先ずは、さだめられた手順に従って身体をほぐす。
柔軟・組み手などで汗を流し、最後には──団長職に在る皇太子への敬意と配慮から──選ばれた騎士がマイクロトフの模擬試合の相手を勤める、それが青騎士団の早朝訓練の常だった。
しかしこの日は違った。副長の解散宣言を受けても皇子が立ち去ろうとしなかったため、気付いた騎士隊長らが続々と集まってくる。代表するかたちで副長が問うた。
「如何なさいました、マイクロトフ様?」
マイクロトフは軽く息を吸い、穏やかな眼差しで男たちを見渡した。
「位階者に話がある。すまないが、時間を取って貰いたい」
丁重な申し出が青騎士らを瞬かせた。そこには隠し切れぬ怪訝がある。初め皇子に注いだ視線が、背後に付き従う異国の青年にも向けられた。
隅で目立たぬように侍していても、端正な容貌は否応無く他者の目を引く。例に洩れず、騎士らも鍛錬の合間に優美な姿をちらちらと窺い見ていたのだが、その青年が昨朝とは微妙に気配を異ならせているのに騎士たちは気付いたのだ。
今の青年は、昨日の幾倍も存在感を増したように見える。一歩退いたところに立ちながら、何故か皇子の真横に並んでいるように感じられる。史学に熱心な騎士の中には、既に幾人かが過らせたのと同じ、マチルダの聖人の図を浮かべるものもあった。
束の間の困惑は副長にも同様だったが、それ以上に皇子の表情が彼の胸を打っていた。
決意、あるいは闘志とも呼べる雄々しき輝き。マイクロトフの本質である筈の力強さ。この顔を見れば、先王崩御からの数年が彼にとって如何に虚ろな日々だったかが分かる。副長には、僅か一晩で変貌を遂げた皇子への不可解などより、寧ろ歓迎が勝ったのだった。
「では、議場へ参りましょう。各隊騎士は通常任務開始、その後の指示を待つように」
青騎士団用として与えられている議場のひとつに場所を移した一同は、早速上座に皇子の席を設けた。
副長以下、各部隊長が参席する閣議は中央会議と呼ばれているが、過去にマイクロトフが参加したのは時間が許した数度に過ぎず、単なる立合人に等しかった。しかし今、ゆったりと腰を落とした若き皇子には歴戦の騎士隊長らをも圧倒する威風があり、自然、座は緊張に包まれる。
一方のカミューには、騎士らも当惑しきりだった。
昨朝、皇子の学友と紹介された青年。騎士団の閣議参席者として、これほどの部外者はない。だが肝心な皇子はまったく頓着しておらず、そればかりか、自身の椅子の背に体重を預けて凭れた青年をちらと見上げて唇を綻ばせている。
「座らずとも良いのか」というマイクロトフの問いに、カミューは艶めいた仕草で小首を傾けてみせる。遣り取りがあまりに自然で、騎士らは何も言えないのだった。
さて、と皇子の傍近くに座った副長が切り出す。
「改まってお話とは……何事でしょうかな、マイクロトフ様」
マイクロトフは居並ぶ男たちを順に見渡していった。真っ向からの直視に目を逸らすものは一人としていない。混じり気のない真摯と、そして幾許かの興味。如何に嗅覚をはたらかせようと、そこに悪意など欠片もなかった。
彼は静かに語り出した。
「王族男子の常として、おれは十二で青騎士団に籍を置いた」
父王に伴われて青騎士らの前に立った日。所詮は形だけの、けれど彼らの一員として騎士位を賜った瞬間の高揚を、今はっきりとマイクロトフは蘇らせていた。
「けれどおれは、飽く迄も慣わし上の騎士でしかなかった。今よりそれを改めたい」
「……と仰っしゃると?」
騎士隊長の一人が不思議そうに言葉を挟む。皇子が、これまでの処遇に何ぞ不満を覚えたのだろうか、とでも言いたげな表情だった。
