湯による熱こそ引いたものの、着替えに取り掛かるのが億劫で、ローブ姿のまま書物の山へと進んだカミューの背に控え目な声が尋ねた。
「ところでカミュー殿、これはどうなさったんです?」
「学習さ」
軽く返して、山の一番上にあった本を摘まみ上げる。
「青騎士団の地位ある人間には雇われの身であると打ち明けたが、やはり宰相殿が騎士団外から護衛を招いた点への反発は少なからずあった。皇子に親愛を抱いていた連中からすれば、無理もない。だから、配下の騎士らにはわたしの正体を伏せたままにしておこうという結論に達したんだ」
でも、と彼は振り返って従者を挑戦的に睨めつけた。
「皇子と一緒になって騎士団のつとめに顔を突っ込むのに単なる「学友」ではあまりに不自然だろう? 役柄に若干の修整を入れないとね」
「……と言いますと?」
「一口に言えば「騎士団への入団を希望する学友」だよ。青騎士団長たる皇子の格別の厚情によって騎士のつとめを体感中、という訳さ。これは───」
カミューは積まれた書を一望した。
「……そのための基礎学習。何でも好きなだけ持って行って良いと副長殿が仰せなのでね、一昨日からこうして騎士団についての知識習得に勤しんでいるのさ」
成程、と納得顔で頷いたフリード・Yが、改めて積み上げられた書物に眺め入る。カミューはあっさりと言い切ったが、「基礎」どころか、それはもう膨大な情報量である。崩さぬように検分して回り、知らず重い溜め息を洩らした。
「区分しておられるみたいですけど……どういった分け方を?」
するとカミューは順に指を突き付けながら淡々と答えた。
「既読分、未読分。既読分の中で必須のもの。左から山別に、わたしの判断における重要度で分けてみた」
「ああ、だから崩してはまずいんですね」
苦笑して、フリード・Yは最も高く積まれた山──重要度が低いと見做された書類───を恐々と覗き込んだ。それからひょいと視線を移すなり、表情を硬くする。
「全騎士団員の名簿にまで目を通されたんですか?」
そこで一瞬、ほんの僅かだったが間が空いた。カミューはフリード・Yが凝視していた紙片の束を取り、弄ぶように捲って唇を歪める。
「……団員の入れ替わりが激しくて、なかなか容易な作業じゃないよ。特に、ゴルドーが白騎士団長に就いた直後に行った団員移動……前と後では、各騎士団の面子が恐ろしく様変わりしている」
カミューは片手の甲で握った紙片を一打ちした。
「赤や青に格下げされたものは、ほぼ除外して良いだろう。間者が潜んでいるかもしれないが、聞いたところではゴルドーという男、周囲を信奉者で固める傾向があるらしい。信頼する人間ならば、敵側に送り込むより身近に置いて使いそうだ。つまり、間者がいたとしても、然して重要な役割は与えられていないと考えられそうだ」
「…………」
「利用価値を認められて、赤や青から白騎士団へと移ったもの───これも除外の方向で良さそうだ。赤・青の副長殿らはゴルドーの招きを拒んだ。となると、白へと移った騎士が、逆に赤・青側と通じている可能性をゴルドーは考えるだろう。当然、己の野望に加担させることなど出来ない」
「あ……」
ここまで来て、フリード・Yにも朧げながらカミューの言わんとするところが浮かび始めた。彼は、ゴルドーの忠実なる配下、策謀に関与する一味を焙り出そうとしているのだ。
「両者を除いた、古くからゴルドーに付き従ってきた騎士、それが「敵」の大枠さ。すべてが加担しているとは言わないが、警戒の基準にはなるだろう」
最後にカミューは冷えた琥珀を煌めかせた。
「ゴルドーは尻尾を掴ませず、掴んだ尻尾は切れるようにしている……宰相殿はそう言っておられたが、絶え間無く切り続ければ、やがて刃も本体に達するものさ」
「カミュー殿……」
あまりにも模糊とした空を掴むようで、これまで戦いに打って出るなど考えられなかった。否、そんな戦い方があるとすら、フリード・Yは思ってもみなかったのだ。
「……確定出来るのでしょうか、ゴルドー側に与みする騎士が?」
問うたところで青年から冷徹な気配が消え、おどけた表情が答えた。
