしているのだろう。
これまで誠実に任に臨んできた青年ではあるが、自らの危険と報酬を量りに掛けて、それでも契約を果たすほど金品に執着するとは思えない。己を盾にして護ろうと試みるほど親愛を抱かれているとも、残念ながら思えなかった。
あれはカミューが言うように、咄嗟の行動でしかなかったのかもしれない。
けれど、人はそんな真似が出来るものなのだろうか。自らの危機には、無意識であっても自衛がはたらくものだ。他者の血に歓喜する殺戮者であっても、己の流す血には怯む───狂気にでも侵されていない限りは。
自身の命を躊躇なく投げ出せるのは、それ以上に重んじるべき何かを持つもの、あるいは自らに愛着を持たぬもの。
敵対者を無感動に見詰める琥珀の瞳、命の重みに何ら頓着しない非情が、もしもカミュー自身にも向けられているとしたら───
「おまえに、自分の身を軽んじて欲しくないのだ、カミュー」
日頃から感情の昂ぶりを努めて抑えてきた青年の箍が、ここへきて音を立てて外れた。
「……何なんだ」
呻くように呟き、次いで激情が迸る。
「おまえはわたしの母親か? 身を軽んじるな、だと? 人に傅かれ、何不自由なく暮らしてきた人間が……金で雇われた護衛を傍に置くおまえがそれを言うのか? 自分の身は自分の好きに使う、わたしはそうして生きてきた。おまえに指図する権利などない!」
「そんなことは分かっている!」
胸を揺らす情感が言葉にならない。短い黒髪を掻き毟り、狂おしげに青年を凝視する。
「おまえは卓越した剣士だ。目の前に現れた敵を、おまえは容易く退けるだろう。必要とあらば殺すのも躊躇わない」
カミューは眉を寄せた。
「……何が不満だ。おまえの大好きな騎士だって、戦場では同じことをする」
「それは信念あってのことだ! まして騎士は、己を粗末になどしない!」
今度はカミューが頭を抱えた。聡明な彼にして、胸中は疑問符だらけだ。
「分からないよ。わたしにどうしろと言うんだ? 自分大事に走って仕事を果たせなければ本末転倒じゃないか」
無言のまま戦慄く皇子に、少しだけ語調が和らぐ。
「毒物かと思ったから、ああするしかなかった。多少危険は蒙っても、それが最善だと判断したからだ。青騎士だってわたしの立場なら同じことをしただろう」
「……分かっている」
厳つい顔が今にも泣き出しそうに歪んでいた。それに気付いた途端、カミューはどっと脱力した。
この男は何も分かっていない。
自らが何故こんなことを口にしたのか、何にそうまで捉われているのか、理解し得ぬまま感情を爆発させているのだ。理由はさだかならぬけれど、気に入らない───そう言って地団駄を踏む子供と同じなのだ。
まともに相手をすると馬鹿を見る。カミューは小さく嘆息して、降参のしるしに両手を挙げた。
「成程ね。つまり、わたしを心配してくれた訳だ」
会話を切ろうとふざけ半分に口にすると、マイクロトフは苦いものを噛み砕いた面持ちでこっくりと頷いた。
「おまえにもしものことがあったら、と……」
「……は?」
「自分でも馬鹿を言っているのは分かっている。それが仕事なのだと言われればそれまでだ。だが、おれのためにおまえが危険な目に遭うのは堪えられない。おまえが平然とそうするのは、更に堪えられない」
カミューはぱちぱちと瞬いて悄然と項垂れる男を見詰める。相手も同様だが、カミューもまた途方に暮れ始めていた。
「……支離滅裂だよ、皇子様」
「そうだな」
「何を言いたいのか、さっぱり分からないよ」
「おれもだ」
マイクロトフはひっそりと笑った。
「……すまない」
「謝られてもね……」
何より頼みとする自身の思考を総動員して男の機微を量ろうと試みたカミューだが、このときばかりは果たせなかった。皇子が口にした様々を繋ぎ合わせてみるものの、どうやら冗談で言った言葉に尽きるらしいと認め、困惑せざるを得ない。
「こんな生業なのだから、多少の危険は覚悟の上だ。これからも遣り方を変えようとは思わない」
「……」
