結局、予定されていた巡回経路は大幅な短縮を余儀なくされた。群がる民が度々一行の進みを止めたからである。
通常、こうして民が騎士のつとめを阻むなど皆無だ。この事態を、だが青騎士団員らが厭う筈もない。民のマイクロトフへの熱狂的な歓迎、今はまだ皇太子たる権威に拠るものだが、いずれ騎士団長としての彼にも贈られるであろう親愛だと彼らは確信していた。
日が傾くのに合わせて帰城の途に着いた。
礼拝堂前広場まで来ると、もう街人の姿はない。広い路が真っ直ぐに城まで続いているのが見えるばかりだ。
そこで一行は隊列を崩した。騎士たちは、団長として初めて巡回の任に臨んだ皇子の感想が気になって堪らなかったし、マイクロトフもまた、任に関して配下の青騎士に聞いてみたいことが多々あった。それに気付いたカミューが列を解くよう勧めたのだ。
ここは刺客の襲撃を受けたマイクロトフと初めて出会ったあたりである。道幅は広く、前後への視界も十分に開けているが、路の両脇には敵が身を隠すのに都合の良い街路樹が並んでいる。
フリード・Yは青年の提案に懸念を覚えたが、皇子と青騎士らの様子を見てそれを捨てた。彼らは若い騎士団長を幾重にも取り巻いて馬を進めている。いざというときには盾となる決意が、一見では無礼講状態とも映る囲みに漲っていた。
そんな中、カミューはしんがりを勤めるため、皇子の横を離れて一行の最後尾へと移っていた。宿した攻撃魔法の絶大な効力を見込んでの仕儀だろうとフリード・Yは考えた。追尾者が現れても、火魔法で足止めを計れる。その間に味方は隊列を組み直すことが可能だ。
「それにしても……」
いつしか横に並んでいた青騎士隊長へとひっそりと零す。
「殿下が民と交流出来たのは良かったのかもしれませんが、騎士団の巡回の任としては……」
知らず口篭るフリード・Yだ。人波に阻まれ、あるいはマイクロトフが度たび民に声を掛けていたため、予定の区域をすべて回れなかった。その点を気にした発言だったが、騎士隊長は軽く往なした。
「そうでもない。殿下が話し込まれた御陰で、街壁が脆くなった箇所も発覚したし、砂糖が少々値を上げているのも分かった」
最初は畏敬を込めた見物に徹していた街人だが、マイクロトフが馬を下りて街の様子を問い掛けると、我先にと口を開いた。デュナンでも生活水準が高いと言われる街である。よって、彼らの意見は不満というより、ロックアックス住民の暮らしぶりを少しでも皇子に伝えようといった感じだった。
「街の人間が騎士団長としての殿下に慣れるまではこんなものだろう。あの歓迎ぶりは想像の域を越えていたが」
騎士隊長は笑って、それからフリード・Yに視線を向けた。
「そう言えば……腹の具合はどうだ?」
「腹、ではなくて胃です。何ともありません、ありがとうございます」
「ずっと一人で気張り過ぎたのだろう。これからは我らもいる。楽に行け、侍従殿」
はい、と感激しながらフリード・Yは頷いた。
青騎士団員がいる。そしてカミューもいる。皇子を護るのだと独り気負っていた頃が嘘のようだ。
信頼を独占出来なくなったのは少し寂しい気もするが、どちらがマイクロトフにとって良いかは明らかである。騎士らと談笑する背後の皇子をちらと窺い、頬に笑みが溢れた。
「しかし、あれは傑作でしたね───林檎の串刺し。わたくし、カミュー殿があんな顔をなさったのを初めて見ました。でも、真っ二つに割っていたら御老人の心を傷つけてしまったかもしれないし……偶然とは言え、滑稽に見える結末で何よりでした」
実際、街の人々は顛末に息を飲んでいた。皇太子を戴く一団の人間が──団衣を着けていないから、騎士ではないと知れようが──衆目の前で剣を抜いたのだから、無理もない。
