カミューが微妙に不機嫌になったのを訝しく思ったマイクロトフだが、胸中の高揚は抑え難く、部屋の奥まで進むや否や、寝台の上に騎士装束一揃えを並べていった。
「最初からそうすれば良かったのに」とブツブツ言ったものの、カミューはフリード・Yと一緒に後を付いてきて、横に並んで物珍しそうに衣服に眺め入る。
───亡き父がこれを着ていた。青騎士団長として、騎士を率いて国内を見聞して回った。その情景を描くだけで震えるほどの感動を覚える。
マイクロトフが記憶しているのは皇王である父でしかない。幼い頃から剣に興味を示したマイクロトフのため、時には稽古相手になってくれたこともあったが、あくまで子供相手の戯れの域を出なかった。
民のため、魔物や悪漢と本気で戦う父の姿を一度で良いから見てみたかった、マイクロトフは心からそう思う。
父が皇王の座に昇って団長位が空位になった後も、この装束を大切に護り続けていた───そこから青騎士団と父の関係が窺える。自らもそうありたい、何故もっと早く青騎士たちに胸襟を開かなかったのだろうと悔やんでは、踏み出させてくれたカミューへの感謝が募った。
ふと思いついて、群青の上着の横に大剣を添えてみる。普段持ち歩いている品ではなく、王の末裔が受け継ぐ至宝ダンスニー。装飾らしい装飾はなく、およそ宝剣らしくない無骨な拵えの剣。
最初の持ち主である王家の始祖マティスは、たいそうな強力で、「斬る」より「叩き割る」ような剣の遣い手であったという。そのため、幅広刃で重量も十分ある大剣が作られたらしい。
こうして並べてみると、騎士団長衣と大剣には不思議な調和があった。おそらくは剣に合わせて装束が意匠されたのだろう。
父はダンスニーを自在に扱うことが出来たから。代用の剣など持つ必要はなく、いつでも抜いて振るえたから───
そこまでくると苦いものが込み上げ、舞い上がっていた気分が失墜した。そんな機微を敏感に察したフリード・Yが、おずおずと声を掛けた。
「そう言えば……朝食が遅いですね、どうしたのでしょう」
いつもなら早朝訓練が終わる時分を見計らって幼い侍女が食事を運んでくる。なのに今朝は、いっこうに現れる気配がない。フリード・Yとしてはごく自然に洩れた疑問だったのだが、聞くなりマイクロトフははっと背を正した。
「そうだ、忘れていた。実はな、フリード……」
「好まぬ学業を中止にした、それと騎士団のつとめに参加するようになった経緯ならわたしが話したよ」
さらりとカミューが割り込んだ。従者の同意を見て、マイクロトフは微かに眉を寄せた。
「すまない。留守中に相談もなく……おまえを軽んじた訳ではないのだが」
「分かっておりますとも、殿下」
フリード・Yは明るく言った。
「カミュー殿からお話を窺い、わたくしも最善であると確信致しました。どうぞ御心のまま、迷いなくお進みください」
「フリード……」
感謝する、と低く言って頭を垂れる。皇子のそんな姿に面食らい、フリード・Yは困ったようにカミューを一瞥した。肩を竦めた青年が薄く笑った。
「……でも、食事までは説明していなかったよ。実はね、昨日から皇子様は食堂を御利用なのさ」
「えっ?」
「青騎士隊長たちに囲まれての、和やかな食卓模様という訳だ」
食堂で料理人たちが作る食事を一緒に取る。これはマイクロトフと位階者らの交流を格下の青騎士たちに見せるための一種の策で、発案者はカミューだった。
上位者が皇子と近しく接しているのを見れば、自然、配下の騎士にも皇子への情が沸く。王位継承者への忠誠にも増して、「我らの騎士団長」という意識が強まる。何に代えても護りたいとの信念が兆す。
騎士にとって絶対の信念こそが困難を乗り越える上での最大の力となることを、書物の中からカミューは感じ取ったのであった。
騎士隊長らと同じ長卓につき、配下の騎士が配膳してくれるのを待つ。皇子が皿に手を付ける前に、左右の位階者が料理を一かけら失敬する。
端から見れば無作法とも取れる図だが、実は毒見を果たしているのだ。そうまでする必要をマイクロトフもカミューも感じなかったが、青騎士団副長は慎重な人柄で、料理人、あるいは配膳する部下の中に「敵」が紛れていた場合に備えて、これを取り決めたのだった。
