「いったい、何がどうしたと……」
体調を崩して寝込んでいた従者が城に戻るなり洩らしたのは、自失口調の、そんな一言であった。
結局フリード・Yは丸三日も床についていた。
過労からくる神経性の胃炎と、良く分からない病名を下したヤマモト家お抱えの医師は、若者が登城の準備を始めたのを知るや、たいそう渋い顔をした。
けれど彼の決意が固いと見て取った後は、無言で数日分の薬を処方した。両親にすら止められぬ若者を、他人の己が止められようかとでも言いたげな諦め顔であった。
朝まだき、皇子は騎士団の早朝訓練に出向いている時間帯である。どのみちカミューが警護を勤めているし、ならば戻った皇子が汗を流せるよう、風呂の支度でもしておこうと真っ直ぐに東棟の居室へと向かった。
行き合う騎士らから丁重に加減を問われ、大事なときに体調を崩した自身に羞恥を覚えながら廊下を進んだフリード・Yだが、最後の角まで来て怪訝を覚えた。
記憶では、今朝の張り番は赤騎士団員が就く筈だった。しかし、姿勢を正して通路を護っているのは青騎士だ。首を傾げ、幾度も思い返したが、やはりおかしい。
緩んだ歩調で近づいて行くうち、立ち尽くしていた若い青騎士が気付いてにっこりした。
「おはようございます、フリード殿。もう御身体は宜しいのですか?」
「え、ええ。あのう……」
口篭って、それから意を決する。
「すみません、今週の張り番は赤騎士団の担当ではありませんでしたか?」
すると騎士はこくりと頷く。
「予定ではそうでしたが、一昨日から変更になったのです。おそらく今後はずっと青騎士団が担当することになると思います」
明朗快活ないらえだった。自らがこのつとめに立つのを誇らしく思っているかのような輝く眼差し。フリード・Yはますます困惑した。
「ええと……それはどういう……?」
「委細は存じませんが、そうするようにと上から命を受けたのです。マイクロトフ様は我が青騎士団の団長、そのお部屋を護るのは青騎士のつとめ……わたしは当然のこととして受け取りましたが」
確かに当然のことかもしれない。けれど、これまでそうでなかったものが、何故急に───フリード・Yには納得がいかなかった。
ここで追求しても無意味だろう。ともあれ、皇子に直接聞くしかない。そう折り合いをつけて青騎士の横を過ぎた。
騎士の様子からしても来訪者はなさそうだ。一度、蛇の侵入を許してからは、退室時には必ず窓を閉めるようにしている。だからフリード・Yは特に警戒もなく、いつものように皇子の部屋の扉を押したのだが。
彼は思いも寄らぬ事態に迎えられた。
扉の先に設えられている筈の長椅子と卓が良く見えない。そこには書物や紙片が山のように積み上げられており、室内の様相を一変させていたのである。
古い紙の饐えた匂い、放り出された黄ばんだ紙面。何事かと息を飲んだフリード・Yは、やがて屹立する山の隙間にちらつく薄茶色の髪に気付いた。
「カミュー殿?」
呼びながら慌てて寄ろうとしたが、険のある声に遮られる。
「そこで止まれ、近寄るな」
そして、のろのろと立ち上がる影。秀麗な美貌に寝不足の気配もあらわな青年が、髪を掻き上げて嘆息した。
「いや……すまない、訂正するよ。来るのは良いけれど、頼むから山を崩さないでくれ」
「カミュー殿、これは……」
どんな事情で皇子から離れているのか。
先ずはそれを糾すべきだったかもしれない。が、あまりに異様な光景を目の当たりにしたフリード・Yの感覚は麻痺してしまっていた。
命じられた通り慎重に、足音さえ忍ばせて、相当に遠回りしながら比較的障害物が少ないところまで移動する。
「書の虫干し……ではありませんよね」
間の抜けた問い掛けにカミューが苦笑した。ふう、と改めて息を吐いてから書物の山から抜け出す。獣めいた仕草で四肢を伸ばした彼は、そこで初めてフリード・Yと向き合った。
「身体の方は良いのかい?」
「はい、御迷惑をお掛けしましたが、もう大丈夫です」