「どうかな。始めたばかりだから、まだ何とも……。それに実際、嫌になるほど騎士の数は多いし」
カミューは名簿の束を置いて、別の山を指した。
「ここに騎士の身上書がある。大枠に該当した騎士と照らし合わせて、背後関係まで突き詰めれば、あるいは……。でも、そうするよりも皇子が即位する方が早い気がする」
「ですよね」
がっくりと肩を落として同意する。由緒正しきマチルダ騎士団の甚大なる騎士数を、初めて恨んだフリード・Yだった。そんな若者をちらと見遣って、カミューは朗らかに続けた。
「あれこれ話したけれど、とにかく始めたばかりだ。今は戦術を練っているようなものだから、あまり深く考えないでくれ。それより幾つか教えて欲しいんだ、フリード・Y」
ここまでの話を聞いて、フリード・Yは、やや頭が痛くなってきていた。傭兵として雇われた筈の青年は頭脳労働も得意であるらしい。この回転の早い人物に、自らが教えられることなどあるのだろうか、そんな不安に襲われたのだ。
「ええと……どうぞ、仰ってみてください」
「騎士団長の権限の範囲についてだ。ざっと目を通してみたんだけれど」
そう言って指し示したのは騎士団のつとめの記録である。フリード・Yが身を屈めて慎重に窺ったところ、過去五年分はあろうかという書類の厚みだった。読むだけでも気が遠くなりそうな量に、若者は唖然としてカミューを見詰める。
「全部お読みになられたんですか?」
「流石に全部じゃないよ、拾い読みだ。それでね、騎士の派兵についてなんだが……前王が御存命だった頃は、任命書はすべて皇王の名で出されている。騎士団長の権限で派兵は行われないのかい?」
フリード・Yはほっとした。この疑問には答えられるからだ。
「ええと、出兵する必要があると騎士団が判断した場合、それを皇王に申請して許可を受ける……そういう流れになりますね」
「つまり、皇王の許しがなければ派兵は出来ない?」
ええと、と従者は生真面目に背を正した。
「マチルダ内での緊急を要する案件には例外がはたらきますが、国外への軍事出兵は必ず皇王の裁可を通さねばなりません。これは絶対の規律で、過去に破られた例はありません」
カミューは小さく呟いて視線を落とす。
「逆に言えば……対外派兵は皇王の裁量次第、という訳だね」
形良い、薄めの唇が微かに震えたのにフリード・Yは気付かなかった。胸を張って、なおも熱心に言い募る。
「ただ、現在は皇王が空位ですので……宰相グランマイヤー様の了承を取り付けるというかたちが取られています。ここ数年、周辺各国に大規模な騒乱は起きていませんし、特に問題があったとも聞きませんね」
「…………」
「この国では「王と騎士団長は両輪」と良く言われます。しかし、権限では絶対的に皇王が上です。王は騎士団長を解任出来ますし、その点だけを取っても、決して同格ではないとお分かりいただけると思います。両者の間に揺るぎない信頼関係がある場合にのみ、「両輪」と称するだけの意味があるのだと、わたくしはそのように思っております」
「……良く分かったよ、フリード・Y」
カミューは静かに遮った。それから半ば独言のように呟く。
「そんな筈は……───」
「どうかなさいましたか?」
耳聡く聞き咎めたフリード・Yに上目で覗き込まれ、カミューは軽い自失から浮かび上がった。一瞬だけ視線を巡らせ、慎重に言った。
「騎士団の遂行した任で、記録に記載されないようなものはあるかい?」
フリード・Yは怪訝そうに眉を寄せた。腰を屈めて書類を数枚捲って首を傾げる。
「騎士団書庫から持って来られた任務遂行記録ですよね? いいえ、それがすべての筈です」
だからこんな膨大な量なのではないか───そう言い掛けた従者だが、青年の表情の硬さに口篭る。今のカミューはこれまでの砕けた親愛の一切を失い、最初に出会ったときにも勝る、凍れる気配を醸していたのだ。
「カミュー殿? 何か気になることでも……?」
おずおずと声を掛けるが、答えは返らない。不可解な気詰まりに途方に暮れたフリード・Yを救ったのは唐突に開いた扉が立てた轟音だった。
「戻ったぞ、カミュー!」
