マイクロトフの愛馬は、全身が闇夜のような漆黒で、他と比べても逞しい牡馬だ。あまり全力疾走させて貰っていない不遇に置かれているが、主人をたいそう好いており、近寄ると嬉しそうに鼻を鳴らす。
それでいて主人以外にはたいそう用心深く、触れられるのをひどく嫌がる傾向があった。よく調教されているので、人に危害を加えることは決してないが、激しく暴れて騒ぐのだ。
前の馬は、マイクロトフの落馬を目してか、哀れにも毒殺されてしまった。けれどこの馬にはその怖れがない。
一度、フリード・Yがうっかり撫でたときの騒ぎといったら、蜂の巣を突いたようなものだった。厩舎番はおろか、たまたま近くを通り掛かった騎士が飛んできて、最後には政策会議参席中だったマイクロトフまでもが呼ばれて宥めるといった有り様だったのだから。
手ずから馬具を付けるのを見守っていたカミューが、ポツと言う。
「馬まで大きいな」
「次にはこう言うのだろう? 重い荷物を乗せられて可哀想だ、と」
「良く分かったね」
「……あまり分かりたくないが、慣れた」
手綱の具合を確かめたところでカミューが歩み寄った。
「乗馬は得意なのかい?」
「得意……かどうかはともかく、馬に乗るのは好きだ。最近では思い切り駆けることもなくて、こいつも退屈しているが」
言いながら鼻面を撫でると、愛馬は甘えるように首を振り、前脚で軽く地を掻いた。
「査察で街を出れば、そういう機会もあるさ」
言いながらカミューが、同じように馬の首筋へと手を伸ばした刹那。
様相が一転した。穏やかに主人の手の温もりを味わっているかに見えた馬が、突然目を剥き、荒い息を繰り返した。次にはカミューへと真っ直ぐに向き直り、後ろ脚で立ち上がる。前脚の蹄を高々と掲げていななく姿は、威嚇の域を越えていた。
「危ない!」
咄嗟に叫んでマイクロトフは青年の腕を鷲掴んだ。そのまま引き寄せ、同時に両者の間へと立ちはだかる。
目標が主人と入れ替わったを悟ったのか、馬は素直に制止を受け入れた。前脚を下ろし、落ち着かなげに踏鞴を踏みながらも、攻撃の気配は消えていった。
「いったい、どうしたのだ。大丈夫か、カミュー?」
マイクロトフが片手で馬の首を叩いて宥めつつ訊くが、応えはなかった。
皇子の腕に抱き寄せられたカミューは、身じろぎはおろか声も出ないほど動揺していたからである。
自身よりも一回りも大きな男。密着した体躯からは仄かに乾いた風の匂いがした。香ばしく薫る干し草のような、あるいは真夏の陽光を思わせる何処か懐かしい匂い。
決して愛着を抱いてはならぬ相手に与えられた温もりは、しかしあまりにも優しかった。厚い胸板の奥に流れる命の奔流を感じる。その血が意味するところに思い至ったとき、カミューは腕の長さだけ男を引き離した。
「───いつまで抱えているつもりだ、そういう嗜好は持ち合わせていないぞ」
地を這うような声で言うと、マイクロトフは一瞬ぽかんとして、それから狼狽して両手を挙げた。
「す、すまない。危ないと思ったものだから……」
「むざむざと蹴られるとでも?」
「いや、それは……」
分かっているのだ。カミューが見事な反射神経の持ち主であり、助力など必要としない矜持で護られているであろうことは。
けれど身体は動いた。思考など入り込む余裕はなく、ただ彼を窮地から遠ざけようと肉体が反応したのである。
どう説けば良いのか途方に暮れていると、カミューが調子を変えた。
「どうやら嫌われたようだ」
依然、興奮気味に脚を踏み鳴らしている馬を見詰めている。マイクロトフは眉を顰めた。
「本当に、どうしたというのだろう。こいつはおれ以外に触れられるのを嫌うが、騒ぐだけで、人に襲い掛かったりしたことはなかったのに」
