「───よって、グスタフ国王の功績には内乱の無血終息といった結果に留まらず、自国を支える労働者……」
「待て。早い、カミュー」
「……労働者の声に介意していた点を挙げねばならない。ああ……違う、「介意」の綴りは……こうだ」
「配慮していた、という意味だな?」
「そう」
「続けてくれ」
「……王族の身で、鉱山採掘に臨む異例には賛否あると思われるが、この体験をもって鉱山労働の過酷を理解し、斟酌……」
「斟酌?」
「……酌量、でも良いよ。酌量を加えて内乱を終結に至らしめたとすれば、これを功績と呼ぶに躊躇する余地はないだろう───」
そこでカミューは言葉を切った。同時に、紙を擦る筆先も止まる。マイクロトフが顔を上げると、机脇に立つ青年の肢体は小刻みに震えていた。
「カミュー? それで終わりか?」
「……と言うか」
カミューはひとたび息を吐き、次に掌を机に打ち付けた。
「どうしてわたしがおまえの課題の手伝いをしなければならないんだ? そんなことは契約に入っていないぞ」
早朝訓練の汗を軽く流し、用意された朝食に手を伸ばす頃には、マイクロトフは護衛の青年に対する傾倒をますます強めていた。
彼の聡明、指摘を躊躇わぬ峻烈には畏怖混じりの感嘆を覚える。
それらが僅か一歳の差に起因しているだけとは思えない。今は難問を抱えているが、所詮は王族として傅かれて育った身、やはり自身に甘さがあるのだろうか。カミューは自らの力のみで人生を切り開いてきたから、だからこれほど成熟しているのか。その差異に思案が及ぶと、これまでの生活がひどく薄っぺらに思えてならず、羞恥に苛まれた。
何処となく気詰まりな──マイクロトフにとっては──朝食の席が一変したのは、これからの予定をカミューが問うたときだ。
マイクロトフの脳裏に、失念していた重大な問題が浮上した。午前を残りを占める予定、ここで提出せねばならない課題が白紙のままだったのである。
課題を言い渡されてからの三日、特に多忙だった。即位式の衣装の仮縫い、祝典式次第の確認に訪れる各国大使との面会など、予想外に拘束される時間が多かった。
問題の課題は、一年ほど前にデュナン湖西南のティントで起きた鉱夫の反乱を記した書物を読み、経緯に関しての私見を述べよといったものだ。
内容自体はマイクロトフにも大いに興味深いものであり、書物は一気に読み終えた。けれど残念ながら、彼は考えを文としてしたためるのをたいそう苦手にしている。知らず後回し、後回しにしているうちに期限が訪れてしまったという訳だった。
早々に食事を切り上げて、用箋と筆を取って頭を抱えるマイクロトフを、カミューは困惑げに見守っていた。が、何かの拍子に広げられた書物を覗き込み、偶然にも最近読んだと呟いて、あれこれと意見を──実に流暢な弁術を駆使して──述べ始めたのだ。
いつしかマイクロトフは彼の言葉をそのまま用箋に移していた。気付いたカミューが抗議したものの、「時間がない」の一言に押し切られ、結局は協力するかたちに至ったのだった。
「だいたい、少しは自分の言葉を混じえたらどうなんだ。普段からおまえの文を見慣れている相手には、人の手を借りたのが丸分かりじゃないか」
憮然と言うが、マイクロトフは首を振る。
「今日の師は──ゲンカク殿という方だが──学術者ではない。もとは棒術を専門とする武芸の師なのだ。おれの文章はあまり目にしていないから、大丈夫だ」
それから筆を置き、回顧に耽るように続ける。
「武術だけでなく、精神修養にも多くの時間を割く師でな。これもその一環なのだろう。老齢で……今日で最後の師事となる。国に戻られるそうだ」
そこにある愛惜の響きを聴き止めてカミューは肩を竦めた。
「……最後の最後に不誠実な生徒だな。人の意見を写し取った答案では師匠が気の毒だ」
ううむ、とマイクロトフは唸って逞しい腕を組んだ。
「ある意味ではそうだろうが、必ずしも不誠実ではないと思う。何故なら、これは」
マイクロトフは書き上げた用箋を摘まんで笑んだ。
「……おれの意見そのままだからな。同じことを考えたが、どうにも巧く文に出来ずに苦心していたのだ」
鉱山の国ティントで労働者らの反乱を鎮めたのは、武力による制圧ではなかった。国王グスタフが鉱夫の代表と対面し、話し合いによってこれを納めたのだ。
王は青年期からたびたび鉱山に足を踏み入れており、鉱夫らの事情を熟知していた。彼の誠実な応対に、反乱者らは武器を置いたのである。
「民の生活を体感し、その心を知る……グスタフ王は立派だ」
「単に鉱夫の仕事が好きなだけかもしれないよ?」
カミューの揶揄に、だがマイクロトフは即座に返した。
「好きなことを責務に役立てられるなら、最上だ。グスタフ王のようになれたら良かったのだが」
「……おまえはそうではないと?」
