最後の王・22


ロックアックスの街路には、そこかしこにベンチが見受けられる。勾配の上に築かれた街であるため、昇り道を行く際の負担を考慮して、休息所として設置したのが最初だったらしい。
今は見晴台としての向きもあり、城の近く──即ち、街の頂き──ともなると、下方の展望は実に見事で、眺めに慣れた民人でさえロックアックスの壮大に暫し息を飲まずにはいられない。
その男も、静かで美しい故郷の街並みに見入る一人だった。
彼は城下で野菜や果物の商いをしている。取り立てて裕福でもないが、日々の暮らしに欠くこともなく、老父と妻子を交えて平凡な幸福に生きていた。
この日、男は妻に店を任せて散歩に出た。行き先はロックアックス城に程近い大礼拝堂である。
ここは建国の父と呼ばれる聖人たちを奉った場だが、マチルダでは宗教感が薄いとあって、礼拝堂と称されるものの、どちらかと言えば史学資料館といった趣が強い。男も生まれてこのかた、足を運んだのは数えるほどだった。
だが、今日は特別だ。何しろ、あと一月もしないうちに、この礼拝堂で新皇王が即位するのである。
男が昔、父から聞いた前皇王即位時の式次第はこうだった。
礼拝堂での儀式によって新皇王が即位する。それから礼拝堂前広場へと場所を移しての即位宣言。その後、皇王は民の祝福を受けるために街を一巡する───。
今回は他にも大きな祝典が用意されているが、それほど大きな違いはない筈だ。
礼拝堂の座席はマチルダの要人や各国来賓でいっぱいになってしまうので、残念ながら一般の民には解放されない。広場での即位宣言が、新王が初めて民の前に立つ披露目の儀式なのだ。
普段は広大のあまり寒々しい感じさえする広場だが、即位の日には人で溢れ返ることだろう。四年もの間、ひたすら即位を待ち続けた若き皇王の晴れ姿を是非とも見たい、このところ街の人々は寄ればそんな話に花を咲かせている。この分では、下手をすると王の顔どころか街人の後頭部しか見えないかもしれないと男は危惧していた。
礼拝堂の扉あたりを窺うのに最良の位置を探して広場中を歩き回る。
間近で見たい、即位宣言後に新王が進む経路に居れば、もしかしたら声を掛けて貰えるかもしれない。そんな場所を確保するには、どうすれば良いのだろう。頭を悩ませたが名案は浮かばなかった。
そうして男はこれといった収穫もなく広場を後にした。足が棒になるほど歩き回ったので、帰路の途中、ベンチで一休みすることにした。
空が遠い。風は柔らかく穏やかで心地好い。即位式の日もこんな晴天であったら良い。そんなことをぼんやり考えていた男だが、ふと何気なく元来た方へと視線を向けた途端、茫とした目を見開き、頬に朱を走らせた。
───あれは。
遠くに見え始めた騎馬集団、警邏のために街を巡る騎士。それだけなら見慣れた光景だが、男はただ一点に目を奪われていた。
騎士たちの先頭を行く、碧空よりもなお鮮やかな蒼を纏った人物。未だ小さな像でしかないけれど、それは紛れもなく老父が繰り返し語り聞かせてくれた、今は亡き前皇王の若き日の姿だったのだ。
男はのろのろと立ち上がった。目を細めて一団を眺め遣り、最後に踵を返した後は街路を転げ落ちるように駆け下りる。
このところめっきり老け込んだ父にとって、これは滅多にない、刺激的な報になるだろう。

 

 

 

 