「残り僅かな日々かもしれないが、青騎士団員の一人として過ごしたいのだ」
男たちの顔は疑問に溢れ返る。隊長職の筆頭である第一部隊長が腕を組んで問うた。
「それはつまり……これまでのように、お時間の空いたときだけではなく、という意味でしょうか」
「そうだ」
マイクロトフは頷き、少し考えて補足する。
「即位式の準備等、どうしても抜けられない所用はあるだろう。だが、出来得る限りおまえたちと行動を共にしたい。無論、今の指揮体系を揺るがすつもりはない。これまで通り、青騎士団の全権は副長にあると考えてくれれば良い」
「……団長として指揮権を行使なさるでもなく、我らと共に行動を? 申し訳ないが、殿下の意図は量りかねますな」
第一隊長は仲間を一望し、彼らの意見を代弁した。当然の反応と予期していたマイクロトフは落ち着いて言を重ねる。
「おれには位階の名に見合うはたらきなど出来ない。共に任に就いたことすらない男を真の騎士団長とは仰げない、そう正直に言ってくれても構わないのだぞ。おれ自身が思うくらいだからな」
そこで副長がやんわりと割り込んだ。
「マイクロトフ様……理由をお聞きしても宜しいでしょうか」
第一隊長が頷き、皇子の背後を一瞥した。
「出来ましたら、そこの御学友殿……彼がこの場にいる理由も説いていただけたらありがたいですな」
鋭い騎士の目が値踏みするようにカミューを舐める。第一隊長もまた、皇子の突然の変貌の根源を漠然と感じ取っていたのだった。
きつい眼差しに射竦められたカミューは小さく笑んでマイクロトフの耳朶に囁いた。
「信じると決めたなら秘密は無用だよ、マイクロトフ。すべて話して、共に荷を背負って貰えば良い」
その口調に男たちが目を丸くした。カミューは一同を澄んだ琥珀で眺め遣って苦笑する。
「ああ……、気になさらないでください。こういう話し調子が殿下の御希望なので、已む無く従っているだけです」
それから考え込んでいるマイクロトフに視線を戻す。
「どうする? わたしから経緯を説明しようか?」
「……そうしてくれ」
自身より余程すんなりと事情を明らかに出来そうだ、そう判断したマイクロトフは長卓の上に手を組み、椅子に沈み込んだ。カミューが威儀を正し、緩やかに口を開く。
心地好く耳に響く声音が紡ぐ委細は、だが昏い陰りに覆われていた。
「では……ゴルドー団長がマイクロトフ様の御命を……?」
騎士らの顔には、騎士団の頂点に立つ人物の卑劣が信じられない──あるいは信じたくない──といった色と、奇妙な納得とが混濁していた。やがて一人が拳を卓に打ち付ける。
「だから言ったではないか! あの者は無実だった、剣を擦り替えたのはゴルドーの配下たる何者かの仕業だったのだ!」
模擬刀を真剣に摺り替えられ、皇子に斬り付けてしまった騎士。今も蟄居し続けているという騎士の上官は憤りを隠そうともせず、騎士団の最高位階者に敬称もつけずに吐き捨てるように叫んだ。
「もっと詮議の幅を広げるべきだったのか……しかし、そんな……」
これまた悔恨しきりといった独言を洩らして副長が頭を抱える。
無理もない。度重なる事故を訝しく思ったところで、よもや皇子暗殺が目されていたなど、礼節に厚い騎士の世界では考えることすら憚られるのだから。
「して、カミュー殿。あなたはゴルドー団長の害意から殿下をお護りするための護衛という訳か」
第一隊長がカミューの腰に下がる剣を見て問う。鮮やかに言い当てられてカミューが笑むと、男は低く続けた。
「グランマイヤー宰相は我らに信を置く気は皆無で、それで余所から人を招いたという訳ですな」
不快げな声音に、慌てて弁護に乗り出そうとしたマイクロトフだったが、それより早くカミューが言った。