琥珀が追求の色合いを浮かべている。マイクロトフは頷いた。辛うじて苦渋を飲み込み、絞り出す。
「マチルダ皇王に求められるのは、世情を読み、領民の尊崇を集め、国の威信を保つことだ。徴収した税を運用する才覚や、列国と対等に渡り合うだけの外交手腕だ。これらに関して、おれは無力この上ない。いずれはグランマイヤーたちの手を借りず、自らの手で為していかねばならないのに、まるで自信がない」
カミューも考え込んだ。あれこれと一生懸命考えているようではあるが、確かに目前の皇子は器用とは言い難い男だと結論付き始めていたからだ。
ふと、調子が変わった。夢見るような、柔らかな低音が呟く。
「おれは剣が好きだ。身体を動かすことが、馬に乗るのが好きだ。戦時下なら、これは不利益にはならない。多少毛色の違った王として容認され、歓迎もされただろう。だが、今のおれはおよそ王位に相応しい人間ではないのだ、カミュー」
やれやれ、とカミューは空を仰いだ。
ここまで見た性格上、皇子は気を許した周囲の者にさえ愚痴を零す習慣を持っていないだろう。どうやら彼はカミューをその数少ない相手に任じたようだ。
何らかの言葉を待って見詰める漆黒の双眸は期待と不安に揺れ動いている。深入りし過ぎていると早くも警鐘が鳴っていたが、皇子の眼差しはあまりに強く、逃げを許さない。
「……王になるのが怖いのかい?」
目を伏せつつ、カミューは問うた。
「一国を背負う名が、おまえには重過ぎるのか?」
「……おれは」
皇子の目が、長椅子脇に立て掛けられた大剣に注ぐ。
「おれは───」
知り合ったばかりの青年、任さえ終えれば報酬を手にマチルダから去るだけの傭兵。そうした一切を越えて、間近に控えたカミューの存在は温かい。父王崩御の後、ずっと胸につかえていたものが零れそうになった瞬間であった。
開き掛けた唇は、しかし来訪者によって遮られた。
老いてなお矍鑠とした人物、マチルダの旧敵ハイランドの出だが、自由気儘に諸国を漫遊し、数ヶ月ではあるが皇子の師としてロックアックスに滞在した武術家・ゲンカクである。
一見ではこれといった特徴のない、何処にでも居そうな老人だが、動作には隙がない。それでいて表情は包み込むように穏やかで、彼が武人としてだけではなく、人間的にも優れた人物であるのは間違いなかった。
ゲンカクははじめ見慣れぬ青年の姿に瞬いた。が、すぐに訳知り顔で微笑み、自らの生徒と並んで座るようカミューに勧めた。それから向かいに腰掛け、しげしげと両者を見比べた。
「……対なるかな」
小声の、独言めいた響きにマイクロトフは眉を寄せる。聞き直そうと身を乗り出したが、老師が片手で制した。
「申し訳ないが、皇子。時間がない。昼過ぎにミューズへと出立する隊商に同行する約束を取り付けてしまいました。新しい御友人について話の一つも伺いたいが、縁在れば再びお会いする機会もあるでしょう」
これが最後なのだと胸に忍び込んでくるような物言いだ。マイクロトフは深く首を垂れ、老人への礼を示した。
「さて、急がねば。早速ですが、皇子」
ひょいと皺だらけの手が伸びる。
「先日お出しした課題を御忘れではありませんな?」
「も……、勿論だ」
ここへ来て、初めて微かな自責に襲われたマイクロトフだ。カミューの私見が自らと寸分違わぬという言い訳はあるものの、確かにズルをした感も無いではない。老人の温かな笑みと直面した途端、後者が激しく台頭してきたのである。
用箋を受け取ったゲンカクは、老眼気味なのか、やや書面を遠ざけて文字を読み拾っていった。特に表情を変えるでもなく、最後の一枚にまで目を通した後、はじめて苦笑を洩らした。
「……つまり、皇子の言葉で言い換えるなら、グスタフ王の鉱夫経験は実に好ましく、国父としての姿勢を尊敬する、と……そういうことですな?」
邪魔にならぬよう、それでも部外者の居心地悪さを紛らわせようと試みていたカミューは、啜ったばかりの茶を詰まらせ、噎せ込んだ。
同じように愕然としつつも、咳込む青年の背を擦ろうと手を差し伸べる傍ら、マイクロトフは師を凝視した。
「ろ、老師……その……」
「ああ、良いのです。皇子は論述も文章表記も苦手と伺った。わしはただ、この丁重を尽くした文面が、皇子の御心に添ったものなのかどうかを知りたいだけで」
涙目になった青年が恨めしそうにマイクロトフを睨む。あっさりバレたじゃないか───端正な顔は非難で満ち満ちていた。マイクロトフは大きな身体を縮め、畏まって答えた。
「ゲンカク老師、申し訳ない。察しの通り、それはここに居るカミューの言葉を写し取ったものだ。その……考えが文章に\められず、後回しにしているうちに日が……」
そこで彼は真っ直ぐに顔を上げた。
「だが、誓って言う。その文は、おれの心を代弁してくれている」
「皇子」
必死の弁を短く押し止めて老人は笑んだ。