騎士隊長に皿をつつかれる皇太子。礼節を重んじる騎士団にあっては流石に不自然な光景である。周囲は静まり返り、青騎士ばかりか、たまたま近くに居合わせた赤騎士までもが目を瞠った。
そこで向かいに座していたカミューが言った───『取られた分は取り返しても宜しいのでは?』
マイクロトフは即座に言葉に従った。騎士隊長たちの皿から料理を──毒見に使われた分より若干多かったのが後にカミューの失笑を買ったが──奪取した。その様子が他の位階者の苦笑を誘い、終いには周囲を巻き込んでの爆笑となった。
体躯こそ成人並だが、一応マイクロトフは未成年者の扱いだ。故に、邪気のない悪ふざけと映ったのかもしれない。以来、毒見の儀式は続いているが、周りの騎士は笑ってこの遣り取りを見守っている。
「……そうだ、カミュー。おまえの朝食を運んで貰うよう頼んだからな」
思い出してマイクロトフは言った。従者の若者に視線を移して嘆息する。
「昨夜も食事を取っていないのだ。あれに熱中して」
振り返って、皇子が言うところの「巣」を見遣るフリード・Yだ。
「仕方がないだろう、ちょうど佳境に入っていたんだ」
カミューが控え目に言い返すが、きつい一蹴が間髪入れずに放たれる。
「読書も調べものも、度を越して無理をするなら禁じるぞ。食事は取る、睡眠も取る。分かったな?」
「一晩や二晩寝なかったところで死なないよ」
不貞腐れたようにそっぽを向きながら小声で言うが、聞き咎めてマイクロトフは一歩進み出た。
「それでも! これは命令だ、いいな、カミュー」
熱っぽく言い募る皇子にフリード・Yは驚いて瞬いたが、これはカミューにも同様だった。
拒絶を許さぬ強い威圧。漆黒の双眸には誠意が滲んでいる。威圧と誠意、どちらに負けたのか、カミューにも分からない。けれど頷かずにはいられなかった───渋々ではあったが。
青騎士団の共闘を取り付けたのが一昨日の朝、それから一日かけて位階者たちは今後のつとめの調整を計った。
午前中の閣議の間、特に申し述べることもなかったので、カミューは早速書庫に赴き、望む品々を掻き集めた。
山のような書物の束を抱えて、よろよろと皇子の自室へ向かっていたところ、通り掛かった数人の騎士が助力を申し出た。赤騎士団所属のものたちである。
皇子の「学友」が城に滞在していることが既に噂になり始めていたのか、彼らはとても親切だった。細身の青年が大荷物に四苦八苦しているのを見過ごせないとでも言いたげに、カミューの腕から書物を引き取り、皇子の部屋まで送ってくれた。
『他にも運ぶ品がありますか』と問われたので、遠慮なく、もう一往復して貰った。
「皇子の学友」に「近い将来、入団試験を受けようかと考えている」が追加されたのは、実はこのときである。騎士が必ず読破せねばならない書物で予備学習しようという姿勢は、赤騎士らに好感をもって受け入れられたようだった。
騎士団の機密──名簿や任務の記録──ばかりは、集めているのを他騎士団員に知られる訳にはいかなかったので、後から自らの手で苦労して運んだ。そうして情報源を手元に確保したカミューは、暇を見ながらの「学習」を開始したのだった。
午後からの閣議の間は、同じ部屋に居ながらにして末席で読書。
翌日は皇子を交えての騎馬訓練が実施されたが、位階者という援軍を得たがために皇子の一挙一同に目を光らせる必要がなくなったのを幸いに、このときもカミューは闘技場の隅で本を片手に過ごした。
無論、たまに紙面から目を上げて馬上のマイクロトフを見遣るのも忘れない。何しろ皇子は、頻繁にカミューを窺っては「己の技術はどうか」とでも問いたげな顔をしていたからだ。
これまでも努めて訓練には参加してきたマイクロトフだが、実戦形式の騎馬訓練からは長く遠ざかっていた。度重なる事故がそうさせたのだ。
久々に味わう緊張は、だが以前とはまるで違っていた。騎士たちは装備や武具を念入りに検め、慎重を期しながらも生き生きとマイクロトフを囲む。掛かる声、眼差しの一つ一つに今までとは異なる温かさがあった。