眼前で俯く皇子。落ちた広い肩、行き場のない感情を掴み締めるかのように握られた拳。
ふと、カミューの心に不可思議な痛みが揺れた。兆した情感に導かれるまま、手を差し伸べる。何処に触れるか迷ううちに、ふわりと上がった闇色の眼差しが彼を射抜いた。灼熱は去り、今は熾火の静けさが漂う瞳が、物言いたげに潤んでいる。互いの間で半端に止まった白い手に気付いたマイクロトフは、ひどく躊躇しながらも、それを両手で包み込んだ。祈るような仕草で額に押し当て、大きく息を吐く。
「すまない」
再びマイクロトフは低く呻いた。
「何に謝っているんだい?」
「分からない。こんな気持ちになるのは初めてで……自分が何を言っているのか良く分からないのだ」
カミューはうっすらと笑んだ。
「論述は不得手だったっけね、皇子様。では聞くが、「こんな気持ち」とはどんな気持ちだ?」
得体の知れない力に導かれるようだ。忍び入る柔らかな声が、胸から言葉を引き擦り出す。
「おれは、怖い」
心底からの怯懦を覚えてマイクロトフは肩を震わせた。
「おまえを失うのが……怖い」
虚を衝かれてカミューは目を見開いたが、すぐに苦笑する。
「初めてだって? それは問題だよ。フリード・Yや宰相殿、それに騎士たち……おまえには失えない人間が幾らでもいるだろうに」
───かもしれない。
けれど、彼らに対してはそんな恐れは感じない。何故なら彼らは、傍に在ると約束してくれたものたちだからだ。逆運となって命でも落とさぬ限り、そしてマイクロトフが変わらぬ限り、何があっても離れずにいてくれるとの確信があるからだ。
カミューは違う。
掴みどころがなく、示される好意が真のものである保証もない。契約だけが彼を留め、つとめが終われば彼を縛る理由は消える。
何よりマイクロトフが恐ろしいのは、彼が窮地に向かうのを止める手立てを持たぬことだ。護衛として雇われた人間に対してこんな感情を抱くこと自体、間違っている。
けれど、堪えられない。
彼が自らのために危険に曝されるくらいなら、護って貰わぬ方が良い。否、いっそ己が身を挺したいほどにカミューの喪失を恐れている。やがては失われる前提に始まった関係が、自身の中でこんなにも大きなものになっていたとは。
今、このときがそうであるように、ずっと彼と共に在りたい。その一念がマイクロトフを混乱に陥らせているのだ。
「……どうかしているな、おれは」
自嘲気味に呟くと、呆れたような声が応じた。
「甚だ同感だよ。少し落ち着け」
未だ皇子に握られたままだった手をそっと解き、くしゃりと黒髪を撫でる。
「まあ……、そこまでお気に召していただいたのを光栄に思うべきなんだろうね。もういいから、おまえも休め」
髪があちこち逆立って何とも言えぬ珍妙な見てくれとなった皇子に見入れば、困惑げな面持ちが見返した。
己の感情を押し殺して威風を守り続けてきた王位継承者。
とんだ詐欺だ。
マイクロトフという男はこんなにも直情的で、理性とは無縁で、訳が分からなくて───そして、綺麗だ。
疑うことを知らぬ目は何処までも澄んで清らかだ。
真っ直ぐな心根を持つ男だから、こうして真っ直ぐに人を見詰められる。自らのように己を装う必要もなく、ただ心の命ずるまま、すべてを瞳に浮かべることが出来るのだ。
「……心配してくれて、ありがとう」
静かに小声で囁いた。
「一つだけ言っておくよ。わたしは自分の身を軽んじてはいない。この身も命も、わたしだけのものではないからね」
「え……?」
「容易く投げ出すつもりはないし、失うつもりもない。だからその点は心配無用だ、マイクロトフ」
言葉の意味は理解出来なかった。だが、それ以上語るつもりはないとでも言うように、カミューは柔らかく首を振り、追求を退けた。
目を瞠る男の前で、艶やかな青年は溶け入るような笑みを見せている。けれどマイクロトフの目には、何故かそれが泣き顔のようにも映った。
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