しかしカミューはずいと身を寄せ、まじまじと若者の顔を検分した。
「……まだ顔色が優れないね。無理をせずとも良かったのに」
「いいえ、そういう訳には……」
言い掛けたところで我に返る。
「カミュー殿、殿下は何処に?」
ああ、と彼は肩を竦めた。
「今朝も元気に早朝訓練に勤しんでおられるよ。暫くしたら一度戻ってくるんじゃないかな」
呑気そうな物言いにフリード・Yは飛び上がりそうになった。ただでさえ青白い顔色を更に失ってカミューに詰め寄る。
「ここで何をしておいでですか! 何故、お傍に付いていらっしゃらないのです?」
「何って……見ての通り、読みものだけれど」
カミューは平然と言い、そして尚も食い下がろうとする若者を片手で制した。
「君の言いたいことは分かる。説明するから、少し待ってくれ」
そのまま浴室へと向かう。部屋と浴室を分ける扉の奥から柔らかな声が続いた。
「説明ついでに、一風呂浴びさせて貰うよ。ああもう、あれほど言ったのに、あちこち水を飛ばして……。しょうがない男だな」
ブツブツと文句を言っている青年に毒気を抜かれたフリード・Yだったが、声音に誘われるように歩を進めていた。浴室ではカミューが手際良く湯の沸かし直しを始めている。
「湯の支度を……?」
「まあね。皇子様から講義を受けたから、やり方は心得ているよ」
湯殿の縁に腰を落とし、カミューはしなやかな手で口元を押さえた。優美な仕草ではあるが、欠伸を噛み殺しているのだと知れて、フリード・Yは困惑するしかない。
「まさか、眠っておられないのですか?」
「その「まさか」だよ。読書に熱中していたら期を逸してしまった。入浴も、……そう言えば、夕食も忘れていたな」
道理で綺麗な目が血走り気味だった、とフリード・Yは奇妙な得心に至る。
説明すると言われた訳だし、ここは待つのが礼儀だろう。皇子を思えば気が揉めるが、ひとたびカミューを信じると決めた若者は精一杯の自制で己の誠意を示そうとしたのだ。
浴室に温かな湯気が立ち込めたのを機に、フリード・Yは扉の外へ出た。閉めるべきかと躊躇したが、カミューが「そのまま」と言ったので、扉脇に浴室内から背を向けて立った。
衣擦れの音に次いで、籠った水音が響く。カミューが静かに切り出した。
「心配しなくても良いよ、フリード・Y。今や数十……いや、百千単位かな、大勢の護衛が皇子の身辺に目を光らせている。ゴルドーも簡単には手出し出来ないさ」
え、と瞬いてフリード・Yは知らず浴室を覗き込み掛けた。ちらりと見えた白い背に、慌てて室内へと目を戻す。
「ど、どういうことです?」
「張り番と会っただろう? そういうことさ」
軽く水を弾かせて、カミューは深々と湯に沈んだ。この城へ来て初めての、寛いだ入浴である。最初の三晩は、浴室の壁と一体化した皇子の背を眺めながらの、実に気の休まらない、忙しないひとときだった。
今も間近に他者はいるが、見えない分だけ気楽である。一晩中、同じ姿勢で凝り固まった手足が湯の中で溶け出すようだった。
「そういうこと、と言われても……すみません、分からないのですが……」
申し訳なさそうな声が背後で洩れた。カミューは笑って言葉を接いだ。
「あれから皇子と色々話してね、わたしたちは一方的な防戦を好まぬ点で一致したのさ。これまで彼には騎士を介入させない理由があったが、考えを改めた。青騎士団長としての実権を得ることにしたんだ」
「青騎士団長としての?」
「机の上に皇子の新しい予定表があるから、見てみると良いよ」
フリード・Yは命じられるまま机に向かい、置かれた書面を取り上げて目を通した。束の間あんぐりと口を開けた後、大急ぎで戻るなり浴室に飛び込んで声を荒げる。
「何です、これは? 講義の時間が綺麗さっぱり消えていますよ?」
「興味の薄い学問など、今の皇子には必要ないさ」
「そ、それは置いても、実戦型騎馬訓練、市内警邏に……ロックアックス郊外の査察まで!? これではまるっきり青騎士団員ではありませんか!」
「そうだよ」