仲間、という言葉が相応しい。立場の上下、敬意や信頼。すべてを飲み込み、力とする関係───仲間だ。
預かりものの皇太子ではなく、同じ地を駆り、剣を振るう仲間、いつしか彼らはそうした目でマイクロトフを見ていた。
「おれが求めていたのはこれだったのだと……そう思った」
マイクロトフは黙して聞き入る従者に告げる。
「今日はこれから閣議で、午後は市内警邏に同行なさるのでしたね」
穏やかに笑みながらフリード・Yが言うと、マイクロトフは苦笑した。
「騎士は実務第一かと思っていたら、意外と位階者は机上のつとめが多いのだ。副長の捌いている書類の量を見たときには、正直、げんなりしたものだぞ」
ぷっと吹き出して従者は首を振る。
「それでは学問と大差ありませんね」
「まったくだ。会議も多い。だが……政治会議に比べれば、ずっと有意義だが」
宰相をはじめとする議員の閣議には皇太子も参席が義務付けられているのだが、今はまだ強い発言力もなく、向学といった感がある。特にここ数年は、白騎士団長ゴルドーの権威が絶大で、殆どまともな会議にならなかった。
皇王空位の現在、政策の指針を立てるのは議員による閣議だが、現実に動くのは多くが騎士団である。外交こそグランマイヤーが押さえているが、税の徴収、治安維持活動などは騎士団の仕事だ。最も重要な予算運用までもが、今やゴルドーに握られていた。税を取り立て、国内事情を良く知るものが配分に携わるべきであろうと押し切られてしまったのだ。
議員閣議は、白騎士団長の横行を抑えようとする宰相の苦行の場でしかなくなった。何の力にもなれない無力な身が腹立たしく、何度席を立とうとしたか分からない。
それを思えば、騎士団の閣議は素晴らしく建設的である。一所に座っているのが苦手なマイクロトフだが、退屈など覚えよう筈もなかった。
「今日からはおまえも参席すると良い、フリード」
「宜しいのですか?」
「無論だ。それと───」
マイクロトフはちらとカミューを見る。
「……閣議中の読書は控えてくれないか? 気になって仕方がない」
「それはおまえの集中力が欠落しているからじゃないか?」
カミューは笑って首を傾げた。琥珀の瞳が書物の山に向かい、やがて伏せられる。
「まあ、いいさ。大まかには読み終えたしね、仰せに従うよ」
主従が顔を見合わせたところで、入室を求めて扉が鳴った。入れ、とマイクロトフが声を張ると、二人の少年がおずおずと顔を見せた。
「殿下……いえ、団長。副長の仰せで、軍靴をお持ちしました」
「それから、カミュー様のお食事です」
年頃から、彼らが騎士団の従者と呼ばれるものたちだとカミューは察した。傍らの皇子が胸を張り、明るい声音でねぎらっている。
少年の一人が未だローブ姿のままだったカミューを見て頬を染めた。短い躊躇の後、彼はマイクロトフに向き直った。
「あの……、カミュー様に騎士団衣を御用意した方が宜しいでしょうか? 上位者の皆様も気にしておられたようなのですが」
「君ね、「様」はやめてくれないかな」
マイクロトフが答えるより早くカミューが顔をしかめたが、少年は断固として言い張った。
「いいえ! カミュー様には十分に礼を払うようにと、副長より全青騎士に通達が出されておりますから」
「……何だって?」
「昨日の閣議でな」
マイクロトフが補足して破顔する。
「そんな話が出た。おまえが真面目に話を聞いていないからだぞ」
「…………」
「それよりどうする? 午後の巡回にはおまえも来るのだろう? 団衣を用意した方が良いかもしれないな」
真面目に問われたカミューは暫し考え込んだ。それから、はんなりと笑んで首を振った。
「装束まで身につけて、由緒正しきマチルダ騎士を騙る訳には参りません。平服で騎士の列に連なる無粋を殿下さえお許しくださるのでしたら、わたしはそれで御供させていただきます」
唐突に違えられた口調の流麗に、マイクロトフとフリード・Yは唖然とし、それが従者の目を意識してのことだと思い至るのに時間が掛かった。二人はカミューの普段の調子に慣れ切ってしまっていたのだ。