「さあね。わたしから血生臭さでも感じたんだろう」
自嘲気味に言ったカミューだが、不意に皇子の顔が寄ってきて、知らず後退する。
「何だい?」
いや、とマイクロトフは首を傾げ、生真面目に言って退けた。
「血の匂いなどしないぞ。寧ろ、何やら甘い匂いがするが」
カミューはぱちぱちと瞬いて、真剣に男の顔を凝視した。揶揄や気遣いではない、そう理解した途端、不可解な苛立ちが込み上げる。
言ってやりたかった。
おまえは本当に血の匂いを知っているのか。
人の死に様を、その清涼な目で見たことがあるか。
尊厳もなく、無残に踏み躙られた人の残骸を目の当たりにして、己の無力に慟哭したことがあるのか。
カミューの胸に吹き荒れる情動も知らず、片やマイクロトフは余所事に気を取られていた。まじまじと彼を見詰め、怪訝混じりに言う。
「カミュー……おまえ、身体が熱いぞ。徹夜で体調を崩したのではないか?」
布越しに触れたくらいで、そんなことに気付いて欲しくない。カミューは心底思ったが、男の眼差しには溢れんばかりの気遣いがあり、それは無表情の裏で今にも堰を切りそうだった激情を包み入れるほどに豊かであった。
呼気を飲み込み、何事もなかったかのようにカミューは笑んでみせた。
「熱などないよ、もともと体温が高いんだ。紋章を宿しているからだろう」
「そうか、火を……」
「烈火、だよ」
マイクロトフは目を瞠る。
「烈火? 上位魔法の?」
同じ五行系の紋章でも、「火」は店頭でも売買されるが、上位紋章は滅多に出回る品ではない。強大な魔物を倒して得るか、あるいは何処ぞの遺跡や秘境にひっそりと眠る類の紋章なのだ。
「凄いな、手に入れるのは大変だったろう」
心からの感嘆を込めて言ったが、カミューは首を振って右手を翳した。
「生まれつき宿していたのさ。十四のとき、偶然それを知った」
「……紋章を宿すと、宿した場所に陰影が浮かぶと聞いたが」
青年の白い手に影らしいものは見えない。カミューは頷いて手を納めた。
「生まれ持ったものには稀にそういうことがあるらしい。魔法を発動させると、はっきりと見えるようになる。機会があったら御見せするよ」
そこでマイクロトフは最初の邂逅を思い出して苦笑した。
「フリードが、それは怖がっていたのだぞ。おまえに焼き殺されるところだった、と」
「……あのときか」
カミューも記憶を探って苦笑する。そう言えば、暴漢を追い払った際、若者が真っ先に口にしたのは皇子の安否の確認ではなく、カミューへの非難だった。
「連中を脅して退散させようとしただけさ」
「おれもそう思った。だが、フリードは……実際に攻撃魔法の射程内にいた人間の恐怖というものだろうな」
そこでカミューは目を伏せた。長い睫毛が微かに揺れる。
「……人には使わない。どんな悪党だろうと、生きたまま焼かれるのは惨すぎる」
狂乱の悲鳴、そして断末魔の悲鳴。
轟音渦巻く炎の中で苦悶を道連れに踊り狂う黒い影。
迫り上がる吐き気に襲われ、眩暈を起こし掛けたカミューだが、男の朗らかな声に辛くも救われた。
「敵に慈悲を忘れない───それは気高い心根を意味するものだ。騎士の教えにも記されている」
「……その本なら読んだよ」
「だが、おまえは誰に教えられるでもなく、そうしてきたのだな。立派だ」
カミューは応えられず、両の拳を握り締めた。
皇子の賛辞には裏がないだけに、感情の遣り場がない。この息苦しい会話を絶ち切るには、話題を変えるしかなかった。
「紋章と言えば、マイクロトフ……おまえも宿していないのかい?」
「う、うむ」