カミューは身を捩って湯殿の縁に両腕を預けた。過度の衝撃で礼節を失い、浴室の扉に手を掛けた若者の顔を真っ向から見返す。
「いや……、少しだけ違うかな。「団員」ではなくて、「団長」だ。皇子は騎士団長としてつとめに臨む。その上官を部下が護る───自然な成り行きだろう?」
そこで彼は頭から湯に潜り、次に現れたときには笑顔になっていた。
「考えてもみるがいい。用意された駒を巧く使うのも帝王学の一環だ。味方と為して共に戦わせるも、敵に取られて不利に陥るも、すべては彼の資質次第さ。それにわたしも、少なくとも青騎士団の隊長職以上の人間は信用に値すると判断した。わたしに言わせれば、皇子は慎重なのか抜けているのか分からないような男だが、他者を跪かせるだけの力があるのは認める。その御威光を使わない手はないだろう?」
淡々と続く言及をフリード・Yは無言で噛み締めた。言葉になったのは一言だけだ。
「あなたが……そう勧められたのですか?」
まあね、とカミューは軽く頷く。
「でも、思い出して欲しいな、わたしがゴルドーの抹殺を提案したときのことを。彼は意に反する策は断固として拒否する男だ。受け入れたというのは、つまり彼も望んだということさ」
「……殿下は昔から騎士に憧れておいででしたから」
ポツと呟く。
フリード・Yにもそれが最善であると理解出来た。腕の立つ護衛が雇われ、そして自らも最大の努力で皇子を護る心積もりでいる。けれど、それを周囲はどう思うだろう。国の父となるべき男が限られた者ばかりを傍に置く姿は、民の目に果たしてどう映るだろうか。
他者に心を開かぬ皇太子、マイクロトフがそのように見られるのは耐え難い。二人が取った策はフリード・Yの胸にも幾度か過ったものなのだ。
マイクロトフと共に青騎士団の訓練に参加して、副長をはじめとする騎士らに心底からの好意を覚えた。彼らに打ち明けて助力を求めたい、そう思ったのは一度や二度ではない。けれどマイクロトフは首を縦に振らなかった。青騎士を巻き込む訳にはいかないと一蹴してきたのである。
どのような説得が為されたのか、フリード・Yには分からなかった。けれど、この青年と出会ってからというもの、何かが変わりつつある。長く抑え込まれた皇子の感情が目覚めようとしているかのようだ。
「フリード・Y、まだ反対かい?」
窺うように問われて、知らず笑みが滲む。温まって上気したカミューの頬に、微かではあるが、若者の機微を案ずる色が浮かんでいた。
「……いいえ」
彼は言った。心からの否定の言葉だった。
「殿下が望まれたなら、賛同致します。お二人の策に、どうぞわたくしも参加させてください」
「良かった」
微笑んだカミューはぐったりと腕を垂らした。潤んだ瞳が若者を見上げる。
「すまないが……寝台の上あたりにあると思うが、ローブを取って貰えないかな。のぼせて目が回りそうだ」
それを聞いたフリード・Yは慌てて視線を巡らせた。未だ袖を通していないらしい、きっちりと折り畳まれた品が寝台の枕元に置かれている。
「濃紺の、で宜しいのでしょうか?」
くぐもった肯定。湯から上がり、扉脇から差し入れられたローブを羽織りながら、笑い含みでカミューが説いた。
「一昨日の夜に貰ったんだ。数月前に仕立てたものの、前の品がまだ使えるからと仕舞い込んでいたそうだ。物持ちの良い皇子様だよ」
はあ、とフリード・Yは頷く。そう言えば、そんなことがあった気がする。夜着の類が古めいてきていたため、新しいものを用意するように侍女を通じて頼んでおいた。
その後、皇子が新調した夜着一式を纏ったのを見た記憶がない。こうしたことは珍しくなかった。マチルダの皇太子は約やかな生活を信条とする人間だからだ。と言って、吝嗇的でないのは、物品を気前良く他者に分け与えるところからも明白である。
真新しいローブを着て室内に戻ったカミューは、従者を見遣り、おどけたように両腕を上げて見せた。
「まったく、わたしの方が年上なのに、皇子様のこの体格と言ったら……」