小脇に何やら包みを抱え、大声で呼ばわりながら入室した男は、視界に映ったいま一人を見るなり紅潮した顔を更に輝かせた。
「フリード! 良かった、起きられるようになったのか」
ずんずんと歩み寄るマイクロトフが奇妙な陰鬱を消し飛ばした。今し方の遣り取りに心を残さぬ訳ではなかったが、丸三日も見なかった皇子の明るい表情が怪訝を覆い尽くす。フリード・Yは照れ臭げに笑んで丁寧に礼を取った。
「御迷惑をお掛けしました、殿下」
マイクロトフは首を振る。
「迷惑などとは思わなかったが……心配したのだぞ。おまえがいなくて寂しかった」
刹那、フリード・Yはぽかんと口を開いて目前の皇子を凝視した。そんな彼の様相には頓着せず、体調を確認するかのように様々な各度から従者を眺め、最後にマイクロトフは眉を顰めた。
「少し痩せたか? あまり食が取れなかったのだろう、無理は禁物だぞ」
「は、はあ……あの……」
乳兄弟として、物心つく前から間近で過ごしてきた皇子。
だが、こんな皇子は初めてだ。こんなふうに真っ直ぐに情愛を示してくれるマイクロトフは。
否───ずっと昔、本当の兄弟のように転げ回って遊んでいた頃にはそれが当たり前だった。フリード・Yを相手に、玩具の剣を振っていた頃は。
幼いながらに無類の剣の才に恵まれた皇子は、体格でも僅かに遅生まれの乳兄弟を遥かに上回り、だからフリード・Yは遊びの中、常に生傷が絶えなかった。
剣圧に押されて転んで擦り傷を拵えるたび、皇子は必死の形相で彼を案じ、何度も謝りながら薬を塗ってくれたものだ。
成長し、共に騎士団の鍛錬に参加するようになってからもそれは変わらなかった。向けられる顔にはいつも温かな笑みがあった。自らに対する情愛を確信出来るだけの微笑みが。
父王を失い、天涯孤独の身となって、皇子は少年期を終えた。感情を抑えたように振舞い始めた彼を、「威厳が増した」と賞賛する家臣も中にはいたが、フリード・Yにはそうは思えなかった。
もともと感情の起伏が激しく、思ったことを何でも外に出してきた皇子なのだ。そうしない、あるいはそう出来ない現状は皇子にとって決して良きものではない。間近で仕えるフリード・Yには、皇子の張り詰めた心が上げる悲鳴が聞こえるようだった。
フリード・Yへの接し方にも幾許かの変化はあった。それは宰相グランマイヤーにも同様だ。限られた一部のものだけに気を許していると取られぬためか、親愛の示し方が控え目になった。傍近く接する、今はそれだけが皇子の領分に存在する証となり掛けていたのだ。
───なのに。
真っ直ぐに自身を見詰め、惜しみない笑みを浮かべ、温かな心情を躊躇うことなく口にするマイクロトフ。幼い頃から愛してやまなかった皇子の本質がそこにある。懐かしいばかりの、乳兄弟の明るい笑顔が。
「どうした? まだ腹が痛むのか?」
「いいえ……いいえ、殿下。痛んだのは腹ではなく、胃でした。ですが、もう大丈夫です」
泣き笑いの顔で言うと、束の間マイクロトフは首を傾げたが、すぐに頷いた。それから、やや強張った顔で続ける。
「その……見舞いの件なのだが」
「お気遣い、ありがとうございました。カミュー殿から委細をお聞きしました」
「……効いたか、コボルトパイは?」
「はい、とても」
とても効いた───品の効用以上に、心遣いが。
フリード・Yは言葉を飲み込んで笑んだ。
土産物を流用した点に多少の呵責はあったものの、そう言われれば安堵する。マイクロトフはほっと息をつき、初めてカミューへと向き直った。青年が纏うローブを見て目を細める。
「着たのか」
「ぶかぶかだよ」
短く答えるカミューは、先程のフリード・Yとの会話の気配を一掃していた。ほら、と見せつけるように両手を広げ、無理に手繰り寄せたローブの合わせを指す。
「おまえ、一回り以上も太いんだな」
「太い……ではなくて、体格が良いと言ってくれ」
「悪かったね、貧相な体格で」
「そんなことは言っていないだろう。言い掛かりをつけるのは癖か、カミュー?」
端で見守るフリード・Yは唖然とするばかりだ。たった三日留守にしていた間に二人は驚くほど親密を増している。この、城下の若者が交わすような言い合いを「親密」と呼ぶのであれば、だが。