けれど、それが害意でなかったと分かってからは、人々は笑いを殺すのに苦労していたようだ。突然の飛来物を排除しようと動いたカミューの俊敏には感嘆しきりのフリード・Yだが、思い返すと吹き出しそうになる。
ところが、聞くなり騎士隊長は嘆息した。
「分かってないな、侍従殿。斬らずに突いた───それがあの男の恐ろしいところではないか」
え、と若者は困惑して瞬く。騎士隊長は身振りを加えながら説き始めた。
「投射される武器で危険なのは矢や刃物ばかりではない。例えば毒紛を詰めた包みなども有効な手段の一つだ。あれが林檎ではなく、毒紛入りの小袋だと仮定してみるがいい。抜刀の勢いのまま斬り上げ、包みが上方で破れたらどうなる?」
「あ……」
フリード・Yは反射で手綱を握り締めた。男の言わんとするところが理解出来たのだ。青騎士団・第一隊長は、出来の悪い子に諭すような口調でゆっくりと続けた。
「彼は殿下の少し後ろに居た。風は後方からだった。跳ね上げられた毒紛は広範囲に拡散する。無論、殿下も頭から毒を浴びることになるし、左右の住民もしかり、だな」
「…………」
「だが、突いた場合……基本的には前へ向けて衝撃を加える訳だ。上手く行けば中身をそう散らさずに済む」
粉末状の毒物には、呼吸器系ばかりでなく表皮を伝って浸透するものもある。そうした毒物に侵された人間の末路を記した書を思い出して、フリード・Yはぞっとした。
もし、あの人混みで毒紛が散乱したら。
回復魔法を備えたといっても、まだ使用可能な回数は最小といったところだ。皇子は自らよりも民の回復を優先しろと命じるに違いない。敢えて主命に背いたとしても、結果、民が命を落とすようなことになればマイクロトフの心に拭えぬ傷がまた増える。
「カミュー殿は……あの一瞬で、最良の判断をなさったのですね……」
「害を最少に抑えるという意味では、な。剣の先端に、ほんの少し刺さったということは、刃物ではないと見切った上で軽く引っ掛けようとしたのだろう。もし包みが破れても、手元に留められれば、殿下や沿道の人間が逃げるくらいの時間は稼げる」
情景を描いたところでフリード・Yに悪寒が走った。愉快とばかり思われたあの一幕に、そんな一瞬の駆け引きがあったとは。
単に剣腕の見事なら「戦い慣れている」の賛辞で事足りる。
だが、これは。
自身らと幾つも変わらぬ青年のこれは───
フリード・Yの胸中に、冷え冷えとしたものが台頭した。もはや揺るぎないカミューへの信頼とは別に、それは最初に彼へと抱いた恐れに近い感情だった。
黙り込んだ若者を横目で一瞥した騎士隊長が、不意に表情を緩める。
「それより気付いたか、侍従殿。街の人間の目、はじめは殿下ばかりを追っていたが……」
はっと我に返ってフリード・Yは会話に応じた。
「ええ、同じくらいにカミュー殿も注目を集めていましたね」
マイクロトフが馬を下りるたび、カミューも倣った。街民と話す皇子の斜め後ろに影のように寄りそう青年。見るからに異邦の民と分かる彼の存在を人々は胡乱に思ったようだ。
けれどそれも最初のうちだった。稀なる美貌と細身の肢体。雄々しい騎士装束の皇太子と見比べても何ら遜色のない優美な剣士。人々は──特に若い娘たちは──離そうとしても引き戻されてしまう目に苦労していた。
カミューは周囲を魅了していた。中には、林檎の串刺しという「芸」を評価したものもいたかもしれないが。
「幾らで雇われたか知らないが、得難い人物だ。あれなら今すぐにでも位階者として通用する。契約が切れたら、是非とも青騎士団に来ていただきたいものだな」
淡々と、だが心からといった調子で呟く騎士隊長をフリード・Yは上目で見遣った。