「そ、そうか。異存はない」
「カミュー殿、わたくしも騎士の団衣は頂いておりません。わたくしもこの私服のまま同行させていただきたいのですが……宜しいでしょうか、殿下?」
「無論だ。良いに決まっているだろう」
主従の遣り取りを聞いた少年たちは、にっこりして顔を見合わせた。楽しげな表情を訝しく思ってマイクロトフが問い質したところ、たちまち二人は恐縮して背を正す。
「いえ……その、たいしたことじゃないんです。ただ……」
一人が口篭り、カミューを仰ぎ見ながら続けた。
「騎士隊長の方々が言っておられたのを思い出して……」
「何と言っていらしたんです?」
フリード・Yの追求を受けた少年は覚悟を決めたように言い放った。
「はい。団服を着られるなら、カミュー様には青より赤の方が似合われるのではないか、と」
ぽかんとする青年を、マイクロトフとフリード・Yが両側からしげしげと眺めた。
ところが刹那、素肌にローブ一枚という姿を初めて意識したマイクロトフは、奇妙な胸の疼きを覚え、そんな自身に困惑した。
与えた衣の濃紺が色白な青年の肌を際立たせている。「なまめかしい」といった、そんな言葉が男性に合うなど、考えたこともなかった。けれど目前の青年の体躯は、つくりが繊細で、そう感じさせる艶がある。
「そ……んな格好でいると風邪を引くではないか」
何とも苦し紛れの発言は、冷ややかな調子に切って捨てられた。
「申し訳ございません。殿下の御前で着替えるなど、そちらの方が無礼かと思ったものですから」
「そんなことはありませんよ、カミュー殿。わたくしも、不遜にも常に殿下の前で着替えさせていただいております」
従者は助け舟を出したつもりで、逆にマイクロトフを慌てさせた。
そうなのだ。乳兄弟とは、特に頓着するでもなく、そうしている。一応は続き部屋を与えているとは言え、近い距離で暮らす以上、ある程度の無作法はやむを得ない。
騎士団の訓練後、汗を拭う際も同じだ。皇子の前に裸体を曝すのを非礼と考え、慎む騎士もいるにはいるが、それは羞恥からではないし、マイクロトフも気まずさなど感じない。
───なのに。
ローブから覗く白い肌、鎖骨や手首、若鹿のようにしなやかな肉のない脚が目に入ると、いたたまれない心地を掻き立てられる。
これほど優しげな身体つきをした青年に護られる我が身への不甲斐なさかと最初は思った。けれど、そればかりではないようだ。とにかく落ち着かないのである。
途方に暮れたところで、彼はフリード・Yを、そして二人の少年たちを窺った。そして、ほんの僅かだけ安堵する。カミューに視線を向けた一同は、いずれも同様の顔を見せていたからだ。
同性の目から見てもカミューは端正だ。類稀な剣士であるのは出会いのときから分かっているが、多くの騎士がそうであるような、見るからに逞しい体躯は持ち合わせていない。
かと言って、目立って痩躯という訳でもなく、官吏のような脆弱も皆無である。その絶妙な均衡が、艶美となって映るらしい。
美しいものに視線が引き付けられるのは当然だ。けれど同時に侵し難い何かを覚える。普段、衣服のうちに隠された姿が露わになれば、気恥ずかしく感じても不思議ではないのだ───マイクロトフは赤らんだ従者たちを見て漸く納得した。
さながら気まずさを振り払うかのように、フリード・Yが頓狂な声を上げた。
「それにしても、赤ですか。カミュー殿なら何でもお似合いでしょうけれど、確かに赤は良いかもしれません。殿下と色違いの装束でも作られたら、お二人並ぶと映えそうですね」
ははは、と乾いた笑いが響く。少年たちは想像でもしているのか、真剣に考え込んでいる。妙な気詰まりが倍にも重くなり、マイクロトフは座り込みたい心境だった。
そしてカミューは。
「派手だよ。勘弁して欲しいな……」
寝台に並べられた青い衣をちらと見遣って、少年たちに聞こえぬように、小さく小さく呻いたのだった。
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