「回復の術者は多いほど良い。もし「水」が駄目でも、「風」ならばフリード・Yも宿せると思うが……念のため、おまえも見て貰ったらどうだろう? 回復系でなくても、補助魔法とか……何かしら宿しておいた方が、より安全だと思うけれど」
「それがな、カミュー」
マイクロトフは己の右手をしげしげと観賞して溜め息を洩らす。
「駄目なのだ。おれの身体は紋章を受け入れない」
「え……?」
「グリンヒル遊学時代、「見切りの封印球」を手に入れたので、紋章師のところへ行ってみた。だが……おれの右手は紋章を拒否したのだ。最初に紋章を受け入れるのは利き手というのが通説だが、一応、左手や額も見て貰った。「見切り」が合わないのかと、他にも色々試してくれたが、やはり駄目だった。どうあっても宿せないのだ」
「それはおかしいね」
カミューも首を傾げて考え込む。
「魔法系ならともかく、補助系も駄目というのは聞いたことがない」
「……すまない」
悄然と項垂れる男に、つい苦笑が零れ出る。
「わたしに謝られても……。紋章には未だ我々が知り得ぬ神秘が隠されているのだろう。気に病む必要はないよ、皇子様」
それに、とカミューは弱く呟いた。
「……人を超えた力など、使わずに済むならその方が良いんだ───」
城門前広場には、既に任に臨む一同が集まっていた。
巡回の途中で紋章師の店に寄るという話だったが、どうせなら早い方が良かろうと考えた副長が、皇子らが昼食を取る間に急使を送って紋章師を招き寄せていた。
幸いにもフリード・Yには適性があり、早速「水の紋章」を宿した。カミューと同じことを考えたのか、副長は皇子にも技を施すよう、その場で紋章師に指示した。
けれど結果は無情だった。彼の右手は「水」を拒み、用意した他の封印球にも一つとして納まるものはなかった。
「如何なる不思議でしょうか、これは」
副長は首を捻る。不甲斐なさを覚えたマイクロトフだが、明るい第一隊長の声が一蹴した。
「別に構わないでしょう。殿下……いや、団長は、紋章の助けなど必要とされないのだと考えれば済むことかと」
「……そうだな。別に体調がお悪い訳でなし、世には例外など幾らでもあろう」
自らを納得させるように言うと、副長は皇子に向き直り、丁重に礼を払った。
「お引き留めして申し訳ございませんでした。どうぞお気をつけて……マイクロトフ様」
「うむ、では行ってくる」
マイクロトフはひらりと馬上の人となった。カミューもまた、騎士が用意しておいてくれた己の馬の手綱を取る。一同は次々と騎乗して、二列を組んだ。第一隊長が視線を巡らせる。
「カミュー殿、あなたは団長の左を。わたしが右に付きます。侍従殿……は、団長の後ろを頼む」
最後の一言は、期待も露に目を輝かせているフリード・Yを、かろうじて思い出した、といったふうに間伸びしていた。が、高揚している若者は気付かない。いそいそと馬を寄せて、マイクロトフの背後にぴったりと付く。
「さあ、参りましょう!」
元気の良い宣言に青騎士たちは苦笑したが、部隊長の合図で一斉に表情を引き締め、自馬の腹を軽く蹴った。
美貌の傭兵と騎士隊長が皇子を挟んで先頭を切る。その後をフリード・Yが、そして列を成した青騎士が粛々と続く。
父の遺品を纏ったマイクロトフは、見事な体躯もさることながら、言葉に出来ぬ雄々しさと力に満ち溢れていて、見送る副長を圧倒した。
「あれは……あの御方は皇太子殿下でおられますよね?」
並んで一行を眺め遣っていた紋章師が、ほう、と息をつきながら問う。
「然様。我が青騎士団長にして次代の皇王陛下、マイクロトフ様だ」
青騎士団副長は、そう微笑んで胸を張った。
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