「それにしても……」
マイクロトフは一旦会話を切り、室内を侵食する書物の山を呆れたように見遣った。
「───まるで巣だな。言っておくが、徹夜の読書は昨夜限りにするのだぞ」
「別に就寝の邪魔はしなかっただろう? 明かりは極力抑えたし」
繰言めいた調子が付け加える。
「……ぐうぐう寝ていたじゃないか」
「そういう問題ではない。身体を壊すではないか。気になって、おれもいつもよりは寝つきが悪かったのだぞ」
そこまでくると、カミューは面倒臭そうに片手をひらめかせた。
「分かった、分かった。今後は仰せに従いますとも、皇子様。それで……その、脇に抱えた御大層な包みは何だい?」
問われるなり、マイクロトフはぱっと顔を輝かせた。頬に入室時の紅潮が戻ってくる。大急ぎで包みを探った手が、見守るカミューとフリード・Yの目に鮮やかな群青を翻えらせた。
「見てくれ! 青騎士団長の騎士装束だ、父上が着ておられた品なのだ!」
それはマチルダ騎士が纏う衣に似た、けれどまったく別格の威風に溢れた装束であった。
膝下までを覆う長丈の上着は濃い青を基調としていて、幾数ものベルトで重厚を深めている。喉元を護る鉄製のプレートの近くにはマチルダ騎士団員の証である徽章が煌めき、二本の組紐の黄金色が適度な華美を添えていた。
「皇太子だった時分、父上はよく騎士団のつとめに同行された。そのため、作られた装束なのだそうだ。青騎士団は父上が即位された後も、これを大切に保存してくれていたのだ!」
嬉しさを抑え切れぬといった様相で、マイクロトフは衣を己の体躯に当てる。
「おれは父上が皇太子でおられた頃と同じ体格らしい。合わなければ直すと副長は言ってくれたが、その必要はないな」
カミューは知らず苦笑していた。新しいドレスを買って貰った乙女でも、こうまで浮かれはしないだろう。まったくもって青騎士団副長は粋なはからいをしたものだ。
しかし、ふとフリード・Yが思案顔で零した。
「……大丈夫でしょうか?」
「何がだい?」
「これから先、殿下は騎士団の市内巡回や査察に同行なさるのでしょう? お一人だけ異なる装束となると目立ちますし……」
───かえって暗殺を目論む敵の目を引いてしまうのではないか。
喉奥にわだかまった懸念を、しかしカミューは否定した。
「逆だよ、フリード・Y。青騎士団で一人だけ違う騎士装束を纏っている、それは即ち皇太子である証だ。当然、民が注目する。衆目の中での暗殺は、しくじれば命取りとなりかねない。敵はかえって手を出し難くなる」
そこまで考えての仕儀かどうかは分からないが、と付け加えるとフリード・Yは納得したように頷いた。
「そうか……そうですよね。申し訳ありません、気負ってばかりで」
その間にも胸に抱いた衣を矯めつ眇めつしていたマイクロトフが小さく問う。
「どうだろう? 似合うだろうか?」
さあね、と笑いながらカミューが腕を組んだ。
「着てみてくれないと、何とも答えようがないな」
マイクロトフは意を決したといった面持ちで大きな包みを覗き、次々と品を取り出していく。
「内着、下衣……軍靴は後で用意してくれると言っていた。それと、これが上着用のベルト───」
言いながら勢いよく引っ張り出した長いベルトが宙を舞う。幅も厚みもある立派な皮製のそれが、垂れ落ちる刹那にカミューの徹夜の成果を直撃した。不運にもそこは書物ではなく、紙束による脆い一画であったため、たちまちドサドサと無残な音を立てて山は崩れていった。
「あ……」
喘ぎを洩らしたのはフリード・Yだ。片やマイクロトフは、単に部屋を散らかしただけ程度の認識しかなく、やれやれと頭を掻いた。
「すまない、カミュー。おまえの巣を壊してしまった」
「……いいよ、皇子様。短い付き合いだが、おまえが大雑把なのは分かり始めていたからね」
身体の両脇で拳を握り、プルプルと肩を震わせながら、カミューは引き攣った笑みでそう応じたのだった。
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