「……少し違いますね。寧ろ、あなた方の立場を慮ったと考えていただいた方が良いでしょう」
「我らの立場ですと?」
そう、とカミューは目を伏せる。
「ゴルドーは騎士団の支配者。あなた方が皇子の側に付く、それは支配者に反意を示すのと同じこと……あなた方に危険が及ぶ可能性とてある。ならば一切を伏せて穏便に乗り切ろうとした宰相殿の苦渋の決断を、もう少し肯定的に考えて差し上げても宜しいのではないでしょうか」
実際のところ、グランマイヤーの思考は騎士隊長が示唆したものに近かった筈だ。が、マイクロトフの心情を折り交ぜたカミューの発言は、一同の不快と失意を和らげるのに成功した。副長が弱く呻く。
「確かに、我ら騎士は白騎士団長に絶対の忠誠を誓っております」
けれど、と顔を上げて真っ直ぐにマイクロトフを見た。
「そこに崇高なる魂、誇らかな正義なくして、どうして誓いを貫けましょうか」
別の一人が項垂れる。
「分かってはいたのです。あの方は……以前はいざ知らず白騎士団長に就いてからのゴルドー様は、心からの忠誠を捧げるに相応しき主君ではなかった。公然と利殖を追い求め、己の利にならぬ騎士を遠ざけ、権高く振舞う。そんな人間が騎士団の長であって良い筈がない」
もとは白騎士団に属していた騎士であったが、格別裕福でもなく、利用価値がないと見なされて青騎士団へと追い遣られた人物なのだ。唇を震わせて呻く男を、仲間たちはもっともだと言いたげに見守っている。
絶対の忠誠を義務付けられながら、それを通すのに砕身を図らねばならなくなっていた懊脳が、今、卑劣な謀略の概要を付き付けられて義憤へと転じていた。
苦さを飲み込んだ騎士たちの顔が新たな色に染まっていく。その変化にカミューは興味深く見入った。
再び第一隊長が身を乗り出した。
「我らと行動を共にしていればゴルドーも容易に手出しは出来ない……つまりはそういうことですな?」
「いや、それは置いても、おれは一騎士としてつとめに参加したいのだ。騎士は幼い頃からの憧れだったから」
照れたようにマイクロトフが言うと、一同はいっそう表情を綻ばせた。
「騎士の目線でマチルダを検分なさる……御即位後のマイクロトフ様にとっても、決して無益にはなりますまい」
副長の言葉で総勢の意が固まった。一人が挙手で発言を求めた。
「して、実際には如何様につとめに参加していただくのでしょうか」
そうだな、と副長が腕を組む。
「どう仰せになられても、やはり一騎士として扱わせていただく訳には……わたしの任を負っていただくのが最良と思われるのだが」
彼は目を細め、皇子に笑み掛けた。
「とは申しましても、マイクロトフ様は書類を弄るより、御身体を動かされる方が宜しいのでしょうな」
平時における一軍の指揮官、その仕事には予想がつく。マイクロトフは急いで同意の首肯を繰り返した。あまりにも正直な反応だったので、一団から小声の笑いが洩れた。
「しかしながら、青騎士団の在り方を承知していただくためにも、閣議には参加していただきますぞ」
「勿論だ。未熟だが、宜しく頼む」
「後々役立つという意味なら、街の警邏、領内の査察などが宜しいでしょうな」
一人が言えば、別の一人が頷く。
「魔物の討伐なども、殿下の御希望に見合うのではないかと」
「実戦か……いいな、是非とも同行したい」
マチルダの民のため、剣を抜いて闘う己を想像し、マイクロトフは陶然と呟いた。最も年嵩の騎士隊長が目許を潤ませる。
「御父上がそうでおられましたな……。歴代の青騎士団長の中でも先王は、我ら青騎士のつとめに進んで臨まれた数少ない御方でおられた……」
それはマイクロトフも聞いたことがあった。