マイクロトフはすっかり困惑していた。
礼拝堂前広場を過ぎて最初の商街地区に差し掛かったところ、街路はあたかも凱旋騎士を出迎えるかの如き人だかりで埋め尽くされていたからである。
「どうやら耳だか目だかが聡いものが居たようですな」
青騎士隊長が苦笑する。普段の巡回時とはまるで異なる民の様子に、配下の青騎士たちも勝手が掴めないといったふうだった。
民の中に前皇王の皇太子時分を記憶するものがいたのか、瞬く間に噂となって広がったらしい。間もなく即位する皇子を一目見ようと、往来の両端に連なる民は増すばかりだ。
皇子が衆目の前に立たなくなってからかなり経つ。けれど久々に見る皇子は実に堂々とした若者で、それだけで街人は何とも誇らしい心地になるようだ。
深く礼節が浸透する国柄、大声を上げるものはいないが、手を振るものは多い。そんな彼らを一望しながら、皇子の片側、僅かに遅れて馬を進めていた青年が小声で言った。
「……手を振ってやったらどうだい?」
男は神妙な顔で正面を向いたまま気難しげに応える。
「遊びではないのだから……」
するともう片側の騎士隊長が吹き出しそうになりながら首を振った。
「団長は皇太子でもあるのですから……民に親愛を振り撒くのは、王族のつとめの一環と心得ますが」
マイクロトフは考え込んだ。ちらと横の青年を窺う。
晴れがましい場は苦手だ。愛想笑いも得意ではない。
だが、親愛を示されたなら親愛で返せとカミューに教えられた。つとめ中ではあるが、騎士らが許してくれるなら───そう意を決してマイクロトフは胸を張った。
いざ応えようにも対象が多過ぎて、どうすれば良いのか途方に暮れる。仕方がないので、往来の左右に目を遣りながら片手を挙げてみると、途端にどっと歓声が沸き起こった。礼節の箍が外れたような図であった。
皇太子様、殿下、マイクロトフ様。呼び名は様々だが、いずれの顔も明るく、マイクロトフを感動させた。
「もう少し行くと街路が開けますから、少しばかり馬を下りて民と交流なさったら如何です?」
第一隊長の言葉に驚いて目を瞠る。
「良いのか?」
「良いも悪いも、街の様子を知るのが我らのつとめ。治安上の不安や不満、そうしたものを直接質されてみては?」
「う、うむ」
気負いの先走りが知れるような皇子の首肯を横目で一瞥しつつも、周囲に注意深く視線を走らせていたカミューは、今朝方フリード・Yと交わした遣り取りを思い出していた。
団長衣を纏うマイクロトフが標的として際立ってしまうのではないか。
対して、カミューは答えた。衆目があるからこそ、敵は慎重にならざるを得ない。目的を果たせず、正体を露にするような迂闊は犯すまい───今もそう思っている。
ただ、一つだけ例外があった。飛び道具による攻撃である。心配性の従者には言わずにおいたが、矢や投具で狙うには、一人異なる装束のマイクロトフは格好の餌食だ。
距離がある分だけ「敵」の確保も容易ではない。
けれどもカミューにはそれなりの自信があった。
マイクロトフが任に参加するようになったのを、他団の騎士も多少は知っているだろう。が、各団の恒常的な任務の詳細までは完全に把握していない筈だと副長は語っていた。つまり、本日マイクロトフが街の巡回任務に臨んでいるのをゴルドーが知る率は低く、また、知ったとしても刺客を配置する時間的余裕はないとの見通しがあったのだ。
もし攻撃を受けたとしても退けるだけの技量はある。青騎士団の筆頭部隊から抜粋された精鋭騎士も控えているし、下手人を逃がす失態は有り得ないとカミューは考えていた。
しかし、この街民の反応は計算外だ。久々に姿を現した皇太子が注目されるだろうとは予期していたが、往来を埋めての歓迎に至るとは。
これでは、いざというときに迅速に動けない。混乱に乗じて敵に逃げられる怖れもある。
人気があるのにも困ったものだ、そう心中で呟いたときだ。鋭く巡らせていた視界を何かが過った。
街路が左右に広がり、人々との距離が増した刹那に人波の奥から解き放たれた影。赤味を帯びた小さなそれは、放物線を描いて皇子に向けて落下しようとしていた。
誰一人これに気付かぬ中、カミューは反射の速度で抜刀した。剣が鞘から抜き放たれたと同時に手首を返し、今まさに自身の頭上斜め前を通過しようとしている飛来物に突きを入れた。
「……!」
青年の動きで異変を知った後続の騎士たちは、馬から飛び降りて投擲が行われたあたりを目指して駆ける。何が起きたのか良く分からないふうの人々が慌てて道を開けた。
人波が割れた後に残されたのは、一人の老人と、彼を背後に庇って蒼白になっている男であった。
青騎士隊長が自らの代わりに皇子の横を護るよう部下に指示し、騎士たちに囲まれた二人連れの前へと進んだところで下馬した。対峙するなり、男が両膝を折る。
「も、申し訳ございません!」
いきなりの陳謝。第一隊長は出鼻を挫かれて眉を寄せたが、二人から目を離さぬまま背後の馬上へと声を掛けた。
「カミュー殿、御無事か?」
沈黙が応じる。表情を険しくした騎士隊長は、振り向いて青年を仰ぎ見たところで唖然とした。
カミューは未だ剣を納めていなかった。呆気に取られていたのである。
マイクロトフ、馬の位置をずらしたフリード・Y、そして第一隊長と同じように護衛の青年を案じて視線を向けた騎士らはおろか、事が把握出来ぬまま注目していた街人らも同様だった。
細身の白刃の先に突き刺さったもの。皇子に害為すと思われた投擲物、それは───
「……林檎?」
薄めの唇から洩れる呟き。傍らのマイクロトフが声もなく頷く。逸早く我に返った第一隊長が男と老人を交互に睨みながら厳しく問うた。
「何だ、あれは」
「り、林檎でございます」
「……見れば分かる」
気付けば奥の建物には青果商の屋号が掲げてあり、野菜や果実が小ぶりの店内に綺麗に並べてあった。
「売り物か。殿下に当てようとでもしたのか?」
「とんでもございません!」
男は地面に額を擦りつけそうな様相で首を振る。
「皇太子様に何故そのような……お許しください、父は決して……」
そこで老人が息子を押し退けるようにして数歩進み出た。その視線はカミューを擦り抜け、馬の首の分ほど先にいるマイクロトフへと注がれている。第一隊長が前進を阻もうと踏み出したが、老人は純真そのものといった笑顔で馬上の皇子に語り掛けた。
「皇太子様、今日の林檎は先日のよりもずっと甘いですぞ。これまで商った中じゃ、最高の品ですわい」
「先日……?」
マイクロトフは困惑して、カミューの剣に刺さった──実に妙な眺めだった──林檎を一瞥する。男が紙よりも白い顔で老人に手を伸ばして肩を掴み締めた。
「お父さん! 違うよ、マイクロトフ様だ。皇王様の御世継ぎでいらっしゃるマイクロトフ様だよ!」
すると老人は首を傾げてマイクロトフをしげしげと見詰めた。幼子のような反応に、一同は漠然と事情を理解し始める。青騎士隊長が難しい顔で切り出した。
「つまり、父御は……」
男は再び深々と頭を垂れた。
「すみません、申し訳ありません。父はただ───」