「……でも、カミュー殿は青より赤が似合う、と……」
「そう言った連中もいたな、確かに」
男はにやりと笑む。
「そうだな、「あの」赤騎士団で彼がどう動くか……その方が面白いかもしれない」
騎士隊長はそれきり口を閉ざした。含んだ物言いがフリード・Yの首を傾げさせる間に、城は目前に迫っていた。
副長以下、位階者らに任の経緯を報告し、明日の予定を確認した上で夕餉へ向かった。城下に同行した騎士たちが、依然離れ難い様子でついてくる。食堂に着くなり他の青騎士も集まってきて、皇子は和やかな団欒のときを迎えた。
騎士として初めて街に赴いたものの、民衆の眼差しは王族を見るそれだった。その一点を残念に思ったマイクロトフだったが、帰路の道中で部下たちと語らううちに、次の機会への期待が上回るようになった。
騎士もまた、実に堂々と任をこなした皇子への賞賛を惜しまない。食堂の長卓には明るい笑顔が溢れていた。
そんな皇子の様相が、自室へと戻る廊下で変じ始めた。随従する二人に頓着せず、独りでずんずんと先に進んでしまうのだ。フリード・Yが救いを求めるように目を向けても、カミューは両肩を竦めるだけだった。
入室するなり、マイクロトフは暗い顔で二人に──正確にはカミューに──向き直った。
「何故だ?」
「何が?」
低く短い詰問に、同じく短く返してカミューは小首を傾げる。
「何故、独りで危険を被るような真似に出た?」
林檎の顛末だ、と察したフリード・Yは身を竦ませた。青騎士隊長が説いた諸々をマイクロトフも感じ取っていたのだ。その表情には怒りとも不快ともつかぬ複雑な色が浮かんでいる。だが、カミューは呑気そうに笑った。
「そう言いたいのを、ここまで我慢したのか。自制は褒めて差し上げるが……質問の意味が分からないね」
そこで琥珀に鋭いものが走る。
「戦術起案がお得意なら、毒物による攻撃手法もかじっただろう? だったらわたしの行動の意味も分かる筈だ」
「分かっている! 分かっているが……」
マイクロトフは苛立たしげに吐き捨てた。
言葉が見つからないのだ。あのときカミューが取った行動が思考に追い付くには時間が要った。老人との遣り取り、その後のつとめで抑え込まれた感情は、だが上手くかたちにならないままマイクロトフの中で渦巻いていた。
「ああした行動に出た場合、最悪、おまえは───」
刹那、カミューは表情を失くして冷ややかに男を見詰めた。
「それがわたしの仕事だ。褒められはしても、責められるいわれはない」
フリード・Yははらはらと両者を見守る。仲裁に入るべきなのだろうが、間に流れる緊迫が恐ろしく、この場に居合わせてしまった自身を哀れむ心地さえ沸いていた。
狼狽える若者に気付いたマイクロトフが、八つ当たりじみたきつい声で命じる。
「今日は御苦労だった。休んで良いぞ」
「は、あの……」
「病み上がりなのだから、早めに眠った方が良いよ」
笑みもなく優しい言葉を吐く青年は皇子以上に怖かった。続き部屋に寝起きする身を、今ほど不運に思った瞬間はない。浴室は一つしかないのだが、ここで入浴云々を言い出せるほどフリード・Yは図太くなかった。
「はあ……では、お先に失礼致します……」
もじもじと言上して、彼は部屋の横断を開始した。
扉を開く前に一度だけ、こっそりと振り返ってみたが、皇子と傭兵は目線を合わせぬようにして対峙したままだ。非常に険悪な雰囲気であるが、後はもうなるようにしかならない。
フリード・Yは不甲斐ない己を心底恨みながら、そっと扉を締めたのだった。
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