父王は武に優れていたこともあり、珍しく「騎士団長」らしい皇太子だった。騎士らと共に領内の村の査察に出掛け、そこでマイクロトフの母になる娘を見初めたという微笑ましい逸話も残っている。
当時、彼の配下にあった騎士たちは、この皇太子が即位した後のマチルダの繁栄を心から信じて疑わなかった。事実先王崩御の折に、彼に殉じて剣を置いた青騎士も少なくない。
偉大な王の意思が、騎士団を愛した男の血が、紛れもなくマイクロトフの中に流れている。彼を護り、無事に皇王位に就かせることこそ、マチルダ騎士に与えられた絶対の使命である───騎士たちはそう確信した。
ふと、マイクロトフが首を捻って背後の青年を見上げた。
「カミュー、おまえは変わらず付いていてくれるのだろう?」
「出来る限りはね。どうせなら騎士になったつもりで少し学んでみるよ。「敵」の全貌を明らかに出来れば、それに越したことはないから」
言い置いて、彼は副長に目を向けた。
「騎士団の訓戒や構成に関する書物、つとめの記録等をお貸しいただけますか?」
「早急に御用意しましょう」
「それから……」
カミューは琥珀の瞳を煌めかせた。
「全騎士団員の名鑑と身上書も見せていただきたい」
すると第一隊長が眉を寄せた。
「まさかとは思うが、「敵」に与する者を探り出すおつもりか? 生半な数ではないぞ、不可能だと思われるが」
「でしょうね」
カミューは肩を竦めて苦笑する。
「けれど、「一味」となるからには何らかの接点があってもおかしくない。情報を集めれば、もしかしたらという可能性も皆無ではありませんし」
ふむ、と思案した副長がにっこりした。
「カミュー殿、どうやらあなたを参謀役として仰いだ方が良さそうですな。分かりました、御所望の品はすべて用立てます。今後も一切の遠慮は無用、共につとめを果たしましょうぞ」
全幅の信頼を込めた誠実な言であった。満足げに頷いたカミューだが、忘れてはならない注意事項が残っていた。
「殿下は青騎士団員を信じていますし、わたしとしてもこのような提言は心苦しいのですが……もし団内に敵に与するものがあれば、即座に窮地に陥ります。ですから───」
「案ずるには及ばぬ、カミュー殿」
第一隊長が片手を翳して制した。
「我らも部下を信じているつもりだが、状況が状況だ。間抜けなお人好しと謗りを受けぬよう、志を同じくする人員の識別は慎重に行う」
騎士隊長の中でも図抜けて回転が早い男は、あっさりと懸念を一蹴し、次いで人の悪そうな笑みを浮かべた。
「ところで……宜しいのか? あなたは殿下の護衛に雇われた身、仕事が減っては報酬も減るのでは?」
他の騎士たちが苦笑気味に答えを待っている。カミューは瞬いて、マイクロトフの横顔を覗き込んだ。
「……それは考えていなかったな。どうなんだろう?」
「もしグランマイヤーが支払いを渋ったら、おれが請け負おう。部屋にあるもの、何でも好きなだけおまえにやる」
背を正して生真面目に言い切った皇子に、堪らずといった様子で男たちが破顔した。王族にしては質素なマイクロトフの暮らしぶりを知っているのだ。
やれやれと嘆息するカミューを横目に、マイクロトフは身のうちに沸き立つ力を感じていた。
騎士たちの助力───距離を取り、危険から遠ざけようと試みていた日々が過去へと消える。自らを開き、そこに他者を招き入れる温かさが至福を掻き立てる。
先に待つのが苦難であろうと、仲間と共に立ち向かうことには大いなる価値があるのだと、若き皇太子は学んだのだった。
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