「そう必死にならんでも……書きものが苦手な者など、世には溢れているのですから」
「しかし、おれは王位継承者なのに……」
「そうですな、ならば御即位後は文筆家を側に置かれれば宜しい。演説や講話の草案など、皇子の意思を文章に書き表す専門家です───お隣の若者がしてくれたように」
悪戯っぽく付け加えられた一言に皇子は隣を窺った。今では兜を脱いだといった面持ちで、カミューは老人に見入っている。
老師は書面を卓に置いた。
「……皇子、あなたは実にあなたらしい王の道を見詰めておられる。もう教えることは何もない。安心して辞すことが出来ます」
え、と知らずマイクロトフは目を見開いた。
迷いばかりで何ひとつ持たぬ不本意な自身、選ぶことさえ出来ずに足を竦ませている自身に与えられるには、まるで謎掛けのような賛辞であると思われたからだ。
「それに」
老人はちらとカミューを見遣る。温厚そうな瞳が瞬き、感に入ったふうに閉ざされる。
「この街に来てからというもの、幾度となく聞かされた逸話を久々に思い出しましたな」
「老師?」
「───聖マティスの傍らには、常に聖アルダが在った。「主」も「従」もない、絶対の絆の上にマチルダは生まれた」
詩吟の如き滔々とした響き。老人が向けた真っ直ぐで強靭な視線に、カミューは胸を衝かれて息を飲む。
老人の示唆するものは顕かだ。マチルダの始祖の横に控えた人物、聖人の片割れになぞらえられたということは。
「……良き友に出会われたようだ、皇子。大事になさるが良い。王とて人、人は心許す存在なくしては生きられぬものです。同じ価値観を持つ相手なら尚のこと、それは力、あなた自身の鞘ともなる」
老人から教えを受け、信頼に足る相手と確信し、そうして初めて打ち明けた事件。皇子を責め苛む痛みを知ったゲンカクは、そのとき一言だけ提言した。
『鞘を得なさい。剣の呪詛に勝てぬのなら、狂気を納める鞘が要る』
それはどういうものかと切なる形相で問うたマイクロトフに老人は笑った。
『剣に囚われた心ごと、あなたを受け止め得る存在です。滅びの力を持つ剣なら、それを鎮め、護る力に変える鞘を───聖マティスにとって聖アルダがそうであったように、あなたのすべてを理解し、赦し、支える半身が在ればいい』
老人の謎めいた言にカミューは怪訝そうに首を傾げたが、片やマイクロトフは戦慄くような興奮に四肢を震わせていた。
敬愛する師は感じているのだろうか。
即位を目前にして不安定に彷徨う心を。そしてカミューが「鞘」に成り得る相手ではないかと、怯えながら望み始めている心を。
「……老師」
迷いながら声を絞ったが、老人は首を振って立ち上がった。
「フリード殿にも宜しくお伝えください。それから、カミュー殿と言われたか……、あなたはこれまで会った中でも非常に稀有な、賢しい御仁と見える。それが皇子のために良かれと、師として願わずにはいられない」
ぎくりと強張った青年に気付かず、マイクロトフは慌てて立ち上がって深い礼を取った。
「いつか……いつかまたロックアックスに寄るときがあったら、訪ねて欲しい。御厚情は忘れない、ゲンカク老師」
「こちらこそ意義深い日々でした。終生忘れませぬ。マイクロトフ皇子、どうかマチルダの良き国父となられますように」
そう言って、老人は丁寧に一礼して部屋を出ていった。
追い縋って聞きたいことはあった。確かめ、励まして貰いたい様々が。
けれどマイクロトフは最大の自制をもって衝動を殺した。
もう教えることはない、師はそう言ったのだ。後は自らで考え、選べと命じられたに等しい。
取り敢えず、のろのろと腰を浮かしたカミューに目を向け、躊躇しながら切り出してみた。
「文筆家という職業があるとは知らなかった。カミュー、おまえは知っていたか?」
「わたしにそれを求めているなら、却下だよ」
小さな声が一蹴する。それは彼らしくもなく、弱い調子だった。彼はマイクロトフから顔を背けたまま続けた。
「わたしの仕事は即位までのおまえの護衛だ。文筆まで請け負うつもりはない」
取りつく島もない拒絶ぶりに些か落胆し、とてもではないが二の句が続かない。
即位後も護衛の任を続けて貰いたい訳ではなく、文筆業に従事して欲しいのでもなかった。ただ───ただ、ずっとこのままマチルダに残ってはくれまいか、そんな願望が兆していたのだ。
仄かな憂いを含んだ琥珀の瞳が、あてもなく虚空を見詰める。そして更にいっそう低く、彼は呟いた。
「任期の延長はない。絶対に、ね」
それからおもむろに顔を巡らせ、マイクロトフと向き合う。
「さて、皇子様。午後の予定は?」
「ミューズ市国の外交特使と会うことになっている」
「……良かった。他にも課題が残っていると言われたらどうしようかと思ったよ」
そうして穏やかに笑んだ青年には、今し方の虚ろの気配は皆無だった。
← BEFORE NEXT →