 

 

前皇王、即ちマイクロトフの父が皇太子だったのは三十年近く昔のことだ。
彼はよく青騎士団員を従えて、こうして街人の前に姿を見せた。人々は厳格で知られる皇太子を畏敬を込めて見守るのが常だった。
その日、男はいつものように商いの品を並べていた。この店が扱う青果は質が良いと評判で、男はそれが自慢だった。
青果を買い求めた客がにっこりしながら帰って行く。それを見送るうちに皇太子が率いる騎馬の一行が店の前を通り掛かった。
男は礼に則って、丁寧に頭を下げて騎士らが過ぎ行くのを待っていた。ところが、不意にあたりが騒然として、次には愕然とした。幼い息子が商いの品を悪戯し、あろうことか皇太子に投げつけてしまったのだ。
息子は、お城の偉い人──程度の認識はあった──に美味しい果物をあげようと考えたらしい。傍に行って渡そうにも、馬に乗った皇太子には届かないから投げたのだ、息子は無邪気にそう説いた。
子供なりの理屈は、けれど途方もない無作法に他ならない。男は刑罰を覚悟した。代わりに息子は許して欲しい、そう懇願しようと進み出たところで下馬した皇太子の笑みに迎えられたのである。
彼は受け止めた果実を齧って言った。
『美味い林檎だ、馳走になった』
そして幼子にも笑み掛けた。
『坊、気持ちは嬉しいが、食べ物を投げてはいかん。わたしはいつでもこうして馬を下りる、ちゃんと手で渡してくれ』
そうして彼は、大きな手で子供の頭を撫でたのだった。

 

 

「父上が……そのようなことを……」
思いがけぬ逸話にマイクロトフは胸を衝かれて男を見詰める。
そのときの子供が、今、跪いて詫びる男だった。あれから三十年近く経ち、父親は痴呆気味となっている。
礼拝堂近くの見晴台で老父から聞いた皇太子そのものを目にした男は、懐かしさが父の意識を揺らすのではないかと考えた。そして、父と並んでマイクロトフらが通り掛かるのを心待ちにしていたのだ。呆けた老父が林檎を手にしたのも知らず、幾度も聞かされた先代の雄姿と現皇太子を重ねて、感慨に耽っていたのである。
「カミュー」
漸く愛剣と果物を分けた青年が、呼んだ皇子に胡乱な眼差しを向ける。
「それをくれ」
刃が貫通したものの、力加減の絶妙か、形は崩さなかった林檎。カミューは束の間だけ握った果実を睨み、無言のまま腕を伸ばした。馬上越しに受け取ったマイクロトフは馬を下りて親子の許へと向かう。騎士たちはそんな皇子を迎えて場を開けた。
平伏すように項垂れる男、相変わらずにこやかな老人。二人の目前でマイクロトフは真っ赤に熟した実にかぶりついた。
毒見を、とは誰も口にしなかった。騎士たちは穏やかな目で主君を見守るばかりだ。最初の一口を嚥下して、マイクロトフは目を細めた。
「……美味い。本当に良い出来だ」
亡き父も、きっとこんな情感を覚えたのだろう。民と同じ地に立ち、その手の温もりが伝わる品を飲み込み、彼らと共に生きる平安を護ろうと誓って。
「そうでしょう、そうでしょう。きっとそう仰ってくださると思いましたとも」
老人は満足そうに何度も頷く。遠き日々を彷徨う心は、だがとても幸福そうだ。父王在りし日は、老人にとって良き時代であったのだ───
父への思慕、沸き上がる熱い何かがマイクロトフの四肢を震わせた。それを気取られるのを躊躇い、彼は努めて朗らかに続けた。
「だが、やはり食物を投げるのは感心しないな。おれも、いつでも馬を下りるぞ。マチルダの民の声を聞くのが、おれのつとめだ」
固唾を飲んで見守っていた街人、そして騎士たちも、さながら厳かな訓示を受けたが如き面持ちで次代の王に深い礼を取った。

 

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皇子と民衆の心温まる(かもしれない)触れ合いのひとコマ。
が、しかし。
赤だけは何となくムッとしている模様。

 

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