マイクロトフよりほんの少し背丈は劣るが、カミューの四肢はしなやかに長い。だから肩は落ちているものの、袖丈は誂えた品の如く見える。しかしながら胴回りは緩く、紐で厳重に縛り上げねばならなかった。
「間違っているような気がするよ。こんな逞しい大男が護られる側の身だなんてね」
フリード・Yの礼節はそこまでだった。堪らず吹き出し、賛同を込めて何度も頷く。
「正されますとも。無事に皇王位に就かれた後は、国を、民を護られる御方となられるのですから」
ふむ、と考え込んだカミューは、そこで火照る体躯を持て余して皇子の寝台に腰を落とした。間近に寄った従者が躊躇しながら口を開いた。
「その……カミュー殿。見舞いをありがとうございました」
カミューは瞬いて、上目でフリード・Yを一瞥する。
「そうせよ、と……殿下に進言してくださったのはカミュー殿でしょう? 分かります、殿下はそうした気遣いに長けた方ではありませんから」
眼鏡の奥の眼差しに、けれど含むものはない。フリード・Yが純粋に配慮を感謝しているのだと察したカミューは、濡れた髪を後ろに流して笑んだ。
「……コボルトパイはやめておけ、と一応は止めたけれどね。ミューズの特使殿が土産として持参した品なんだ。何にしようか悩んでいたし、土産物の横流しにも気が退けたようだが……あれはマチルダでは手に入らない品だそうだね」
「今朝、ひとついただきましたが……」
カミューがぷっと吹き出す。
「正直に言えば良い、味は今ひとつという評判を聞いたことがある」
「でも、力が沸くような気はしました」
だろうね、とカミューは長い腕で折った脚を抱え込んだ。
「何より、コボルトパイは回復薬としても使われているのが皇子にとっての決め手だったらしいよ。君に一日も早く良くなって欲しかったんだろう」
フリード・Yの胸に温かな情感が広がっていった。
病床に届けられた見舞いの包み。皇太子からだと告げた母も不思議そうな顔をしていた。乳母であった彼女は、マイクロトフが心根の真っ直ぐな人間であるのを知っている。けれど、寝込んだ従者に見舞いの品を贈ろうと思い付くほど気の利いた男でないのも知っているのだ。
父母は訝しみ続けたが、フリード・Yにはカミューの顔が過った。世渡りが巧みそうな美しい傭兵。言葉一つで他者を魅了する彼ならば、態度もしかり。あの青年の進言を受けてマイクロトフが実行した、そんな図式が目に浮かぶようだった。
胃痛と知らせた筈なのに、どうして見舞いが食物なのか、その点には首を傾げたが、選んだのが皇子本人だったのだろうと妙な納得もした。
今朝になって漸く食事を取る気になり、包みから出したコボルトパイを口にして、何とも言えぬ味わいに眉を顰めながら、それでも二人への感謝を噛んだフリード・Yである。
カミューが琥珀の瞳を細めた。熱気も冷え、白皙の肌に戻った彼は、フリード・Yが初めて見る穏やかな表情をしていた。
「本当は、君の許へ駆け付けようとしたんだよ。わたしが止めた。皇子の顔を見たら、君が無理を押すと思ったから」
「カミュー殿……」
「物品など然したる意味はない。案じる心が君に届けば、それで彼は満足だろう」
フリード・Yは押し黙った。髪から落ちる水滴で色を深めたローブに気付き、カミューは慌ててタオルを求めて浴室へと走る。そんな後ろ背に、静かな声が呟いた。
「あなたは……殿下をとても理解しておられるのですね」
もしかしたら、自身などより、ずっと。
この世に生を受けたときから皇子に仕える役目を負い、そうして生きてきた己にさえ及ばぬ、ずっと強いさだめの力に選ばれてカミューはここへ来たのかもしれない。
皇太子マイクロトフ、未来のマチルダ皇王となるべき男の許へ。
常に友の傍らを護った、いにしえの聖人のように───
フリード・Yの胸には、今や妬心めいた感情は皆無だった。
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